「人の生に意味も無意味もない」のかなぁ(ほんの紹介、9回目)2023年8月追記
2017年3月のたこの木通信に書いた原稿
最後に2023年8月の追記
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「人の生に意味も無意味もない」のかなぁ
(ほんの紹介、9回目)
今回、紹介するのは
『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(青土社,260p)のなかでの杉田俊介さんの部分に書かれている「人の生に意味も無意味もない」という話。今回はここだけに焦点を当てて感想を書く。
以下の言いきり方は心地いい感じもあるが、誰だって、少しくらい何かの役に立ってるんじゃないかという感じもある。
役に立つか立たないか、という物差しをもしも使うならば、誰の訳にも立っていない人生はある。他人に迷惑をかけ続けて終わっていく人生もある。それはある。そう言わざるをえない。
けれども、役に立たなくても、別に構わない。あるいは、その必要がない。・・・役に立たなくても、あるいは誰かに負担や迷惑をかけていても、生きていることはいいことである。なぜなら生きることは比較や線引きの対象ではなく、そのままでよいことだから。そうとしか、言えないことだから。それを言えたとき、・・・ 146p
ここまでの論旨はとても明確ではある。しかしぼくは、どんなに役に立たなそうに見えても、その人の存在が、その人がなんらかの形で息をしているということが、誰かに恵みをもたらしたり、一見、それが否定的に見えても、実は身近にいる人の「役に立ったり」することはあるんじゃないかと思うのだけど。
で、わかりにくいのは、これに続く以下の文章だ。
そうとしか、言えないことだから。それを言えたとき、他人に対してそう言えたとき、ようやく新しい問いがはじまる。この社会をマシなものに変えていくとは、構造的な不平等や非対称を変えて、誰もが平等に幸福で自由になりうる環境を目指すことである、ならば、自分には具体的に何ができるか、・・・146-147p
わからないのは、なぜ、他者にそういえたら、新しい問いがはじまるのか、ということ。
そこはわからないままだが、ここに続く部分で、どんな生にも何らかの意味合いがあるのではないかという考えを杉田さんに明確に否定する。彼は、以下のように書く。
どんなに重度の障害者の生にも意味がある、などと言いたいのでは決してない。そう言ってしまえば、意味/無意味、善い生/悪い生という差別的な二分法が温存されてしまう。147p
このように言うことが「生命への傲慢だ」というのだが、どんな生にも意味がある、無意味な生などないと言っているのに、なぜ、それは二分法だと非難されなければいけないのか、よくわからない。
杉田さんは、誰にとっても「人間の生には平等に意味がない(生存という事実は、端的に非意味でしかない)」・・・「僕らはむしろ・・・そうした圧倒的な非意味=ノンセンスこそ、耐えねばならないのではなかったか」と書いて、直後に
「生存という事実には、そもそも意味も無意味もない」
と書く。147p
ぼくは意味があるとか、ないとか、他人に決めてほしくないと思う。
去年、大ヒットした星野源の歌にも「意味なんてない、暮らしがあるだけ」っていうのがあったのを思い出した。この歌詞はけっこう好きだったんだけど、杉田さんに言われると違和感を感じるのはなんで?そして、こんな風にも書かれている。
するとこういうことではないか。
たとえ意味はなく、無意味ですらなくても、人の生は自由でありうる、と。
自由なこの生を、ほんとうは、誰もが十全に生き切ることができる。最後まで。最初から。あるいは今すぐに。しかし、そのためにこそ、社会構造を変えなければならないのだし、複雑に絡みあった内なる優性思想を断ち切らねばならない。優生的な差別はたんに他者を殺すばかりでなく、あなた自身をじわじわと内部から滅ぼしていくからだ。・・・・
そんな無意味で自由な存在たちが、たまたま出会ったり、出会い損ねたりしながら、互いの内なる差別を超えていく場所、それがそもそも障害者運動の中で言われてきた「地域」であり、また地域における「自立生活」であるからだ。「地域」とは、むしろ僕らの側が根本的に問い直されてしまう場所なのだ。148-149p
優生思想を断ち切らなければならない、ということを言葉として否定する人は(いまのところ)ごく少ないだろう。しかし、そのことと、生きることの意味/無意味を無効化することをつなげる杉田さんの議論がどうしても理解できない。誰もがそれぞれの関係性の中で生きる意味を持っていると思うからだ。障害者運動が求めてきた「地域」における「自立生活」がお互いの内なる差別を超える場所であって欲しいという思いは(現実の自立生活運動がどれだけ「地域」を形成するという方向性を持ち得ているかという疑問も持ちつつも)共有できるのだけど
現代的な「右」には、レイシズム、ミソジニー、優生思想などが入り雑じっているとされる。ならば、そうした膨大なルサンチマン(被害者意識、攻撃性、ミソジニー、階層脱落の不安など)をどう解消、緩和していくのか。彼らの「心の穴」をどうすれば満たすことができるのか。それはグローバルな課題であり、かつ、極めて身近な課題でもある。我が身を振り返っていくほかにない。 174p
「我が身を振り返っていく」ことは大事なことなんだろうけど、それで、どれだけこのグローバルな課題にアプローチできるだろう?
