『エッチのまわりにあるもの―保健室の社会学』メモ

大阪で倉本さんとすぎむらさんの対談があるというので、行ってみたくなって、その前にじゃあということで、前から気になっていたこの本、買って読んだ。

去年の夏の話だ。


このメモ、書きかけのまま忘れていた。



すぎむらさんの『発達障害チェックシートできました』にはいろいろ思うところがあって、その読書メモ、7つも書いたので、目次も置いた。 



この本についての

解放出版社のサイトは


ここから、目次引用(改行位置変更)
もくじ

まえがき
はじまりは、おたより交換

●第1章 セクシュアルな悩み
おもなないよう/勝負は、5分!?/「おたより交換」の内容紹介/「おたより交換」が必要なわけ/くつがえされる「常識」/ひとり、ひとりとつきあうために/ことばのせつめい

●第2章 コンドームという「教養」
おもなないよう/コンドームはむずかしい!?/きらわれるコンドーム/「ゲリラ(!?)授業」にいってみる/「おどし」ではなく「知識」を/ことばのせつめい

●第3章 「ゲイ・スタディーズ」という視点
おもなないよう/同性愛に偏見はない?/はじまりは世間話/ラブレター/その場しのぎ/問題だらけの「同性愛」概念/「同性愛者」への対応/ケンタ自身の混乱/同性愛をめぐる混乱/ことばのせつめい

●第4章 ニューカマーの「女の子」たち
おもなないよう/ニューカマーがやってきた/女子生徒たちのすがた/K中学の生徒との対比/学校における「同化圧力」/男子生徒の見解/学校文化とジエンダー/女性が働くことの多義性/ことばのせつめい

●第5章 「文化」としてのセクシュアル・ハラスメント
おもなないよう/ある女子生徒へのしつこい「からかい」/つづく「セクハラ」被害/はじめての「セクハラ」の授業/つかのまだった沈静化/「セクハラ」と生活背景/一律ではないジェンダー観を前提に/ことばのせつめい

●第6章 DVと恋愛幻想
おもなないよう/きっかけは虐待のニュース/特殊な子たちではない/対応の現実/「中立」の立場できく、という意味/当事者の「気づき」の重要性/「プチ結婚」としての恋愛/恋愛が「規範」になるとき/ことばのせつめい

授業で考えるDV―「耳をふさぐ」生徒たち


●第7章 レイプからの回復
おもなないよう/レイプ被害の実態/被害の概要/ことなる反応/ふっきったフウカ/「セックス」にたいする「常識」/司法における「経験則」/「性規範」という問題/ことばのせつめい

事例でかんがえるレイプ―摂食障害と性的虐待

●第8章 男の子ゆえの「受難」
おもなないよう/男の子が「まわされた」?/男の子も性被害にあっている/「ホモ」ってどうやってなるの/男性に特有のセクシュアリティの混乱/専門家とよばれる人々の現状/女性は加害者にはならない?/わたしたちになにができるか/ことばのせつめい

●第9章 スクール・セクハラ―学校、養護教諭、当事者、それぞれがまもりたかったもの
おもなないよう/学校がゆるせない/学校はただしい/学校がまもろうとしたもの/被害生徒をまもるとは/それぞれの現実/みぢかにいる者として、はずせないこと/「保護」「過保護」の境界/ことばのせつめい

●第10章 「援助交際」とはなにか
おもなないよう/それって「援助交際」!?/それぞれのこたえ/それぞれの「さみしさ」/なぜ、「援助交際」なのか?/「女子高生」というブランド/教員たちの「援助交際」観/「援助交際」批判は、だれのためにあるのか/それぞれのその後//ことばのせつめい

