「沖縄の米軍基地」(高橋哲哉著)メモ
以下の文章はもう少し整理して、どこかで発表する予定
~~~
『沖縄の米軍基地 ~「県外移設」を考える~』 (集英社新書) 2015年
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0790-b/ に試し読みページ
先日、嫌な思いをした。蒲田で行われた糸数慶子さんの後援会の時のことだ。ぼくは糸数さんが「県外移設」についてどう考えているか知らなかったし、また、彼女がそれについてどう語るのかも知りたかったので、「県外移設(国内」について、どう考えるか聞いてみた。そこで彼女は、「沖縄の苦しみを本土に押しつけることはよしとしないが、それを主張する人たちのことは理解できるし尊敬している」というようなことを言ったのだと思う。ぼくが嫌だったのは、もちろん、その回答ではない。糸数さんのその発言に蒲田の会場で拍手が起きたことだ。ラミスさんとのやりとりを見てもらえばわかるように、ぼくも「県外移設」というスローガンに否定的だが、そこでの拍手はないだろうと思ったのだった。ポジショナリティとして、ぼくたちは犠牲を押しつけている側だという自覚は必要で、沖縄が犠牲を被っているそのことの痛みを共有しようとするのであれば、あのタイミングで拍手してはいけないと思ったのだった。
その「県外移設」というスローガンが気になったのはラミスさんとのやりとりがあったからでもあるし、
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/blog1/index.php?content_id=18
この本を読むことになったのは、松井君にぼくの名前が高橋哲哉の本に出てると聞いたからだった。そのとき、松井君が岩波新書と言ったので、権威主義者のぼくは。ついにぼくの名前が岩波新書に掲載されたと喜んだのだけど、実際に掲載されていたのは集英社新書だったので、ちょっとがっかりした。(集英社新書の人、ごめん)
というわけで、ぼくの名前が出ているという理由だけで、この本を読んだ。
さっきの嫌な思いの話に戻る。あそこで、ぼくは嫌な思いをしたのだが、「県外移設」というスローガンの妥当性を懸命に説くこの本での高橋氏の言説を肯定できるかと言えば、それは別の話だ。
とはいうものの、ぼくをみそくそにいう反T連のAさんはダメな本だというこの本が、ぼくには面白かった。繰り返しになるが、面白かったのは結論に合意したからではない。「県外移設」というそのロジックの是非について考えることができたからだ。
ここで高橋氏はぼくとラミスさんの文通を援用して「できもしない日米安保破棄」について語るが、では「県外移設」は可能なのか?どれだけの賛同を集めることができるのか?どうすればそれが可能になるのか?と考えたとき、そこにはできもしない「県外移設」があたかも可能であるかのようなポーズ(だまし)が存在するのではないか?
県外移設、少なくとも安倍政権のもとでは不可能なのは明らかだ。自民党の党首が替わって、それが可能になるとも思えない。では民主党が政権を執れば可能なのか?確かに鳩山元首相はそれを主張したが、いま、それを言う国会議員が首相を狙うポジションにいるか?いないのではないか?
それは政治的な選択肢として日米安保破棄より少しは容易かもしれないが、少なくとも今、それが現実的な選択肢になり得るとは思えない。さらに、運動の大小で言えば、県外移設の運動は日米安保破棄の運動よりも格段に小さいし、それが大きくなるとも思えない。
だとすれば、そんな「できそうにない県外移設」を象徴的に言うことが重要だと言うことなのか?それとも、それが実現する可能性が存在すると考えられているのだろうか?実現すると考えられているのだとすれば、「どのように」と聞いてみたい。
高橋氏はまじめに真剣に沖縄の人に寄り添おうとして、この結論を導いたのだろうということは理解できる。そういう考え方が存在するのはわかった。しかし、少なくともぼくは納得できないし、どこであれ「米軍基地を作れ(強化せよ)」という運動に荷担することはできない。
高橋氏は、具体的に移設が検討されたとして、それが徳之島であれ、岩国であれ、佐賀であれ、「本土なのだからそれを甘受すべきだ」と主張しているように読めたのだが、それはぼくの誤読だろうか?
具体的に考えたいと思うのだ。どこであれすべての地域に「生活者」はいる。そんな視点はあるだろうか?
どんなに少数であれ、そこで生きて暮らしている人がいる地域に基地を作れというとき、そこで暮らしている人たちの具体的な生活がおびやかされる。日本国が沖縄県を差別しているのだから、移設先とされた地域の人は、「
本土」なのだから米軍基地を甘受すべきだとぼくは言うことができない。そこでいのちが脅かされる。
そう、あまり犠牲がないとすれば、国会から霞ヶ関あたりなら、生活している人はいないかもしれないし、米国のいいなりになっている今の日本政府のありようが明確にわかるから、それはいいかもしれない。そういえば、あの界隈の皇居には生活してる人が少しいた。彼の父親が犠牲を強いた沖縄。だから、息子にはその苦労を甘受してもらうと言っていいのかな。こんな話も確かにありもしない話なのだろう。
ともあれ、この本で具体的に地名があがっているのが岩国基地への基地機能の移転だ。いまも基地被害がある地域への移転を高橋氏は容認するのだろうか?そこには「犠牲のシステム」は作動しないのだろうか?
