『経済学は人びとを幸福にできるか』宇沢弘文著 読書メモ(2020年8月及び21年7月追記)
この本は2013年12月の初版だが、底本は2003年の初版。そこにその後の講演録を追加したもの。
池上彰さんの「新装版によせて」のみ2013年。
読み返してみて、おもしろいと思ったのが
15章 福祉は制度化できるか
いまを生きていると、福祉は制度を抜きにあり得ないと思うのだが、そこをあえて問う。その中身についてはあとで書こう。
掲載されている宇沢さんの文章は初出の日付があるものとないものがあるが新しいもので2010年、15章は1978年の文章。それでもそんなに古さを感じさせないところがすごい。加筆してるのかな。
初出一覧とかあれば、便利なのにと思った。
まずは池上さんの紹介から
池上さんは宇沢さんの研究や政策提言や成田の円卓会議などの活動の概略を紹介した後に、彼が「到達した理論が「社会的共通資本」という概念です」と書き、以下のように説明する。
社会的共通資本は一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能とするような社会的装置を意味する
これは「社会的共通資本」という2000年に出た岩波新書からの引用。
それを
1、自然環境2、インフラと呼ばれる道路・交通機関、上下水道、電気などの社会基盤3、制度資本(教育・医療・司法・金融資本など)
に、整理している。
この社会的共通資本がうまく機能するためにどうしたらいいか、これが宇沢氏の問題意識であり、研究テーマだと池上さん書く。ⅩⅣ
その例として、以下があげられる。
・農業にコモンズを
農業を資本主義的な産業として捉えて、効率性のみを追うという政策からの転換
・曲がりくねった街路を
自動車中心のまっすぐに延びた広い道路の否定。
歩くことを前提に都市は作られなければならない
・医学的に最適な医療ができる基盤を
「医療を経済に合わせるのではなく、経済を医療に合わせるべき」
「社会的共通資本」は読まなくちゃいけないかなぁ。
(追記 2020年にメモ書いている https://tu-ta.seesaa.net/article/201406article_1.html )
冒頭で宇沢さんはジョン・ラスキンの有名な言葉として
There is no wealth, but life.
を紹介する。宇沢さんは若い頃お寺で修行した人間として、これを「富を求めるのは道を開くためである」と訳して経済学を学ぶときの基本姿勢にした(米国で教えるようになってから忘れてしまっていたが)と書く。しかし、これって、単純に「富なんかない。生命(いのち)があるだけ」ってことじゃないかと思う。あるいはその頭に「大切なのはね」と付け足すか、そんな感じじゃないかなぁと思うんだけど、米国でスティグリッツの先生だった人に英語のことをいうのはどうかって気もする(笑)。
2021年7月追記
『いのちがないところに富なんて、あり得ない』
今日はこんな風に訳すのがいいんじゃないかと思ったのだけど、よく考えたら、ジョン・ラスキンって読んだことがない。もとの本も読まないで勝手なことを書いてる。1章では冒頭で、ネオリベラリズムの解説として、デヴィッド・ハーヴェイの「新自由主義(渡辺治監訳)」を絶賛している。
3章では叙勲のときに、昭和天皇と会って、彼を敬愛しているような記述。宇沢さん、経済に関しては天才的なんだろうが、政治や権力や歴史、責任というテーマには弱いのかと感じた。72p
また、この章の後半ではローマカトリックの歴史的文書「ノーレル・ノヴァルム」(回勅)の作成に関わった経緯が書かれている。このあたりの記載に無邪気さを感じるのはぼくだけ?ちなみに100年前の、この文書の基本的な考え方は「資本主義の弊害と社会主義の幻想」。100年後のこの文書の主題は言葉を入れ替えて、「社会主義の弊害と資本主義の幻想」だと、教皇への返事に躊躇なく書いたという。
そこで21世紀への展望として、宇沢さんは「制度主義」を提唱する。
