《パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む》のメモ2017年5月追記
Twitterを読書メモ替わりにして、トゥギャッターってまとめたものがあった(2010年12月末)ので( http://togetter.com/li/82998 )、そこから抽出
里見実《「被抑圧者の教育学」を読む》を読んでる。そこに最近、自分で全訳しなおしたという里見さんの訳が部分掲載されてる。たぶん、読みやすくなっている。でも、繰り返し部分しか掲載してないことの問題を自ら指摘している。別の人のポルトガル語からの訳の出版準備がされてるとのこと。
フレイレ、ここは「近代西洋的幸福感基準」的なところもありますね。ここはどんなことも人間は手放せないというのが主眼でしょうが。そして、彼は人間中心主義で、そのあたりはこの著者の里見さんが批判してる点でもあります。
(以下、2017年5月追記部分)
このくだりに関する自分のコメントが自分でも意味不明で困るのだが、ともかく、帝国主義の本国に住んで享受している快楽みたいなものは確かにあって、それは手放したくないという気持ちもよくわかる。もちろん、本国の中でも、その快楽に手が届かない人も増えている。そんななかで、どう社会変革を求めて多数派に呼びかけていくか、北と南の平等が実現したとき、手放さなければならないものは何かということを考えるのも、それなりに大切なテーマだと思う。(追記ここまで)
mackeeeeさんから質問
「人間として生きるとは、他者と世界とに関わる(アンガジェ)こと」(だったかな?)という定義は、どのように訳し直しているのでしょうか?
それへの答え
「人間であるということ、それは他者との、世界とのかかわりにおいて、生きるということだ」という文章が『自由の実践としての教育』の冒頭にあるって書いてあります。この本、『被抑圧者の…』に匹敵する重要な著作なのに価値が正当に評価されてないと里見さんは書いてます。それだけでなく、「思考の密度からいえば、こちらのほうがフレイレの主著といってよいのかもしれません」とまで書いています。もしかしたら、このフレーズ『被抑圧者の教育学』にも使われていて、この本にもあるのを読み飛ばしてるかも?ともあれこの本、フレイレ批判含んでいて、なかなか面白いです、ぼくには。 2800円+税、もとがとれそうです。ぼくは大田区の図書館の本を借りていて、買おうかどうか、迷ってますけど(笑)。
引用:
意識化とはひとことで言えば、間をおいてみずからの状況と向きあうこと、と言ってよいのでしょうが、その「間合い」をとる技法のひとつがコード表示なのです。現実は、絵や写真、あるいは一場の劇として切りとられることによって、異化されます
《「被抑圧者の教育学」を読む》では:70年~80年代のアフリカの民族独立運動では、フレイレの識字の方法が広く採用…ナミビアの南西アフリカ人民機構SWAPOが1986年に刊行した識字教育手引き書…は、その代表… として、この本を使ってフレイレの手法が具体的に説明されている
SWAPOの識字教科書から:気をつけないといけない。読み書きもさることながら、肝心なのは生活をよくすること。コードによっては、具体的な行動の手がかりになるものもあるし…情報を交換するためのものもある。グループが何か行動しようとしているときは読み書きの効率ばかりを急いではいけないね
引用:真にその名に値する教育とは、AがBのために、ではなく、また、AがBに対して、でもなく、AがBとともに、世界を仲立ちしておこなうものだ。
孫引き:「テーマ調査っていうものは、人びとがもっているものを人びとに返すことで、はじめて申し訳のたつものとなる。あれって、人びとを知る行為なんかじゃない。人びととともに、人びとの上にのしかかっている現実を知ることなんだよね」マリア・フェデイラ(180pから)
植民者が行ってきた「原住民」に対する「他者化」と「同化」…人類学者もまた繰り返す…危険性…。たんなる調査「方法」の精緻化では、この危険を回避することはできない…。被調査者自身が調査の主体にならないと、このアポリアは解決できない(189pから)
民衆と調査者がともに研究の主体になってテーマを追求した場合、調査の客観性がそこなわれる…と言う人もいる…。…調査結果は「純粋」なものにはなりえない、というわけだ。……こういう反対は、調査…についての浅はかな偏見を曝けだしたもの…この手の調査屋に…テーマはもっぱら純粋で客観的)で、当事者の人びとをすっとばした、何かモノのようなものとして存在するらしい。(191pから)
その「調査」はたんに地域の「客観的」な諸事実の調査に終わるものであってはならず、事実とのかかわりにおいて人びとがかたちづくっている表象や信念の調査こそが決定的に重要(201pから)
「普通の人びとが思考することを革命家たちが拒否してしまうとすれば、彼ら自身が考えることをさぼっているということ。革命家たちの思考は普通の人びとの思考なしにはありえない。人びとのために、ではない。人びととともに、なのだ」フレイレ
《フレイレの教育思想は「解放の神学」を特徴づけているダイナミックな希望への信仰から「左翼が陥る絶望とシニシズムへの強力な解毒剤をつくりだした」とジルーは評価》(232pから)
「希望とは私たちがいまかたちづくる出来事や体験としてあるのだというメッセージを、『被抑圧者の教育学』は、そしてラテンアメリカの民衆運動は、日本の私たちに伝えてくれているように思うのです」243pから
引用:民衆を「破壊的狂信」にかりたてる要因は、意識化ではない。反対だ。意識化は民衆が主体として歴史に介入することを可能にする。それはファナティズムを回避しつつ、自己肯定に向けての歩みのなかにみずからの足跡を刻むことなのだ。
教育社会学とは基本的に学校制度をとおして人間が選別されていく、その支配のメカニズムをとらえる学問 252pから
「文字なしで暮らしてきた人びとが文字を獲得していくときに、たんなる道具の獲得ということを超えた底深い変化がその人の中で起こるのですね。世界の見え方というか、世界と自分のかかわり方というか」と里見さんはいうのだが、文字なしで暮らす人が多数だった社会で文字がないことは問題なかったはず。文字がない時代の人と文字を持った時代の人間、何がどのように違うのだろう?
