このブログでのエンパワメントについてのまとめ(2018年1月追記)

このブログで、エンパワメントについて言及したもののまとめ

2013年に書いたのだけど、2018年、5年経って、その後に書いたものも付け足した。


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このブログではエンパワメントといえば、森田ゆりさんである。

ぼくが他を知らないのと、彼女の定義が気に入っているから、もうそれはしょうがない話だ。


引用がないものは、全文、エンパワメントに関する文章。

引用してあるものは全体の中で、エンパワメントにかかわるものだけ抜き出したもの。


エンパワメントとは何かということが知りたい人はまず森田ゆりさんの『エンパワメントと人権』を読んでほしいのだが、とりあえず、手元に本がなくて、知りたい人は以下の読書メモから読んでほしい。

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森田ゆりさんの『エンパワメントと人権』の読書メモ
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エンパワメント

エンパワメント(その2)

エンパワメントと人権(読書メモ3)

エンパワメントと人権(読書メモ4)

エンパワメントと人権(読書メモ5)

エンパワメントと人権(読書メモ6)

エンパワメントと人権(読書メモ7)

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それ以外では

「エンパワメントの作業定義」に触発されて

社会モデルとエンパワメントの両方が必要

《「障害の社会モデル」とエンパワメント》という松波 めぐみさん論文から

「エンパワメント」は力をつけることじゃない (「たこの木通信」に書いた原稿)

エンパワメント・アプローチの定義と、その援助方法について

場の力・エンパワメント・障害の社会モデル(「本の紹介」はほとんどしてない16回目)



『技法以前』での向谷地さんによるエンパワメント論の紹介

エンパワメントの構成要素
A 個人の側面……自己効力感、自尊感情、権利の自覚、批判的思考
B 対人関係の側面……主張する、援助を求める、問題解決、新しいスキルの実践、資源のアセスメント
C 政治・地域の側面……政治的活動/参加、応酬、貢献、統制

これらを現実化する要素として重視されている4点

①人間関係への参加が自尊心を促進すること。
②適切なカミングアウトが他者への援助を求めていくことを可能にし、孤独を取り除くこと。
③当事者自身が、他者の回復(癒し)に貢献する力をもっていることの経験を促すこと
④そのために日常的に、病気、薬物療法、対処技法、社会資源に関する情報に触れる場が用意されていること。


『移住女性が切り拓くエンパワメントの道』読書メモ

森田ゆりさんの紹介文から抜書き
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 エンパワメントとは、人は誰でも皆生まれながらにしてさまざまなのすばらしい力(パワー)を持っているという信念から出発する考え方である。その力のなかには人とつながろうとする力、喜びや悲しみや怒りを感じる力、自分を癒す力、そして逆境をはねかえす力もある。たくさんの力を内に持つあなたという存在は、ただ生きているだけでもうあまりにも尊い存在なのである。しかしあなたは生きているだけではダメで、成功しなければ、何者かにならなければとの無言のプレッシャーに背中を押されつづけてきた。自分はだめだ、もっとがんばらなければと叱咤激励しつづけてきた。

 エンパワメントの出発点は、長所も短所もひっくるめて、まずはまるごと自分を受け入れ、いとおしむことにほかならない。それは言うほどたやすいことではない。本書に記録された女性たちが、貧困や暴力的環境を生きぬいた末に、その出発点にたどり着いた物語は読む者の心を揺さぶらないではいない。
===


小冊子「自分らしく街でくらす」

で、《精神病からの「回復」のエンパワメントモデル》
というのを紹介している。
ここでは、生物学的モデルに対してエンパワメントモデルと説明。

「PACE と回復についてのよくある質問」
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精神病の原因はなにか?

百年以上にわたる研究にもかかわらず、精神病が主として特定の化学的不均衡あるいは遺伝上の差異によって起きるという根拠はない(Harrison,1999)。社会的、心理的、文化的要因は、生物化学的要因とまったく同じくらい重要である。われわれは同時に多くのレベルで存在する大変複雑な生き物である。生物学的要因を過剰に強調することは、人間という存在をばらばらにし破壊することで、人に自分たちは意味のない化学物質の集合体に過ぎないと感じさせる。この感覚は回復を妨げる、なぜなら回復は、人生を送るのに積極的な役割を果たしたり十全感を得ることに基づいているからである。
生物学的モデルに対してエンパワメントモデルは、すべてのレベルで自分で人生の舵取りをすることを奨めている。専門家が治してくれるのを待たずに、自分で行動することが回復に欠かせないことを人々は知っている。生活を自分でやっていけるようになればなるほど、ますます十全感が増す。これは新たな希望、責任、強さを与える。
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ヘンでいい。  読書メモ その2