(人類が直面する課題)、それは資本主義とか社会主義という、経済学のこれまでの考え方では決して解決できない。地球環境、医療、教育を中心とする社会的共通資本の問題をもっと大切に考えて、一人ひとりの人間が人間的尊厳を守り、魂の自立をはかり、市民的自由を最大限に発揮できるような安定的な社会・・・ 77p
これだけじゃよくわからない制度主義。これもどこかに書いてあるのか(16章でもっと詳しく出てきたので、そっちのメモ参照のこと)。この後半部分には「安定的な社会」を形容するものとして、個の問題しか書いてないのだけど、「一人ひとりの人間が人間的尊厳を守り、魂の自立をはかり、市民的自由を最大限に発揮できるような安定的な社会」におけるコミュニティのありよう、人と人とのつながり、ローカルなガヴァナンス、その大きさとか、どんな風に考えられてるのだろう。
8章では、宇沢さんはケインズを「20世紀が生んだもっとも偉大な経済学者である」としたうえで、ケインズの基本的な主張を以下のように紹介する。
「一般理論」の最終章から
現在資本主義制度のもとにおける資本配分は必ずしも効率的ではなく、またそのときの所得配分は公正なものではない。経済循環のメカニズムもまた安定的ではない。現代資本主義が安定的に調和のとれた形で運営されるために、政府がさまざまな形で経済の分野に関与しなければならない。
これについて、宇沢さんは以下のように説明する。
ケインズが一生をかけて追究していったのは、理性的な財政政策と合理的な金融制度に基づいて、完全雇用と所得配分の平等化を実現することが可能であるという、すぐれて理性的な立場であった。この、理性主義的な考え方がたんなる幻想に終わるようなものではなく、経済的、社会的、財政的制度の進化の法則に適合するものであって、網の目のように張りめぐらされた既得権益の構造のなかに埋没されるものであってはならないというのがケインズの信条でもあった。123-124p
この宇沢さんの表現、微妙だと思う。
彼はケインズのこの信条をリスペクトしてはいるが、やはりそれだけでは不十分な面があると考えているのではないかと、読めてしまう。しかし、そのあたりのことはここでは明確には書かれていない(ように感じる)。あとで、気がついたのだが、天皇と会って話した時に「ケインズの考え方はおかしい」と言ったと書かれている(73p)。126-127pにかけてはケインズの植民地主義への無理解や人間としての問題に触れている。
139pには数学から経済学に転じたと結論だけ記載してあるのだが、その経過などはここには記載されていない。とはいうものの、宇沢さんは経済学に転じた後も、「好きになる数学入門」(全6巻)とかを出したりしている。145p
ただ、彼が学問へのモチベーションなどを記載している箇所から容易に想像はできる。とはいうものの、それは必ずしも経済学でなくても可能だったはずで、なぜ経済学だったのかはわからないが、ヒントとしては「当時、マルクス主義の経済学に夢中になっていた」とあるので、だから経済学だったのかと思ったのだが、その予想は外れてはいなかったが、もっと面白い話だった。
これを書いた後、超読書家の反T連のAさんとロールズで有名な某大学教員と飲んだときに聞いたのだが、宇沢さんが経済学を勉強したのは日本共産党の入党試験を受けるためだったとか、何かの本に自分で書いているらしい。数学者からの転換では、やはりマル経より近代経済学が近しかったということだとか。
あと、そのとき聞いた話でおもしろかったのが、彼のゼミでは自家用車がが禁止で入ゼミで免許をとりあげられるという話。単なる伝説なのかもしれないけど。
第10章「経済学の新しい地平を拓くのは学生だ」の後半では宇沢さんが教科書執筆にかかわったときの話。経済学がいま起きている現象を十分に説得力を持って説明できないのに教科書は書けない、という。151p
そして
経済学の学会で共通した、基礎となるようなパラダイムがまだ構築されていなくて、いま、若い世代の経済学者がその形成を試みている、と1982年の段階で書いている。152p
いまでも、その努力が続いているのかどうか知らないが、結果は出ていないにでは??
