「エンパワメント」は力をつけることじゃない (「たこの木通信」「ほんの紹介 2回目」)2020年12月追記

2015年6月発行の「たこの木通信」に書いた原稿。最後に少し補足
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「エンパワメント」は力をつけることじゃない

(ほんの紹介、2回目)

 今回、紹介したいのは森田ゆり著『エンパワメントと人権』(解放出版社)、1998年と少し古い本なのだけど、大好きな本。サブタイトルは「こころの力のみなもとへ」。

やたらカタカナ言葉が氾濫しててうんざり、とか言いながら便利で使ってしまうのだけど、この「エンパワメント」という言葉も最近、ぼくたちの業界ではよく使われてるし、ぼくもよく使う。 

 でも、これは違うと思える使われ方も散見する。例えば、「支援者が当事者をエンパワメントする」みたいな。ぼくは別にエンパワメントの勉強をしたわけじゃないので、エンパワメントの定義などはすべてこの本からの受け売りなんだけど、この本にはエンパワメントについて、以下のように書かれている。(多少オリジナルと違うところもあるかも)
エンパワメントとは「力をつける」ということではない。それは外に力を求めて、努力して勉強してなにものかになっていくということではなく、自分の中にすでに豊かにある力に気づき、それにアクセスすること。
なにものかにならなければ、何かをなしとげなければという未来志向の目的意識的な生き方は、裏返せば今の自分はだめだという自己否定と無力感を併せ持つ。

エンパワメントとはまずもって一人ひとりが自分の大切さ、かけがえのなさを信じる自己尊重から始まる、自己尊重の心は自分一人で持とうと意識して持てるものではない。まわりにあるがままのすばらしさを認めてくれる人が必要だ。無条件で自分を受け入れ、愛してくれる人が。 

自分がつまんない・とるにたらない人間だって(ぼくもときどき思うけど)思わせる差別や抑圧がある。社会そのものがそんな形になってるような気もする。でも、そうじゃなくて、そのまんま生きてることがすごく素敵なことだと自分で気づくためのプロセスがエンパワメントなんだと思う。もちろん、間違ったり、酷い保身に走ったり、ずるいこともするのも自分で、それをそのまま受け入れろって、って言われても……、と思ったりもするけど、そうじゃない部分もあるありのままの自分を見つけることができるはず、そんなメッセージをぼくはこの本からもらった。

森田さんはこんなふうにも書いている。
エンパワメントとは差別される側、被害を受ける側、弱者とさせられてきた者の側、・・・に立つことを選んだときに初めて可能になる関係のありかたである。その立場を明確にすることによって社会から受ける批判に立ち向かうことである。「中立」とか「客観的」「科学的」などといった立場に逃げ込んで、抑圧する側にくみしてしまわないことだ。50p

何者かになろうと懸命に励んで、知識や技術という服を幾重にも着こんでいくのではなく、逆に着膨れしている服を一枚一枚脱いでいき、自分の生命力の源に触れることだ


これを読んで、そんなの容易ではないと思う。たぶん、そう感じるのはぼくだけではない。森田さんはそれに続けて、こんな風に書く。
 自分の中の膨大な自然(無意識)を受容し、ケアし、そこに息づく生命力と呼吸をあわせることだ。自分の生命力が十分に感じられなかったら、裸足で地面をしっかり踏みしめ、大地の命を吸い上げることだ。人間の生を育んでくれる自然が傷つき病めば、人間の心とからだも傷つき病む。人はその存在そのものがひとつの全体であるのと同時に地球の生態系に連なる全体の一部なのである。

この本の最後はこんなことばで締めくくられている。
「大地の声に耳をすますこころは、インディアンの人びとからわたしが受け取ったかけがえのない贈り物、力の源にほかならない。」
とりあえず、自然の中で裸足でたち、大地のいのちを感じることができるかどうか試してみよう。耳をすませても、大地の声が聞こえるかどうかはわからない。でも、聞こうとしてみよう。いつか、その声が聞こえる日がくるかもしれない。     

tu-ta(大田福祉工場/丸木美術館/PP研)
~~転載、ここまで~~

引用ばっかりだなぁ

2020年12月25日追記
いま、読み返すと冒頭に書いた【これは違うと思える使われ方も散見する。例えば、「支援者が当事者をエンパワメントする」みたな】という部分、微妙だと思う。エンパワメントが自分が本来持っている力に気づくプロセスだとすると、支援者が本人のエンパワメントのためにできることはエンパワメントの一環なのか、それはエンパワメントではなく、エンパワメントの支援、あるいはエンパワメントの条件整備であって、それはエンパワメントのプロセスと言えるかどうか?

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