「相模原障害者殺傷事件(優生思想とヘイトクライム)」メモ(追記あり)

「相模原障害者殺傷事件(優生思想とヘイトクライム)」メモ


目次(青土社HPから)

あらゆる生の線引きを拒絶する
障害者殺しとそれへの抵抗の歴史を召喚し、いちはやく事件のフレームを示してみせた社会学の第一人者と、若者たちの鬱屈の深層を見つめながら、等身大の言葉で語りかける在野の批評家による緊急提言。

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【目次】

はじめに――立岩真也
 

Ⅰ ――立岩真也

第1章 精神医療の方に行かない

第2章 障害者殺しと抵抗の系譜

第3章 道筋を何度も作ること


Ⅱ ――杉田俊介

第1章 優生は誰を殺すのか

第2章 内なる優生思想/ヘイト/ジェノサイド


Ⅲ ――立岩真也+杉田俊介

討議 生の線引きを拒絶し、暴力に線を引く

1 まず何を、誰に、どのように書いたか 
2 立ち返るべき場所、開いていく歴史
3 マジョリティでもマイノリティでもない者の鬱屈 
4 さまざまな「言い方」の実践
5 施設、あるいは地域をどうするか
6 この時代と人の不安を語ることの困難
7 解毒し、線を引くこと

おわりに――杉田俊介

~~目次ここまで~~


3月7日に杉田さんの「人の生に意味も無意味もない」という議論について書き足した。



立岩さんのサイトに詳しい情報がある。「はじめに」もここで読める。



杉田・立岩という組み合わせ。

この組み合わせについては立岩さんが少し書いていたが、立岩さんが選ぶ形で始まった企画だったのだろう。こんな形で立岩さんが届けたかったものは何かというところが、もうひとつ理解できていないまま読書メモを書き出す。


立岩文体、苦手というのもあったし、誰かが対談から読むと読みやすいと書いていたので、対談、杉田、立岩の順で読んだ。


メモもその順で


対談の冒頭で、両者は何が書けて、何が書けないという話をお互いに出し、これまで書いてきたものについて、以下のように説明する。

立岩さんは、これまで障害者が殺されてきた話(考えの流れや脈絡)なら書ける(180p)とし、杉田さんは、ここでは「植松青年」と表記されるUに共感する匿名的な空気についてであれば、何か言えるし、いま言うべきことがある(182p)

だから、書いてきたという。この本に記載されている内容も、おおむねこの線で書かれている。その記録を残すというアプローチは大切なのだろう。


杉田さんが熊谷さんのいう「依存先の複数性」というのはセンのパラフレーズであり、言葉を一般に開くための努力(187p)だと書いていたのだが、ほんとにそうかと思った。湯浅さんの「溜め」がその言い換えであるのは本人も書いていたと思うし、そのとおりだと思うのだけど、「依存先の複数性」にはケーパビリティアプローチに収まらないものが含まれているようにも思う。


立岩さんに関して、杉田さんが「理念のラディカリズムと実践のリベラリズム」と評価して、立岩さんが実践についてはリベラリズムじゃなくて、改良主義・漸進的改良主義だと応えてる(188ー189p)。「理念のラディカリズムと実践の改良主義」、確かにそうだ。


杉田さんは、彼の中でいままで有機的に結びついていなかったヘイトと優生主義が今回の事件で完全に合流し、現実の見え方が変わったという(192p)

ぼくもヘイトはいつか「障害者特権」のようなものに向かうかと危惧しているが、まだ微妙に、そこまで行かずに残っているところもある。「障害者特権」に反対するヘイトデモはまだ起こっていないが、GHの建設反対運動などと簡単に結びつくだろうし、その温床はできつつあるようにも思う。


杉田さんが使うキーワードの代表として、「キメラ的存在」というのがある。

196pではこんな風に使われる。
マジョリティとマイノリティの境界線に落っこちた、構造的には加害者であり同時に被害者であるような・・・何かできるようなできないような、そうしたキメラ的な存在や身体の立場に立ちながら、そこから出てくる理念性みたいなものも同時に必要ではないか。


こんな風に、それが語られる文脈から、キメラの意味は推測できるのだけれども、それが何からきているのか、具体的には知らなかったので調べてみた。

Wikiに解説がある。
生物学における キメラ (chimera) とは、同一個体内に異なった遺伝情報を持つ細胞が混じっていること。またそのような状態の個体のこと。

