『反省させると犯罪者になります』メモ
カバーの袖に短い紹介文、アマゾンなどに掲載されているのと同じ。
ついでにアマゾンに掲載されてる内容紹介も転載
読了直後に読書メーターに書いたメモ
『反省』、難しいものだと再確認。
労働組合運動の中で、あるいは職場の中間管理職として、何度か他者に反省を求めたことがある。確かにほとんどの場合、効果がなかった。
ぼくが反省を求めた相手が、どうして、そんなことを繰り返すのか、ということを、まず、自分で考える契機を与えることに失敗していたのだと思う。
ぼくの考察も不足していたかもしれないが、そんな風に先回りするのではなく、本人が気づくプロセスが重要なのだろうと思った。
ゆっくりと相手に向き合って、相手の言い分をまず、否定しないで、加害者としての感情を引き出すことが大事だという。そんなプロセスを経ないで、ただ反省を求めて、作文の能力だけが向上するような反省の求め方がいろんなところでやられているし、ぼくもそうしてきた。
そんな記憶はある。
読書メーターのメモにも書いたのだが、ただ、他方で、反省を求められたことを思い出してみる。そんな場面はたくさんあり、確かに表面的に言い繕ったことも少なくなかったと思うが、反省を厳しく求められて、気づいたことも、ないわけじゃなかったとも思う。
もう、現在は聞かれることもなくなった「糾弾会」というのを思い出した。それが希に成功した事例もあったかもしれないが、なかなか難しいことも多かったと思う。
しかし、差別されたものは、当然にも、それを否定する権利を持つ。差別したものを許せないだろう。それを糾弾する権利と言い換えることもできるかもしれない。
問われているのは、そのプロセスから何を得ようとするのか、という話かもしれない。
差別された本人のなかの何かを回復する、ということがすごく大事なのだろう。差別した相手を凹ませることでの何らかの回復もあるかもしれない。
でも、本当に欲しいのは、そこから先にあるものなのではないか。
おそらく、その回復は他者との関係のなかで実現する。
そんなことを考えていて、「糾弾」とは何だったんだろう、と思い至った。
本人の回復のためには、差別した個人ときっちり向き合うことが必要だったのか。
多くの場合、「糾弾」はグループによって担われていた。そこには当事者もいただろうが、グループの志向と当事者の思いがすれちがっていたことも多かったかもしれない。
そんなことを考えていたら、徐京植さんと花崎皋平さんのやりとりを思い出した。PP研の集まりで、そのことを話した高橋哲哉さんのことも。
直線的に反省を求める方法は成功しないと、この本の著者は書く。そのことと、それらの話を重ね合わせて見えてくるものもあると思う。
反省を求めることは筋としては正しいことが多い。
問題はそこで求められているものは何か、ということだと言えるかもしれない。
反省を求められた本人の変化を求めるのか、筋としての正しさを求めるのか。
この反省を直線的には求めないありかた、社会運動に適用できるか、と考えてみた。当然だけど、できる場合と出来ない場合があるだろう。
ちなみに、この本は徹頭徹尾、個人の問題を扱った本。
それを敷衍したのは、ぼくの思い込みだ、ということを他者に晒すこのメモのなかで、明らかにしておこう。
雑感、とりあえずここまで。
以下、抜き書きしながら考える。
そして、著者は犯罪者に反省を求めない授業や面談を進めると、「彼らの多くが反省します」(6p)という。
46pからは「反省の強要」が状態を悪くした二つのケースがあげられている。
ケース2はいじめられていた子どもの例。母子家庭の彼がいじめられて家のお金に手を出したことが発覚したとき、勇気を出していじめの存在を告白したのに、母親はその彼を突き放し、いじめを「自分で解決しなさい」として反省文を書かせる。その彼が突き放された経過の中で暴力団に入り鉄砲玉にさせられる。
そのとき、「母親が受け入れていれば」彼が殺人犯になることはなかったかもしれない、というのが著者の主張なのだが、ここは微妙だと思う。母子家庭の母親は家を支えることでめいっぱいなのではないか。ここでは彼を支えると同時に母親も支えられなければならなかったのではないか。著者がいいたいことの中心がそこにあるのではないことは理解できるが、やはり、このケースの書き方には違和感が残る。