ここでは斎藤学さんがその言葉を使わずにエンパワメントについて語っているような部分を紹介

斎藤さんはその言葉は使っていないが、森田ゆりさん流のエンパワメントととても近いことを語る
・・・クライアントの中に潜んでいるパワーを認めて徹底的に寄り添うことでその人自身に気づいてもらう。それをするのが私の仕事で、彼ら自身の回復はひとりでに起こってくるという……、ま、仮説だよね。こういうところに立たない限りやってられないというところに追い込まれたわけ。(後略)  118p

また、精神科医の矛盾については、専門性を主張したら、限界がでてくるといい、
「ただのおじさんとして接すればそんな人は無数にいるわけで、、だから、治療者無力みたいなことを言うこと自体に矛盾だろって言われれば、そんなこと先に気づいているのはそれを言ってる私自身だよ。(中略)、しかしそれ以外の立場に身の置きどころはないじゃないかと思うわけよ。
  (少し長い略) 要するに、こんなヤブとも言えないドテ医者に自分のことをゆだねてもしょうがないと思うところから力が出てくるんだね」(124p)
という。


グロ民研・「民衆の安全保障・再考」研究会の感想

・エンパワメントの訳語について、
エンパワメントの訳語はこの本(人間安全保障報告書)では「能力強化」。武藤さんはエンパワメントとそのまま使わないのであれば、「地力(自力?)をつけること」としているとのこと。
森田ゆりさんのエンパワメントの定義は、「本来持っている力に気づくプロセス」。
 ふと思った補足、この「人間安全保障報告書」の文脈では、「能力強化」という日本語が正確かもしれない。植民地主義を強く残したというか、なるべく見えにくくしつつ強化した現在の支配枠組みを壊さないことが前提の人間安全保障論であれば、人びとがその枠組みを外してエンパワメントしていくプロセスはじゃまになるので、ここで望まれているのはエンパワメントでなく、「能力強化」であるといえるかもしれない。問われているのは新自由主義経済の中で勝ち抜いていく能力を強化していくこと。


『釜ヶ崎と福音』メモ後半
そして、聖書が私たちに諭しているのは、神が望む平和な社会を私たちが望むのであれば、社会構造の中の抑圧する側に立つことをやめることだ。そして抑圧され、貧しく小さくされている人の側に立つことが貧しい人のためであるだけでなく、裕福な人の幸せにもつながる、そしていうまでもないことだが、みんなが貧しくなることでなく、貧しい人たちが貧しさから解放されるために起こす行動に連帯せよ
ということだと本田さんはいう。199-200p


これって、森田ゆりさんが『エンパワメントと人権』で書いている以下とそっくりかも。
エンパワメントとは差別される側、被害を受ける側、弱者とさせられてきた者の側、・・・に立つことを選んだときに初めて可能になる関係のありかたである。その立場を明確にすることによって社会から受ける批判に立ち向かうことである。「中立」とか「客観的」「科学的」などといった立場煮に逃げ込んで、抑圧する側にくみしてしまわないことだ。50p



「相談援助における理念の意義について」

「エンパワメント」については、援助者が被援助者にさまざまな方法で力を授けるという意味ではなく、当事者が本来持っている力(それは社会的な抑圧などによって見えなくさせられている場合が多い)に本人が気づくプロセスという意味でのエンパワメントという視点が重要であり、相談援助者はエンパワメントという観点から、利用者本人が有している力に信頼をおき、見えなくさせられているその力について教えるのではなく、本人が自ら気づくプロセスをファシリテートすることが重要だと考える
「生活保護法の目的における二面性について」

3、対人援助の視点としてのエンパワメント
生活保護を受ける者への対人援助の視点として、当事者が尊厳を維持することや支援者は当事者の存在をリスペクトして対応することは欠かせない。そのためにも、自立の助長という目的の背景にあるのは、惰民養成の排除のためではなく、本人の可能性に着目するためのものだという指摘は有効だろう。
生活保護の所得補償で本人の尊厳ある生活を支えながら、自らが「本人の可能性を発見する」ということこそ対人援助の肝ではないかと考える。本人が「本人の可能性を発見する」というのはまさしくエンパワメントのプロセスである。

