フレイレの「銀行型教育」についてのメモ
なにかのきっかけで、”consciousness”というのが気になって
「consciousness フレイレ」の2語で検索。そこででてきたサイトを読みながら、フレイレの「銀行型」について、誤読してたことに気がついた。生徒が知識を預金するように詰め込んでいくってことじゃないかと思ってた。しかし、以下の説明では預金するのは教師で生徒は金庫だ。
以下、
http://www1.vecceed.ne.jp/~te1518/hon11.htm
から引用
ただ、Wミーニングな部分もあって、この解説には以下のように書かれている。
これを読むと貯える主体が生徒であるとも読めないわけではない。
これに続く部分も興味深かったので、メモとして残しておこう。
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△ 学校教育では知識が生かされないし、現に生かされていないという指摘は、痛烈です。何のための教育であるのかということが等閑に付されているか、暗黙のうちに前提されていて、しかもそれは優等生を除く多くの生徒の現実に即していないからです。
△ 知識は貯め込むためのものではありません。それは活用されるべきものです。しかし試験制度は知識の活用を抑制し、本末転倒の結果をもたらします。
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あと、最初に引用した部分の前の部分もメモしておこう。
このHP、すごくいい内容なので、ぼくの引用ではなく、直接、読まれることを推奨します。
ただ、残念なことに、フレイレの文章と、これを書いている人の文章の区別がしにくいです。(っていうのは、たぶん読み手の能力に規定されているので、ぼくには区別しにくいって話で、そうじゃない人もいるでしょう)
で、さらに思ったのだけど、このぼくの饒舌なスタイルが読みにくい場合もあるだろうな。自分でもあとで読み返すときに苦労するし。ま、とりあえずのメモですから。
ぼくの推測(です・ます調がこのHPの著者の文章?)でフレイレからの引用部分は、引用の形に変えてみました。(この上の引用も同じ)
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△ 学校教育において個々の知識の単位は「文脈化」されず、特定の知識の体系において固定したものとして提供され、わけもなく受け容れるべきものとして押しつけられます。しかし古典教育において、例えば論語が暗証されたように、テキストを反覆して読誦することに全く意味がないというわけではありません。ただしその場合でも、あとになって、その全体的な文脈と意味が問われることになるのは明らかです。「九九」の暗唱も便宜的には有用です。だからここでは教育の基本的なあり方が問題にされています。
△ 学校教育において「学習者中心(learner-centeredness)」ということが真剣に問題にされたことは、あまりなかったと言うべきでしょう。教師、そしてその教育の背後にある権威こそが、教育の主体であって、生徒はその受容者にすぎません。
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そう、地理の時間に首都の名前を覚えることに熱中したのを思い出した。
そこでは、その地域のことなんかあんまり考えなかったなぁ。大切なのはたくさん覚えることだと思わされてきた。
たくさん覚えることが大切な部分もあるけど、もっと大切なこともあるはずだよね。
ぼくたちにとって、バラ州のもつ意味は遠い話だけど、たとえば朝鮮半島にふたつの国がある意味とか、日本との関係はどうだったのかとか、それぞれの首都はどうしてそこにあるのか、とか学ぶことは意味がありそうな気がするなぁ。
何度かメモとしては、もういいかと思って、アップロードしているのだが、続きを読むたびに、メモが増えていく。
ここ、大事なトコですね。
「軽信をあおりたてる」っていう言葉は知らなかったけど、まあ言いたいことはわかるような気がする。
さらにここに続く部分がいろいろ考えさせられる。
いまの時代に生きているぼくなんかは「人道主義 humanitarianism」って大事でしょ、と思ってしまうんだけど、たぶん革命の時代を生きていたフレイレにはこれは抑圧者の道具だったりするわけだね。
この「人道主義 humanitarianism」がどんな場面で使われるか、ということが大事で、「人道主義 humanitarianism」の名のもとに行われてきた ”先進国から途上国への” 「開発援助」(のほとんど)なんかがとんだ食わせ物だったりすることはちゃんと見ていかなければいけない部分だろう。
ちなみに、このHPの著者はこの部分で
という注釈を加えている。
ここで思い出すのは「非改良主義的改良主義」(だったかな)という言葉。武者小路さんが紹介してくれた概念。
改良主義的な要求もどんどんつきつめていくと、改良主義の枠にはおさまらなくなるというもの。
人道主義もまた、その要求をちゃんとつめていくと抑圧的な体制に順応する枠にはおさまりきれなくなるだろうと思ったりする。
そして、以下のフレイレの文章
まさに教育基本法の改悪が本能的にめざしていたのが、こういうことなのだろうな、と思う。
読み進むと引用がとまらなくなってくる。