引用:人はラスコーの壁画以来、演劇的身振りとか絵画…、さまざまなコード表示をつかって、世界と向きあい、それを「意味あるもの」として再構成してきた…。そのようにして、人間が世界と向き合い、そこにみずからを再定位する過程を、フレイレは「意識化」と呼んで…
「意識化」という概念については、後年のフレイレは、ある種の自己批判をふまえながらかなり用心深くつかうようになり…。主観性の領域を特権化してはならないと考えてのことです(もちろん、主観性を軽視する「客観主義」対しては徹底的に否定的であり続けますが)
もともと文字というものは「帝国」の所産で、文化支配と一体のものでした。その文字文化を広い意味での場の文化のなかに囲いこんで、その性格を変えてしまうというのが、彼の識字戦略…。文字の文化をオーラルな文化や身体性のなかに送り返していくのです。256pから
岡本―はっとしたのは、被抑圧者のたたかいが、抑圧者をも解放する、人間化するたたかいなのだという指摘です。現在の日本社会での運動にとっても示唆に富んでいると思いました。257pから
ネコやイヌの場合はどこまでいっても完璧にネコやイヌ…ヒトの場合…人間になる可能性と非人間化する可能性の両方に向かって開かれ…。人間が人間になるのは容易なことではなく、生得の能力と信じられている思考力のようなものも、じつは…非常に不安定…人間の人間化は「宿命」でなく「使命」(前掲書)
70年代に・・・一歩、日本の外に出ると、ボアールがどうとか、フレイレがどうとか、いたるところで…聞こえてくる。・・・民衆レベルの、ベーシックなところでの動きにたいしては、日本の知識人は鈍感で閉鎖的でしたね。(262pから)この状況、現在はどうだろう
引用:フレイレ理論のなかで本来大きな比重をもっている…にもかかわらず、彼自身があまり十分に展開していない論点の一つに、からだの問題…。ベル・フォックスはそこに大きなアクセントをかけているな、というのがこの本(『とびこえよ、その囲いを』)を…読んだ…印象
何を教えるかとか、どう教えるかとか、そんなことばかりが教師の世界では問題になりがち…もっと根本的な問題は、教室のなかでの自分のからだの「こわばり」をどうほどいていくのか、ということ…。先生って、どうしても、がんばっちゃう…。(その)ときにまずいのは人の話が聞けなくなること
フレイレは「知っている者が知らぬ者に教える」ために「まず、知っている者がけっしてすべてを知っているわけではないこと、つぎに、知らぬものが何も知らぬわけではないことを知ることが必要…」と
267pから
抵抗としての文化運動をどう考えていけるかという問いに里見さん:なかなか大きな展望はもてない…。小さな場で何ができるかを考えていくほかない…。・・・大変ささやかなことかもしれませんが、あなたはそう思うか、どうしてそう思うのかを丹念に問いかけ、教室を「自分の考え」をつくる共同の場に
引用:ネガティブな現実をしっかりと見据えながら、そのなかに反転の契機を見つけだしていくというのが、フレイレのやり方でした。被抑圧者が非人間化という極限状況をいわば跳ね板にして意識化と変革の実践に歩みでていく、という『被抑圧者の教育学』の基本姿勢のなかにも、支配と抑圧の装置として機能している学校教育のなかにそれを反転する抵抗の契機をつかみとろうとする対話の理論にしても、厚く塗りこめられた黒々とした色調のなかから光を探すように議論をすすめていくのが彼の文章の特徴…一語一語たどりながら読んで、ぼくもあらためてそう思いました。
孫引き:フェリット・エドギュ『最後の授業』から:…ここを去ることになったので君達に頼みたいことがあるんだ―/ 先生が教えたことを全部忘れて欲しいんだ。地球は回ってるよ、そうなんだけれどもね、ここでは…してないと思う方が正しいのかも…
『抑圧』を本質とする『教育』という制度を、その本質とはずらした実践の場、自由と解放の行為に転化していく可能性をフレイレは信じていて、その「反転」の契機を探っているのです。19pから
『伝達か対話か』…原題…直訳すれば「普及か、コミュニケーションか」…/…この本はフレイレの主著とされている『被抑圧者の教育学』に匹敵する重要な著作なのですが、その価値が正当に認識されていません。19pから
ボアールの『被抑圧者の演劇』を例に、こうした演劇をとおして創造されるのはたんなる作品ではなく「公衆」だと里見さんは書く。public、観衆とともに公衆という意味、ポリスの広場で問題を討議する公衆が存在してはじめて民主主義が実質化されると。25pから
引用:たとえば「移民を排斥せよ」という主張に「公衆」としてどう向き合うか。なぜ、それが主張されるのか、実際、具体的な問題は何か、ということを見ていけば、問題は「移民」ではなく、「知らない」とか「知らされていない」ことであり、日本人のなかにも同様の問題があることは理解できるはず
「進歩」的で「革命」的な思想が外側からもち込まれて民衆に「伝達」もしくは「注入」されても、普及を特徴づけている関係性は変わりません。変革されなければならないのは、この関係性であるはずです。28pから
人びとの生きた経験、それに裏打ちされた民衆知との交渉をとおして、伝統的な知識人の「制度知」もまた脱構築…グラムシ…可能性において、すべての人間は有機的知識人…30pから
話の成否の決定的な鍵は、聞き手の側に…。いくら自分が一生懸命に考えて話しても、相手が一緒に考えてくれなければ、それまでなのです。相手が考えてくれない場合は、自分もほんとうのところ、考えているとはいえないのだと、フレイレは…言っています。31pから
芸術家の実験的な作品は、それを受けとめる読者や聴衆との出会いによって、はじめて作品として成立します。しかしそういう公衆が、作品創造に先立ってあらかじめ存在しているわけではありません。出会いによって公衆はそのつど生み出されるのです。31pから
「被抑圧者の教育学」の難しさ、3つの要因で易しくも…難しくも…。
1、著者の事情、フレイレはこれがたんなる読書の所産ではないというが、その背景にはおびただしい読書行為…思想的文脈。第三世界の思想家であるということは、その思考の言語が、欧米の知的世界と無縁であることを意味しない
2、読者の側の事情 1で述べたような「言語」を共有している読者にはそれほど難解ではないはず。また、そうでなくても「これは自分のこと」と直観できる読者も世界には少なくない。しかし、日本の大学生にに難しい。彼らと教室で読もうとはしてこなかった。
3、著者と読み手の関係の問題 この本は2で述べたように「直観」できる読者を確信しており、そのことが非常に重要なのだが、この本で直接語りかけているのは民衆と呼ばれる人びと自身ではなく、かかわろうとしている知識人。だからアカデミックサークルの言葉もでてくる(37p)
パウロ・フレイレは、主観性をぬきにして客観性をとらえることはできない、と、この本のいたるところで強調…両者はダイナミックに相互作用…現実は、それにたいする主体の働きかけの如何によって、違った展開を示します。人間が動きはじめれば、世界もまた動きはじめます。(49p)
「その非人間化は存在論的な可能性としてではなく、歴史的現実として、われわれのまえに広がっている」とフレイレ…「非人間化のその圧倒的な広がりを見て、人は、人間化などということがはたして実現可能なのか、と自問する」とも。
「人間を非人間化するシステムとして、私たちの社会は作動…さまざまな形態の「教育」もまた、そのシステムの一環であると言わねばなりません」と里見さんは書き、その非人間化の広がりの前で私たちは無力感を感じニヒリズムに陥り、「現実」への順応が起こりそれが再生産されるという、48-49p
人間化とは…いまおかれている状況と向きあい、それに問いを投げかけ、それを変えていく主体になっていくこと…非人間的状況それ自体は、人間がそれに働きかける主体に、つまり人間になっていくたたかいの跳ね板でもあるという意味で、希望のことぶれにも転化しうるものとしてとらえられ 49-50p
http://twitter.com/#!/duruta/status/19467437992841216 に引用した部分を読んで、現在、反中国や排外主義を主張して街頭に出てくるようになった人もまた、彼らなりに「いまおかれている状況と向きあい、それに問いを投げかけ、それを変えていく主体になって」いこうとしているのではないかと考える。問題は向きあい方の深度なのかもしれない。反中国や排外主義を主張することが問題の解決策になりえると彼らは考えているのだろう。その中身にどう切り込めるかが問題なのだと思う