ともあれ、主題はすぐに「反省させることの害悪」だ。著者は問題行動を必要行動と捉え直す視点を持ち、「手厚いケア」をして欲しいという。直後に反省文を求めることは、そのときはなんとかなっても後に禍根を残すと。69p
3章では現在の刑務所のシステムについての記述があり、それがいかに歪んでいるかということが具体的でわかりやすく記述されている。そういう具体例は読んでもらうとして、こんなふうにまとめられているとも言える。
134pの以下も興味深かった
人に頼ること、大事だよなぁ、と思う。
自立とは依存先の多様性を持つことだと最初に言ったのは中村尚司さんだし、いまは、内田樹さんや熊谷さんも同じことを言っている。
そして、受刑者は出所後、「被害者は自分を許すことはない」ということを胸に刻んで生きなければならないが、同時に、彼らが更正するためには「幸せ」にならなければならず、それは彼らの「責務」でもあると著者はいう。「人を殺した人間が幸せになるなんてとんでもない」というような批判も想定した上で、実は幸せになることこそ、更生と関係があるという。129p
それにつなげて、以下のように書かれている。
さらに著者は元受刑者に「支援者」になって欲しいと書く。生きることに苦しんでいる人に対して、人の命の重みを知っている元受刑者だからこそできることがあるのではないか、と。そして、そのことによって元受刑者たちも自らが存在していることの意味を実感し、「自分が生きていてもいい」と思えるのだ、という。137p
141pで著者は刑のあり方として自分お生い立ちから事件に至るまでを内省するとには賛成だという。その手順として迷惑をかけられたことから始める、そんな風にネガティブな感情を表に出すことを肯定していくことから始めることで、受刑者に受け入れられているという感情をもたせることができるのかもしれない。
また「しつけ」がいじめにつながるという157pの記述も、確かにそういうことがあるかも、と思った。きちんとすることを強制されているこどもはきちんとできない子どもを許せず、いじめに向かうということはありそうだ。
問題行動があったときに、子どもに対して正論を吐くことが子どもを黙らせてしまう危険についても書かれている。187p
まず、こどもがどうして、そのような問題行動に走ったのか、そこを正直に話してもらうことが必要みたいだ。なかなか難しい話ではあるが。
本文の最後のメッセージは「ありのままの自分」を出すことの大切さ。210p
タイトルはセンセーショナルなのだが著者は徹頭徹尾人間の可能性を信じていると言えるかもしれない。人間が変わるために、事件後すぐに反省を求めるのではなく、なぜ、そのような行為にいたったのかということをちゃんと表出させることが必要だという意見はとても説得力のあるものだった。しかし、それは本当の反省を獲得させるために必要なことなのかもしれない。
犯罪者に反省させるな―。「そんなバカな」と思うだろう。しかし、犯罪者に即時に「反省」を求めると、彼らは「世間向けの偽善」ばかりを身に付けてしまう。犯罪者を本当に反省に導くのならば、まずは「被害者の心情を考えさせない」「反省は求めない」「加害者の視点で考えさせる」方が、実はずっと効果的なのである。「厳罰主義」の視点では欠落している「不都合な真実」を、更生の現場の豊富な実例とともに語る。
ついでにアマゾンに掲載されてる内容紹介も転載
「悪いことをする→反省させる」は逆効果! 累犯者は「反省」がうまい。本当に反省させるなら「加害者の視点で考えさせる」方が効果的――。犯罪者のリアルな生態を踏まえて考えた超効果的な更生メソッド。
読了直後に読書メーターに書いたメモ
目からウロコがボロボロ落ちてくる感じだった。 夕方、図書館で借りてきて、一気に読んでしまった。 他人に反省を強制しても、ろくなことはないというのはわかった。 とはいうものの、自分はいくつか反省しなくちゃ、とも思うんだが・・・。
『反省』、難しいものだと再確認。
労働組合運動の中で、あるいは職場の中間管理職として、何度か他者に反省を求めたことがある。確かにほとんどの場合、効果がなかった。
ぼくが反省を求めた相手が、どうして、そんなことを繰り返すのか、ということを、まず、自分で考える契機を与えることに失敗していたのだと思う。