どこかに基地を作れと言うとき、必ず分断線が引かれるとぼくは思う。この本での高橋氏の議論は分断線を引かれた向こう側の人間に対する理解・リアリティが欠如しているのではないかと感じた。
県外移設が必要だというロジックはロジックとして理解できても、日本全国にくまなく米軍基地を作らない限りは、移転する先は集中的に被害を被る地域になる。都道府県で考えるからわかりにくいかもしれないが、どこであれ、基地があればその近隣の住民は被害を被っている。米軍からの被害というとき、沖縄県の中の本島から遠く離れた米軍による被害のない地域と住宅地をかすめて飛行機が離発着する相模原などの地域、被害をより多く被っているのはどちらか、という議論も成立する。
県外移設というスローガンに意味があるとしたら、「そのリアリティを想像してみたらどうだ」ということになるのかもしれない。そういう意味では福島と沖縄を並べて見せた高橋氏の議論はわかりやすいかも。米軍基地でも原発でも、それが必要なら、家の近隣に作って見ろ、と問題をたてたとき、それがどこであれ、不要だということがわかりやすくなる。
高橋氏のロジックで言えば、もし国民の多くが電力確保のために原発が必要だと考えているとすれば、それは辺境に押しつけるのではなく、都会・東京に作るべきということになるのだろうか?
そして、自分が住んでいる町内にオスプレイが離発着するヘリポートを作る計画が出来ても、彼は町内会で甘受すべきという話ができるのだろうか?
そういう意味で、「県外移設」というスローガンは非現実的だと思うし、日米安保破棄を訴える以上に、それが可能であるかのように振る舞うことにラミスさんがいうところの「だまし」があるのではないか。もちろん、沖縄への米軍基地の集中を肯定するわけではない。
高橋氏がこの本でたびたび引用する野村氏の主張がすべて間違っているとも思わない。日本人というアイデンティティとポジショナリチィの議論は面白いと思う。植民者としてのポジショナリティを手放そうと努力することは重要だろう。しかし、それが県外移設をいうことだとは思えない。
この本の1~2章の
日米安保と米軍基地を必要としている人が、それを沖縄ではなく「本土」でちゃんと受け入れるべき、という主張はわかりやすいし理解できる
問題は3~4章の反戦平和運動のあり方や県外移設に反対する石田雄さんや新城郁夫さんへの反論の部分だと思う。そこについて、重点的にメモを書くが、とりあえず、以下、付箋をたどってメモ
~~~
高橋氏は1998年の「女たちの東京大行動」の知念ウシさんの文章を引用している。
少しだけ抜き書き。
「・・・宜野湾と名護両方が東京で『基地』から発生する被害を訴え糾弾するだけでなく、被害を受けつつも基地経済やその維持のための制度を甘受している沖縄側の優しさと弱さを打ち破るために(基地を)『売ることを呼びかけた。」38p
「沖縄側の優しさと弱さを打ち破る」という部分が知念さんらしいところかもしれない。ここでそのために県外移設という話になる。日米安保=米軍基地が必要というのであれば、それを必要としている人は引き受けなければならないというのは整合性のある話だろう。しかし、安保も自衛隊もいらないという主張をしてきたものまで、米軍基地を引き受けるべきなのか。
そして、高橋氏も日米安保反対・米軍基地撤去という立場だが、その目標が沖縄の県外移設という要求に向き合うことを妨げ、県外移設への反対につながるので、そこを自己点検しなければならないと主張する。98-99p
そして、いつまで待たせるのかと問題をたて、そこで、ぼくへのラミスさんの「何十年もかかる安保廃止までの間、普天間をどこに置くのか」という回答を引用している。(101p)ここにぼくの名前がでてたので、この本を読んだのだった。
そして、105pでは県外移設で平等に負担を受け入れることが沖縄との連帯だといいたげだ。しかし、県外移設を行うのは誰なのか、という視点が欠落しているのではないか?高橋氏も知っているように、とても少数の日米安保や自衛隊基地に反対しているものが受け入れを決めることができるわけがない。
政府は移設が必要だと判断すれば、そんな少数の反対は問題にしないだろう。彼らが問題にするのは日米安保には賛成だが、基地の受け入れには反対だという多数派だろう。仮に平等のために基地の受け入れが必要だとして、その安保に反対しているはずの少数が「普天間の代替、沖縄の負担軽減のためなら米軍基地の設置を歓迎します」と言えば、事態が動くと考えられるだろうか。そんなことはありえないのではないか?
ただ、そんな風に実際には実現しそうにないことを主張することで、沖縄の人と連帯した気分を味わうことが大事なのだろうか?