「抑圧し、搾取し、虐げる人びとは、力をもっているからといって、抑圧された人びとを、そして自分自身を、解放できるわけではない。被抑圧者の無力さから生まれる力だけが、両者をともに解放するに足る強さをもちうるのだ」パウロ・フレイレ 54pから孫引き
「この教育学(ペタゴジア)は、被抑圧者が個人として、また集団として、人間性をとり戻すその不断のたたかいのなかでかたちづくっていくものであり、けっして彼のためではなく、彼とともに創出していかなければならぬ教育学なのだ。そこでは、抑圧とその原因が、被抑圧者の省察の対象になる。この省察によってかれらは、必然的にみずからを解放するためのたたかいへと向かっていくだろう。(ほんとかよとも思うけど(つ)) そして、このたたかいのなかでペタゴジーはつくられ、つくりかえられていくのだ(前掲書65pから孫引き)
ある段階では、被抑圧者は抑圧者のなかに「人間」のモデルを見出す…。抑圧から解放へと状況の変化がすすんでいる革命のさなかにおいてすら、この現象は露頭してくる。…革命に参加している被抑圧者の多くは、かつての社会体制の神話を…刻印されているために、革命を私的な革命に転化しようと 68p
里見さんが『被抑圧者の教育学』を読み直すきっかけは、教育基本法の改定だった。そもそものそれは人を国家の道具として育て、使い捨ててしまった戦争の記憶への反省から生まれたのに、その改定で、人間としての生の実現よりも愛国心の涵養のほうが教育の主要な目的にされてしまったという。80p
解放の大義にコミットすると称し、なおかつ民衆と心を通じあうことができず、かれらを無知蒙昧の徒と決めつけているとすれば、その誤りは悲劇的である。民衆に近づきつつも、しかし一歩ごとに逡巡し、一歩ごとに疑惑にさいなまれ民衆へのあれこれの違和感を表明して、彼の基準で相手を律しようとしている者は、じつのところ、己れの出自にあいもかわらず恋々としているのだ。92-93pから孫引き ゲバラを思い出した
フレイレの預金型というコンセプトは、一方で文化帝国主義や外発的近代化への批判と直結していますが、その一方で、そうした構造を変革しようとしているはずの社会運動が、じつは変革しようとしている当の構造をなぞってしまっていることへの批判も内包 117p
《「被抑圧者の教育学」を読む》で、里見さんは境毅著《『モモ』と考える時間とお金の秘密》を紹介。モモの「時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって…」の「生活」は「いのち」と訳すべき、に同意する。でも、「生活がやせほそる」というフレーズも捨てがたいと思う。『懐かしい未来』に都会に住んでる姉は時間を節約するためのガスがあり自動車もあるが、いつも時間が足りないと言っている、というようなくだりがあったのを思い出した。時間を節約すると「いのち」も「生活」もやせほそるのだろう
預金型教育は麻酔注射のようなもので、被抑圧者の創造能力を押さえ込んでしまうものだが、省察を追求してやまない問題化型の教育は、かならずや現実の皮膜を剥ぐ行為になる。136pから孫引き
SWAPOの識字教科書から:コードとはみんなに共通な問題を示す方法のこと。絵でもよいし、寸劇でもよい。みなさんで劇をやってみては?それをベースにして問題の原因だとか解決方法を議論するわけ..
フレイレたちのいう「コード表示」は…ブレヒトが〈叙事的演劇〉をとおしてめざした「状況の表示」と重なり…意識化とはひとことで言えば、間をおいてみずからの状況と向きあうこと…その「間合い」をとる技法のひとつがコード表示 162p
「間合い」をとることによって、省察が可能に…。この「隔たり」のなかにこそ、識字の可能性がある…。しかしこの隔たりは、同時に言葉をその発生の現場から分断し、肉体と言葉を、行為と省察を引き離すもの…。…(この)事態をフレイレは「言葉主義」と呼ぶ167p
読み書き行為の積極的な可能性を擁護しつつ言葉主義の病を回避しようとすれば、文字の読み書き行為と生活世界、リテラシーと声の世界、もしくは場の文化との矛盾を含んだ相互浸透、両者の絶えざる往還が必要…フレイレは…両者の「対立のなかの統一」を追究167p
フレイレは伝統的な教科書や教師を否定。必要なのは教師ではなくコーディネータ。教科書に代わる学習プログラム。それは「生成語」もしくは「生成テーマ」と呼ばれる語もしくは主題と、それをコード表示した一連の視覚教材。168p
フレイレはプログラムの準備を5段階に分けて説明。
1、当該集団の語彙の調査。日常の会話のなかで使われる語彙を採集。
2、一定数の生成語を選択。どのような文脈でその語彙が使われるかを分析し、語彙の相互関係を考察しながら、話者たちにとってもっとも重要な語彙を選び出す。そこで選び出されるのが生成語。二つの意味で「生成」的であることが求められる。第一に議論を誘発しやく、より広く深い文脈の下で現実を洞察することを可能にするという意味において生成的であること。第二に音節構成においても生成的であること。(音節が生成的というのがぼくにはもう一つ不明。説明は少しあるのだけど)。
3、「コード表示」をつくる作業。場面の絵表示。クリアで奥行きのあるイメージを喚起するために、しばしば画家や写真家がこの作業に参加。
4、学習日程の作成。しかし、順守すべき厳格な日程であってはならない。
5、音節を分解したフラッシュカードの作成。準備は以上。 『被抑圧者の教育学』3章の末尾でフレイレはこれとは別に「文化の概念」についての十枚のコード表示を提案。『伝達か対話か』の巻末に絵と解説全文が掲載されている。168-173p
町場や野良で働く労働者の多くはコロニアルな生活世界にどっぷりと埋没して生きていて、生まれながらの世界に…へその緒でつながっている。…預金型教育の常識を踏襲して、そういう人びとに自分たちが勝手に決めたプログラム内容の「知識」を施したり、理想の人間像を押し付けても、…届かない174p
「革命的ヒューマニズムを信奉する教育者にとっては、活動の対象は自他の力によって変革されるべき現実であって、労働者や農民ではない」《「被抑圧者の教育学」の里見訳》から(前掲書174p)これって、障害の社会モデルにもつながってる。
フレイレの「…活動の対象は自他の力によって変革されるべき現実であって、労働者や農民ではない」が障害の社会モデルとつながっていると思って検索したら、中西正司さんの2009年度に書いた修士論文が出てきた。http://bit.ly/fPmNuo あんなに忙しいのに修論。びっくり
残念なことだが、革命運動のなかで民衆の支持を得ようとしている革命指導者たちも非常にしばしばこの種の垂直型教育プログラムのわだちに嵌り、預金型教育の「筋書き」を惰性的に再現している。(前掲書174p)
かれらの基本的な目標は民衆とともに、その奪われた人間的尊厳の回復をめざしてたたかうことであって、民衆を「征服する」ことではなかったはずである。(『被抑圧者の教育学』の里見訳から、前掲書175p) 恥ずかしくなるくらいにストレートな表現だが、こういうのが必要なんじゃないかとも思う
『被抑圧者の教育学』の里見訳には毛沢東を引用した注も訳されている。そこには、変革が客観的に必要でも、人びとがその必要性を認識しないときは、待たなければならない、という話、人びとに代わって決断してはいけないという話が記載。言い古された話ではあるがいつも喚起が必要な話でもあると思う
民衆がいまもっている…世界像を無視して一種の「文化侵略」を行うなら、それが教育プログラムであっても文化プログラムであっても、よい結果が出ると期待すらだに愚かである。どんないよい意図に発するものであろうと文化侵略であることに変わりはない(『被抑圧者の教育学』の里見訳、前掲書177p
事実の認識が、あたかもそれを認識する主体のたち位置や主観と独立に成立するかのように主張する科学主義は、「知る」行為やその上に築かれる知識を没人格化することによって「人間なき世界」を仮構しているにすぎない、と(フレイレ)は言うのです。200p
対話従事者に求められる倫理的資質、対話の基礎として、愛、謙譲、信頼、希望、批判的思考。フレイレが重要視するのは「愛する能力」。社会で重要視されるのは「愛される能力」。フロムが言う「与える能力」に限りなく近い。それは対等な関係が前提。205-8p
「人間性の核にまで踏み込めば私たちは同一である」という感覚、この連帯意識が兄弟愛を根底的に基礎づけている…。フレイレの言う「愛する能力」には、慈恵的に「与える」ことによって相手の自由を奪う「愛」への痛烈な批判がこめられて…。それを「愛」と呼ぶことを彼は拒否(前掲書209p)
