「東京大森海岸 ぼくの戦争」(小関智弘著)メモ

東京大森海岸 ぼくの戦争
小関智弘著


今日、偶然立ち寄った大森駅近くの入新井図書館で見つけた本。

その場で借りて、その下の階で昼飯を食いながら読み、用事をすませてから、本を読めるカフェを探して、結局、図書館の下にあるカフェで読み終えた。


ぼくが自転車で走り回っている近所の話で、どこもいまの地形はわかる場所なのだが、ほとんど知らない話ばかりだ。

ぼくがいま住んでいるところのすぐ脇にある春日橋に空襲の時に逃げたという話もでてくる。実はこの春日橋、いまも人が集まる日がある。大田区の花火が行われる8月15日だ。そこから花火がけっこう見えるので、近所の人が集まるのだった。平和を祈る大田区の花火大会を見るために集まる春日橋が空襲を避けるために集まった場所だったなどということを知っている人は本当にごく少ないだろうと思う。

2005年に出たこの本のことを、うかつにもぼくはぜんぜん知らなかった。おそらく、いまに続くその頃のことが「はじめに」に書かれている。
アテネオリンピックの柔道やマラソンでわたしは年甲斐もなく、深夜までテレビ観戦をし、日の丸があがるのを喜んだ。でも、あの日の丸とはちがうもうひとつの日の丸を拝むことを強制されることを拒む人たちを、わたしは非難できない。非難することが当たり前であるかのような社会に、この日本をしてはならない。8p


また、学童疎開に向かう直前に祖父に会いにいったときのエピソードも読ませるものがある。おばさんが祖父の尿をゴム管で抜こうとするのだが、うまくいかず、その祖父が望んで祖母に変わるという話だ。著者の父親がか細い祖父の声を聞いて代弁する。「なが年握ってもらった、女房じゃねえか、と。最後まで、握ってくれや、と」ほんとうにそんな風に言ったとは思えない部分もあるけど、・・・。ちなみに著者の母親が死ぬ間際まで夫と同じ墓に入ることを拒否したという、この本で紹介されている別のエピソードと重ね合わせると、いっそう興味深い。
そして、著者は教育勅語のあのくだりでこのシーンを思い出し、その続きをきけなかったと書く。
「・・・臣民、父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ・・・。」86-89p

また、この本の中で1983年8月28日に放送されたというTBSのラジオ番組『平和島からの証言』が紹介されている。
聞いてみたい番組だが、どこかでこれを聞く機会はないだろうか。122p~


冒頭で紹介した春日橋への避難のシーンは以下のように書かれている。
 おやじが四方を見渡してから、
「俺は残るから、お前たちは逃げろ。このままだったら火に囲まれるぞ。見たところ春日橋のほうだけは安全そうだ。道が太いから、あっちに逃げるんだ」
 わたしは・・・弟と妹を連れて逃げた。防空頭巾をかぶって、おろおろする弟たちをはげましながら春日橋をめざした。リヤカーを曳いた人や、年寄りの手を引いた小母さんたちも同じ方向に小走りに急いでいるのが心強かった。
 東海道線や京浜東北線の線路を跨いで架けられている陸橋は、幅の広い石づくりの長い橋だが、さしもの広い春日橋の上も、人で埋まっていた。人びとは口ぐちに、駅の方がやられた、あの火は蒲田の方だ、あっちは羽田だ、と言っては指さした。142-143p
この空襲で入五小が燃えたという。1945年4月15日の話だ。

そして5月29日の空襲で著者の家は焼ける。その翌日、鷲(おおとり)神社にはいくつもの死体がまだ残っていたという。また、「カトリック(教会)やお寺(密厳院)で、みんなの死骸を焼いたんだよ。・・・きれいにには焼けませんよ。・・・」というような証言も紹介されている。151-152p

大森海岸近辺での連合軍捕虜と地域の住民のちょっといい話もある。

戦後直後、直江津や隅田川の捕虜収容所近くでは報復事件があったが、大森の収容所ではなかったという話が、笹本妙子さんの『連合軍捕虜の墓碑銘』からの引用の形で紹介されている。169p もちろん、大森でも、記録には残らないような事件はいろいろあったのではないかと想像はできる。しかし、もう証言できる人はあまりいないだろう。

172pから始まる「もうひとつの防波堤」という節では、平和島の対岸にできたRAAの話が紹介されている。8月18日には「性的慰安施設の充実を」という指令が内務省警保局長からでているという。その1号施設が8月27日にその平和島の対岸にでき、3月27日までの約半年間の営業を行っている。ちなみにドウス昌代さんの著作『敗者の贈り物』では8月29日ではなかったかという説もあるらしい。179p

そして、身も心もボロボロにされ、ほうりだされた「防波堤」の人たちには何の補償もなかったという『東京闇市興亡史』の記載が紹介されている。186p

この平和島とその対岸での戦中戦後の話の後に平和島の競艇場の横に立っている「立派な観音像」の『平和観音由来記』が紹介されている。
この観音様、ぼくもきっと見ているはずだが、覚えていない。こんな風に書かれているらしい。
「人類最高の希いは『平和』であります。(中略)仏さまの中で観音さまは、災禍に苦しむ人々に宇宙の慈悲を示して・・・菩薩であります。平和島はさきの大戦中相手国の俘虜収容所があった処、戦後はわが国戦犯が苦難の日々を送った謂わば『戦争と平和』の因縁の地であります。・・・地上に変わることなき平和を念ずる一人一人の小さなまごころの祈願をみのらせたまえ」


そして、ここを著者は
競艇場に群がって一喜一憂する人は多いが、観音像の由来を知る人はほとんどいないだろう。
と書いて、この節を閉じるのだが、まず、これ誰が作ったのだろう。それがモーターボート連合会だとすると、戦犯でもあった笹川その人が作ったのか、と思わせるような文章でもある。

一般的に『平和』をいうことは誰にでもできる。しかし、なぜ戦争の惨禍がおきたのか、また、それを再び賛美しようとしているものがいるのではないかということをもっと考えたいと思う。

自分が住んでいる地域のことを、こんな風にていねいに記録に残してくれている人がいて、ぼくはすごく恵まれていると思った。



P.S.小関さんが高校を卒業したのが1951年というような記述が「あとがき」にあるのだが、高校在学中に原水爆禁止の署名を集めたとある。207p その時代に原水爆禁止の署名がすでに存在していたのだろうか、すごく気になる記述ではある。

P.S.2 
コメント欄に書いた話ですが、本文にも付け足しておきます。
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これを書いた直後に近現代史を研究している小沢節子さんにそれはストックホルム宣言の署名ではないかと示唆を受けました。同時期に出版社に最後の署名の部分を問い合わせていたのですが、、それはあの有名な54年の「原水爆禁止署名」ではなく、ストックホルム宣言の署名だと小関さんからの回答があったそうです。感謝。お手数をおかけしました。
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この記事へのコメント

tu-ta
2013年03月03日 07:07
これを書いた直後に近現代史を研究している小沢節子さんにそれはストックホルム宣言の署名ではないかと示唆を受けました。同時期に出版社に最後の署名の部分を問い合わせていたのですが、、それはあの有名な54年の「原水爆禁止署名」ではなく、ストックホルム宣言の署名だと小関さんからの回答があったそうです。感謝。お手数をおかけしました。

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