そう、マニラでこの本を読んで興奮したのを思い出した。すごく興奮して、関わっていた某日本語ボランティア団体にたくさんFAXしたりして、顰蹙をかったこともあったことを思い出した。インターネットのメールをしていない人がたくさんいた時代だった。
でも、引用は続く
ここで、このHPの著者は以下のようなコメントを加える。
ぼくはここで、日本語ボランティアをイメージする。
銀行型教育もそうだし、体制補完的なボランティアっていう面でもそうだ。しかし、一方で必要とされている部分もある。ボランティアが体制保管にならず、問題を根本的に解決する道筋を意識するっていうのはすごく大切なことだと思う。
さらに「福祉受領者」という概念は障害者問題を考える上でも使える概念だ。歴史的に福祉受領者としかみなされてこなかった障害者。いまでもそういう側面は色濃く残っている。そのモデルこそがちゃんと意識化されなければならないし、そこを超える実践こそが求められているのだろう。
このHP読み始めて、メモを取り始めたら、いつまでたっても終わらないので、今日はこのあたりでやめよう。
とうとう最初に検索して調べようとした「consciousness フレイレ」まで行き着かなかった。
そうそう、”consciousness”を調べたいと思ったきっかけを思い出した。きっかけは昨夜、ラルシュ・かなの家から送られてきた「ジャンバニエからの日々の思索」。
最後に引用しておこう。訳はちょっとだけいぢってある。
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これから、もう1回寝ます。
このメモ、続けてみたいが、できるかどうかは不明。
できれば、”consciousness.”まで行き着きたい。
「consciousness フレイレ」の2語で検索。そこででてきたサイトを読みながら、フレイレの「銀行型」について、誤読してたことに気がついた。生徒が知識を預金するように詰め込んでいくってことじゃないかと思ってた。しかし、以下の説明では預金するのは教師で生徒は金庫だ。
以下、
http://www1.vecceed.ne.jp/~te1518/hon11.htm
から引用
教育はこうして、預金行為となる。そこでは、生徒が金庫で教師が預金者である。教師は、交流 communicationのかわりにコミュニケ communiquesを発し、預金をする。生徒はそれを辛抱づよく受け入れ、暗記し、復唱する
ただ、Wミーニングな部分もあって、この解説には以下のように書かれている。
△ 教師はコミュニケ(広報、公式声明)を通達し、生徒はそれに従います。従ってそこには双方向のコミュニケーションはありません。 (中略)
これが銀行型教育概念‘the banking concept of education’であって、そこで生徒に許される行動範囲は、せいぜい預金を受け入れ、ファイルし、貯えることぐらいである。
これを読むと貯える主体が生徒であるとも読めないわけではない。
これに続く部分も興味深かったので、メモとして残しておこう。
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かれらには、確かに、自分たちが貯えているものの収集家や目録人になる機会はあるだろう。だが結局は、人間自身がこの(よくても)誤った方向に導く制度のなかでは、創造力、変革の可能性、知識を喪失し、磨り減らされてしまうのである。探究から引き離され、実践から切り離されては、人間は真に人間になることができない。知識は創造 inventionと再創造をとおしてのみ、また、人間が世界のなかで世界とともに、相互に追求する不断の、やむにやまれない、永続的で、希望に満ちた探究をとおしてのみ、生まれてくるものである。
△ 学校教育では知識が生かされないし、現に生かされていないという指摘は、痛烈です。何のための教育であるのかということが等閑に付されているか、暗黙のうちに前提されていて、しかもそれは優等生を除く多くの生徒の現実に即していないからです。
銀行型教育概念にあっては、知識は、自分をもの知りと考える人びとが、何も知っていないとかれらが考える人びとに授ける贈物である。他者を絶対的無知としてみなすのは抑圧イデオロギーの特徴であるが、探究の過程としての教育と知識はそれによって否定される。
△ 知識は貯め込むためのものではありません。それは活用されるべきものです。しかし試験制度は知識の活用を抑制し、本末転倒の結果をもたらします。
教師は、生徒にたいして必然的な対立物として自らを演ずるようになる。生徒の無知を絶対的なものとみなすことによって、かれは自分自身の存在を正当化するからである。
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あと、最初に引用した部分の前の部分もメモしておこう。
このHP、すごくいい内容なので、ぼくの引用ではなく、直接、読まれることを推奨します。
ただ、残念なことに、フレイレの文章と、これを書いている人の文章の区別がしにくいです。(っていうのは、たぶん読み手の能力に規定されているので、ぼくには区別しにくいって話で、そうじゃない人もいるでしょう)
で、さらに思ったのだけど、このぼくの饒舌なスタイルが読みにくい場合もあるだろうな。自分でもあとで読み返すときに苦労するし。ま、とりあえずのメモですから。
