「アートにおける政治的なもの」について

「アートにおける政治的なもの」というブログについてFBでIさんがメモしていた。このテーマは断続的に考えていることだったので、読んで、条件反射的に反応してしまった。

アートにおける政治的なもの
http://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2012/09/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%82%82%E3%81%AE.html


最初の条件反射的な反応は
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このレベル1とかレベル2とかいう話、少し浅薄な感じ。
日本の伝統的なアートシーンは、自らがあたかも社会から疎遠なところに存在するかのようにふるまってきたかと思います。ま、それも実は非常に政治的なスタンスだと思うのですが。
15時間前
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すごく古くて伝統的な美術では、アートは地上とはかけ離れた崇高な美の世界か何かのように語られていて、実は支配者に奉仕するような役割を果たしてきたのではないでしょうか?しかし、そういう政治的なふるまいをしておきながら、自らの政治性には無自覚なまま。

さすがに日本のアートシーンも変わりつつあるようにもおもいますが、メインストリームはまだまだそういう傾向があるように思うのですが、どうでしょう?
9時間前
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これを書いて忘れていたのだけれども、しばらくしてIさんから以下のような冷静なレスポンスをもらった。
「>tu-taさん tu-taがおっしゃっているようなことが上のブログで書かれていると私は読みましたが」

そういわれてみて思い出したのだけど、確かにそういう面はあった。というわけで、あわてて書き足したことを、ここにメモしておこうと思って、ブログに再掲。FBだと埋もれちゃうものね。というわけで、そのままブログに再掲しようとしたが、あまりにもあらが多いので、かなり書き足して再掲。

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>Iさん そうそう、この先のことが書きたかったのに、書きながらすっかり忘れてました。

それから、
これを教えてくれてありがとさんです。やっぱりそんなにちゃんとは読めてはいないと思うのですが、すごく触発されました。

アートと社会のことはぼくにとって、ずーっと宿題です。ただ、アートシーン全体のこととか、ぼくにはあまりわからないし、わかろうともあんまり思わないのですが、アートがあたかも社会から切り離されて存在するかのようなことがいままで多すぎたように感じています。


で、この「レベル1」の話が「社交のために必要」というのがまず、ひっかかったのです。
この「社交」という言葉が何を意味しているか、ちょっと不明の部分もあるのですが、最後のほうの、トリエンナーレなどのパーティーとかいう表現を見ると、そういうことなのでしょう。

日本の(悪い意味で)伝統的なアートシーンでは社会的なテーマを直接表現しようとすると、どうしても1段下に見られるというようなことが多かったように感じています。「社交のために必要」とか書かれてしまうと、なんだか、その言説を補強してしまっているのではないかと感じるのです。

たぶん、このブログを書いている人の意図はそこにはなくて、むしろ逆のことをいおうとしているのかもしれないと思いつつも、「社交のために必要」っていう言い方はどうかなぁと思うのです。

確かに社会的なテーマを生に扱おうとする作品の陥りやすい問題は小さくないでしょう。スターリン体制下の「社会主義クソリアリズム」っていうのは、そういう危険のわかりやすい例かもしれません。

ま、これを書きだすと「文化冷戦」の問題も触れないわけにはいかないでしょうから、そんなに単純にはいえないかもしれませんが。


ともあれ、表現はまったく非政治的に見えても、社会のダイナミズムの外にアートはありえないと思っているので、そのことに日本のアートシーンはやっぱり多くは無自覚・ナイーフだったんじゃないかなぁと思うのです。

がから、日本のアート界が【脱政治的なみかけを共有することによる独特の「社交」が成立しているだけ】なのだといわれると、違和感をぬぐえないのです。ぼくのまわりに少し知り合いのアーチストがいても、レベル1系の人が多いので、わからないのですが、ぼくがあまり知らない旧来の主流のアートシーンでは、多くはそのことに無自覚で、本当にアートが社会の外に存在しうると考えてきたたのではないかとぼくには見えたのでした。(ぼくも嵌められていたのかもしれませんが)

だから、もちろんそれが、「強烈な単色の政治的メッセージに覆われている」という部分には同意します。でも、それはその問題にナイーフだからこそ、ではないかとも思えたのです。

死んだ針生一郎が言っていたことを思い出すのですが、彼はここで書かれているところの「レベル2」における自覚のなさをも、告発していたのだと思うのです。

いつだったか、針生さんが言っていたのは「表現のテーマは直接的に社会的なものにかかわっていない具象などの作品でも、そこに政治があることに日本のアーチストは無自覚すぎる」ということでした(っていうか、そんなことを言っていたような気がする)。彼が言ったことをどこまで理解できているかはおぼつかないのですが、それは作品の置かれた社会における文脈を理解することともつながるかもしれません。

もしかしたら、それは表現者ではなく、評論家やキュレータの仕事かもしれませんが、現代の表現者は自らがどこまでナイーフでいることを許されるのでしょう。

ま、だからこそ、ナイーフアートがもてはやされるという側面もあるのかもしれませんが。

なんか、つらつらと書いてしまいました。読み返すと、あんまり内容がないですが・・・。
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(と、FBに書いたことをもとに書き足したけど、やっぱり何か物足りないなぁ)
でも眠いからアップ
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