宇沢さんはリベラリズムの思想にもとづく学校教育の考え方として、以下のように書く
基礎教育にかかわる諸々の人間的能力、物理的施設、制度的諸条件は社会的共通資本としての特質をもっていて、学校をはじめとして基礎教育を提供する組織、制度は決して市場的基準あるいは利潤的動機によって左右されてはならない 158p
学校法人だって、多くは利潤的動機に走ってるように思うんだけど、どうなのだろう。公立学校にも利潤動機はビルトインされつつあるみたいだし。しかし、他方で税金には限りがあって、難しい問題もないわけじゃないと思う。
また、160p~の部分では陽の目を見ることがなかった幻の「夢の教科書」づくりの話が記載されていて、興味深い。これ、一般書として出してみたらおもしろいんじゃないかなぁ。
あと、気になったのが
「第12章 大学で「学び」を心ゆくまで楽しむ」
のなかの経済学の基本的知識の話、以下の様な例が出されてる。
・経済学の基本概念のオペレーショナルな理解
・現実の経済現象を経済学的に考察し、分析する能力と習慣
例えば
・資本の限界効率と投資の限界効率の概念的差異
・そのマクロ的なインプリケーションなどについての正確な理解
・貨幣供給のメカニズム
・外国為替制度に関するファクテュル(factual)な知識と理論的理解
172-173p
ぼくも知らないことばっかりだ。
そもそも単語の意味が・・・わからん。
Operational
1,使用[操作・運転・運行]可能な
・The new equipment should be fully operational by 2003.
: 新しい機器は2003年までには完全に作動するはずである。
2,操作の、運用の、運営の
3,《軍事》戦略の、作戦の、軍事行動の
4,《軍事》作戦行動可能な、戦闘に即応できる
インプリケーション
英語の綴りは「implication」。「含意」「含んでいる意味」といった意味。カタカナ語として「~のインプリケーション」などと使われる場合は、「結果として生じる影響」「結果として意味すること」などといった意味で使われる。
factual
【形】
1,事実の[に関する・に基づく・上の]、実際の
2,事実主義の
2021年追記
「限界効率」っていうのもわかっていない。検索して、記事を読んでも、よくわからない(涙)
13章は研究費でビールを飲んでよかった時代の話。うらやましい。
ただ、それが私費ならいいけど、税金なら納税者は納得しないだろうな。
14章はケンブリッジのカレッジの制度。非常にいい制度なのだけど、ファンドは植民地で巻き上げたお金だったとのこと。
15章 福祉は制度化できるか
まず、この「福祉は制度化できるか」という問題提起がぼくには新鮮だった。これが書かれた1978年の段階では曲がりなりにも福祉の制度はあったはずだ。そこに「制度化できるか」という問いを置く。後半でイリッチの話になるので、イリッチの問題意識に即したタイトルなんだろうけど。
この章の冒頭で宇沢さんが書いている以下のようなことは、21世紀に入って急激に進行したのだと思う。以下、要約
現代資本主義においても、さまざまな基本的権利を満たすために基本的なサービスの供給に政府が責任をもつ。しかし、この市民的権利の充足が利潤動機にもとづいて行動する経済主体を媒介になされるとき、その内容が市場の基準によって「大きく歪められ」「市民的権利の充足から偏倚した者になり、投下される希少資源の社会的浪費は不可欠なものとなり、その大きさも年々加速度的に上昇する傾向がみられる」。198p
冒頭で、この問題の立て方は面白いと書いたのだけれども、中身については、なかなか理解しにくい。福祉予算の拡大に関して、ここに書いてあるような理由がほんとうにあてはまるだろうか。
(2020年追記