後の方で高橋氏に批判されている新城郁夫さんも主張しているが、本土の反安保の運動に米軍基地の受け入れるよう要求をすることは、ほんとうに人々を分断するという意味で、日米政府の思う壺ではないだろうか?
いまの状況では政府が「沖縄の負担を減らすために本土の米軍基地の機能を強化します」というかもしれないが、それは結局、沖縄の基地機能は減らず、全体の基地機能が強化されるだけに終わるのではないか、そうならない運動というのがあり得るだろうか?
107pでは『沖縄にいらないものは日本のどこにもいらない』というスローガンを批判するのだが、「本土」への基地の移設を誰が決めるのか、という視点がまったく欠落しているように思える。それを決めるのは日米の政府であり、彼らが求めているのは基地機能の強化と効率化だろう。そんな中で、米軍基地機能の強化を求めることが日米安保反対という要求と矛盾しないという高橋氏の主張はまったく理解できない。
112pでは「沖縄の基地問題を『本土』の責任で解消すること」という。確かにその通りだと思う。しかし、それは日米政府に「本土」での『米軍の基地機能の強化』を求めることではないはずではないか?
日米安保反対の反戦運動に本当に沖縄の米軍基地を減らすシナリオが作れるのだろうか?少なくとも、この県外移設を求める1冊の新書の中で、高橋氏はそれを具体的には提案していない。
個人的には、こうすれば、日米政府も受け入れる、ほんとうに沖縄の米軍基地を減少できるという案があれば聞いてみたいし、その可否も改めて考えてみたいと思うが、現状ではそのような案はぼくには考えられない。そして、日本の中のそこに住む人にだけ犠牲を押し付けることを高橋氏はよしとするのだろうか?
115pでは以下のような主張が書かれている。
~~~
日本の反戦平和運動は、県外移設を受け入れたうえで、「安保破棄」は「本土」で、自分たちの責任で追求するのが筋なのである。
~~~
「『安保破棄』は『本土』で、自分たちの責任で追求するのが筋」であるのはいうまでもないが、日米の政府が特定の地域に犠牲を転嫁し、米軍全体の基地機能のの強化・効率化に協力することが本当に筋なのだろうか? それとも、「本土」への基地機能の転換を日米政府が計画するとき、それを「米軍基地機能の強化・効率化」にはしないという方策があるのだろうか? 基地機能の強化・効率化を認めた上で「国家や軍隊の存在を批判的に問うことは十分に可能」(112p)と書かれているが、本当にそれは可能だろうか?
そのように「(日本国内での)県外移設」というスローガンは現実的に結果としても、有効ではなく、いたずらに分断を招く危険があると考えるのだが、しかし、だからといって、沖縄の過重な負担がこのままでいいというわけではない。日本政府も沖縄の負担を減らすと言明しているのだから、どうすれば、具体的に負担を減らすことができるのか、そのロードマップは求められている。ぼくは勉強不足で知らないのだが、そのようなロードマップはすでに存在しているのだろうか?
それに対する運動側の向き合い方は問われているように思う。
119~125pにかけて、「犠牲の移転」という議論への反論が試みられている。福生市民の意識調査が8割が基地に肯定的だとして、ここで援用されている。議論としては、だから横田の基地機能は強化していいという話なのだろうが、そこはあいまいなままの記述になっている。それに続けて、米軍基地のない都道府県があることが示されるが、例えば、嘉手納基地のような巨大な基地をどこかに移転するというような話があったとして(現実的にはありえないだろうが)、それを受け入れるところは「犠牲が移転された」と感じないだろうか。
125pから始まる次の節では「本土の沖縄化」について書かれている。ぼくも「沖縄化反対」というスローガンは無神経すぎると思う。そのスローガンでは「沖縄を現在のような基地の島にした側の責任が問われているようには聞こえない。
この節で高橋氏は沖縄のすべての基地を「本土」に移転しても沖縄のようにはならない、と主張する。確かに日本国全体で考えればそうだろう。しかし、すぐ近くに巨大な基地を作られる地域の住民にとって、そうでないと言えるだろうか?
この場合、日本全体にとっては沖縄のようではないという高橋氏の議論は本当に有効と言えるだろうか?
134pあたりで高橋氏は石田さんへの知念ウシさんの反論をその通りだと評価し、既存施設への移転で「合理的な」形が想定できるという。
さきほど、ぼくは勉強不足で知らないと書いた、沖縄の負担軽減のためのロードマップ。そして、【既存施設への移転で「合理的な」形】、そんなものがあるのであれば、それを無下に否定することはできないと思う。それを日米の政府が提案するのであれば、それは議論の材料にはなるはず。しかし、だからと言って、日米安保や米軍基地の存在そのものに反対しているものが、地元での基地機能の強化を求める必然性はない。さらに136pでは「本土」に戻すのは誘致ではないと議論を立てる。さきほどから繰り返し書いているように、「本土」はひとつではない。「本土」のどこか、これまでの例でいえば、高橋氏が「犠牲のシステム」と呼んだような、人口や産業の乏しい地域が移転のターゲットになるのではないか。それが既存施設の「合理的な利用」であったとしても。
140pでは石田雄さんが「県外移設」を求めるというのであれば、具体的に基地を引き取るべき、その可能性を追求すべきだ、と高橋氏は書く、例えば、大田区在住のぼくが、それを求めるとしたら、羽田を軍民共用空港にして、そこにオスプレイで離発着できるようにせよと要求しなければいけないのだろうか? それは高橋氏にとってリアリティのある運動になるのだろうか?