ぼくの推測(です・ます調がこのHPの著者の文章?)でフレイレからの引用部分は、引用の形に変えてみました。(この上の引用も同じ)
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「四×四=十六(し、し、じゅうろく)、パラの州都はベレム。」生徒は四かける四が実際に何を意味するかを知ることもなく、また、「パラの州都はベレム」のその州都の本当の意義を、すなわち、パラにとってベレムはどのような意味をもち、また、ブラジルにとってパラが何を意味しているかを理解することもなく、これらの文句をノートに記録し、暗記し、反覆するのである。
△ 学校教育において個々の知識の単位は「文脈化」されず、特定の知識の体系において固定したものとして提供され、わけもなく受け容れるべきものとして押しつけられます。しかし古典教育において、例えば論語が暗証されたように、テキストを反覆して読誦することに全く意味がないというわけではありません。ただしその場合でも、あとになって、その全体的な文脈と意味が問われることになるのは明らかです。「九九」の暗唱も便宜的には有用です。だからここでは教育の基本的なあり方が問題にされています。
一方的語りかけ(それはつねに語りかける人である教師によるものであるが)は、生徒を語りかけられる内容の機械的な暗記者にする。さらに悪いことに、かれらはそれによって容器、つまり、教師によって満たされるべき入れ物に変えられてしまう。
入れ物をいっぱいに満たせば満たすほど、それだけかれは良い教師である。入れ物の方は従順に満たされていればいるほど、それだけかれらは良い生徒である。
△ 学校教育において「学習者中心(learner-centeredness)」ということが真剣に問題にされたことは、あまりなかったと言うべきでしょう。教師、そしてその教育の背後にある権威こそが、教育の主体であって、生徒はその受容者にすぎません。
~~~~
そう、地理の時間に首都の名前を覚えることに熱中したのを思い出した。
そこでは、その地域のことなんかあんまり考えなかったなぁ。大切なのはたくさん覚えることだと思わされてきた。
たくさん覚えることが大切な部分もあるけど、もっと大切なこともあるはずだよね。
ぼくたちにとって、バラ州のもつ意味は遠い話だけど、たとえば朝鮮半島にふたつの国がある意味とか、日本との関係はどうだったのかとか、それぞれの首都はどうしてそこにあるのか、とか学ぶことは意味がありそうな気がするなぁ。
何度かメモとしては、もういいかと思って、アップロードしているのだが、続きを読むたびに、メモが増えていく。
生徒の創造力を最小限に抑え、摘み取り、かれらの軽信をあおりたてる銀行型教育の機能は、世界を解明したいとも思わなければ、それが変革されるのを見たいとも思わない抑圧者の利益に仕えるものである。
ここ、大事なトコですね。
「軽信をあおりたてる」っていう言葉は知らなかったけど、まあ言いたいことはわかるような気がする。
さらにここに続く部分がいろいろ考えさせられる。
抑圧者は自分に有利な状況を維持するために、人道主義 humanitarianismを利用する。
いまの時代に生きているぼくなんかは「人道主義 humanitarianism」って大事でしょ、と思ってしまうんだけど、たぶん革命の時代を生きていたフレイレにはこれは抑圧者の道具だったりするわけだね。
この「人道主義 humanitarianism」がどんな場面で使われるか、ということが大事で、「人道主義 humanitarianism」の名のもとに行われてきた ”先進国から途上国への” 「開発援助」(のほとんど)なんかがとんだ食わせ物だったりすることはちゃんと見ていかなければいけない部分だろう。
ちなみに、このHPの著者はこの部分で
△ 抑圧者は、その抑圧的体制に順応する限り、温情主義的であり、抑圧的寛容とも言うべき態度を示します。それが人道主義の利用と言われるのでしょう。
という注釈を加えている。
ここで思い出すのは「非改良主義的改良主義」(だったかな)という言葉。武者小路さんが紹介してくれた概念。
改良主義的な要求もどんどんつきつめていくと、改良主義の枠にはおさまらなくなるというもの。
人道主義もまた、その要求をちゃんとつめていくと抑圧的な体制に順応する枠にはおさまりきれなくなるだろうと思ったりする。
そして、以下のフレイレの文章
このようにして抑圧者は、批判能力を喚起し、現実についての断片的見解には満足せず、点と点、問題と問題を相互につなぐ絆(きずな)をつねに探究しようとする教育の、どのようなこころみにもほとんど本能的に反対する。
まさに教育基本法の改悪が本能的にめざしていたのが、こういうことなのだろうな、と思う。
読み進むと引用がとまらなくなってくる。
そう、マニラでこの本を読んで興奮したのを思い出した。すごく興奮して、関わっていた某日本語ボランティア団体にたくさんFAXしたりして、顰蹙をかったこともあったことを思い出した。インターネットのメールをしていない人がたくさんいた時代だった。
でも、引用は続く