●読書案内
●あとがき
●謝辞



前の「チェックシートつくりました」もいろいろインスパイアされたが、この本もすごくいろいろ考えさせられた。


この本の読み方
すぎむらと同じ気持ちのゆれを経験してみよう」と思われるなら、10章からお読みください。6p
と書かれているので、10章から読んでみた。


その10章は援助交際の話。その援助交際の中で、彼女たちが「エンパワー」されていることに気づき、すぎむらさんは戸惑う。既存の価値体系が揺らぐ。


ここで書かれている生徒たちの出会いの中で、それまでは既存の性教育の本に書かれた知識では対応していたのだけれども、自分で考えざるをえなくなったという。


そして、ここに書かれているのはすぎむらさんの実体験のように書かれているけれども、それだけでじゃなくて、聞いた話なども含めた「ある定時制高校の物語」とのこと。


この本、すべての章の冒頭にLLページ(むずかしい字も 言葉も つかわない「LL(エルエル)ページ」)がついているのだが、この章のLLページの最後のほうで、こんな風に書かれている。(ちなみにLLはスウェーデン語、以下 http://www.dinf.ne.jp/doc/daisy/about/activity/action_090216.html にちょっとした説明がある)


 「いい」とか「わるい」という みかたではなく、「どういうことなのだろう」「なぜおこるのだろう」といった みかたで、はなしあうって だいじだと おもうのです。217p

いま、タイプしていて、気がついたのだけど、わかりやすくするために、途中で半角スペースがいくつか使われている。


この章ですぎむらさんは、自分の道徳観で生徒に対峙するのではなく、自分の価値観さえもゆらいでしまうような根本的な議論をすべきだと書き、そのためには「援助交際」がわるいものだということを前提にした議論も、それは善か悪かというような議論も不要だと言い切る。そして、必要なのは
なぜ「援助交際」という現象が生まれたのか、個人、社会、制度・・・・・・ さまざまな観点からじっくりかんがえていくことだとおもう。233p
と書く。

ここには少し、違和感が残った。前提として書かれている既成観念にとらわれた議論は不要だという話はよくわかるのだが、じっくり考えることが必要なのは社会や制度の話じゃないはず。


まず、一番大切なのは、その「援助交際」をしている女の子自身のものがたりに寄り添うことなんじゃないかなぁ。ま、あたりまえすぎて、書かれてないのかもしれないけど。


実際にすぎむらさんはそんな風にしてきたんだと思う。すべてはそこから始まり、社会とか制度の話は、その彼女の話に寄り添う中で、きっと見えてくるだろうし、もし、それが必要なら、それはそのときの話だろう。強調すべきは そこなんじゃないかな? すぎむらさんは繰り返しになりすぎると感じたのかもしれないけれども、やはりそれを強調すべきだったんじゃないかと思う。


と読んだ直後には感じて書いたのだが、やはり基本は寄り添いつつも「さまざまな観点からじっくりかんがえていくこと」って、必要なことであるのは間違いない。


上記は「援助交際」批判は誰のためにあるのか

という節の結語なんだけど、一人ひとりの物語によりそえさえすれば、「援助交際」という現象がなぜ生まれたかとか、そんなに大事だとは思えない。ま、どこかの研究者にそれはまかせてもいいんじゃないかと思える。


と、昔書いたメモにはあるのだけど、やはり、ここも社会モデルで考えることが必要なのだろうと思い直している。


いま、気がついたのだけど、すぎむらさんにこの本にサインしてもらった。

そこにはこんな風に書いてある。

鶴田さんへ

 これからも
まわりの人といっしょに
      笑って
     いっしょに
     なやんで
   やっていきたいと思ってます。
     決意表明^^

    すぎむらなおみ
2013.7.6


で、メモ続き。

『第4章 ニューカマーの「女の子」たち』


72-72pに二人の女の子たちのことから考えたというLLページ。

具体的なふたりの女の子の振る舞いから、ニューカマーの女の子たちが抱える現実を考える。


章の最後には「お嫁さんになりたい」というニューカマーの女の子のリアリティに触れる。母親が低賃金の工場でフルタイム働かざるを得ないという現実をみてきた女の子たち。定時制高校に通う彼女たちの就職状況も厳しい。そんななかで専業主婦になるということは、結婚を通して階級上昇するゆいいつの方法であり、彼女たちがそれを夢見るのは無理のない話かもしれない、とした上で以下のようにこの章を閉じる。
そして、彼女たちをそうした立場においこんでいるのは、わたしたちおとなであり、社会である。