高橋氏の議論に忠実に従うなら、沖縄以外のすべての都道府県に平等にオスプレイの訓練場を建設し、使用せよ、という話になってしまうのではないか。それを望んでいるということなのか?
高橋氏の議論は、植民者が植民者でなくなる(そのポジショナリティから降りる)ためには植民地に押し付けてきた暴力を自らがかぶるべき、植民地主義の国家は自らの国民にも植民地同様の過酷な暴力を行使する、そのように暴力的な国家になるべきだ。それが平等だという議論ではないだろうか。
しかし、140pに書かれている「沖縄に基地を『隔離』したまま『沖縄への連帯』を唱え続けることが許されるのか(許されない)」というのは間違いない話だ。その状態をどうすれば終わらせることができるか、それが問われているという部分は同感。しかし、その方策は「国内への県外移設」を促進する運動をすすめることではないとぼくは思う。
148pの節のタイトルは【県外移設論も「平和に生きていく場」を求める】というものであり、高橋氏は新城さんの節に反論する中で以下のように書く。
~~~
県外移設論が求めるものも、沖縄の人々が「平和に生きていく場」であるように思われる。「生きていく場を奪い、私たちが生きていく場を人を殺戮するための前線にしようとする不潔な力を排除」して、平和に静かに生活していける「沖縄」・・・149-150p
~~~
このように書かれているが、基地撤去というスローガンはその通りだが、県外移設は別の地域を「人を殺戮するための前線にしようとする」ことではないだろうか?
146pで高橋氏は新城さんの『けーし風』での文章を引用する。そこで新城さんは「オール沖縄」の流れが「県民」の範疇をから左派をはじき出し、相対的に右傾化していると感じるというような主張をしており、それを批判する。しかし、新城氏のそれは現在の運動が置かれた状況を説明しているわけで、現状でのその「オール沖縄」というありかたを必ずしも否定しているわけでもないようにも読める。
高橋氏の「『日本社会』の責任が問われなければならない」(147p)という主張はそのとおりだと思。しかし、それは国内での県外移設を推進する動きに賛同しなければできないということではないとぼくは思う。米軍基地強化や犠牲の押し付けに反対しながら、しかし、日本社会の責任を問うことは可能だろう。仮に日米の政府が沖縄の負担軽減のためのロードマップを出して来たら、それを議論すればいい。日米安保反対と言いながら、「本土」での米軍基地強化を求めるようなスローガンは出せない。
沖縄の人たちが「本土」に向かって、「日米安保が必要だというならば本土で応分の負担をせよ」という要求をすることは理解できるが、日米安保や軍事基地に反対しているものにも、それを受け入れろ、受け入れるための運動をせよ、というのは違うと思う。
161pでは「日本人よ! 今こそ沖縄の基地を引き取れ」という要求は「日本人」の死を求めているわけではないと書かれている。確かに日本人の死を直接的には求めてはいないだろうが、基地周辺での基地被害の受け入れや、戦時にターゲットになるという沖縄が抱える問題、それは「死ね」ということではないかもしれないが、同様のことを日本全体ではなく、基地が強化されようとするその場所の住民に求めているということになるのではないか?