実際、抑圧者の関心は、「抑圧する状況をではなく、被抑圧者の意識を変えること」〔シモーヌ・ド・ボーヴォワール Simone de Beauvoir(一九〇八――。フランスの女性哲学者、実存主義作家。――訳注)『右翼の政治思想』〕にある。なぜなら、被抑圧者はその状況に順応するように導かれるほど、それだけ容易にかれらは支配されるようになるからである。この目的を達成するために、抑圧者は銀行型教育概念とあわせて温情主義的社会活動装置を用いる。その装置のなかで被抑圧者は、福祉受領者という婉曲ないいまわしの称号を与えられる。
ここで、このHPの著者は以下のようなコメントを加える。
△ ボランティア活動は体制補完的になりがちです。そしてその限りでそれは「当局」に許容され、推奨されるべきものとなります。それは温情主義的人道主義であって、問題を根本的に解決することを、むしろ妨げるものとなります。
ぼくはここで、日本語ボランティアをイメージする。
銀行型教育もそうだし、体制補完的なボランティアっていう面でもそうだ。しかし、一方で必要とされている部分もある。ボランティアが体制保管にならず、問題を根本的に解決する道筋を意識するっていうのはすごく大切なことだと思う。
さらに「福祉受領者」という概念は障害者問題を考える上でも使える概念だ。歴史的に福祉受領者としかみなされてこなかった障害者。いまでもそういう側面は色濃く残っている。そのモデルこそがちゃんと意識化されなければならないし、そこを超える実践こそが求められているのだろう。
このHP読み始めて、メモを取り始めたら、いつまでたっても終わらないので、今日はこのあたりでやめよう。
とうとう最初に検索して調べようとした「consciousness フレイレ」まで行き着かなかった。
そうそう、”consciousness”を調べたいと思ったきっかけを思い出した。きっかけは昨夜、ラルシュ・かなの家から送られてきた「ジャンバニエからの日々の思索」。
最後に引用しておこう。訳はちょっとだけいぢってある。
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Treasure Within
We are all in danger of living superficially, on the periphery of ourselves. We tend to react to immediate stimuli, to demands from individuals who confront us and to the need for 'urgent' action; we tend to flee from the treasure hidden within us.
When for one reason or another, we become aware of it, or when it is touched by an external event, we are nourished. We are nourished by everything that stirs that which is deepest within us and brings it to consciousness.
Jean Vanier, Community and Growth, p. 168
内なる宝物
私たちはみな、自分という存在の外面、うわべだけで生きてしまう危険性があります。
目の前の刺激、直面している相手の要求、”緊急の”の対応を迫られることに反応してしまいがちです。私たちの中に隠れている宝物から遠ざかってしまいます。
何かしらの理由でその宝物の存在に気づいたり、外部で起きた出来事に心を動かされたりすると、私たちは養われます。奥深くにあるものを呼び覚まし、意識させてくれるものによって、私たちは養われます。
ジャン・バニエ
コミュニティゆるしと祝祭の場 p271
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これから、もう1回寝ます。
このメモ、続けてみたいが、できるかどうかは不明。
できれば、”consciousness.”まで行き着きたい。
この記事へのコメント
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銀行型教育概念にあっては、知識は、自分をもの知りと考える人びとが、何も知っていないとかれらが考える人びとに授ける贈物である。他者を絶対的無知としてみなすのは抑圧イデオロギーの特徴であるが、探究の過程としての教育と知識はそれによって否定される。
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頭があんまりよくないので、この程度の文章でも、読みにくく、あまり得意じゃない。繰り返し、読んでやっと書いてあることの意味が見えてくる。
ちょっと改訳
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銀行型教育概念で、知識は自分のことを賢いと思ってる人が、「こいつらバカ」と思ってる人に授ける贈り物だ。他人を「こいつら絶対バカだ」としか見ないのは、抑圧している側の奴らのイデオロギーの特徴。教育とか知識は、ほんとうはいろんなことを調べて探る過程のことだと思うのだけれども、そういう考え方はそのイデオロギーによって否定される。
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