生活保護不正受給が大きく報じられる中で、福祉事務所が警察OBを導入し「不正受給≒惰民の排除」にばかり力を入れているように見えることも多い。もちろん、生活保護への不当な非難をなくしていくためにも不正受給の排除が必要なのはいうまでもないが、ソーシャルワーカーによる対人援助の目的がそこにあるわけではない。

生活困窮者に対して、生活保護による所得保障で本人の尊厳を持った生活を支えながら、本人が「本人の可能性を発見する」というエンパワメントのプロセスを支援すること、その気づきをファシリテートすることこそ、ソーシャルワーカーが対人援助においてめざすべきことなのではないかと考える。

『虐待・親にもケアを』 (森田ゆり著)メモ(約1か月後の追記あり)

グループ・エンパワメントについて
グループ・エンパワメントは個人カウンセリングにはない効果を発揮できるが、同時にグループは進行の仕方や、構成によっては参加者にさらなるダメージを与える力も持っている。参加者の外傷体験の再演が起きたり、メンバー間の攻撃が起きる危険性がある。治療的な効果や行動の修正を目指すグループの実施には、少なくとも以下のことが準備、保証されている必要がある。
  ・目的を明確に設定し、参加者がそれを共有する。
  ・参加者が自分に正直に語ることができる安心な場をグループ進行中のあらゆる場面において保証する。グループは参加者が何を語ってもいいし、語らなくてもいい安心な場でなければならない。安心は、グループの成功、不成功を決める鍵である。
  ・最初の2回の〈自分トーク〉では、安心を根付かせるために、ファシリテーターはコメントを返さず、傾聴に徹する。
  ・メンバー相互作用によるグループ・ エンパワメントを可能にする進行スキルが必要。参加者が互いにエンパワメントし合う場面は自然に発生するのではなく、ファシリテーターによる全体のトーンの設定、目的と約束事の確認、細かい配慮があって初めて活性化する。その理論とスキルとツールをファシリテーターは持っていなければならない。
  ・参加者の気づきと変化を大きく促進するために、ファシリテーターは、3回目の〈自分トーク〉以降は、傾聴するだけではなく、短く適切なコメントをする。これは、気づきをもたらす質問、validation(承認・有効化)、言い換え、受容、指摘、気づきを引き出すための余韻を持たせるコメント、そしてまれに助言など。一人の人へのコメントが他の人にも意味を持つことを意図しながら、短いセンテンスでシンプルに言い、言葉を重ねない、曖昧な言い回しの語尾を使わないなどが訓練される。

 コメント返しはMY TREE実践者が、3~4人の実践者間による振り返りと、スーパービジョンを受けながら実践を重ねることで身につける臨床家としての高度なスキルである。142-143p

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グループ・エンパワメント、確かに傷ついた人への配慮は必要だと思うが、「場の力」が人を癒してくれるということを、もっとカジュアルに考えたいとも思う。上記の専門性と人と人との関係性の中で癒されるという 立場 、そう、小沢牧子さんの『心の専門家はいらない』という立場に代表されるような考え方、その辺りをどう考えていけば良いのだろう。



『解放のソーシャルワーク』(第1章までのメモ)

3 エンパワメント概念の理解を伴うアクション志向の実践的経験
   開発学的視点からの人権概念の再検討
ここで筆者は近年ソーシャルワーク実践領域でも比較的安易に使われている「エンパワメント概念」に疑問を呈する。 日本のソーシャルワーク実践教育が前提としているのは「ユーザーと実践者のミクロなユニットを基本単位」とすること。そのようなものとして教えているのでエンパワメントを基本的に「個人の能力強化と覚醒」に焦点を置くものと定義している。 それへの疑問が以下で出される。


3.1 エンパワメント概念の言説性と人権アプローチ
 ここで 佐藤寛のエンパワメント論(2005)を援用し、開発領域においても様々な定義があるエンパワメント概念だが、「エンパワーメントは当該社会内部の社会関係の変容によって達成される」という最終目標においては合意が形成されている、として上記のようにエンパワメント概念をミクロのユニットにしてしまうことを批判する。 (29p)