各章の最後に「ことばのせつめい」のLLページがある(89p)。この章は「ジェンダー」。その用語説明が気になる。


「おもいきってかんたんにすると」として以下のようにかかれている。

からだ | セックス
きもち | セクシャリティ
みため | ジェンダー

最初のふたつはうなずけるのだが、ジェンダーが「みため」かなぁと思う。

ここはぼくだったら、「やくわり」だな。




●第5章 「文化」としてのセクシュアル・ハラスメント


5章は定時制高校で「セクハラ」に関する授業にいたる経過がまず、記載される。そして、授業が紹介される。そして、その後の反応やすぎむらさんからのフォロー。さまざま複雑な反応がある。そこですぎむらさんは「階層」研究でよく用いられる親の学歴や本人の現状に焦点をあてる方法で、生徒たちの背景を明らかにすることを試みる。それが5節だ。


5節「セクハラ」と生活背景

ここで、すぎむらさんは定時性高校生を3つの群にわける。
X:保護者がブルーカラーで、本人に「非行」歴。ブルーカラーへの就職希望
Y:保護者がブルーカラーで、本人に「非行」歴はないが、学力が低く、すこしでも学力をつけて職をえようとするもの。
Z:保護者がホワイトカラーで、本人に不登校経験があり、高校卒業資格をステップにホワイトカラーの仕事をめざすもの。


「セクシャル・ハラスメント」はあいさつだ主張する生徒たちはこのX群に含まれるという。逆に「自分がいやなことは、するのもされるのもいやだ」「このクラスでこういう話しあいは無理」という生徒はY群やX群に。


などと分析していき、この章の結語として(この節のタイトルは「一律ではないジェンダー観を前提に」)、以下のように書く
 わたしの授業がソノカにして「自己満足」と評された理由もいまや明瞭だ。わたしは人数は少ないとはいえ多様な生徒が教室にあつまっている定時制の現状をわすれ、一般的な「セクシュアル・ハラスメント」概念を提示することに終始してしまったのだ。

 わたしは、「セクハラ」という言葉がもつ重さは男女でちがうという事実を授業に反映できなかったことを悔いていた。しかし、それだけではなかった。男女だけでもなく、また生徒の「出身階層」――つまり生活背景――によっても、ジェンダー観には相当な開きがあることを念頭におくべきであった。彼らがみずからのジェンダー観に自覚的になることをうながし、相対化することなしに、一般論を展開しても、その言葉はとどかなかったのかもしれない。

 目の前の生徒を、社会的な存在としてみつめることの重要性を再認識したできごとであった。109p

それぞれの生徒にあわせた授業、かなり難しい話だけれども、必要なことだろうな、と思った。しかし、それらを念頭においた上でセクハラについて、どんな授業ができるのだろう。


ただ、ぼくにこれを応用しなければいけない機会はほとんどないと思うけど。



以下、セクハラのLLページでのことばの説明、部分のみ引用

 「性的いやがらせ」と せつめいされることが おおいですが・・・。もうすこし ふくざつです。

①がっこうや仕事場で
②性的なことを
③あいてがいやがっているのに むりやりして
④勉強や仕事の じゃまになるため、そのばを管理する人が、やめさせなければ いけないこと

(中略)

 もし あなたが、がっこうで「これって、いやだ!」と おもったら、セクハラかどうか わからなくても 大丈夫。だれかに そうだんしましょう。はじめに そうだんした人が、まじめに きいてくれなかった? ざんねんながら そういう人も います。つぎの人を さがしましょう。

(中略)

