「東京大森海岸 ぼくの戦争」(小関智弘著)書評 (おおたジャーナル2013年掲載分)
2013年の3月に「おおたジャーナル」 http://opensession.main.jp/oj-hiroba/index.html 向けに書いた原稿が出てきたので掲載。ちょっとだけ「てにおは」を修正。
ここに出てくる大森捕虜収容所、つまらない理由で日本で公開されなそうなアンジェリーナ・ジョリー監督の映画『アンブロークン』にも出てくるそうです。
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「東京大森海岸 ぼくの戦争」(小関智弘著)を遅れて読みました
小関智弘さんを知らない大田区民はモグリだ、と最初に書いてしまおう。「彼の本を読まないで大田区を語るな」とぼくは言いたい(笑)。でも、2005年に出たこの本のことを、うかつにも全く知らなかった。書かれているのは、ぼくが自転車で走り回っている近所の話で、どこもよく知っている場所だが、そのほとんどはぼくが知らない話だった。例えば、ぼくがいま住んでいる春日橋、空襲の時、多くの人がここに逃げたらしい。この春日橋、いまも人が集まる日がある。大田区の花火が行われる8月15日。平和を祈る大田区の花火大会見るためにここに集まった人のなかに、ここが空襲を避けるために集まった場所だったということを知る人はごく少ないはず。
1945年4月15日のこの空襲で入五小が燃えたと書かれている。そして5月29日の空襲で著者の家は焼ける。その翌日、鷲神社にはいくつもの死体が残っていたという。また、「カトリック(教会)やお寺(密厳院)で、みんなの死骸を焼いたんだよ。…きれいにには焼けませんよ…」というような証言も。また、大森海岸近辺での連合軍捕虜と地域の住民のちょっといい話もある。戦後すぐ、直江津や隅田川の捕虜収容所近くでは報復事件があったが、大森の収容所では、地域でのいい関係があったので、報復事件はなかったという話が笹本妙子さんの『連合軍捕虜の墓碑銘』からの引用で紹介されている。大森にも記録には残らないような事件はあったかもしれない。しかし、証言できる人はもう少ない。
「もうひとつの防波堤」という節では、平和島の対岸にできたRAA(米兵向け慰安施設)の話が紹介される。「玉音放送」からわずか3日後の8月18日に「性的慰安施設の充実を」という指令が内務省警保局長からでているという。その1号施設として8月27日(8月29日という説も)に作られ、3月27日までの約半年間、営業を行った。あわてて設立され、突然廃止されたRAAで、身も心もボロボロにされ、ほうりだされた「防波堤」の人たちには何の補償もなかったと『東京闇市興亡史』の記載が紹介される。
一般的に『平和は大切』と語ることを超えて、なぜ戦争の惨禍がおきたのか、それはどんなものだったのか、また、それを再び賛美しようとしているものがいるということを考えたい。自分が住んでいる地域のことを、こんな風にていねいに記録に残してくれている人がいて、ぼくたちは恵まれている。
P.S.ここで1983年8月28日に放送されたというTBSのラジオ番組『平和島からの証言』が紹介されています。どなたか録音をお持ちなら教えてください。 (以前ブログに書いた読書メモ https://tu-ta.seesaa.net/article/201210article_10.html を減筆訂正)
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ここに出てくる大森捕虜収容所、つまらない理由で日本で公開されなそうなアンジェリーナ・ジョリー監督の映画『アンブロークン』にも出てくるそうです。
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「東京大森海岸 ぼくの戦争」(小関智弘著)を遅れて読みました
小関智弘さんを知らない大田区民はモグリだ、と最初に書いてしまおう。「彼の本を読まないで大田区を語るな」とぼくは言いたい(笑)。でも、2005年に出たこの本のことを、うかつにも全く知らなかった。書かれているのは、ぼくが自転車で走り回っている近所の話で、どこもよく知っている場所だが、そのほとんどはぼくが知らない話だった。例えば、ぼくがいま住んでいる春日橋、空襲の時、多くの人がここに逃げたらしい。この春日橋、いまも人が集まる日がある。大田区の花火が行われる8月15日。平和を祈る大田区の花火大会見るためにここに集まった人のなかに、ここが空襲を避けるために集まった場所だったということを知る人はごく少ないはず。
1945年4月15日のこの空襲で入五小が燃えたと書かれている。そして5月29日の空襲で著者の家は焼ける。その翌日、鷲神社にはいくつもの死体が残っていたという。また、「カトリック(教会)やお寺(密厳院)で、みんなの死骸を焼いたんだよ。…きれいにには焼けませんよ…」というような証言も。また、大森海岸近辺での連合軍捕虜と地域の住民のちょっといい話もある。戦後すぐ、直江津や隅田川の捕虜収容所近くでは報復事件があったが、大森の収容所では、地域でのいい関係があったので、報復事件はなかったという話が笹本妙子さんの『連合軍捕虜の墓碑銘』からの引用で紹介されている。大森にも記録には残らないような事件はあったかもしれない。しかし、証言できる人はもう少ない。
「もうひとつの防波堤」という節では、平和島の対岸にできたRAA(米兵向け慰安施設)の話が紹介される。「玉音放送」からわずか3日後の8月18日に「性的慰安施設の充実を」という指令が内務省警保局長からでているという。その1号施設として8月27日(8月29日という説も)に作られ、3月27日までの約半年間、営業を行った。あわてて設立され、突然廃止されたRAAで、身も心もボロボロにされ、ほうりだされた「防波堤」の人たちには何の補償もなかったと『東京闇市興亡史』の記載が紹介される。
一般的に『平和は大切』と語ることを超えて、なぜ戦争の惨禍がおきたのか、それはどんなものだったのか、また、それを再び賛美しようとしているものがいるということを考えたい。自分が住んでいる地域のことを、こんな風にていねいに記録に残してくれている人がいて、ぼくたちは恵まれている。
P.S.ここで1983年8月28日に放送されたというTBSのラジオ番組『平和島からの証言』が紹介されています。どなたか録音をお持ちなら教えてください。 (以前ブログに書いた読書メモ https://tu-ta.seesaa.net/article/201210article_10.html を減筆訂正)
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