フレイレ:創造し変革する力はある情況のなかで否定されることがあるとしても、ふたたび盛りかえすバネを秘めて、いつか再生し、復活するのだ。…。この人間への信頼の気持ちを欠いたとき、対話は茶番となる。(『被抑圧者の教育学』の里見訳、前掲書212p)う~ん、祈りにも似た信頼だなぁと思う。
213pから:どんなに貶められ、どんなに「非人間化」した状態のなかにあっても、人間はぎりぎりのところで人間としての尊厳をとり戻していく存在である、という確信、それを人間への信頼と呼ぶとすれば、彼の言う「信頼」とは「希望」と同義のものであると考え…
操作され、飼いならされた人間は、抑圧者の影を自分の内部に宿すことによって、みずからを非人間化する支配の構造をしばしば自発的に維持・再生産していく…。そうした支配の手口を、フレイレは「征服」「分割支配」「大衆操作」「文化侵略」という四つの側面から検討しています。(前掲書217p)
革命政治が支配の政治をそのまま踏襲してしまうことが少なくない…。…それは革命とは名ばかりの支配政治の再編に堕していくことに…。革命はすぐれてペタゴジカルな過程でなければならないとフレイレが力説するとき、そこには革命の可能性への信頼と、その現実にたいする批判が(前掲書218p)
フレイレは、革命の文化的・人間的次元を棚上げし、革命をたんなる権力の奪取にすりかえる思想に激しく反対します。革命は本質的に文化のたたかいであり、それこそが革命を革命たらしめるものである、というのです。218pから
「普通の人びとが思考することを革命家たちが拒否してしまうとすれば、彼ら自身が考えることをさぼっているということ。革命家たちの思考は普通の人びとの思考なしにはありえない。人びとのために、ではない。人びととともに、なのだ」フレイレ(前掲書220pちょっと改変)
みずからが参加して「社会」をつくりあげるそのプロセスのなかでみずからの生を変えることは、21世紀を生きる私たちの人間史的な課題でしょう。いわゆる「社会主義」諸国家がグローバル資本主義の「現実」のなかに無惨に回収されてしまった現在…キューバ革命が追求した現実変革のヴィジョンは帝国の喉元に突き刺さる小骨でありつづけています。227pから 「キューバ革命が追求した現実変革のヴィジョン」がどれだけキューバ社会に浸透しているのだろう。そのあたりがなかなか見えない。
2010年の時点で…キューバ革命がともした変革の灯は…中南米の左派政権の成立…で大規模な規模で受け継がれ…。その意味でキューバ革命はいまも継続中…。しかしキューバ革命とは歴然と異なる新しい局面も現われています。資本主義的なグローバル化に反対し左派政権を支えている緒力のなかには、政権に全面的に吸収されることなく、それにたいする緊張関係と自立性を維持しながら、なおかつ、この変化を支え、主導しているさまざまな民衆運動が存在します。228-9p
ただの知識の伝達は、一見、ニュートラル…。しかしそのニュートラルな訓練をとおして、被教育者は「学ぶ」ということの一定のイメージをかたちづくっています。学ぶということは自前の思考を放棄することであり、言われたことに従順に耳を傾け、記憶することであり、その学習成果を競うことであることを、かれらは「学ぶ」のです。 一見ニュートラルな知識の伝達は、選別と排除の過程でもあります。経済的にも文化的にも、それは既成の階級関係の再生産関係過程として機能しています230p
ヘンリ・ジルー…「フレイレの活動と新しい教育社会学の主要な相違は、後者が政治的、経済的、文化的な再生産の論理の解明に終始するのに対して、フレイレの分析は生産の過程、すなわち人間は特定の歴史的背景おとび束縛のうちにおいて、それぞれの方法で自分たちの声を形作り、自分たちの矛盾をはらんだ緒経験を有用なものとしていく、というところから出発する点にある。231p「主要な相違」がほんとうにそこにあるのだろうか。「新しい教育社会学」といっても、「学」がつく限りはうさんくさいなぁと思ってしまうのはぼくの偏見か
あらら誤読
里見実さん233pから 「批判的思考とユートピア的な想像力とは、必ずしも折り合いのよいものであるとはいえませんが、後者を欠いた批判の言語はしばしば絶望とシニシズムの語り口に堕していきます」
フレイレ:民衆の願望が賃上げに絞られそこから一歩も出ないとき、活動家が誤りがちな二つ。1、要求を煽ることに終始。2、まだ身近に感じられない問題を持ち込む。 その解決は総合にしかない。一方で民衆の賃金要求に寄り添い、もう一方で要求そのものの意義を考えること(238pから要約
「BOOK」データベースより)人間が人間として生きることがかぎりなく困難な時代と社会―その重圧の下で非人間化を深める被抑圧者の自由への翻身の契機を探りつづけたブラジルの教育思想家パウロ・フレイレ。世界中で読み継がれているその主著を読み解く
内容紹介:「現代の古典」ともいわれ、世界中で読み継がれている教育思想と実践の書『被抑圧者の教育学』。ブラジルの教育思想家パウロ・フレイレの思想と方法は、死後、ますますその重要性が明瞭になってきている人間を「非人間化」していく被抑圧状況の下で、人間が人間になっていく可能性を追求したフレイレの主著を、10のテーマから読み解く。オリジナル・テキストからの訳とともに。
本のカバー、裏表紙折り返し最後の部分から:「支配の」の装置として作動している「教育」を、人間解放の行為に反転していく手だてを探りつづけたフレイレの歩みは、日本の現実を生きる私たちにとっても、多くの示唆と励ましを与えるものだろう
『被抑圧者の教育学―新訳』が出てる。なんと訳者は三砂ちづるさんhttp://bit.ly/i5yPKb「つねに新しい読者を獲得してきた名著が、いまの時代にふさわしい読みやすさで蘇った。実践を通して繰り広げられたフレイレ教育学の核心の世界へ」買うしかないか。でも、ちょっと待つか
@duruta SWAPOの識字教科書から:コードとはみんなに共通な問題を示す方法のこと。絵でもよいし、寸劇でもよい。みなさんで劇をやってみては?それをベースにして問題の原因だとか解決方法を議論するわけ 159pから孫引き
《パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む》の読書メモ、ここにまとめました。ツイートした順になっているので、本の順番とは違います。「被抑圧者の教育学」に関する講義、ぼくにはとても勉強になりました。
中村U子 @when_we_cry 2011-01-27 19:23:43
パウロ・フレイレを私は未読ですが、かかりつけセラピストが若い頃から愛読しています。「対話の基礎」として「愛する能力」が挙げられたことに説得力を感じます。 @duruta
tu-ta @duruta 2011-01-28 09:14:51
『被抑圧者の教育学―新訳』が出てる。なんと訳者は三砂ちづるさんhttp://bit.ly/i5yPKb
↑
現在読書中
里見実《「被抑圧者の教育学」を読む》を読んでる。そこに最近、自分で全訳しなおしたという里見さんの訳が部分掲載されてる。たぶん、読みやすくなっている。でも、繰り返し部分しか掲載してないことの問題を自ら指摘している。別の人のポルトガル語からの訳の出版準備がされてるとのこと。
(対立関係から解放された抑圧者は)何百万人の人びとが食えず、衣服も靴もなく、勉強も、旅行もできず、ましてベートーヴェンを聴くこともできなかった格差の下で、彼は飽食し、着飾り、…してきた。これらの特権のどのひとつであれ、万人の権利の名において制限されることは、彼の人権にたいする甚大な権利侵害と思えるのだ。
フレイレ、ここは「近代西洋的幸福感基準」的なところもありますね。ここはどんなことも人間は手放せないというのが主眼でしょうが。そして、彼は人間中心主義で、そのあたりはこの著者の里見さんが批判してる点でもあります。
(以下、2017年5月追記部分)
このくだりに関する自分のコメントが自分でも意味不明で困るのだが、ともかく、帝国主義の本国に住んで享受している快楽みたいなものは確かにあって、それは手放したくないという気持ちもよくわかる。もちろん、本国の中でも、その快楽に手が届かない人も増えている。そんななかで、どう社会変革を求めて多数派に呼びかけていくか、北と南の平等が実現したとき、手放さなければならないものは何かということを考えるのも、それなりに大切なテーマだと思う。(追記ここまで)
mackeeeeさんから質問
「人間として生きるとは、他者と世界とに関わる(アンガジェ)こと」(だったかな?)という定義は、どのように訳し直しているのでしょうか?