「いやだ」とおもうがわも、「いやだ」といわれたがわも、人と はなしあうってことが いちばん たいせつです。
110p~111p



●第6章 DVと恋愛幻想

冒頭近くで5つの事例が紹介される。

で、この本、脚注がけっこう興味深いのだが、この直後には以下のような脚注も
♪6 信田さよ子は『DVと虐待』の中で、日本のDVに特徴的なことは当事者性の不在にあると言っている。DV被害者は自分ではなく、夫をなんとかしたいとあらわれるため、そこを発見し、「あなたはDV被害者である」と名づけることが必要だとしている。これは、カウンセリングの場だから、妥当な提案であるのかもしれない。後述するが、日常的にDV被害者と接することのできる立場にあるならば、他者による「名づけ」は、有害なケースも多いと考えている。121p
当事者性の不在をどう超えるか、これも難しいなぁと思う。「名づけ」は、有害なケースについてはあとで触れる。


そして、すぎみらさんは被害者と加害者の中立的な立場で話を聞くということはありえない、という。

なぜなら、として、以下のように書く。
おおくの場合、被害者が加害者をせめるほど、「中立」であろうとする聞き手は、バランスをとろうとして加害者擁護にまわってしまう。これは2つの点で問題である。

として説明する。要約すると

1、なぐられた背景や恐怖は、その話題にした1回のできごとのみでは説明できないから。日常的に抱えている恐怖は、加害者のなにげない動作だけでわきあがる。こうした日常的な恐怖は他者へ説明しにくい。しかも、その加害者を愛していると思っていたらなおさら。被害の話も二転三転する。他者の話を、そもそも「中立」に聞くのは困難。
2、社会的なジェンダー規範の問題。女性の自己主張はきらわれがち。主導権は男が握るべきという考え方も根強い。こうした「一般常識」が加害者を優位に立たせる。信田さよ子を援用し、中立ではなく、被害者の側に立つことを主張する。(『DVと虐待』(2002年158-176p)


また、ここの脚注では♪7で小沢牧子さんの『「心の専門家」はいらない』のカウンセリング批判が紹介され、(この本についてはぼくもメモをふたつ書いてる https://tu-ta.seesaa.net/article/200805article_11.html )♪8では上野千鶴子さんが『フェミニストカウンセリング研究』(2002年1巻16頁)に掲載した文章が紹介されている。そこで
「ある秩序のもと(ここ、本では誤植あり)で問題を抱えた相談者をもとの秩序に再適応させるということは、周囲の秩序や現状を維持するための道具である」
と喝破しているとのこと。


とはいうものの、名づけるかどうかは議論の分かれるところで、おそらく本人が気づくことが大事なのだろうが、まず相談を受けた側がそこにDVが存在することに気づくことがすごく大事だと思う。


で、脚注で紹介されてる上野さんの指摘だが、障害者の就労支援とかにもあてはまりそうだ。




5節 当事者の「気づき」の重要性

では、それがDVと気づいていない被害者が、支援者がそれがDVだと名指すのではなく、本人が自ら気づくことの重要性を説く。

ここでの脚注
♪10 「たすけてあげたい」と被害者支援をする人は、ときに自分の目的の「正しさ」にまどわされ、自分の方針こそが「ただしい」と思ってしまうことがある。「たすけてあげたい」一心で、「それはDV」だとなざし、そこからぬけでる方法を示唆し、回復方法まで指示する。したがわなければ「だから、だめなのよ……」とため息をつく。こうした状況が植民地主義ににていると指摘した論文に、マツウラマムコ「『二次被害』は終わらない……『支援者』による被害者への暴力」(『女性学年報』26号2005年)がある。125p

よくある支援者批判ではあるが、支援者が陥りがちなことであり、DVに限らず、さまざまな「支援」にかかわる人間が自覚的でなければならない部分だろう。森田ゆりさんが書いてるみたいな形でのエンパワメントの視点が必要なんだろう。