この用語はギリシア神話に登場する伝説の生物「キマイラ」に由来する。 近年は「キメラ分子」「キメラ型タンパク質」のように「由来が異なる複数の部分から構成されている」意味で使われることもある。
脊椎動物には移植免疫があるため、生体でキメラを作ることはできない。医学・獣医学では、2個以上の胚に由来する細胞集団(キメラ胚)から発生した個体を指す。例としては、ニワトリとウズラのキメラがある。
とのこと。


で、さっきのキメラに関する引用とそれに続く部分が杉田さんの主張の核心的な部分だろう。
リベラルかつソーシャルな制度と再配分によって、もれなく包摂するという視点がまずあって、同時にそういうキメラ的な存在からでてくる理念的なものを模索する。それら両方の道が同時にあっていい・・・196p

それに続く以下の例もわかりやすい。
「生きてよい」「殺すことはない」といった障害者運動の理念は、もしかしたら現代のマジョリティに近い立場の人々の心には、そのままでは届かないかもしれないけど、そういう人々の存在をさらに踏まえることができたなら、障害者運動の理念はさらに普遍化し、高まられるのではないか・・・196-197p


その意見に同意した後で立岩さんは、いわゆる「障害」よりも広く、「できないこと」を捉えるべきだと主張し、多くの場合、「できる/できない」はグラデーションでつながっているし、どんな「できる/できない」が注目されるかは時代によって異なる、と言います。その上で、外見がどうあれ、できないものはできないのだから、それが不利に働くなら基本的にその社会はよくない線で行こう、ということです、という。

しかし、グラデーションでつながっている/は動く。この/をよりできる方向に個人の身体に着目して、動かしていくというのが医療モデル・個人モデルなのだが、それは可能であるなら否定される必要はないだろう。しかし、それだけが重要視されて、個人の努力では/が動かせない「できなさ」が等閑視されてきた歴史があり、そこで/は社会が創り出すのだから、社会の力で/を動かすという主張が生まれてきた。それを社会モデルと呼んでいいと思う。しかし、それでも残る「できなさ」はあり、それをめぐる議論もある。という話だと思う。(話がそれた)


201pで立岩さんは「あの青年にまじめに怒った人がいたのか」と繰り返し言ってきた、そして、怒らなければならない、という。


202pからは杉田さんの『嫌われる勇気』の評価が出てきてそれも興味深い。あの主人公の青年が会いに行ったのがネトウヨだったら、そっちに行った可能性もあるのではないかという。そして、この本が売れた理由として、鬱屈した青年に言葉をどう届けるか、教えを伝えるか、という本だったこともあるのではないか、と。


206pで立岩さんは精神障害や発達障害の人のぐちゃぐちゃした部分に向き合っていたソーシャルワーカーが「ケアプランを作るというようなどうでもいい仕事に、支援という仕事が収斂されている」という危惧を語る。果たして、ほんとうにそんな風になっているかどうかは議論がある部分だろう。


立岩

家庭が引き受けるか施設かという古典的な選択、家族が逃げていいと言ってもいいと思っています。209p


立岩さんに関して、杉田さんが「理念のラディカリズムと実践のリベラリズム」と評価して、立岩さんが実践についてはリベラリズムじゃなくて、改良主義・漸進的改良主義だと応えてる(188ー189p)。「理念のラディカリズムと実践の改良主義」、確かにそうだ。


216p~のグループホーム・ケアホームならいいというわけではない、という議論。

立岩

・開放性、流動性がキープされていること。

・職員がひとりであることの危険性

杉田

・開放的でオープンでありながら、同時に個人としてのプライベートな場所も安定的に確保されていること。

・プライバシーの重視がいわれながら、結果的には管理が進んで、「異質な他者たちの出会いの場」という意味でのオープンネスが失われている。

しかし、生活の場をオープンにしたいかどうか好みがわかれるところだろう。


227pで杉田さん
立岩さんのある種の一元論に対して、自分は二元論。ラディカルとリベラルは二元的に対立している。しかし、その分裂の先でそれらがかろじて一致するとしたら・・と考える。植松青年だけに向き合ていくと結局は個別の話になってしまう。・・・僕の議論では迂回を挟んで、それを僕自身の話にも結び付け、かつ、彼の言動にひそかに共感してしまうような「あなたたち」の匿名的な空気へも結びつければ、少しは何かが言えるかもしれない。