それへの答え
「人間であるということ、それは他者との、世界とのかかわりにおいて、生きるということだ」という文章が『自由の実践としての教育』の冒頭にあるって書いてあります。この本、『被抑圧者の…』に匹敵する重要な著作なのに価値が正当に評価されてないと里見さんは書いてます。それだけでなく、「思考の密度からいえば、こちらのほうがフレイレの主著といってよいのかもしれません」とまで書いています。もしかしたら、このフレーズ『被抑圧者の教育学』にも使われていて、この本にもあるのを読み飛ばしてるかも?ともあれこの本、フレイレ批判含んでいて、なかなか面白いです、ぼくには。 2800円+税、もとがとれそうです。ぼくは大田区の図書館の本を借りていて、買おうかどうか、迷ってますけど(笑)。
引用:
意識化とはひとことで言えば、間をおいてみずからの状況と向きあうこと、と言ってよいのでしょうが、その「間合い」をとる技法のひとつがコード表示なのです。現実は、絵や写真、あるいは一場の劇として切りとられることによって、異化されます
《「被抑圧者の教育学」を読む》では:70年~80年代のアフリカの民族独立運動では、フレイレの識字の方法が広く採用…ナミビアの南西アフリカ人民機構SWAPOが1986年に刊行した識字教育手引き書…は、その代表… として、この本を使ってフレイレの手法が具体的に説明されている
SWAPOの識字教科書から:気をつけないといけない。読み書きもさることながら、肝心なのは生活をよくすること。コードによっては、具体的な行動の手がかりになるものもあるし…情報を交換するためのものもある。グループが何か行動しようとしているときは読み書きの効率ばかりを急いではいけないね
引用:真にその名に値する教育とは、AがBのために、ではなく、また、AがBに対して、でもなく、AがBとともに、世界を仲立ちしておこなうものだ。
孫引き:「テーマ調査っていうものは、人びとがもっているものを人びとに返すことで、はじめて申し訳のたつものとなる。あれって、人びとを知る行為なんかじゃない。人びととともに、人びとの上にのしかかっている現実を知ることなんだよね」マリア・フェデイラ(180pから)
植民者が行ってきた「原住民」に対する「他者化」と「同化」…人類学者もまた繰り返す…危険性…。たんなる調査「方法」の精緻化では、この危険を回避することはできない…。被調査者自身が調査の主体にならないと、このアポリアは解決できない(189pから)
民衆と調査者がともに研究の主体になってテーマを追求した場合、調査の客観性がそこなわれる…と言う人もいる…。…調査結果は「純粋」なものにはなりえない、というわけだ。……こういう反対は、調査…についての浅はかな偏見を曝けだしたもの…この手の調査屋に…テーマはもっぱら純粋で客観的)で、当事者の人びとをすっとばした、何かモノのようなものとして存在するらしい。(191pから)
その「調査」はたんに地域の「客観的」な諸事実の調査に終わるものであってはならず、事実とのかかわりにおいて人びとがかたちづくっている表象や信念の調査こそが決定的に重要(201pから)
「普通の人びとが思考することを革命家たちが拒否してしまうとすれば、彼ら自身が考えることをさぼっているということ。革命家たちの思考は普通の人びとの思考なしにはありえない。人びとのために、ではない。人びととともに、なのだ」フレイレ
《フレイレの教育思想は「解放の神学」を特徴づけているダイナミックな希望への信仰から「左翼が陥る絶望とシニシズムへの強力な解毒剤をつくりだした」とジルーは評価》(232pから)
「希望とは私たちがいまかたちづくる出来事や体験としてあるのだというメッセージを、『被抑圧者の教育学』は、そしてラテンアメリカの民衆運動は、日本の私たちに伝えてくれているように思うのです」243pから
引用:民衆を「破壊的狂信」にかりたてる要因は、意識化ではない。反対だ。意識化は民衆が主体として歴史に介入することを可能にする。それはファナティズムを回避しつつ、自己肯定に向けての歩みのなかにみずからの足跡を刻むことなのだ。
教育社会学とは基本的に学校制度をとおして人間が選別されていく、その支配のメカニズムをとらえる学問 252pから
「文字なしで暮らしてきた人びとが文字を獲得していくときに、たんなる道具の獲得ということを超えた底深い変化がその人の中で起こるのですね。世界の見え方というか、世界と自分のかかわり方というか」と里見さんはいうのだが、文字なしで暮らす人が多数だった社会で文字がないことは問題なかったはず。文字がない時代の人と文字を持った時代の人間、何がどのように違うのだろう?