渦巻くルサンチマンとレイシズムやミソジニーとの関係は深そうだ。どうすればいいのか、やはり、本格的にルサンチマンを解消できるのは社会変革しかないというのを、理解できるように提示する必要があるのだろう。そのことと意味/無意味の無効化の是非の話をつなげて考えることもできるかもしれないがやはりわからない。そして、この文章の結語部分で杉田さんは再び、
「人間の生には平等に意味がない」という主張を繰り返し、「意味と無意味の線引きを拒否することが内なるヘイトや優生思想の芽を断ち切っていくべき」(176p)
と主張する。これへの違和感は少し前の部分で書いたとおりだ。
「意味と無意味の線引きを拒否することが内なるヘイトや優生思想の芽を断ち切ることになる」のか、それとも「そんなことをおまえが決めるな」というだけで十分なのか迷う。ぼくにとって、仲間や友人たちの生は、そいつが何もできなくて、迷惑ばかりかける奴でも、とても意味があるように思える。親密な人の生がぼくの生を支えてくれている。文字通りに生存を支えられている部分もある。
意味があるかないかというのは「関係性」の問題だと書いた。だとすると、それを「他者であるおまえが決めるな」というのは正しいはずだ。「関係性の問題」という風に整理してしまえば、確かに、ある人にとって、ある人の生は意味がない、ということはあるだろう。植松青年にとって、やまゆりに住む人たちの生には意味がないと思えたとしても、それは別の人にとってはかけがえのない意味のある生だったのだ。植松青年が「意味がない」と勝手に思うのは自由かもしれない。「じゃあ、ほっとけよ」という話ではないか。
そのように考えたときに「人の生に意味も無意味もない」と問題を立てるよりも、「人の生の意味は関係性の上に成立している」と考えたほうがすっきりするとぼくは思った。
tu-ta
(3月12日に、海老原宏美さんが縄文杉や富士山を例にだして「どんな人にも価値を見つけることができるはず」という話をしていたので、そこに触れたかったけど紙幅が尽きた。)
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書いた原稿はここまで。この本全体の読書メモは https://tu-ta.seesaa.net/article/201703article_2.html
今朝、これをブログに上げようと思ったのは
四年前の今日のフェイスブックの投稿が出てきたから、
2013年4月10日 ·ぼくは今日はちょっと用事で仕事は休み、でこんな時間にもFB知り合いの牧師さんが友人限定で紹介していたジャン・バニエのコラムが以下
(改行位置を変更)- Jean Vanier, Our Journey Home, p 147
隠された神秘すべての人に、隠されたその人の神秘があります。長い人生を送る人もいれば短命の人もいます。段階を追って成長する人生を送る人もいれば、そうでない人もいます。
けれども人は、誰でも死を迎えるときに、真に円熟するのだと私は思います。
人生の目的がはっきりわかるような人もいれば、その人の人生の目的を見出すのがより難しい人たちもいます。
しかし、欠点や賜物にかかわらず、どんな人の人生も大切なものです。私たちにはわからなくても、あらゆる人生に意味があります。
すべての人に、その人らしい美しさや価値があり、神聖な物語を生きるのです。
私にとって、人は受胎の瞬間から存在します。その人が深刻な障がいを持っていたとしても、存在しているのです。
最後のふたつのセンテンス。
プロライフと障害者の生まれる権利をめぐる微妙な話でもあるなぁと思った。
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2023年8月追記
このブログを見返す機会があって、ジャンバニエのことを書き足したくなった。彼の死後、彼を加害者とする性虐待があったことが明らかにされ、ラルシュ共同体に衝撃が走った。彼の死の前に告発があり、調査が行われていたとのこと。彼は死を迎えるときに円熟することが出来たのだろうか? ぼくは彼の言葉にかなり心酔し、ラルシュ共同体と通して、さまざまな人と知り合い、その実践に励まされてきた。しかし、ジャン・バニエもまた大きな闇を抱えて、他者に性虐待を加えて生きてきた、そして、そのことにちゃんと向き合った形跡は残されていないようだ。彼の言葉の数々は美しいと、いまでも思うのだが、どんなに美しい言葉を語る人間にも底深い闇があるということを、彼は自らの行為で示したともいえる。
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