いま読み返すと、なんでこんなコメントをいれてしまったのだと思う。これは明らかに福祉を株式会社に委託することへの危惧ではないか。)
それにしても、制度に拠らない「福祉」というのが意味不明だ。
ここでは教育を例に説明がなされているのだが教育を福祉に含めるというのも、いまではかなり特殊な括り方じゃないかと思う。
ただ、ここまでの話だと、「制度化できるか」というよりも「現状の制度の問題点の指摘」に終わっていて、制度そのものへの批判にはなっていない。
福祉予算として増えてるのは、老人と障害者、そして貧困の分野。で、確かに悪しきA型に見られるように、利潤動機にもとづいて行動する経済主体が福祉の世界にも入ってきていて、そのような意味で予算が膨らんでいるという面もないわけではないし、それは困った話ではある。あるいは貧困ビジネスとか、利益のための大型老人介護施設などもあり、それらも福祉予算を膨らませているというのは一面の事実ではあるのだけれども、福祉予算が増えている原因はほかにあるはず。
また、地方や中央の政府は予算を圧縮するために、株式会社などに委託している。それが結果として、予算をふくらませている面もあると思うが。
そして、利潤動機にもとづいて行動しないお役所以外の主体(文字通りのNPO)も35年前と比べると大量に増えていて、それは必ずしも悪いことばかりじゃない。もちろん、お役所が本来やるべきことをさぼってることを安上がりに補填しちゃってる面もあるんだけど。
ともかく現状で需要が増えるのは宇沢さんが書いてるように、利潤で動く団体が参入したからというのは単純化しすぎだと思う。
というわけで、「福祉は制度化できるか」という設問は興味深いのだが、この文章の前半はあまり面白くない。
この章の後半はイリッチの話だ。
この宇沢さんの文章が1978年のものということは玉野井さんたちが岩波でシャドウ・ワークを訳す前。(今見たら、ここで紹介されている『医の天罰―健康の収用』は1979年に『脱病院化社会―医療の限界』として出版。誰かが翻訳に問題ありって書いてたような、宇沢さんだったか)
宇沢さんはこの文章をこんな風にまとめている。
イリッチは、人々の基本的欲求が社会的な制度のなかに組み込まれていったとき、必然的に環境汚染、社会の分断化、心理的不能化をもたらすという現象を、教育、交通、医療についてみたのであるが、このイリッチ的な現象はたんにこの3つの分野だけでなく、われわれの生活のあらゆる面にわたってみられ、社会的不安定性を加速度的に高めている。しかし、産業社会において生産性、効率性に代わって、どのような社会的基準が考えられるであろうか。イリッチは、「共同のくつろぎ」(convivialite)という概念を提示する。個人の価値観の多様性と市民の基本的権利との相克を、共同体の形成理論を通じて解決しようというイリッチの試みは示唆に富むものであるが、現実の産業社会のなかにどのように組み込んでゆけるのかという点において可能性は存在するのであろうか。こと日本にかんするかぎり、現在のディレンマから逃れる緒を見出すことは不可能に近いようである。(朝日ジャーナル1978年6月7日号)205-206p
そう、「現実の産業社会のなかにどのように組み込んでゆけるのか」が課題。
先日読んだ「弱さの思想」とかもそうだし、https://tu-ta.seesaa.net/article/201404article_1.html
他にも、生産性や効率性に代わる社会的基準を提唱する思想は多い。その思想には共感する。
それらの思想を「現実の産業社会のなかにどのように組み込んでゆけるのか」というのが課題なのだと思う。産業社会という現実はなかなか揺らぎそうにない。
生産性、効率性を追い求めた結果が311だったという言い方がある。