で、いま はじめて気がついたんだけど、6章を補足するような形で4節分の、章のようなインターバルがある。それが

【授業で考えるDV―「耳をふさぐ」生徒たち】

ここには冒頭にLLページもついている、133pから

テーマは以下
DVの授業をしてみました

自分のこととして
暴力をかんがえるのは
むずかしい

そして、こんな風に書かれている。

授業は「ちょっともりあがりました。でも……かんじんのDVについては、あまりふかまったとはおもえません・・・(さまざまな)暴力のみぢかで、生活している子たち・・・暴力を問題を、じぶんのものとしてかんがえるのは、なまなましすぎて、むずかしかったのかもしれません」

このLLページから、本文を読んで思うんだけど、DVの授業って、ほんとに難しそうだ。

ぼくの身近な人と、その友人たちもチャレンジするみたいだけど。




●第7章 レイプからの回復

この章ではまず、ふたりの女の子のレイプへの対照的な反応が紹介される。

そのことで「汚された」「汚れている」と気に病んだ女の子は「うじうじ悩んでいる自分」がいやで、ピンクサロンで働き、そこではじめて自己コントロール感をとりもどしたという。そして、すぎむらさんはそこから、自らの内面化されたセックスへの価値観に気づく。

1、セックスは愛している人とすべき

2、セックスと人格は直結している

そして、そんな考え方を持っていたから、レイプされた女の子に「あなたは汚れていない」といっても届かなかったのではないか、と書く。

151-152p



そして、この章の結語部分ではセックスとは、人にとってそれほど大事件でありうるのだろうかと自問し、こんな風にして、この章を閉じる。
「セックス」という意味をあるべき「規範」からとらえ、それのみを前面におしだしていくのではなく、価値判断をふくまない「セックス」のありかたをかんがえる時期にきているのではないだろうか。
ここで、すぎむらさんは【「セックス」という意味をあるべき「規範」からとらえ・・・】と書く。この【という意味を】という部分が意味深だと思う。【「セックス」をあるべき「規範」からとらえ】というなら、単純なのに、あえてそうは書いていない。

ほんとに、いろいろ考えるべきことがたくさんあるなぁと思う。やっぱりそういう意味でもこれは大事件だなぁ、ぼくには。


そして、この章のおまけとして、「レイプ」という「ことばの せつめい」がLLページになっていて、いわゆる「強姦神話」について、わかりやすいことばで、それが事実ではないことを説明している。



この7章にも補足するようなかたちで、

【事例でかんがえるレイプ―摂食障害と性的虐待】というLLページと6節分の章のような解説がある。

先日参加した「アディクション・フォーラム」を思い出した。

例年のごとく講師は斎藤学なのだが、ある意味、主役はSIAb. (Survivors and allies for education on Incest Abuse / シアブ、近親姦虐待トラウマからの回復と成長を語り・学び合うプロジェクト)の当事者の人たちだった。http://siab.jp/ そのとき、そこで上映されていた動画はこのサイトで見ることができる。聞いているほうがひりひりして痛くなるような話を当事者の人たちが顔を出して語っている。


女の子への性的虐待がそれなりにあることに理解のない臨床心理士の例もでている。


17歳の女子高生への性的虐待に対応してくれる組織はない実態も描かれている。そして、とりあえず自分でできたこととして「重荷の分担」という提案を行う。彼女が話してくれるまで待つことができたのは担任や管理職や彼女の中学時代の養護教員が自分が背負った重荷をわかちもってくれたからだと書く。


そして、守秘義務については「その生徒を大事におもうおとなみんなで共有してまもっていくことが大切だとおもう。ひとりで抱えてたら自分が倒れちゃう。それに、人と話すことによって距離もおけるしね。それは決して守秘義務違反にはあたらないとおもうのよ」という先輩養護教員の話を引用して、この部分を閉じる。



●第8章 男の子ゆえの「受難」

この章はタイトルどおりの話なのだが、性虐待の話はポルノによくある母親との関係ではない。最初に出てくるエピソードは男子生徒の男性による集団レイプの話。しかし、年上の女性から受ける性虐待もあるという。

そして、誰も相談に乗ってくれなかったという被害者の男子生徒の話も紹介される。すぎむらさん自身も高校生のころ、その手の話を聞いたとき「よかったじゃん」と言ったことがあると告白している。しかし、それは「よかった」どころの話ではなく、性虐待なのだと明確に書かれている。