235pでは杉田さんの息子へのホルモン注射のことが記載されている。

これは「海やアシュリーのいる風景」でも触れられていた。


この児玉さんの書評は読ませる。この書評でぼくはこの本を読むことになったのだと、いま思い出した。

で、

その息子のホルモン注射の話から、優生思想は自分のためではなく、他者のためというロジックが導かれ、その話が植松青年につながる。そして、、以下のように書かれる。
彼のなかにある許しがたい暴力性と、社会や他人に対する気持ちの揺れ動きみたいなものを所々に感じてしまう。そこがかなり厄介ではないか・・・。彼は19人もの人を殺しただけではなく、彼自身に対して、優生的な線引きの暴力を振るってしまっているように見える。236p


それを受けて、立岩さんは、優生思想反対みたいなことはみんな言うが、具体的に何に反対しているかという話が私を含めて抜けているといい、そのあとで、出生前検診や安楽死・尊厳死の話をしている。(236-237p)

そして、この線引きの話で対談は終わる。



次に杉田さんのパートについて


先の対談にあったように杉田さんは

彼の言動にひそかに共感してしまうような「あなたたち」に呼びかける。124ー125p


135pでは、優生思想が遠いところにあるものではなく、たとえば、「ダウン症の子を育てる親はえらいけれども、自分には無理」というような空気が優生思想の温床になっており、優生思想とは狭義のイデオロギーではない、とし、以下の堀田義太郎さんの「優生学とジェンダー」を一節を援用する。
「優生学の核心にあるのは人々の「負担回避」への利害である」


146pの、以下の言いきり方は心地いい感じもあるが、誰だって、少しくらい何かの役に立ってるんじゃないかという感じもする。
 役に立つか立たないか、という物差しをもしも使うならば、誰の訳にも立っていない人生はある。他人に迷惑をかけ続けて終わっていく人生もある。それはある。そう言わざるをえない。
 けれども、役に立たなくても、別に構わない。あるいは、その必要がない。・・・役に立たなくても、あるいは誰かに負担や迷惑をかけていても、生きていることはいいことである。なぜなら生きることは比較や線引きの対象ではなく、そのままでよいことだから。そうとしか、言えないことだから。それを言えたとき、・・・ 146p

 ここまでの論旨はとても明確ではある。ぼくは、どんなに役に立たなそうに見えても、その人の存在が、その人がなんらかの形で息をしているということが誰かに恵みをもたらしたり、一見、それが否定的に見えても、実は身近にいる人の「役に立ってる」ことはあるんじゃないかと思うのだけど。


で、わかりにくいのは、これに続く以下の文章だ。
そうとしか、言えないことだから。それを言えたとき、他人に対してそう言えたとき、ようやく新しい問いがはじまる。この社会をマシなものに変えていくとは、構造的な不平等や非対称を変えて、誰もが平等に幸福で自由になりうる環境を目指すことである、ならば、自分には具体的に何ができるか、・・・146-147p

ここに書かれていることは明確なのだが、わからないのは、なぜ、他者にそういえたら、新しい問いがはじまるのか、ということ。


そこはわからないままだが、ここに続く部分で、どんな生にも何らかの意味合いがあるのではないかという考えを杉田さんは明確に否定する。彼は、以下のように書く。
 どんなに重度の障害者の生にも意味がある、などと言いたいのでは決してない。そう言ってしまえば、意味/無意味、善い生/悪い生という差別的な二分法が温存されてしまう。147p
このように言うことが「生命への傲慢だ」というのだが、どんな生にも意味がある、無意味な生などないと言っているのに、なぜ、それは二分法だと非難されなければいけないのか、よくわからない。


杉田さんは、誰にとっても「人間の生には平等に意味がない(生存という事実は、端的に非意味でしかない)」・・・「僕らはむしろ・・・そうした圧倒的な非意味=ノンセンスこそ、耐えねばならないのではなかったか」と書いて、直後に

「生存という事実には、そもそも意味も無意味もない」と書く。147p

さっき、「意味がない」って書いてたじゃないかとつっこみたい感じもあるが、意味があるとか、ないとか、誰にも決めてほしくないっていうのが正直な感じだ。


去年、大ヒットした星野源の歌にも「意味なんてない、暮らしがあるだけ」っていうのがあったのを思い出した。この歌詞はけっこう好きだったんだけど、杉田さんに言われると違和感を感じるのはなんでかなぁ?