高橋氏の主張で大切な点をポイントとしては抑えていると思われたのは175p以降の「基地撤去」と「県外移設」の二項対立を固定化させてはいけないという主張だ。ポイントは抑えているが、高橋氏の主張の方法は新城さんへの反論など、議論で意見の違いを埋めるために一歩近づくというスタイルにはなっておらず、二項対立を維持させていると感じた。
この文脈で引用されている山城博治さんの主張にもっと耳を傾けるべきだ。高橋氏はそれが自説を否定するものであるにもかかわらず、公平に引用している。山城さんが結語として語っているのは、以下の通りだ。
(県外移設という主張がおかしいというのではなく)
~~
「沖縄の主張はよく理解できる。結構だ。それで我が方に回ってきたらその時あらためて、沖縄にいらないものはどこにも要らないと声をあげよう」という理解と主張であってほしいと願う。
~~
高橋氏はこの山城さんのすごくまっとうだと思える主張の結語の部分に何のコメントも加えることなく、第4章を閉じている。この山城さんの「沖縄の主張はよく理解できる」としながら「我が方に回ってきたらその時あらためて、沖縄にいらないものはどこにも要らないと声をあげよう」」という主張こそ大事なのではないか?ここに運動のリアリティがある。
~~~
『沖縄の米軍基地 ~「県外移設」を考える~』 (集英社新書) 2015年
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0790-b/ に試し読みページ
先日、嫌な思いをした。蒲田で行われた糸数慶子さんの後援会の時のことだ。ぼくは糸数さんが「県外移設」についてどう考えているか知らなかったし、また、彼女がそれについてどう語るのかも知りたかったので、「県外移設(国内」について、どう考えるか聞いてみた。そこで彼女は、「沖縄の苦しみを本土に押しつけることはよしとしないが、それを主張する人たちのことは理解できるし尊敬している」というようなことを言ったのだと思う。ぼくが嫌だったのは、もちろん、その回答ではない。糸数さんのその発言に蒲田の会場で拍手が起きたことだ。ラミスさんとのやりとりを見てもらえばわかるように、ぼくも「県外移設」というスローガンに否定的だが、そこでの拍手はないだろうと思ったのだった。ポジショナリティとして、ぼくたちは犠牲を押しつけている側だという自覚は必要で、沖縄が犠牲を被っているそのことの痛みを共有しようとするのであれば、あのタイミングで拍手してはいけないと思ったのだった。
その「県外移設」というスローガンが気になったのはラミスさんとのやりとりがあったからでもあるし、
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/blog1/index.php?content_id=18
この本を読むことになったのは、松井君にぼくの名前が高橋哲哉の本に出てると聞いたからだった。そのとき、松井君が岩波新書と言ったので、権威主義者のぼくは。ついにぼくの名前が岩波新書に掲載されたと喜んだのだけど、実際に掲載されていたのは集英社新書だったので、ちょっとがっかりした。(集英社新書の人、ごめん)
というわけで、ぼくの名前が出ているという理由だけで、この本を読んだ。
さっきの嫌な思いの話に戻る。あそこで、ぼくは嫌な思いをしたのだが、「県外移設」というスローガンの妥当性を懸命に説くこの本での高橋氏の言説を肯定できるかと言えば、それは別の話だ。
とはいうものの、ぼくをみそくそにいう反T連のAさんはダメな本だというこの本が、ぼくには面白かった。繰り返しになるが、面白かったのは結論に合意したからではない。「県外移設」というそのロジックの是非について考えることができたからだ。
ここで高橋氏はぼくとラミスさんの文通を援用して「できもしない日米安保破棄」について語るが、では「県外移設」は可能なのか?どれだけの賛同を集めることができるのか?どうすればそれが可能になるのか?と考えたとき、そこにはできもしない「県外移設」があたかも可能であるかのようなポーズ(だまし)が存在するのではないか?
県外移設、少なくとも安倍政権のもとでは不可能なのは明らかだ。自民党の党首が替わって、それが可能になるとも思えない。では民主党が政権を執れば可能なのか?確かに鳩山元首相はそれを主張したが、いま、それを言う国会議員が首相を狙うポジションにいるか?いないのではないか?
それは政治的な選択肢として日米安保破棄より少しは容易かもしれないが、少なくとも今、それが現実的な選択肢になり得るとは思えない。さらに、運動の大小で言えば、県外移設の運動は日米安保破棄の運動よりも格段に小さいし、それが大きくなるとも思えない。
だとすれば、そんな「できそうにない県外移設」を象徴的に言うことが重要だと言うことなのか?それとも、それが実現する可能性が存在すると考えられているのだろうか?実現すると考えられているのだとすれば、「どのように」と聞いてみたい。
高橋氏はまじめに真剣に沖縄の人に寄り添おうとして、この結論を導いたのだろうということは理解できる。そういう考え方が存在するのはわかった。しかし、少なくともぼくは納得できないし、どこであれ「米軍基地を作れ(強化せよ)」という運動に荷担することはできない。
高橋氏は、具体的に移設が検討されたとして、それが徳之島であれ、岩国であれ、佐賀であれ、「本土なのだからそれを甘受すべきだ」と主張しているように読めたのだが、それはぼくの誤読だろうか?
具体的に考えたいと思うのだ。どこであれすべての地域に「生活者」はいる。そんな視点はあるだろうか?
どんなに少数であれ、そこで生きて暮らしている人がいる地域に基地を作れというとき、そこで暮らしている人たちの具体的な生活がおびやかされる。日本国が沖縄県を差別しているのだから、移設先とされた地域の人は、「
本土」なのだから米軍基地を甘受すべきだとぼくは言うことができない。そこでいのちが脅かされる。
そう、あまり犠牲がないとすれば、国会から霞ヶ関あたりなら、生活している人はいないかもしれないし、米国のいいなりになっている今の日本政府のありようが明確にわかるから、それはいいかもしれない。そういえば、あの界隈の皇居には生活してる人が少しいた。彼の父親が犠牲を強いた沖縄。だから、息子にはその苦労を甘受してもらうと言っていいのかな。こんな話も確かにありもしない話なのだろう。
ともあれ、この本で具体的に地名があがっているのが岩国基地への基地機能の移転だ。いまも基地被害がある地域への移転を高橋氏は容認するのだろうか?そこには「犠牲のシステム」は作動しないのだろうか?
