「弱さの思想」メモ

正式なタイトルは
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『弱さの思想~たそがれを抱きしめる』(辻信一+高橋源一郎、大月書店)
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「はじめに」は以下で読めます。
http://www.sloth.gr.jp/column/tsuji/yowasa/

これもたぶんSNSで誰かに紹介されて読んだのだと思うけどきっかけは覚えてない。

読書メーターに読後すぐメモを書き、
気が向いたので、アマゾンにもそれをもとにして、書いてみた。
短くて読みやすい本なのに、仕事が忙しくて、ずいぶん時間をかけて読んだ。

言いたいことはすごくよくわかる(ような気がする)。 社会に違う原理が必要とされている。経済成長を追い求めて、勝つことを強制されるような社会に多くの人がうんざりしはじめている。ここで紹介されるさまざまな試みも興味深い。ここでは紹介されていないが、知的障害者を中心とする小さなコミュニティであるラルシュもぴったりな感じなのではないかと思った。

でも、同時に利害で動く部分があることも否定出来ない。人間は利害だけで動くわけではないとしても、じゃあ、それらはどうバランスをとるべきなのか。そこにも踏み込んでほしいな。


これで思い出すのはヴェーバーのあの有名な転轍機の話だ。
ぼくの読書メモには何度も出てくるけど、ここでも繰り返して引用しておこう。
今回は少し長めに
以下、『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書)から引用
===
 ヴェーバーによれば、市場メカニズムは、その存立が可能になるための条件として、内面的な――つまり、倫理的・道徳的な――動機づけが必要です。このようにヴェーバーの方法は、社会的行為の内面的動機づけに注目するものであり、そのために行為の理論と呼ばれています。また行為を動機づけている文化的意味への共感と理解を中心に組み立てられていることから、理解社会学と呼ばれることもあります。しかし、だからといって、ヴェーバーは外面的な客観法則を無視したわけではありません。むしろ問題の中心におかれていたのは、行為の内面的動機づけと外面的な客観法則との間の、複雑で時には逆説的でもある関連を解明すること、これでした。大塚久雄教授がヴェーバーの方法を「複眼的」と呼んだのは、そのためです。(『社会科学の方法』1966年)16p
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 「人間の行為を直接的に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機(ターンテーブルのルビ)として軌道を決定し、その軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。」18p

そう、このあたりの連関の話も欲しいなと思ったのだった。


で、読書メモに入ろう。

高橋源一郎さんは「弱さの研究」の出発点として以下のようなことを書いている。
重度の病気のこどもを抱えるおかあさんが、ほとんどみんな元気だった、「どうしてあんなに朗らかなんだろう」と思い、何人かのお母さんと話をするようになった、それが出発点だったと。18p
お母さんたちをステレオタイプにはめて、苦しめてしまう危険もあるかなぁと思いつつ、しかし、そういうこともあるかなと思う。
こんなお母さんの言葉が紹介されている。
「明るくしてなくちゃやってられない、ということもあると思います。それから、自分の子どもといっしょにいて、子どもと何かをするってことがうれしい。子どもがいるから明るくなるんじゃないかしら」

ここで、紹介される子どもは重度の病気でいつ死ぬかもわからない子ども。そんな弱い人がその人によりそう人にパワーを与えるという話だ。19p

ぼくはまさにこれはラルシュの話であるなぁと思ったのだった。


サイドラインの話なんだけど、辻さんに「ブータンの難民問題はどうなんだ」と疑問をぶつける人がいるという。そんな風に疑問をぶつけることを「不幸探しをしてるんじゃないか」と辻さんは少し否定的。しかし、これはブータンを持ち上げる辻さんに、ぼくも感じた疑問でもある。確かにそこで幸せに暮らしているように見える、という話は美しいのだけれども、いままでそこに住んでいた人を排除して、そこで幸せに暮らしているとしたら、それはちょっと違うんじゃないかと思うのだけど、どうなんだろう。例えば、パレスチナ人を追い出した地で成立するキブツがどんなに美しい営みを行っていたとしても、それはどうか、って話なんじゃないかと思うのだけど・・・。
(念のために書いておくと、ブータンという国が誰かを追い出して成立したと思ってるわけじゃないです。でも、実際、ブータン難民キャンプがネパールにあるのも事実です。その内容は詳しくしらないのですが。
これを期にちょっとググったら◀視点・論点 「"幸せの国"ブータン もうひとつの顔」▶っていうのがでてきました。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/116198.html )


26-27pでは、父親や男に「弱さ」の研究が必要だと書かれている。ここはそうなのだろうなと思う。

74pで高橋さんは、この社会が弱さを抱えているといい、それは、シンプルに言えばと断りつつ、「強者に向けて設計されていること」だという。そして、そうではない社会の可能性を残しておきたい、と。