 ここはぼくも見落としがちだった部分ではないかと思う。いままで森田ゆりさんの、「エンパワメントは支援者から与えられるものではなく、自分が本来持っている力に気づくプロセスだ」という定義にのみ注目していた。それはそれで正しいと思うのだが、本人が自ら、本来持っている力に気づくために、社会というか所属するコミュニティで尊重される必要がある。従来、劣っているものとして見下されていたとすれば、社会(あるいはコミュニティ)がその見方を改めるかたちでの【当該社会内部の社会関係の変容】が求められるわけだ。

 同時に当該社会【全体】の社会関係の変容がなくても、エンパワメントは可能ではないかと思う。当事者が信頼する誰かが、既存の社会関係が歪んでいることを認め、当事者の尊厳を尊重してくれることでエンパワメントは実現するのではないか。
森田ゆりさんはこんな風に書く。
エンパワメントとはまずもって一人ひとりが自分の大切さ、かけがえのなさを信じる自己尊重から始まる、自己尊重の心は自分一人で持とうと意識して持てるものではない。まわりにあるがままのすばらしさを認めてくれる人が必要だ。無条件で自分を受け入れ、愛してくれる人が。

障害の社会モデルとエンパワメントの関係については、ずっと考えてきた課題でもある。話はそれるが、少しそれについて考えてみる。

とりあえず現状では https://tu-ta.seesaa.net/article/200905article_3.html に少し書いたものがある。
そこでは、とりあえずの結論として、こんな風に書いている。

このような立場から、障害者が障害ゆえに生きにくさを感じているということがあるのなら、まず変らなければならないのは社会のほうじゃないかという考え方が生まれるし、自分はそのように言っていいんだと気づくプロセスがエンパワメントだというふうにも言える。そして、さらにそのような社会変革をめざす社会運動は、そのプロセスに参加することがエンパワメントにつながるようなプロセスになるようにしていく必要があるのではないか。
同時に、小川善道さんが書いているように、エンパワメントのために社会モデルが必要であり、また、社会モデルの出自でありまた帰結でもある社会を変革していくというアプローチのためにもエンパワメントは必要になってくる。その両方は相互に必要とされていて、それらをダイナミックにかみあわせていくことが必要なんじゃないかと感じたわけだ。

「エンワーメントは当該社会内部の社会関係の変容によって達成される」という言葉から触発されて、以前に書いたものを引っ張り出してきた。

「エンパワーメントは当該社会内部の社会関係の変容によって達成される」というが、エンパワメントはゴールのないプロセスだと思う。森田さんにならって言えば、「自分自身のすばらしさに気づくプロセスがエンパワメント」なのだから、「達成」というとき何を指すのかが問題。だから、その「達成」はゴールではなく、到達段階と考えるべきだろう。

向谷地さん流に言えば、エンパワメントには「場の力」が必要ともいえるだろう。その「場」で肯定されることが本人の気づきのプロセスを促進する。

さらに「障害」とされる「心身が多数派と異なる状態」が「~~ができない」という状況を作り出していると考える前に、「心身が多数派と異なる状態」も持つ本人を「~~ができない」という状況に置いているのは主要に社会の問題であるという「障害の社会モデル」の視点を持つことが自己肯定感やエンパワメントを促進するだろう。
同時に「主・要・に・(社会の問題)」と書いたように、どんなに社会が変わっても残る「~~できなさ」はある。その「~~ができない自分」を丸ごと受け入れる「存在の肯定」は自らがかかわる社会との関係の中で育まれるはずだ。それもまた「場の力」と呼ぶことができる。

エンパワメントは個に注目するが、その「個」は社会の存在抜きにはありえない、社会的存在としての「個」である。

ここで書きたかったことは、「エンパワメント」と「障害の社会モデル」と「場の力」の抜き差しならない関係だ。それぞれがそれぞれに影響し、自分自身と社会をじたばたしながらも、少しでもましな方向へと変えていくことにつながっているのだと思う。