ぼくの考察も不足していたかもしれないが、そんな風に先回りするのではなく、本人が気づくプロセスが重要なのだろうと思った。
ゆっくりと相手に向き合って、相手の言い分をまず、否定しないで、加害者としての感情を引き出すことが大事だという。そんなプロセスを経ないで、ただ反省を求めて、作文の能力だけが向上するような反省の求め方がいろんなところでやられているし、ぼくもそうしてきた。
そんな記憶はある。
読書メーターのメモにも書いたのだが、ただ、他方で、反省を求められたことを思い出してみる。そんな場面はたくさんあり、確かに表面的に言い繕ったことも少なくなかったと思うが、反省を厳しく求められて、気づいたことも、ないわけじゃなかったとも思う。
もう、現在は聞かれることもなくなった「糾弾会」というのを思い出した。それが希に成功した事例もあったかもしれないが、なかなか難しいことも多かったと思う。
しかし、差別されたものは、当然にも、それを否定する権利を持つ。差別したものを許せないだろう。それを糾弾する権利と言い換えることもできるかもしれない。
問われているのは、そのプロセスから何を得ようとするのか、という話かもしれない。
差別された本人のなかの何かを回復する、ということがすごく大事なのだろう。差別した相手を凹ませることでの何らかの回復もあるかもしれない。
でも、本当に欲しいのは、そこから先にあるものなのではないか。
おそらく、その回復は他者との関係のなかで実現する。
そんなことを考えていて、「糾弾」とは何だったんだろう、と思い至った。
本人の回復のためには、差別した個人ときっちり向き合うことが必要だったのか。
多くの場合、「糾弾」はグループによって担われていた。そこには当事者もいただろうが、グループの志向と当事者の思いがすれちがっていたことも多かったかもしれない。
そんなことを考えていたら、徐京植さんと花崎皋平さんのやりとりを思い出した。PP研の集まりで、そのことを話した高橋哲哉さんのことも。
直線的に反省を求める方法は成功しないと、この本の著者は書く。そのことと、それらの話を重ね合わせて見えてくるものもあると思う。
反省を求めることは筋としては正しいことが多い。
問題はそこで求められているものは何か、ということだと言えるかもしれない。
反省を求められた本人の変化を求めるのか、筋としての正しさを求めるのか。
この反省を直線的には求めないありかた、社会運動に適用できるか、と考えてみた。当然だけど、できる場合と出来ない場合があるだろう。
ちなみに、この本は徹頭徹尾、個人の問題を扱った本。
それを敷衍したのは、ぼくの思い込みだ、ということを他者に晒すこのメモのなかで、明らかにしておこう。
雑感、とりあえずここまで。
以下、抜き書きしながら考える。
・・・こうしたことが何度も繰り返されるなら、本人が向き合わないといけない内面の問題があるかもしれません。それなのに、ただ反省させることを繰り返すと、ますます内面の問題が分からなくなるばかりか、かえって大きな犯罪を・・・(4p)
~~~
反省させてもかまいませんが、条件があります。反省させる以前にしなければいけない「大切なこと」があるのです。・・・「大切なこと」は本書で次第に明らかに・・・5p
そして、著者は犯罪者に反省を求めない授業や面談を進めると、「彼らの多くが反省します」(6p)という。
矯正不可能と判断された受刑者も信頼関係をつくり、ちゃんとした手順を踏めば、そんなことはなく、その手順が反省を求めないことだ。とも。8p
犯罪を犯したその加害者が、被害者を傷つけたのは、どんな理由だったのか、被害者に対して、どんな否定的感情を持ったのか、それをまず、相手を否定しないで話させることが重要だという。40p
46pからは「反省の強要」が状態を悪くした二つのケースがあげられている。
ケース2はいじめられていた子どもの例。母子家庭の彼がいじめられて家のお金に手を出したことが発覚したとき、勇気を出していじめの存在を告白したのに、母親はその彼を突き放し、いじめを「自分で解決しなさい」として反省文を書かせる。その彼が突き放された経過の中で暴力団に入り鉄砲玉にさせられる。