それはともかく、現在のひどい状況の大きな原因として、生産性や効率性ばかりを追い求めたことがあげられるはずだ。その結果、都市にのみ富が集中し、迷惑施設を金の力で無理やりに田舎に押し付け、農業を切り捨ててきた。
それは変えなければならない、問題は、この現実の産業社会のなかで、「生産性や効率性に代わる社会的基準」を「どのように組み込んでゆけるのか」。辻信一さんは先日、変わらざるを得ない・変わっていく現実と、変えようとする努力を分けて考えなければならない、と言っていた。
「これ」という単一の答えを探しても無駄なのだろう。あれやこれやの現実を変えたいと願う人のさまざまな努力を積み上げていく中でしか、見えてこないものがあるはず。
なんらかのオルタナティヴに向けて、リニアに進むことができるような回答なんて、存在しないのだろう。エラー&トライアルを重ねて、とりあえずは斬新的な変化を求めていくしか方法はないのかもしれない。そんな中で気づいたら転轍機が動いていたということになるのか、それとも、転轍機は動かずに、地球上に住むものの格差が拡大し続け、資源が枯渇し、より野蛮な方向に向かうのか、どちらの方向が選ばれるかわからない。ただ、前者に可能性があると信じて、動きつつけるしかないのだろう。
また、ここのコンヴィヴィアリテの訳「共同のくつろぎ」は疑問という指摘もあった。確かにぼくの語感とも違う。
くつろぐっていうよりも、もっとうきうきするような語感をもっているのだが、自信はない。
で、この章のタイトルの「福祉は制度化できるか」という設問と、この文章の先に引用した結語はちょっと違うんじゃないかと考えざるをえないのだけれども、それは「福祉とは何か」という話かもしれない。そう、福祉ってなんだろう。その言葉を使わないで表現したほうが、問題は明確になるようにも思う。
教育も含めて、福祉を「ウェル・ビーイング」というふうに考えれば、この設問は成立するのかもしれない。そうすると、教育も福祉に含まれるといえるかもしれない。「ウェルフェア」というふうにしか考えられないから、この設問の意図するところが見えにくくなるのだろうか・・・。
16章社会的共通資本としての環境
この章には初出の記載がなく、参考として岩波新書の「社会的共通資本」があげられている。
書き下ろしなのか、それともそこからの引用なのか不明。
この章の冒頭で宇沢さんは「ゆたかな社会」を定義する。
ゆたかな社会とは・すべての人々が、その先天的、後天的資源と能力を十分に生かし、・それぞれのもっている夢とアスピレーションが最大限実現できるような仕事にたずさわり・私的、社会的貢献にふさわしい所得を得て・幸福で、安定的な家庭を営み、・できるだけ多様な社会的接触を持ち・文化的水準の高い一生を送ることがるような社会
と、こんな風に定義し、「このような社会は、次の基本的条件を満たしてなければならない」として5点を提示している。
1、美しいゆたかな自然環境の安定的持続的維持2、快適で清潔な生活を営むことのできる住居と生活的文化的環境3、すべての子どもが、それぞれのもってる多様な資質と能力を発展させ、調和のとれた社会的人間として成長しうる学校教育制度4、疾病・傷害に、そのときどきの最高水準の医療サービスが受診可能であること5、さまざまな稀少資源が、以上の目的を達成するために効率的かつ公平に配分されるような経済的・社会的制度の整備
いくつか違和感はある。そもそも、「ゆたかさ」を求めるのはなぜか。なぜ形容詞が「ゆたかな」なのか。ここにある「ゆたかな社会」の説明を読むと、必ずしも「ゆたかな」という形容詞を使わなくてもいいように思える。
また、最高水準の医療制度以上に求められているのは、できるだけ医療にかからなくてもいいような環境なのではないか。
ちなみにアスピレーションは
[aspiration]
[1]野心・ 向上心・熱望・大望
「2]熱望[野心]の的.