引用:人はラスコーの壁画以来、演劇的身振りとか絵画…、さまざまなコード表示をつかって、世界と向きあい、それを「意味あるもの」として再構成してきた…。そのようにして、人間が世界と向き合い、そこにみずからを再定位する過程を、フレイレは「意識化」と呼んで…
「意識化」という概念については、後年のフレイレは、ある種の自己批判をふまえながらかなり用心深くつかうようになり…。主観性の領域を特権化してはならないと考えてのことです(もちろん、主観性を軽視する「客観主義」対しては徹底的に否定的であり続けますが)
もともと文字というものは「帝国」の所産で、文化支配と一体のものでした。その文字文化を広い意味での場の文化のなかに囲いこんで、その性格を変えてしまうというのが、彼の識字戦略…。文字の文化をオーラルな文化や身体性のなかに送り返していくのです。256pから
岡本―はっとしたのは、被抑圧者のたたかいが、抑圧者をも解放する、人間化するたたかいなのだという指摘です。現在の日本社会での運動にとっても示唆に富んでいると思いました。257pから
ネコやイヌの場合はどこまでいっても完璧にネコやイヌ…ヒトの場合…人間になる可能性と非人間化する可能性の両方に向かって開かれ…。人間が人間になるのは容易なことではなく、生得の能力と信じられている思考力のようなものも、じつは…非常に不安定…人間の人間化は「宿命」でなく「使命」(前掲書)
70年代に・・・一歩、日本の外に出ると、ボアールがどうとか、フレイレがどうとか、いたるところで…聞こえてくる。・・・民衆レベルの、ベーシックなところでの動きにたいしては、日本の知識人は鈍感で閉鎖的でしたね。(262pから)この状況、現在はどうだろう
引用:フレイレ理論のなかで本来大きな比重をもっている…にもかかわらず、彼自身があまり十分に展開していない論点の一つに、からだの問題…。ベル・フォックスはそこに大きなアクセントをかけているな、というのがこの本(『とびこえよ、その囲いを』)を…読んだ…印象
何を教えるかとか、どう教えるかとか、そんなことばかりが教師の世界では問題になりがち…もっと根本的な問題は、教室のなかでの自分のからだの「こわばり」をどうほどいていくのか、ということ…。先生って、どうしても、がんばっちゃう…。(その)ときにまずいのは人の話が聞けなくなること
フレイレは「知っている者が知らぬ者に教える」ために「まず、知っている者がけっしてすべてを知っているわけではないこと、つぎに、知らぬものが何も知らぬわけではないことを知ることが必要…」と
267pから
抵抗としての文化運動をどう考えていけるかという問いに里見さん:なかなか大きな展望はもてない…。小さな場で何ができるかを考えていくほかない…。・・・大変ささやかなことかもしれませんが、あなたはそう思うか、どうしてそう思うのかを丹念に問いかけ、教室を「自分の考え」をつくる共同の場に
引用:ネガティブな現実をしっかりと見据えながら、そのなかに反転の契機を見つけだしていくというのが、フレイレのやり方でした。被抑圧者が非人間化という極限状況をいわば跳ね板にして意識化と変革の実践に歩みでていく、という『被抑圧者の教育学』の基本姿勢のなかにも、支配と抑圧の装置として機能している学校教育のなかにそれを反転する抵抗の契機をつかみとろうとする対話の理論にしても、厚く塗りこめられた黒々とした色調のなかから光を探すように議論をすすめていくのが彼の文章の特徴…一語一語たどりながら読んで、ぼくもあらためてそう思いました。
孫引き:フェリット・エドギュ『最後の授業』から:…ここを去ることになったので君達に頼みたいことがあるんだ―/ 先生が教えたことを全部忘れて欲しいんだ。地球は回ってるよ、そうなんだけれどもね、ここでは…してないと思う方が正しいのかも…
『抑圧』を本質とする『教育』という制度を、その本質とはずらした実践の場、自由と解放の行為に転化していく可能性をフレイレは信じていて、その「反転」の契機を探っているのです。19pから
『伝達か対話か』…原題…直訳すれば「普及か、コミュニケーションか」…/…この本はフレイレの主著とされている『被抑圧者の教育学』に匹敵する重要な著作なのですが、その価値が正当に認識されていません。19pから
ボアールの『被抑圧者の演劇』を例に、こうした演劇をとおして創造されるのはたんなる作品ではなく「公衆」だと里見さんは書く。public、観衆とともに公衆という意味、ポリスの広場で問題を討議する公衆が存在してはじめて民主主義が実質化されると。25pから
引用:たとえば「移民を排斥せよ」という主張に「公衆」としてどう向き合うか。なぜ、それが主張されるのか、実際、具体的な問題は何か、ということを見ていけば、問題は「移民」ではなく、「知らない」とか「知らされていない」ことであり、日本人のなかにも同様の問題があることは理解できるはず
「進歩」的で「革命」的な思想が外側からもち込まれて民衆に「伝達」もしくは「注入」されても、普及を特徴づけている関係性は変わりません。変革されなければならないのは、この関係性であるはずです。28pから
人びとの生きた経験、それに裏打ちされた民衆知との交渉をとおして、伝統的な知識人の「制度知」もまた脱構築…グラムシ…可能性において、すべての人間は有機的知識人…30pから
話の成否の決定的な鍵は、聞き手の側に…。いくら自分が一生懸命に考えて話しても、相手が一緒に考えてくれなければ、それまでなのです。相手が考えてくれない場合は、自分もほんとうのところ、考えているとはいえないのだと、フレイレは…言っています。31pから
芸術家の実験的な作品は、それを受けとめる読者や聴衆との出会いによって、はじめて作品として成立します。しかしそういう公衆が、作品創造に先立ってあらかじめ存在しているわけではありません。出会いによって公衆はそのつど生み出されるのです。31pから
「被抑圧者の教育学」の難しさ、3つの要因で易しくも…難しくも…。
1、著者の事情、フレイレはこれがたんなる読書の所産ではないというが、その背景にはおびただしい読書行為…思想的文脈。第三世界の思想家であるということは、その思考の言語が、欧米の知的世界と無縁であることを意味しない
2、読者の側の事情 1で述べたような「言語」を共有している読者にはそれほど難解ではないはず。また、そうでなくても「これは自分のこと」と直観できる読者も世界には少なくない。しかし、日本の大学生にに難しい。彼らと教室で読もうとはしてこなかった。
3、著者と読み手の関係の問題 この本は2で述べたように「直観」できる読者を確信しており、そのことが非常に重要なのだが、この本で直接語りかけているのは民衆と呼ばれる人びと自身ではなく、かかわろうとしている知識人。だからアカデミックサークルの言葉もでてくる(37p)
パウロ・フレイレは、主観性をぬきにして客観性をとらえることはできない、と、この本のいたるところで強調…両者はダイナミックに相互作用…現実は、それにたいする主体の働きかけの如何によって、違った展開を示します。人間が動きはじめれば、世界もまた動きはじめます。(49p)
「その非人間化は存在論的な可能性としてではなく、歴史的現実として、われわれのまえに広がっている」とフレイレ…「非人間化のその圧倒的な広がりを見て、人は、人間化などということがはたして実現可能なのか、と自問する」とも。
「人間を非人間化するシステムとして、私たちの社会は作動…さまざまな形態の「教育」もまた、そのシステムの一環であると言わねばなりません」と里見さんは書き、その非人間化の広がりの前で私たちは無力感を感じニヒリズムに陥り、「現実」への順応が起こりそれが再生産されるという、48-49p
人間化とは…いまおかれている状況と向きあい、それに問いを投げかけ、それを変えていく主体になっていくこと…非人間的状況それ自体は、人間がそれに働きかける主体に、つまり人間になっていくたたかいの跳ね板でもあるという意味で、希望のことぶれにも転化しうるものとしてとらえられ 49-50p