そして、確かに現実には電話相談にはいたずらのものも多く、それを見極めるのは困難だという岩崎直子さんの話も注14で紹介される。ここで紹介されているサイト「If He Is Raped」は http://ifheisraped.web.fc2.com/ 

注6では2004年に築地書館からでている「男の子を性被害から守る本」(三輪妙子訳)も紹介され、当時この本を読んでいたら、別の対応ができたかもと書かれている。また、注8では森田ゆりさんの『子どもと暴力』1999年岩波書店)も紹介されている。



●第9章 スクール・セクハラ―学校、養護教諭、当事者、それぞれがまもりたかったもの


ここでは【5それぞれの現実】に注目した。性被害を受けた人へ周囲がこころがけるべき対処法はすでに存在していて、以下のふたつだとすぎむらさんは書く。

 ・あなたは悪くないと他者にいってもらうことの重要性(自罰感情の軽減のため)
 ・事件を「語る」必要性(一時的に不安定になっても、できごとを対象化するための不可欠な作業)

これらの「よりよい」とされている対処法については熟知しておきたいとした上で、すぎむらさんは「つねにその対応がただしいとはかぎらず、目の前にいる人にあわせる柔軟性をもたなければならない」とも書く。とりわけ、【事件を「語る」必要性】という部分について慎重な対応が必要なのかなぁとも思うけれども、慎重になりすぎることが隠蔽に加担することにもつながる場合もあり、ほんとにこのあたりの境界線は微妙で、本人と本当に真剣に親身になって向き合って決めることが必要なのだろうなぁと思った。


その一般的な対処法を紹介した上ですぎむらさんは、次の【6みぢかにいる者として、はずせないこと】として以下の5点をあげる。

1、被害にあった人が語る話を聞くこと。
 ふざけていたり、嘘が混じったり、支離滅裂だったりしても、だまって聞く必要がある、とすぎむらさんは書いている。
2、被害者をとびこえて行動しないこと。
 つい、警察への通報とか加害者の追及とか、やってあげたくなるのを抑制する必要性。本人をとびこえると本人に無力感が残る。
3、把握している状況を被害にあった人に説明する。
4、今後のための選択肢を示す
  選択することが難しい子どもに対しても、代わりに選択したことの意味を伝える
5、被害にあった人が決めた選択をみまもる
  人は「とりかえしのつく失敗」をする権利をもっているし、また「失敗」してよいとおもうと、書かれている。



7節は【「保護」「過保護」の境界】

ここですぎむらさんは学校として気をつけるべきは、じつは「生徒にはこうしよう」とあるべこ姿をさがすことではなく、自身へのいめしめともなる数少ない禁止事項を設定することではないか、として、以下の2点をあげる。

・生徒を無力な保護対象としてのみ認知し、生徒にかわって判断しようとしないこと

・自身の経験則にすべての生徒をあてはめないこと


これを受けて、この章の結語として、以下のように書かれている。
教員は、かんがえうる選択肢や予想しうる選択後の想定を紹介したのちに、「行為主体」としての生徒の決定をみとめ、「保護対象」として、生徒をみまもり、よりそっていくことが必要なのではないだろうか 211p

この部分も「障害者支援」と呼ばれる世界にもつながる話だが、障害者支援の場合、【「保護対象」として、生徒をみまもり】とか言っちゃうと、パターナリズムという批判を免れない場合が多いな。



これにつづいて、「ことばのせつめい」というコラム(LLページ)がおかれている。タイトルは以下
性にかんする はなしを
きくということ
~「支援したい!」とおもうひとへ~

これって、「ことばのせつめい」を超えてるなぁと思う。いろいろ大事なことが書かれている。以下で適当に抜き取ったり足したりして紹介
☆はなしを、しんじないという つみ
じょうだんめかしていたり、つぶやいてるだけみたいでも、ちゃんと聞くこと。

