ハートネットTV「知的障害者の施設を…14施設からも家族からも自立して生きる」にコメント(追記

ハートネットTV「知的障害者の施設をめぐって 第14回 施設からも家族からも自立して生きる」
http://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/choryu/263955.html
にコメントを書いたので、ここにも残しておくことにした。

上記のサイトを読んでもらえばわかるのだけど、公共放送NHKのサイトでは、URLや固有名詞は入れられないみたいで、変えてもいいですかというメールが来て、ちょっとやりとりがあって、以下の文章と実際掲載したものは少し変わっている。また、旧知のspitzibaraさんさんから、指摘をもらって、ぼくの誤読も明らかになっているので、そのやりとりは最後に貼っておきたい。

NHKのサイトでも同様のやりとりをしているのだけど、spitzibaraさんのブログでよりつっこんだやりとりをしているので、そっちを紹介。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/65476129.html


とはいうものの、番組は見ていない。

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興味深く読ませていただきました。
ほとんどの部分がその通りだと思って読みました。

その上で、という話なのですが、障害者権利条約19条の以下の部分は何度も読み返して欲しい部分だと思っています。
「障害者が、他の者との平等を基礎として、居住地を選択し、及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること並びに特定の生活施設で生活する義務を負わないこと」


この(ハートネットTVの)文章にも書かれているように現実にはそうなっていません。
そして、以下は本当にその通りだと思います。
「地域移行」の流れ…が家族に重い介護負担を課す過去への揺り戻しにならないためには、地域での「脱家族」の態勢づくりも同時に進めていく必要がある

 
しかし、求められているのは、ほんとうに「施設とともに家族からも自立して生きられる社会」でしょうか?
確かに、すぐに施設を全部なくせ、という風にはいきません。しかし、施設でも家族だのみでもなく、その人が望む暮らしができる、それを実現する環境こそが求められているのではないでしょうか? そして、ごく一部ではありますが、そのような例も生まれつつあります。
『あゆちゃんち』http://ayuchan.jp/#

 そして、医療的ケアがない重度の知的障害の人たちの選択肢もまだまだ限定されていると考えています。私は大田区に住み、障害者支援に関わっていますが、主要に介護している人(主に母親)からの支援が継続できなくなった場合に、行ったこともない、たぶん本人も望んでいない、地域の施設やGHに行く人は後を絶ちません。

そのような状況で、地域で住み続けるという選択肢を知ろうというキャンペーンも始めたところです。
知的障害者の自立生活についての声明文プロジェクト
https://jirituseikatu.jimdo.com/

そういう意味では【地域での「脱家族」の態勢づくり】こそが重要であり、そこに現在、【施設とともに】を加えなければ維持できない、そんな社会資源しかないという現状は理解できるのですが、あえて、【施設とともに】を加えずに呼びかかけたいと私は考えています。
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spitzibaraさんのところでのやりとり。こっちに記録用にメモ

> tu_*a*さん

改めて読み返して、tu_*a*さん、とんでもない誤読をしておられると思いますが。

問題にしておられる「施設とともに」の箇所は、「障害者の自立生活運動を推進する人たちが求めているのは、施設とともに家族からも自立して生きられる社会」です。

この記事のタイトルも「施設からも家族からも自立して生きる」となっているように、その「施設とともに」とは、「施設から自立すると共に家族からも自立して」という意味なのではありませんか?
2017/3/8(水) 午後 9:06 [ spi*zi*ara2 ]



確かに、そこは誤読でした。spitzibaraさんの指摘の通りです。(ちょっと恥ずかしい)
「障害者の自立生活運動を推進する人たちが求めているのは」という部分に着目すれば、ここでの意味は「施設からも家族からも自立して生きられる社会です」ね。

ただ、このコラム、その後の方では「施設も地域福祉を支える社会資源へと、その役割を広げつつあるように思います」「日本の施設の歴史的経緯を理解し、地域と施設が補完し合って、一人ひとりにふさわしい最善の形を」とあります。そこに引きずられて読んでしまっていました。

そういう意味でのこのコラムへの違和感と読み替えていただけると幸いです。
2017/3/9(木) 午後 6:18 [ tu_*a* ]




重症児者では、医療的ケアや医療的配慮を必要とするため、そのケアは専門性と個別性が高く、地域での生活を支援していく為に必要な資源がこれから整備されていくにも、NICUを備えた大学病院など高度な医療機関と、重症児者医療とケアの知見と資源が集約されてきた重症児者施設と、それぞれの地域の医療/支援の事業所とがネットワークで繋がり、「補完しあう」ことは不可欠ですし、私はさらにそこがうまく「循環」できるだけの資源と仕組みが十分に整備されないかぎり、重症児者の「地域移行」を安易に進めてもらったのでは、本人と家族の命に関わる、と考えています。
2017/3/9(木) 午後 8:08 [ spi*zi*ara2 ]




上記のコメントで重症児者のリアリティを感じました。とりわけ「重症児者医療とケアの知見と資源が集約されてきた重症児者施設」というのは、あまり考えたことのない視点でした。確かに現実にはそれがなければ難しいのだろうなと感じました。

と同時に、その「重症児者」では、そうだと思えるロジックがあまりに容易に使われ、重症児者的なケアの必要のない多くの障害者が地域から遠く離れたところで生活を余儀なくされています。「この人は行動障害があるから、専門性のある施設でなければ暮らせない」というような話がまだまだ流通していることに苛立ったりしています。

spitzibaraさんは、そのことをわかった上で、あえて書かれているとは思ったのですが、ここを読んでいる人のために、あえて付け加えさせてもらいました。
2017/3/10(金) 午前 2:55 [ tu_*a* ]



追記するとspitzibaraさんが少し前のコメントで書いていた
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抽象的な「障害」や「施設」や「地域」を論じている人は、ここでの立岩さんの「家族は逃げればいい。家族を蹴飛ばせばいい」に象徴されるように、「それぞれ自分の主張したいことを主張しやすいように、文脈によって多様な障害像を恣意的に出し入れ」することができるだろうけど、「個々の本人と家族は、そんな器用な手品なんて使えない」固有具体の「現実を生きて」いかざるをえない・・・
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そういう話ですね。ただ、ぼくが見てる相手とspitzibaraさんが見てる相手が違うというふうに括れるかもしれません。
2017/3/10(金) 午前 3:04

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