http://twitter.com/#!/duruta/status/19467437992841216 に引用した部分を読んで、現在、反中国や排外主義を主張して街頭に出てくるようになった人もまた、彼らなりに「いまおかれている状況と向きあい、それに問いを投げかけ、それを変えていく主体になって」いこうとしているのではないかと考える。問題は向きあい方の深度なのかもしれない。反中国や排外主義を主張することが問題の解決策になりえると彼らは考えているのだろう。その中身にどう切り込めるかが問題なのだと思う
「抑圧し、搾取し、虐げる人びとは、力をもっているからといって、抑圧された人びとを、そして自分自身を、解放できるわけではない。被抑圧者の無力さから生まれる力だけが、両者をともに解放するに足る強さをもちうるのだ」パウロ・フレイレ 54pから孫引き
「この教育学(ペタゴジア)は、被抑圧者が個人として、また集団として、人間性をとり戻すその不断のたたかいのなかでかたちづくっていくものであり、けっして彼のためではなく、彼とともに創出していかなければならぬ教育学なのだ。そこでは、抑圧とその原因が、被抑圧者の省察の対象になる。この省察によってかれらは、必然的にみずからを解放するためのたたかいへと向かっていくだろう。(ほんとかよとも思うけど(つ)) そして、このたたかいのなかでペタゴジーはつくられ、つくりかえられていくのだ(前掲書65pから孫引き)
ある段階では、被抑圧者は抑圧者のなかに「人間」のモデルを見出す…。抑圧から解放へと状況の変化がすすんでいる革命のさなかにおいてすら、この現象は露頭してくる。…革命に参加している被抑圧者の多くは、かつての社会体制の神話を…刻印されているために、革命を私的な革命に転化しようと 68p
里見さんが『被抑圧者の教育学』を読み直すきっかけは、教育基本法の改定だった。そもそものそれは人を国家の道具として育て、使い捨ててしまった戦争の記憶への反省から生まれたのに、その改定で、人間としての生の実現よりも愛国心の涵養のほうが教育の主要な目的にされてしまったという。80p
解放の大義にコミットすると称し、なおかつ民衆と心を通じあうことができず、かれらを無知蒙昧の徒と決めつけているとすれば、その誤りは悲劇的である。民衆に近づきつつも、しかし一歩ごとに逡巡し、一歩ごとに疑惑にさいなまれ民衆へのあれこれの違和感を表明して、彼の基準で相手を律しようとしている者は、じつのところ、己れの出自にあいもかわらず恋々としているのだ。92-93pから孫引き ゲバラを思い出した
フレイレの預金型というコンセプトは、一方で文化帝国主義や外発的近代化への批判と直結していますが、その一方で、そうした構造を変革しようとしているはずの社会運動が、じつは変革しようとしている当の構造をなぞってしまっていることへの批判も内包 117p
《「被抑圧者の教育学」を読む》で、里見さんは境毅著《『モモ』と考える時間とお金の秘密》を紹介。モモの「時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって…」の「生活」は「いのち」と訳すべき、に同意する。でも、「生活がやせほそる」というフレーズも捨てがたいと思う。『懐かしい未来』に都会に住んでる姉は時間を節約するためのガスがあり自動車もあるが、いつも時間が足りないと言っている、というようなくだりがあったのを思い出した。時間を節約すると「いのち」も「生活」もやせほそるのだろう
預金型教育は麻酔注射のようなもので、被抑圧者の創造能力を押さえ込んでしまうものだが、省察を追求してやまない問題化型の教育は、かならずや現実の皮膜を剥ぐ行為になる。136pから孫引き
SWAPOの識字教科書から:コードとはみんなに共通な問題を示す方法のこと。絵でもよいし、寸劇でもよい。みなさんで劇をやってみては?それをベースにして問題の原因だとか解決方法を議論するわけ..
フレイレたちのいう「コード表示」は…ブレヒトが〈叙事的演劇〉をとおしてめざした「状況の表示」と重なり…意識化とはひとことで言えば、間をおいてみずからの状況と向きあうこと…その「間合い」をとる技法のひとつがコード表示 162p
「間合い」をとることによって、省察が可能に…。この「隔たり」のなかにこそ、識字の可能性がある…。しかしこの隔たりは、同時に言葉をその発生の現場から分断し、肉体と言葉を、行為と省察を引き離すもの…。…(この)事態をフレイレは「言葉主義」と呼ぶ167p
読み書き行為の積極的な可能性を擁護しつつ言葉主義の病を回避しようとすれば、文字の読み書き行為と生活世界、リテラシーと声の世界、もしくは場の文化との矛盾を含んだ相互浸透、両者の絶えざる往還が必要…フレイレは…両者の「対立のなかの統一」を追究167p
フレイレは伝統的な教科書や教師を否定。必要なのは教師ではなくコーディネータ。教科書に代わる学習プログラム。それは「生成語」もしくは「生成テーマ」と呼ばれる語もしくは主題と、それをコード表示した一連の視覚教材。168p
フレイレはプログラムの準備を5段階に分けて説明。
1、当該集団の語彙の調査。日常の会話のなかで使われる語彙を採集。
2、一定数の生成語を選択。どのような文脈でその語彙が使われるかを分析し、語彙の相互関係を考察しながら、話者たちにとってもっとも重要な語彙を選び出す。そこで選び出されるのが生成語。二つの意味で「生成」的であることが求められる。第一に議論を誘発しやく、より広く深い文脈の下で現実を洞察することを可能にするという意味において生成的であること。第二に音節構成においても生成的であること。(音節が生成的というのがぼくにはもう一つ不明。説明は少しあるのだけど)。
3、「コード表示」をつくる作業。場面の絵表示。クリアで奥行きのあるイメージを喚起するために、しばしば画家や写真家がこの作業に参加。
4、学習日程の作成。しかし、順守すべき厳格な日程であってはならない。
5、音節を分解したフラッシュカードの作成。準備は以上。 『被抑圧者の教育学』3章の末尾でフレイレはこれとは別に「文化の概念」についての十枚のコード表示を提案。『伝達か対話か』の巻末に絵と解説全文が掲載されている。168-173p
町場や野良で働く労働者の多くはコロニアルな生活世界にどっぷりと埋没して生きていて、生まれながらの世界に…へその緒でつながっている。…預金型教育の常識を踏襲して、そういう人びとに自分たちが勝手に決めたプログラム内容の「知識」を施したり、理想の人間像を押し付けても、…届かない174p
「革命的ヒューマニズムを信奉する教育者にとっては、活動の対象は自他の力によって変革されるべき現実であって、労働者や農民ではない」《「被抑圧者の教育学」の里見訳》から(前掲書174p)これって、障害の社会モデルにもつながってる。
フレイレの「…活動の対象は自他の力によって変革されるべき現実であって、労働者や農民ではない」が障害の社会モデルとつながっていると思って検索したら、中西正司さんの2009年度に書いた修士論文が出てきた。http://bit.ly/fPmNuo あんなに忙しいのに修論。びっくり
残念なことだが、革命運動のなかで民衆の支持を得ようとしている革命指導者たちも非常にしばしばこの種の垂直型教育プログラムのわだちに嵌り、預金型教育の「筋書き」を惰性的に再現している。(前掲書174p)
かれらの基本的な目標は民衆とともに、その奪われた人間的尊厳の回復をめざしてたたかうことであって、民衆を「征服する」ことではなかったはずである。(『被抑圧者の教育学』の里見訳から、前掲書175p) 恥ずかしくなるくらいにストレートな表現だが、こういうのが必要なんじゃないかとも思う
『被抑圧者の教育学』の里見訳には毛沢東を引用した注も訳されている。そこには、変革が客観的に必要でも、人びとがその必要性を認識しないときは、待たなければならない、という話、人びとに代わって決断してはいけないという話が記載。言い古された話ではあるがいつも喚起が必要な話でもあると思う
民衆がいまもっている…世界像を無視して一種の「文化侵略」を行うなら、それが教育プログラムであっても文化プログラムであっても、よい結果が出ると期待すらだに愚かである。どんないよい意図に発するものであろうと文化侵略であることに変わりはない(『被抑圧者の教育学』の里見訳、前掲書177p