80pからはイギリスの「こどものホスピス」の紹介。死んでいく子どもという最弱の存在がまわりを変えるという話だ。川口さんが『逝かない身体―ALS的日常を生きる』で書いていたロックトインステイトのお母さんがいっしょにいたことの大切さともつながる話だと思う。https://tu-ta.seesaa.net/article/201009article_10.html 参照

辻さんはこの話を受けて、弱いところに向けて設計すると「世の中全体がこうなればいいというような素敵な空間が生まれる」という。90p これもラルシュと重なる部分だと思う。

そして、高橋さんがいっていることで面白かったのが、2年のフィールドワークで感じたこととして、「弱さ」を中心とした共同体は、はじめから明確な方法論があって、やっていたわけではなくて、やっているうちに「ここはなんか世間とは違う原理になっているよね」と気づくという話。95p

97pからは「アトリエ・エレマン・プレザン」の話。ダウン症の子どもが絵画教室に来たところから始まる話だで、それもなかなかおもしろい。で、そこから話は「ダウンズタウン・プロジェクト」に行くのだが、それが何か詳細はわからない。「ダウン症の子どもたちを中心にした町」とあるのだけど・・・。それでいいのかなぁという思いも残る。

そう、この本での障害についての理解や記述はちょっと平板でものたりないことも多い。
例えば「ダウン症の子どもは裏表がなくて・・・」103pとか書かれてるけど、そんなことないよね。

112pからは静岡県富士市の「でら~と」「らぽ~と」の話。重症心身障害者の施設。「らぽ~と」は大人の施設なのに重症心身障害児の施設と紹介されてるけど・・・。こういうことが気になっちゃうんだなぁ。で、その重症心身の紹介として、「身体と精神の両方に障害」ってあるんだけど、普通、重症心身といえば、身体障害と知的障害のWだよね。

さらに高橋さんはこういう弱者の共同体に共通しているのはスタッフの感受能力の高さだという(114p)。確かに言葉にできない人の言葉に耳を傾けるのが大事な仕事なんだけど、こんな風に一般化しちゃうと鼻白む部分がないわけじゃないなぁ。


120p~の部分で辻さんはデヴィッド・グレーバーの紹介をする。(アナキスト人類学の提唱者)。そこで、彼が書いてるアフリカのどこかの社会の話が興味深い。何かを借りたりしたとき、その「借り」と同等のものを返してはいけない。多めに返すか、少なめに返すか。そうすれば、多めに返されたら、さらにお返しがあり、少なめなら、もう1回続けて返す。そんな風にして、関係を終わらせないという。ふ~ん、と思った。

121pでは、助けられるだけではなくて、助ける関係性をどうつくるかという重要性も語られる。それを作るためのちょっとした無理もあるかもしれないが、そういうことも含めて大事なことかなぁと思った。


123pで紹介されている井戸端げんきの所長 加藤正裕さんのフェイスブックでの発言もよかった。
https://www.facebook.com/masahiro.kato.75 ここでは探せなかったけど) 
フェイスブックでは探せなかったけど、ここで抜粋をタイプして少し紹介。
「・・・老いて枯れること、カミさんの出産、両方に立ち会って感じたことは、両方ともとても似てるということ。逝きそうな方の手を握り、『そばにいるよ』と声をかけ、カミさんの手を握りながら、『ここにいるよ』と声をかけ……。最後の息を吐いた時と、産声を上げる時の空気。逝った方と産まれた赤子に最初にかけた言葉は『ありがとう』。・・・」

そして、2章の終わり近くで辻さんがヘレンケラーがいったという「アン・ラーン」という言葉を紹介し、それを鶴見俊輔さんが「学びほぐす」という訳語をつけたことを紹介する。それは知識を頭にとどめるのではなく、「身体知」へ変換していくことじゃないかなと思う、という。高橋さんはそれに応えて、それは学び直しで、「いま、やっていることはまさに学び直しで、それまで知として学んできたことを、現場に行ったり、当事者の話を聞いたりして身体を通して学びなおしているのだという。そして、その少し後では、知の答えはひとつしかないが、「身体知」が準備してくれる答えはいくつもある、として、「でら~と」「らぽ~と」「エレマン・プレザン」イギリスの子どもホスピスの訪問を経て、やっぱり答えは身体から出てくると実感した。知から出る言葉は汎用性があるので、誰に向かっても「こうしなさい」と言えるが、それとは確実に違う、という。

さらに続けて、こんな風に書いている。

生きるってこと自体に汎用性がないので、
答えは一人ひとり違う。「人間はこうあるべきだ」っていうのが知の回答だとしたら、「私はこう生きています」というのは、身体知的な回答になる。
と。154-156p