と、ここまで書いて、この文章(のもとになる文章)のメモを前に書いていたのを思い出した。



ここに引用してる以下の部分、この本ではどこだったか探してみた。

~~~

杉田さんは人生に意味があるとかないとかの線引きが無意味であるとしたうえで、以下のように書く。
 たとえ意味はなく、無意味ですらなくても、人の生は自由でありうる。自由なこの生を、ほんとうは、誰もが十全に生き切ることができる。しかし、そのためにこそ、社会構造を変えなければならないのだし、また内なる優性思想を断ち切らねばならない。優生的な差別はたんに他者を殺すばかりでなく、あなた自身をじわじわと内部から滅ぼしていく。・・・・
 そんな無意味で自由な存在たちが、たまたま出会ったり、出会い損ねたりしながら、互いの内なる差別を超えていく場所、それがそもそも障害者運動の中で言われてきた「地域」であり、また地域における自立生活であるからだ。「地域」とは、むしろ僕らの側が根本的に問い直されてしまう場所なのだ。
124-125p(現代思想でのページ数)


この部分、今回の本では少し手が加えられ以下のようになってた。(引用のミスタイプはあるかも)
 するとこういうことではないか。
 たとえ意味はなく、無意味ですらなくても、人の生は自由でありうる、と。
 自由なこの生を、ほんとうは、誰もが十全に生き切ることができる。最後まで。最初から。あるいは今すぐに。しかし、そのためにこそ、社会構造を変えなければならないのだし、複雑に絡みあった内なる優性思想を断ち切らねばならない。優生的な差別はたんに他者を殺すばかりでなく、あなた自身をじわじわと内部から滅ぼしていくからだ。・・・・
 そんな無意味で自由な存在たちが、たまたま出会ったり、出会い損ねたりしながら、互いの内なる差別を超えていく場所、それがそもそも障害者運動の中で言われてきた「地域」であり、また地域における「自立生活」であるからだ。「地域」とは、むしろ僕らの側が根本的に問い直されてしまう場所なのだ。148-149p

~~~~



168p~の部分では高史明さんが『レイシズムを解剖する』から米国のレイシズム研究の蓄積を参照、現代的レイシズムと古典的レイシズムを整理しているのを紹介している部分も興味深いが略。


 現代的な「右」には、レイシズム、ミソジニー、優生思想などが入り雑じっているとされる。ならば、そうした膨大なルサンチマン(被害者意識、攻撃性、ミソジニー、階層脱落の不安など)をどう解消、緩和していくのか。彼らの「心の穴」をどうすれば満たすことができるのか。それはグローバルな課題であり、かち、極めて身近な課題でもある。我が身を振り返っていくほかにない。 174p
「我が身を振り返っていく」ことは大事なことなんだろうけど、それで、どれだけこのグローバルな課題にアプローチできるだろう?

渦巻くルサンチマンとレイシズムやミソジニーとの関係は深そうだ。どうすればいいのか、やはり、本格的にルサンチマンを解消できるのは社会変革しかないというのを、理解できるように提示する必要があるのだろう。


この文章の結語部分で杉田さんは再び、「人間の生には平等に意味がない」という主張を繰り返し、「意味と無意味の線引きを拒否することが内なるヘイトや優生思想の芽を断ち切っていくべき」(176p)と主張する。これへの違和感は少し前の部分で書いたとおりだ。


杉田さんが書いているように、「意味と無意味の線引きを拒否することが重要なのか、それとも「そんなことをおまえが決めるな」ということが大事なのか迷う。ぼくにとって、仲間や友人たちの生はとても意味があるように思える。親密な人の生がぼくの生を支えてくれているようにも思える。そして、文字通りに生存を支えられている部分もある。


意味があるかないかというのは「関係性」の問題ではないだろうか。だとすると、それを「他者であるおまえが決めるな」というのは正しいのではないかと思う。「関係性の問題」という風に整理してしまえば、確かに、ある人にとって、ある人の生は意味がない、ということはあるだろう。植松青年にとって、やまゆりに住む人たちの生には意味がないと思えたとしても、それは別の人にとってはかけがえのない意味のある生だったのではないか。植松青年が「意味がない」と勝手に思うのは自由かもしれない。「じゃあ、ほっとけよ」という話ではないか。


そのように考えたときに「人の生に意味も無意味もない」と問題を立てるよりも、「人の生の意味は関係性の上に成立している」と考えたほうがすっきりするのではないかと思う。