エンパワメントはかけがえのない自分に気づくプロセス。

固定した自分など どこにもなくて、絶えず変容していく。
ポジティブな気分の時だけではなく、凹んで「どうでもいい」という気分になるときもある。それぞれの状態に応じたエンパワメントがあるのだろう。
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話が大幅にそれたので読書メモに戻す。
エンパワメント概念の混乱について以下のように書かれている。
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エンパワメントという概念の中に「人々がそれぞれの理想(の援助実践)」を込めることは、ソーシャルワーク実践のみならず、ヒューマン・サービス実践全般における「当事者ー他者」観の曖昧さ、合意のなさをそのまま反映しているといえよう。対人援助実践の根幹に関わるこの「誰が/誰のために/何をするのか」 という問題を曖昧にしたままでは、初学者が混乱するのも無理はない。初学者が実践現場で職人する三つ目の混乱は「私は誰のために何をしているのか」というものであり、これに対しても援助技術論と演習教育は明確な答えを用意できない。むしろ、明確化しようという試みでは開発力が一歩進んでいる。29p
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このあとに先ほど俎上に挙げた
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開発領域においても様々な定義があるエンパワメント概念だが、「エンパワーメントは当該社会内部の社会関係の変容によって達成される」という最終目標においては合意が形成されている。
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という文章が来る。
そして著者は「ソーシャルワーク領域においても、エンパワメント実践において到達すべき目標は同じであると考える」と書き、以下のように続ける。
人々の「人権と尊厳、福祉(well-being)、平等、公正」に資する取り組みが自らの傾注すべき価値であることを、ソーシャルワーク実践者自身が内在的にでも目的感覚として保持しているならば、エンパワメントに名を借りた実践の目的が、単にヴァルネラブルな人々の自己覚醒や効力感の増強に留まることなく、当該社会の社会関係の変容に設定されるはずなのである。29-30p
これ、どうなのだろう。【「人権と尊厳、福祉(well-being)、平等、公正」に資する取り組みが自らの傾注すべき価値である】とは思う。しかし、ソーシャルワークにおけるエンパワメントの目的が【当該社会の社会関係の変容に設定されるはず】だというのは短絡化しすぎているのではないか。

様々な困難を抱えたソーシャルワークが対象にする人々のエンパワメントを考えた時、まず必要なのは、社会関係の変容ではなく、自らの存在そのものの価値に気づくことではないだろうか? その先で社会関係の変容を求めるかどうかはソーシャルワークの領域ではなく社会運動の領域の話ではないか。もちろんそれが大切だと思うし必要だと思って参加しているのだが、 ソーシャルワーカーがその人のエンパワメントに寄り添うのはその人が自らの存在そのものの価値に気づくところまでではないか。そこから先もソーシャルワーカーがその人に寄り添って、その人のエンパワメントに付き合うというのはちょっと違うのではないかと思う。
社会運動の目的のひとつは【当該社会の社会関係の変容に設定される】というのは、たぶんそうだと思う。しかし、社会運動でさえ、その目的の中に、一人一人のエンパワメントということも含んでいるのではないだろうか。

エンパワメントを単に手段と限定してしまうことで、このような考え方が出てきてしまうのではないかと思った。エンパワメントは手段でもあるが、単なる手段ではなく、そのプロセス自体が生きていく上で大切な要素なのではないだろうか。


DETについて(追記・蒲田での紹介イベント満員御礼)
久野さんは以下のように答えてくれた。
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障害者へのDETですが、もちろん当然、対象です。
非障害者にとってはEnablementとして、障害者にとってはエンパワメントとしてDETは位置づけられます。
ですので、是非是非DETをやってください。
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これに再度、久野さんへぼくからの質問
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「非障害者にとってはEnablementとして、障害者にとってはエンパワメント」
の意味ですが、エンパワメントは本来持っているものに気づくプロセスとしてのエンパワメントだから
ということでしょうか?

で、エネーブルメントって、初めて知った単語で辞書で調べました

enablement

【名】使用可能性
enablement requirement

実施可能要件
meet the enablement requirement
実施可能要件を満たす

この文脈での使い方、よくわかりません。
もう少し、教えてもらえたらうれしいです。
~~~~~

この問いに関しても、久野さんから、参考文献のサジェストをもらっているのだけれど、まだ読み込めていないので、略



「日本語教育のかなたに」読書ノートから
セルフ・ディスエンパワメントっていうのはうそくさいと思う。
ひとりひとりが存在していることの尊厳、そこに注目し、それを重んじることと、ここで言われているセルフ・ディスエンパワメントには何か違いがあるように思う。むしろ、「人間存在の低みに立つ」というような言い方のほうがすっきりする。自分も含めて誰もが「ちょぼちょぼ」っていう感じが必要なんじゃないかと思う。
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自分用のまとめだけど、誰か他の人も参考にしてもらえると、・・・うれしい。

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