そのとき、「母親が受け入れていれば」彼が殺人犯になることはなかったかもしれない、というのが著者の主張なのだが、ここは微妙だと思う。母子家庭の母親は家を支えることでめいっぱいなのではないか。ここでは彼を支えると同時に母親も支えられなければならなかったのではないか。著者がいいたいことの中心がそこにあるのではないことは理解できるが、やはり、このケースの書き方には違和感が残る。
ともあれ、主題はすぐに「反省させることの害悪」だ。著者は問題行動を必要行動と捉え直す視点を持ち、「手厚いケア」をして欲しいという。直後に反省文を求めることは、そのときはなんとかなっても後に禍根を残すと。69p
3章では現在の刑務所のシステムについての記述があり、それがいかに歪んでいるかということが具体的でわかりやすく記述されている。そういう具体例は読んでもらうとして、こんなふうにまとめられているとも言える。
刑罰は長ければ長いほど、罰は重ければ重いほど、それだけ人を悪くしてしまうと言えます。96p当然、この直後で刑罰が必要ないわけではない、とした上で、
今の刑務所や刑罰のあり方を根本的に見直さなければならない、としている。考え直す方向性はこの本で示されていて、そこは同意できると思う。
134pの以下も興味深かった
再犯しないためには、「二度と事件を起こしません」と固い決意をすることよりも(固い決意も必要ですが)、何より人に頼って生きていく生き方を身に付けることです。そのことだけでも理解できたら、再犯しない可能性が高まります。
人に頼ること、大事だよなぁ、と思う。
自立とは依存先の多様性を持つことだと最初に言ったのは中村尚司さんだし、いまは、内田樹さんや熊谷さんも同じことを言っている。
そして、受刑者は出所後、「被害者は自分を許すことはない」ということを胸に刻んで生きなければならないが、同時に、彼らが更正するためには「幸せ」にならなければならず、それは彼らの「責務」でもあると著者はいう。「人を殺した人間が幸せになるなんてとんでもない」というような批判も想定した上で、実は幸せになることこそ、更生と関係があるという。129p
それにつなげて、以下のように書かれている。
なぜなら人とつながって「幸せ」になることは、「人」の存在の大切さを感じることになるからです。そして、人の存在の大切さを感じることは、同時に自分が殺めてしまった被害者の命を奪ってしまったことへの「苦しみ」につながります。皮肉なことに、幸せを感じれば感じるほど、それに伴って、苦しみも強いものになっていきます。129-130p
さらに著者は元受刑者に「支援者」になって欲しいと書く。生きることに苦しんでいる人に対して、人の命の重みを知っている元受刑者だからこそできることがあるのではないか、と。そして、そのことによって元受刑者たちも自らが存在していることの意味を実感し、「自分が生きていてもいい」と思えるのだ、という。137p
141pで著者は刑のあり方として自分お生い立ちから事件に至るまでを内省するとには賛成だという。その手順として迷惑をかけられたことから始める、そんな風にネガティブな感情を表に出すことを肯定していくことから始めることで、受刑者に受け入れられているという感情をもたせることができるのかもしれない。
また「しつけ」がいじめにつながるという157pの記述も、確かにそういうことがあるかも、と思った。きちんとすることを強制されているこどもはきちんとできない子どもを許せず、いじめに向かうということはありそうだ。
問題行動があったときに、子どもに対して正論を吐くことが子どもを黙らせてしまう危険についても書かれている。187p
まず、こどもがどうして、そのような問題行動に走ったのか、そこを正直に話してもらうことが必要みたいだ。なかなか難しい話ではあるが。
本文の最後のメッセージは「ありのままの自分」を出すことの大切さ。210p
タイトルはセンセーショナルなのだが著者は徹頭徹尾人間の可能性を信じていると言えるかもしれない。人間が変わるために、事件後すぐに反省を求めるのではなく、なぜ、そのような行為にいたったのかということをちゃんと表出させることが必要だという意見はとても説得力のあるものだった。しかし、それは本当の反省を獲得させるために必要なことなのかもしれない。
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