[3]/h/音;音声帯気(音)
ゆたかな社会の次の節は
「スミス、ミル、ヴェブレン」
ここでアダム・スミスの『国富論』の源泉は『道徳感情論』にあるという。
それと興味深かったのが、国富論の「国」はNationであって、Stateではない、そのふたつは、ときとして対立的な概念であるという指摘。これを敷衍して考えると、Nation Stateって、かなり不自然なものってことになるのか。
ともかく、スミスが国富論を書いた背景には「共感という人間的な感情を自由に表現することができるような社会が新しい市民社会の基本原理でなければならず、そのために経済的な面である程度ゆたかでなければならないって話らしい。212p
そのスミスの国富論に始まる古典派経済学の本質を極めて明快に解き明かしたのが、ミルの『経済学原理』(1848年)だと宇沢さんは書く。そして、その結論的な章の一つが「定常状態(Stationary State)」だと。古典派経済学って、もう限りない拡大を前提にしてると思っていたのだが、理解が間違ってたみたいだ。
で、3人目のヴェブレンが「制度主義」の提唱者だという。ここで、やっともう少し詳しく制度主義が説明される。
それは資本主義と社会主義を超え、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できるような経済体制を実現しようとするもので、社会的共通資本は、この制度主義の考え方を具体的なかたちで表現したものだ、
という。
そして、この直後に社会的共通資本の考え方が少し詳しく説明されている。
社会的共通資本は、▲一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境と社会的装置を意味する。▲一人ひとりの人間的尊厳を守り、魂の自立を支え、市民の基本的権利を最大限に維持するために、不可欠な役割をはたすものである。▲たとえ、私有ないしは私的管理が認められているような稀少資源から構成されていても、社会全体にとって共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理・運営される。▲このような意味で純粋な意味における私的な資本ないしは稀少資源と対置されるが、その具体的構成は先験的あるいは論理的基準にしたがって決められるものではなく、あくまでも、それぞれの国ないし地域の自然的、歴史的、文化的、社会的、経済的、技術的諸要因に依存して、政治的なプロセスを経て決められる。▲いいかえれば、分権的市場経済制度が円滑に機能し、実質的所得配分が安定的となるような制度的諸条件でもある。▲決して、国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。▲その各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。▲3つの大きな範疇にわけて考えることができる(池上さんの序文のところで既出)
これだけでは、やはりわかりにくい「社会的共通資本」、やっぱり、いずれ読むしかないのだろうなぁ。
19章 人間的な都市を求めて ではル・コルビュジェの「輝ける都市」に代表される近代的都市の考え方が持つ問題点を鋭く指摘し、新しい人間的な都市のあり方を示した、としてジェーン・ジェイゴブスが紹介される。
彼の新しい都市を作るさいの4大原則
1、都市の街路は必ずせまくて、折れ曲がっていて、一つ一つのブロックが短くなければならない。(自動車に不便な道路)
2、古い建物ができるだけ多く残っているのが望ましい。
「新しいアイデアは古い建物から生まれるが、新しい建物から新しいアイデアは生まれない」という。(根拠は不明)
3、都市の多様性。各地区は2つ以上の働きを求められる。(ル・コルビュジェのゾーニングの考え方を真っ向から否定)
4、各地区の人口密度を高く。(それが住みやすく魅力的な町だということをあらわす、というのだが、スラムは人口密度が高いけど、どうなんだろう)
で、その代表例として、ブリュッセルの近郊にあるルーヴァン・ラ・ヌーヴが紹介される。
それに対比される貧しい町としての筑波研究学園都市。こっちはル・コルビュジェに忠実な形で設計されている)
確かに、この従来の逆をいく発想は興味深いのだが、地域をコミュニティにしていくために、必要なことがほかにもあるんじゃないかと思えるのだけれども、どうなのだろう。
20章 緑地という都市環境をどう創るか
この章は2001年に出版された石川幹子さんの『都市と緑地――新しい都市環境の創造に向けて』の紹介。この本で、都市における緑地を社会的共通資本として理解する新たな枠組みの重要性を、19世紀以降の都市形成のプロセスを通して明らかにすることを目的としている、とのこと。
この章の結語部分で、日本の都市のルネサンスがこの石川さんの活動を原動力にして、ひとつの大きな潮流になりつつある、というのだが、ちょっと疑問。
これを最終章に置いたのは、ここに宇沢さんが希望を見出してるからだろうか。
そして、この章でこの本は終わり、あとがきもない。刊行に当たってというような本人の文章も見当たらない。何か理由があるのか、つい考えてしまう。
ともあれ、制度主義・社会的共通資本という考え方に興味がわいた。そのうちに読んでみよう。
ちゃんと読み返してないけど、面倒になってきたので読書メモここまで
2021年7月追記
「制度に拠らない福祉」と「制度主義」の関係がまったく読み込めていないことに気がついた。
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