事実の認識が、あたかもそれを認識する主体のたち位置や主観と独立に成立するかのように主張する科学主義は、「知る」行為やその上に築かれる知識を没人格化することによって「人間なき世界」を仮構しているにすぎない、と(フレイレ)は言うのです。200p
対話従事者に求められる倫理的資質、対話の基礎として、愛、謙譲、信頼、希望、批判的思考。フレイレが重要視するのは「愛する能力」。社会で重要視されるのは「愛される能力」。フロムが言う「与える能力」に限りなく近い。それは対等な関係が前提。205-8p
「人間性の核にまで踏み込めば私たちは同一である」という感覚、この連帯意識が兄弟愛を根底的に基礎づけている…。フレイレの言う「愛する能力」には、慈恵的に「与える」ことによって相手の自由を奪う「愛」への痛烈な批判がこめられて…。それを「愛」と呼ぶことを彼は拒否(前掲書209p)
フレイレ:創造し変革する力はある情況のなかで否定されることがあるとしても、ふたたび盛りかえすバネを秘めて、いつか再生し、復活するのだ。…。この人間への信頼の気持ちを欠いたとき、対話は茶番となる。(『被抑圧者の教育学』の里見訳、前掲書212p)う~ん、祈りにも似た信頼だなぁと思う。
213pから:どんなに貶められ、どんなに「非人間化」した状態のなかにあっても、人間はぎりぎりのところで人間としての尊厳をとり戻していく存在である、という確信、それを人間への信頼と呼ぶとすれば、彼の言う「信頼」とは「希望」と同義のものであると考え…
操作され、飼いならされた人間は、抑圧者の影を自分の内部に宿すことによって、みずからを非人間化する支配の構造をしばしば自発的に維持・再生産していく…。そうした支配の手口を、フレイレは「征服」「分割支配」「大衆操作」「文化侵略」という四つの側面から検討しています。(前掲書217p)
革命政治が支配の政治をそのまま踏襲してしまうことが少なくない…。…それは革命とは名ばかりの支配政治の再編に堕していくことに…。革命はすぐれてペタゴジカルな過程でなければならないとフレイレが力説するとき、そこには革命の可能性への信頼と、その現実にたいする批判が(前掲書218p)
フレイレは、革命の文化的・人間的次元を棚上げし、革命をたんなる権力の奪取にすりかえる思想に激しく反対します。革命は本質的に文化のたたかいであり、それこそが革命を革命たらしめるものである、というのです。218pから
「普通の人びとが思考することを革命家たちが拒否してしまうとすれば、彼ら自身が考えることをさぼっているということ。革命家たちの思考は普通の人びとの思考なしにはありえない。人びとのために、ではない。人びととともに、なのだ」フレイレ(前掲書220pちょっと改変)
みずからが参加して「社会」をつくりあげるそのプロセスのなかでみずからの生を変えることは、21世紀を生きる私たちの人間史的な課題でしょう。いわゆる「社会主義」諸国家がグローバル資本主義の「現実」のなかに無惨に回収されてしまった現在…キューバ革命が追求した現実変革のヴィジョンは帝国の喉元に突き刺さる小骨でありつづけています。227pから 「キューバ革命が追求した現実変革のヴィジョン」がどれだけキューバ社会に浸透しているのだろう。そのあたりがなかなか見えない。
2010年の時点で…キューバ革命がともした変革の灯は…中南米の左派政権の成立…で大規模な規模で受け継がれ…。その意味でキューバ革命はいまも継続中…。しかしキューバ革命とは歴然と異なる新しい局面も現われています。資本主義的なグローバル化に反対し左派政権を支えている緒力のなかには、政権に全面的に吸収されることなく、それにたいする緊張関係と自立性を維持しながら、なおかつ、この変化を支え、主導しているさまざまな民衆運動が存在します。228-9p
ただの知識の伝達は、一見、ニュートラル…。しかしそのニュートラルな訓練をとおして、被教育者は「学ぶ」ということの一定のイメージをかたちづくっています。学ぶということは自前の思考を放棄することであり、言われたことに従順に耳を傾け、記憶することであり、その学習成果を競うことであることを、かれらは「学ぶ」のです。 一見ニュートラルな知識の伝達は、選別と排除の過程でもあります。経済的にも文化的にも、それは既成の階級関係の再生産関係過程として機能しています230p
ヘンリ・ジルー…「フレイレの活動と新しい教育社会学の主要な相違は、後者が政治的、経済的、文化的な再生産の論理の解明に終始するのに対して、フレイレの分析は生産の過程、すなわち人間は特定の歴史的背景おとび束縛のうちにおいて、それぞれの方法で自分たちの声を形作り、自分たちの矛盾をはらんだ緒経験を有用なものとしていく、というところから出発する点にある。231p「主要な相違」がほんとうにそこにあるのだろうか。「新しい教育社会学」といっても、「学」がつく限りはうさんくさいなぁと思ってしまうのはぼくの偏見か
あらら誤読
里見実さん233pから 「批判的思考とユートピア的な想像力とは、必ずしも折り合いのよいものであるとはいえませんが、後者を欠いた批判の言語はしばしば絶望とシニシズムの語り口に堕していきます」
フレイレ:民衆の願望が賃上げに絞られそこから一歩も出ないとき、活動家が誤りがちな二つ。1、要求を煽ることに終始。2、まだ身近に感じられない問題を持ち込む。 その解決は総合にしかない。一方で民衆の賃金要求に寄り添い、もう一方で要求そのものの意義を考えること(238pから要約
「BOOK」データベースより)人間が人間として生きることがかぎりなく困難な時代と社会―その重圧の下で非人間化を深める被抑圧者の自由への翻身の契機を探りつづけたブラジルの教育思想家パウロ・フレイレ。世界中で読み継がれているその主著を読み解く
内容紹介:「現代の古典」ともいわれ、世界中で読み継がれている教育思想と実践の書『被抑圧者の教育学』。ブラジルの教育思想家パウロ・フレイレの思想と方法は、死後、ますますその重要性が明瞭になってきている人間を「非人間化」していく被抑圧状況の下で、人間が人間になっていく可能性を追求したフレイレの主著を、10のテーマから読み解く。オリジナル・テキストからの訳とともに。
本のカバー、裏表紙折り返し最後の部分から:「支配の」の装置として作動している「教育」を、人間解放の行為に反転していく手だてを探りつづけたフレイレの歩みは、日本の現実を生きる私たちにとっても、多くの示唆と励ましを与えるものだろう
『被抑圧者の教育学―新訳』が出てる。なんと訳者は三砂ちづるさんhttp://bit.ly/i5yPKb「つねに新しい読者を獲得してきた名著が、いまの時代にふさわしい読みやすさで蘇った。実践を通して繰り広げられたフレイレ教育学の核心の世界へ」買うしかないか。でも、ちょっと待つか
@duruta SWAPOの識字教科書から:コードとはみんなに共通な問題を示す方法のこと。絵でもよいし、寸劇でもよい。みなさんで劇をやってみては?それをベースにして問題の原因だとか解決方法を議論するわけ 159pから孫引き
《パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む》の読書メモ、ここにまとめました。ツイートした順になっているので、本の順番とは違います。「被抑圧者の教育学」に関する講義、ぼくにはとても勉強になりました。
中村U子 @when_we_cry 2011-01-27 19:23:43
パウロ・フレイレを私は未読ですが、かかりつけセラピストが若い頃から愛読しています。「対話の基礎」として「愛する能力」が挙げられたことに説得力を感じます。 @duruta
tu-ta @duruta 2011-01-28 09:14:51
『被抑圧者の教育学―新訳』が出てる。なんと訳者は三砂ちづるさんhttp://bit.ly/i5yPKb
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