最後に立岩さんパート

これまでの話は飛ばして9節「これから」

まず
「本気で面と向かって怒れ」
という。85p


96pでは「よいものがあると言わなくてもよいと思う」と立岩さんは書く。さっき書いた、杉田さんの「生きる意味」の議論ともつながるかもしれない。事件度半年(この本が出た後だが)、Eテレで殺された彼や彼女の足取りをたどる番組があり、賛否がわかれていたが、立岩さん流に言うと、「よいものがある」という番組だったかもしれない。でも、ぼくは彼や彼女が残したい いものに触れることができてよかったと思った。立岩さんはここに続けて、言っていけないわけではなく「効く」のであれば、なんでも言えばよい」(97p)とも書いている。


身体に「インペアメント」がある、あるいはあることが想定されている「障害(disability)」よりも「非能力(disability)」のほうが広い。むしろ後者の「障害」による線引きは、一部の人たちを取り出していくらかを免責することにより、そしてその範囲にとどめることによって、この社会を維持していると言える。「障害学」も、そのことをわかっていないと、そのことに加担することになるだろう。102p
この部分がもうひとつ落ちなかったので、ツイッターで立岩さんに質問してみた。(返事はまだない)
この本での立岩さんの「一部の人たちを取り出していくらかを免責することにより、そしてその範囲にとどめることによって、この社会を維持している」という部分、障害者雇用枠で安い賃金で働くというようなことを指しているのでしょうか?教えてもらえたらうれしいです


104p~は「健康に気を遣ったら、その分保険料を安く」という例があげられ、それに関する考察が記載されている。

ぼくが感じるのは、寝てれば治るような風邪でいっぱい薬が出るからなぁということ。ただ、処方箋を出されてしまうと、抵抗できない弱い自分。保険料じゃなくて、医療費の話だけど、なんとかならないかと思う。


で、興味深かったのが108pのZizek(ジジェク)らの『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』からの引用。「社会を発展させるために労働力の20%が再生産すればいい」というもの。

週5日8時間労働くらいの計算なのか?それで、計算すると、均等に割ることが出来れば、週に8時間働けばすむんだなぁ。


3章 道筋を何度も作ること(93p~)

の「3節 野蛮な対処法と別の方法」では移民の問題が扱われる。その「2項 別の方法」では以下のように書かれている。(要約)

 人の流入を含む自由化を前提とすると、格差が広がる。それを問題とするのなら、世界的な格差を縮めていけばいいが、それは困難。
 まず、自由化を最初におく必要はない。奪われることに憤ること、抗議することには理がある。その土地における社会関係を破壊する人や物の流入を認めないことを正当とされることはある。それはこれまで「先進国」からの侵略に対する反発としてあった。今、米国のある人々が流入に反対してることは極端に違うことではない。どこまでもというのはないが「保護」は認められる。極端な排外主義者とそれほどでもない人たちとがいる。両者は連続的であるとしても、極端な人たちとはいっしょにならないことは選ばれうる。
 そして流入によって拡大する有利不利を減らすために、差を縮小することを優先する。
 国内の差を縮めようとすると、富裕な人や組織は外国へ出ていく。をれを理由に差を縮められないとも言われるが、課税についての国際的な取り決めがあれば、国内・国際的な格差の縮小は可能であることを示す。そうすると、仕方なく好きでもないところに住み働くところを移動する必要もなくなる。112-114p
これは移民の問題を考えるうえで参照できるかもと思った考察。


そして、この本の立岩パートはこれに続く以下の結語で終わる。
以上はきわめて単純、というほどに単純ではない。しかし、それほど複雑ではない。・・・一面では不当に扱われるつつ、抑圧する側にまわっている人たちを味方につけねばならない。そして、それはそう簡単なことではないが、どうしようもなく難しいことでもない。

これをこの本の立岩パートの結語に置いてあることの意味を考えてみた。移民という部分を障害者に置き換えることはでこるだろうか?この結語については、かなりそういう部分はありそう。移民排斥のようには障害者排斥はあからさまにはなっていない。障害者の排斥には「できる」「できない」というしみついた価値観が使われることが多いから、目につきにくいだけかもしれないが。

 また、税金を使って格差を減らすという話も障害分野でも応用できることはありそうではある。しかし、立岩さんがそのような意図で、この移民に関する言説を自分のパートの最後に置いたのかどうかは不明。






あと、面白かったのが注での立岩さんの「ポスト**」というのに「倦いていた」(これが読めなかった)。「近代」というおおざっぱで古い括りでものを考えようとしてきた。(114p)という記述。

上記の「倦いていた」マイクロソフトの日本語FEPではこれ、出てこない。

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