どこかに基地を作れと言うとき、必ず分断線が引かれるとぼくは思う。この本での高橋氏の議論は分断線を引かれた向こう側の人間に対する理解・リアリティが欠如しているのではないかと感じた。
県外移設が必要だというロジックはロジックとして理解できても、日本全国にくまなく米軍基地を作らない限りは、移転する先は集中的に被害を被る地域になる。都道府県で考えるからわかりにくいかもしれないが、どこであれ、基地があればその近隣の住民は被害を被っている。米軍からの被害というとき、沖縄県の中の本島から遠く離れた米軍による被害のない地域と住宅地をかすめて飛行機が離発着する相模原などの地域、被害をより多く被っているのはどちらか、という議論も成立する。
県外移設というスローガンに意味があるとしたら、「そのリアリティを想像してみたらどうだ」ということになるのかもしれない。そういう意味では福島と沖縄を並べて見せた高橋氏の議論はわかりやすいかも。米軍基地でも原発でも、それが必要なら、家の近隣に作って見ろ、と問題をたてたとき、それがどこであれ、不要だということがわかりやすくなる。
高橋氏のロジックで言えば、もし国民の多くが電力確保のために原発が必要だと考えているとすれば、それは辺境に押しつけるのではなく、都会・東京に作るべきということになるのだろうか?
そして、自分が住んでいる町内にオスプレイが離発着するヘリポートを作る計画が出来ても、彼は町内会で甘受すべきという話ができるのだろうか?
そういう意味で、「県外移設」というスローガンは非現実的だと思うし、日米安保破棄を訴える以上に、それが可能であるかのように振る舞うことにラミスさんがいうところの「だまし」があるのではないか。もちろん、沖縄への米軍基地の集中を肯定するわけではない。
高橋氏がこの本でたびたび引用する野村氏の主張がすべて間違っているとも思わない。日本人というアイデンティティとポジショナリチィの議論は面白いと思う。植民者としてのポジショナリティを手放そうと努力することは重要だろう。しかし、それが県外移設をいうことだとは思えない。
この本の1~2章の
日米安保と米軍基地を必要としている人が、それを沖縄ではなく「本土」でちゃんと受け入れるべき、という主張はわかりやすいし理解できる
問題は3~4章の反戦平和運動のあり方や県外移設に反対する石田雄さんや新城郁夫さんへの反論の部分だと思う。そこについて、重点的にメモを書くが、とりあえず、以下、付箋をたどってメモ
~~~
高橋氏は1998年の「女たちの東京大行動」の知念ウシさんの文章を引用している。
少しだけ抜き書き。
「・・・宜野湾と名護両方が東京で『基地』から発生する被害を訴え糾弾するだけでなく、被害を受けつつも基地経済やその維持のための制度を甘受している沖縄側の優しさと弱さを打ち破るために(基地を)『売ることを呼びかけた。」38p
「沖縄側の優しさと弱さを打ち破る」という部分が知念さんらしいところかもしれない。ここでそのために県外移設という話になる。日米安保=米軍基地が必要というのであれば、それを必要としている人は引き受けなければならないというのは整合性のある話だろう。しかし、安保も自衛隊もいらないという主張をしてきたものまで、米軍基地を引き受けるべきなのか。
そして、高橋氏も日米安保反対・米軍基地撤去という立場だが、その目標が沖縄の県外移設という要求に向き合うことを妨げ、県外移設への反対につながるので、そこを自己点検しなければならないと主張する。98-99p
そして、いつまで待たせるのかと問題をたて、そこで、ぼくへのラミスさんの「何十年もかかる安保廃止までの間、普天間をどこに置くのか」という回答を引用している。(101p)ここにぼくの名前がでてたので、この本を読んだのだった。
そして、105pでは県外移設で平等に負担を受け入れることが沖縄との連帯だといいたげだ。しかし、県外移設を行うのは誰なのか、という視点が欠落しているのではないか?高橋氏も知っているように、とても少数の日米安保や自衛隊基地に反対しているものが受け入れを決めることができるわけがない。
政府は移設が必要だと判断すれば、そんな少数の反対は問題にしないだろう。彼らが問題にするのは日米安保には賛成だが、基地の受け入れには反対だという多数派だろう。仮に平等のために基地の受け入れが必要だとして、その安保に反対しているはずの少数が「普天間の代替、沖縄の負担軽減のためなら米軍基地の設置を歓迎します」と言えば、事態が動くと考えられるだろうか。そんなことはありえないのではないか?
ただ、そんな風に実際には実現しそうにないことを主張することで、沖縄の人と連帯した気分を味わうことが大事なのだろうか?