ただ、ちょっと留意したいのが、この本で得たぼくの知識は「身体知」ではないということだ。なんとなく身体知を得られたような気になっちゃうけど、・・・。そこを誤解しちゃいけない。


また、高橋さんは祝島の高齢化の現状は遠くない将来にこの国全体にやってくる、その運命を先行して、ちゃんと受け入れたモデルなのではないか(163p)、という話をしたあとに、こんな風にいう。
高齢化の中で10人に一人が認知症になるといわれている現実をみんな考えたくない、

つまり、やっぱりそれは負けだと思うから。でも、それを当然として受け止める。老いを抱きしめる。死を抱きしめる。乏しくなっていく資源をみんなで分け合うことで抱きしめるというやり方が、この国に一番必要なんじゃないかとぼくは思うんです。
・・・(長い省略)・・・
死とか老いを、大切なもの、当然のもの、そのことによって成長できるものと考えて抱きしめることができると、その共同体のあり方とか、我々自身のあり方も変わってくるんじゃないかなと思います。164p


179pからは「難民」「ディアスポラ」という存在様式の話になる。それは他者の話ではないのではないか。

そして、興味深かったのが、ナウシカにでてくる「腐海」は石牟礼さんの「苦海」にかけているんじゃないかという高橋さんの指摘。186p

辻さんは189pで「ホモ・エコノミクス=合理的経済的人格としての人間」、として以下のように説明し、否定する。
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人間とは理性的な能力を備え、何が損で何が得かを合理的に判断して、損なものは避けて、得なものをとる、これが人間の本質であるという、思えば、すごく単純でお粗末な人間論なんです。
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そして、この考え方がいまだにメインストリームとして人類を捉えている、という。
この人間の捉え方と、さっき紹介したヴェーバーの捉え方を比較するとどうだろう。このあたりは辻さんに聞いてみたい部分でもある。

また、同様に192pでは「楽しいからわかちあう」ということを例に、合理的な損得勘定で動くという主流の経済学の人間行動理解がうすっぺらいと批判している。しかし、この批判、対談という限られた場でわかりやすさを求めているからだと思うが、ちょっと一面的じゃないかとも思う。「わかちあう」ことが損得勘定と無関係だとも思えない。「わかちあう」ということと損得勘定についてはヴェーバーの転轍機の話から発展させて、もっと深く考えることが可能だと思う。この前後に出てくる「贈与」についても、同じことが言えるはず。

197pで高橋さんは弱さの研究をやっていて感じたこととして、以下のようにいう。
「弱さを軸にして共同体を作る」ことでなにがわかってくるかというと、「贈与の記憶が甦ってくる」ということなんです。

つまり、ホモ・エコノミクスが閉じた環境の中で贈与を受けずにすべて「交換」して生きる、なんていうのは架空のものでしかなく、そんな風に思わされることで贈与を受けていることを忘れさせられている、そして、「弱さの共同体の特色はそれぞれがみんな贈与を受けていることです」。

で、これを受けて、辻さんは以下のようにいう。
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そういう意味で、「おかげさま」とか「ありがたさ」といった感覚にこそ人間の本質があり、またそれが弱さの共同体の中心にもあるんでしょう。
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ここに「人間の本質」とかを求めちゃうのは危険だと思う。そういう感覚もあり、また、人を平気で蹴落とすこともある、人間って、そんな両面を持ってるんじゃないかなぁ。

そう、そのあたりが辻さんへの違和感の中心なのかもしれないと、いま思った。

だけど、彼が最後に語る「強さを上に、弱さを下にした固定的なヒエラルキーでオーガナイズされている」この社会を変えなくちゃいけないっていうのは、そのとおりだ。この二元論をどう超えるか、この二項対立を溶かし、無効化することが、この社会を、よりよい場所にしていくのに役立つ、というのも、また、そのとおりだと思う。

そして、結語では、「まず内なる二元論やヒエラルキーからいかに自らを解き放つか、です」っていって、この本は閉じられるんだけど、そこもちょっと物足りないなぁ。確かに内なるものを解き放つことは大事だとは思う。だけど、それはうちに向かうだけでは実現できないはず。身体性を伴う外に向けた行動を欠いては、それが実現できないっていう話がこの本にはたくさんあったはず。


2019年4月追記
Tさんとは直接会って、話したこともあるし、まじめで素敵な人だと思っています。
だからこそ、自分の学生時代の暴力との向き合い方、そこに弱さはなかったのか、情報開示して、何が人をそんな風にさせてしまうのか、川口さんの死に対して、どんな風に感じたのか、を正面から語って欲しいと思っています。
「弱さの思想」はそういう自分の弱さから逃げるのではなく、自分の弱さを引き受けるところから始まるのではないでしょうか?

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