☆「きく」ということ
向き合うのじゃなくて、並んで聞くのがおすすめ。はなしにおかしなところがあっても、とりあえずさいごまできくこと。あとでアドバイスを求められたら、そのとき、「ここがよくわからなかった」と聞くのは大丈夫。(でも、被害にあったその人の非を指摘したりするんじゃなくて、つらい思いをしたその人の気持ちによりそうことが大事だとぼくは思うし、すぎむらさんもそんなことをいろんなところで書いている) 話を聞いたら、いっしょにないたりすることもあるかも。

☆はなしている人が きめる人
聞いてる人は決めないこと。警察にいくかどうか、病院にいくかどうかも。話している人がが自分で(気づいて)決めることができるようにすること。

☆そばに いよう
「なにもしてあげられない」と じぶんをせめて、その人との間に距離をおきたくなることもあるかも。どうか、そんなときは、そのきもちを 相手の人に つたえてください。被害にあったひとは不安です。何もしてあげることができなくても、そばに誰かがいてくれることがいちばんありがたいこともあります。一人じゃないって おもえるときに、人はつよくなれます。


で、最初に紹介した10章に戻る。

●第10章 「援助交際」とはなにか

ここで付箋がついてるのは以下。
「生徒の将来のため」をおもうならば、偽善的な道徳観(規範)で生徒に対峙するよりは、自分の価値観さえゆらいでしまうような根本的な議論を生徒とたたかわせていく必要があるだろう。

ここの「偽善的な」という形容詞はいらないんじゃないかと思った。偽善的じゃなくても自分が持っている既成の価値観とできるだけ自分を切り離して、生徒と話をすることが大事だってことをすぎむらさんも書いてる(このあとで引用)のだから、すぎむらさんの文脈でも、ここではこの形容詞はいらないと思った。で、この文章は以下のように続く。
そのためには「援助交際」を「わるいもの」とする前提から出発する教育も、「援助交際」の善悪を議論する場も不要だ。必要なのは、なぜ「援助交際」という現象がうまれたのか、個人・社会・制度…… さまざまな観点から、じっくりかんがえていくことだとおもう。233p


これに続く「援助交際と売春について」というLLページもまた興味深い。

適当に漢字に戻して要約して掲載
「働く場所は他にいくらでもある!」と怒ることができる人は、たまたまこれまでの生活に困らない人生を歩いてこられただけ。
世の中が「売春」に厳しくなっても減らない。厳しくしたら、「売春」してる人の立場が危なくなる。「売春」がよくないというのは簡単。「わたしは正しい」と満足できるかもしれない。でも、「売春」しなければならない人にとっては、何の助けにもならない。かえって、「わるい人」とレッテルを貼って二重に苦しめる。

ここまではその通りだと思う。こう書いた上で、
「売春」を減らすためには「売春」が安全にできる環境を整え、それにかかわる人が怖い思いをしなくてもすむようにすることだ
とすぎむらさんは書くのだけど、これはどうかと思う。そうではなくて、売春を選びたくないのに、選ばざるを得ない人がそれ以外の方法で生活ができる方法にアクセスできるような体制を作らなければ、それが減ることはないと思う。


で、巻末の読書案内も面白かった。



やっぱり、すぎむらさん好きだなぁ。



~~~~

以下は去年の夏の大阪でのイベントでのメモ



すぎむら*倉本

2013/07/06 13:12


支援する側の「教育的まなざし」の問題。


先輩支援者から後輩支援者へ

先輩被支援者から後輩被支援者への教育


すぎむら


もともと女子校にいて

1989年、DVとか性暴力とかいう言葉がなかった。

一度、バーンアウトして、やめて定時制高校へ

その後、大学院で博士号を


若いとき水泳教室

ダウン症の子はかわいいなぁと思いつつ、自分の子どもが自閉ならたいへんだろうなぁと思っていた。


で、産まれた子どもに自閉(アスペ)の診断。

うちの子に文科省のチェックシートを使わせたくなかった。

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