後の方で高橋氏に批判されている新城郁夫さんも主張しているが、本土の反安保の運動に米軍基地の受け入れるよう要求をすることは、ほんとうに人々を分断するという意味で、日米政府の思う壺ではないだろうか?
いまの状況では政府が「沖縄の負担を減らすために本土の米軍基地の機能を強化します」というかもしれないが、それは結局、沖縄の基地機能は減らず、全体の基地機能が強化されるだけに終わるのではないか、そうならない運動というのがあり得るだろうか?
107pでは『沖縄にいらないものは日本のどこにもいらない』というスローガンを批判するのだが、「本土」への基地の移設を誰が決めるのか、という視点がまったく欠落しているように思える。それを決めるのは日米の政府であり、彼らが求めているのは基地機能の強化と効率化だろう。そんな中で、米軍基地機能の強化を求めることが日米安保反対という要求と矛盾しないという高橋氏の主張はまったく理解できない。
112pでは「沖縄の基地問題を『本土』の責任で解消すること」という。確かにその通りだと思う。しかし、それは日米政府に「本土」での『米軍の基地機能の強化』を求めることではないはずではないか?
日米安保反対の反戦運動に本当に沖縄の米軍基地を減らすシナリオが作れるのだろうか?少なくとも、この県外移設を求める1冊の新書の中で、高橋氏はそれを具体的には提案していない。
個人的には、こうすれば、日米政府も受け入れる、ほんとうに沖縄の米軍基地を減少できるという案があれば聞いてみたいし、その可否も改めて考えてみたいと思うが、現状ではそのような案はぼくには考えられない。そして、日本の中のそこに住む人にだけ犠牲を押し付けることを高橋氏はよしとするのだろうか?
115pでは以下のような主張が書かれている。
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日本の反戦平和運動は、県外移設を受け入れたうえで、「安保破棄」は「本土」で、自分たちの責任で追求するのが筋なのである。
~~~
「『安保破棄』は『本土』で、自分たちの責任で追求するのが筋」であるのはいうまでもないが、日米の政府が特定の地域に犠牲を転嫁し、米軍全体の基地機能のの強化・効率化に協力することが本当に筋なのだろうか? それとも、「本土」への基地機能の転換を日米政府が計画するとき、それを「米軍基地機能の強化・効率化」にはしないという方策があるのだろうか? 基地機能の強化・効率化を認めた上で「国家や軍隊の存在を批判的に問うことは十分に可能」(112p)と書かれているが、本当にそれは可能だろうか?
そのように「(日本国内での)県外移設」というスローガンは現実的に結果としても、有効ではなく、いたずらに分断を招く危険があると考えるのだが、しかし、だからといって、沖縄の過重な負担がこのままでいいというわけではない。日本政府も沖縄の負担を減らすと言明しているのだから、どうすれば、具体的に負担を減らすことができるのか、そのロードマップは求められている。ぼくは勉強不足で知らないのだが、そのようなロードマップはすでに存在しているのだろうか?
それに対する運動側の向き合い方は問われているように思う。
119~125pにかけて、「犠牲の移転」という議論への反論が試みられている。福生市民の意識調査が8割が基地に肯定的だとして、ここで援用されている。議論としては、だから横田の基地機能は強化していいという話なのだろうが、そこはあいまいなままの記述になっている。それに続けて、米軍基地のない都道府県があることが示されるが、例えば、嘉手納基地のような巨大な基地をどこかに移転するというような話があったとして(現実的にはありえないだろうが)、それを受け入れるところは「犠牲が移転された」と感じないだろうか。
125pから始まる次の節では「本土の沖縄化」について書かれている。ぼくも「沖縄化反対」というスローガンは無神経すぎると思う。そのスローガンでは「沖縄を現在のような基地の島にした側の責任が問われているようには聞こえない。
この節で高橋氏は沖縄のすべての基地を「本土」に移転しても沖縄のようにはならない、と主張する。確かに日本国全体で考えればそうだろう。しかし、すぐ近くに巨大な基地を作られる地域の住民にとって、そうでないと言えるだろうか?
この場合、日本全体にとっては沖縄のようではないという高橋氏の議論は本当に有効と言えるだろうか?
134pあたりで高橋氏は石田さんへの知念ウシさんの反論をその通りだと評価し、既存施設への移転で「合理的な」形が想定できるという。
さきほど、ぼくは勉強不足で知らないと書いた、沖縄の負担軽減のためのロードマップ。そして、【既存施設への移転で「合理的な」形】、そんなものがあるのであれば、それを無下に否定することはできないと思う。それを日米の政府が提案するのであれば、それは議論の材料にはなるはず。しかし、だからと言って、日米安保や米軍基地の存在そのものに反対しているものが、地元での基地機能の強化を求める必然性はない。さらに136pでは「本土」に戻すのは誘致ではないと議論を立てる。さきほどから繰り返し書いているように、「本土」はひとつではない。「本土」のどこか、これまでの例でいえば、高橋氏が「犠牲のシステム」と呼んだような、人口や産業の乏しい地域が移転のターゲットになるのではないか。それが既存施設の「合理的な利用」であったとしても。
140pでは石田雄さんが「県外移設」を求めるというのであれば、具体的に基地を引き取るべき、その可能性を追求すべきだ、と高橋氏は書く、例えば、大田区在住のぼくが、それを求めるとしたら、羽田を軍民共用空港にして、そこにオスプレイで離発着できるようにせよと要求しなければいけないのだろうか? それは高橋氏にとってリアリティのある運動になるのだろうか?
高橋氏の議論に忠実に従うなら、沖縄以外のすべての都道府県に平等にオスプレイの訓練場を建設し、使用せよ、という話になってしまうのではないか。それを望んでいるということなのか?
高橋氏の議論は、植民者が植民者でなくなる(そのポジショナリティから降りる)ためには植民地に押し付けてきた暴力を自らがかぶるべき、植民地主義の国家は自らの国民にも植民地同様の過酷な暴力を行使する、そのように暴力的な国家になるべきだ。それが平等だという議論ではないだろうか。
しかし、140pに書かれている「沖縄に基地を『隔離』したまま『沖縄への連帯』を唱え続けることが許されるのか(許されない)」というのは間違いない話だ。その状態をどうすれば終わらせることができるか、それが問われているという部分は同感。しかし、その方策は「国内への県外移設」を促進する運動をすすめることではないとぼくは思う。
148pの節のタイトルは【県外移設論も「平和に生きていく場」を求める】というものであり、高橋氏は新城さんの節に反論する中で以下のように書く。
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県外移設論が求めるものも、沖縄の人々が「平和に生きていく場」であるように思われる。「生きていく場を奪い、私たちが生きていく場を人を殺戮するための前線にしようとする不潔な力を排除」して、平和に静かに生活していける「沖縄」・・・149-150p
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このように書かれているが、基地撤去というスローガンはその通りだが、県外移設は別の地域を「人を殺戮するための前線にしようとする」ことではないだろうか?
146pで高橋氏は新城さんの『けーし風』での文章を引用する。そこで新城さんは「オール沖縄」の流れが「県民」の範疇をから左派をはじき出し、相対的に右傾化していると感じるというような主張をしており、それを批判する。しかし、新城氏のそれは現在の運動が置かれた状況を説明しているわけで、現状でのその「オール沖縄」というありかたを必ずしも否定しているわけでもないようにも読める。
高橋氏の「『日本社会』の責任が問われなければならない」(147p)という主張はそのとおりだと思。しかし、それは国内での県外移設を推進する動きに賛同しなければできないということではないとぼくは思う。米軍基地強化や犠牲の押し付けに反対しながら、しかし、日本社会の責任を問うことは可能だろう。仮に日米の政府が沖縄の負担軽減のためのロードマップを出して来たら、それを議論すればいい。日米安保反対と言いながら、「本土」での米軍基地強化を求めるようなスローガンは出せない。
沖縄の人たちが「本土」に向かって、「日米安保が必要だというならば本土で応分の負担をせよ」という要求をすることは理解できるが、日米安保や軍事基地に反対しているものにも、それを受け入れろ、受け入れるための運動をせよ、というのは違うと思う。
161pでは「日本人よ! 今こそ沖縄の基地を引き取れ」という要求は「日本人」の死を求めているわけではないと書かれている。確かに日本人の死を直接的には求めてはいないだろうが、基地周辺での基地被害の受け入れや、戦時にターゲットになるという沖縄が抱える問題、それは「死ね」ということではないかもしれないが、同様のことを日本全体ではなく、基地が強化されようとするその場所の住民に求めているということになるのではないか?
高橋氏の主張で大切な点をポイントとしては抑えていると思われたのは175p以降の「基地撤去」と「県外移設」の二項対立を固定化させてはいけないという主張だ。ポイントは抑えているが、高橋氏の主張の方法は新城さんへの反論など、議論で意見の違いを埋めるために一歩近づくというスタイルにはなっておらず、二項対立を維持させていると感じた。
この文脈で引用されている山城博治さんの主張にもっと耳を傾けるべきだ。高橋氏はそれが自説を否定するものであるにもかかわらず、公平に引用している。山城さんが結語として語っているのは、以下の通りだ。
(県外移設という主張がおかしいというのではなく)
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「沖縄の主張はよく理解できる。結構だ。それで我が方に回ってきたらその時あらためて、沖縄にいらないものはどこにも要らないと声をあげよう」という理解と主張であってほしいと願う。
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高橋氏はこの山城さんのすごくまっとうだと思える主張の結語の部分に何のコメントも加えることなく、第4章を閉じている。この山城さんの「沖縄の主張はよく理解できる」としながら「我が方に回ってきたらその時あらためて、沖縄にいらないものはどこにも要らないと声をあげよう」」という主張こそ大事なのではないか?ここに運動のリアリティがある。
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