『解放のソーシャルワーク』(第1章までのメモ)2022年6月追記あり

目黒の平井さんがfbで紹介していたので、読み始めた。図書館で借りたのだけど、面白かったので購入。


以下は読後すぐの印象。2018/11/23に読み終えているのに1章だけのメモを書くのに1か月以上経ってる。1章、2章、4章はすごくおもしろかったのだが、5章、6章はぼくには難しすぎた。

単行本: 232ページ
出版社: 世界思想社 (2007/07)
「BOOK」データベースより
日本のソーシャルワーク実践・教育が抱える根幹的問題を多元的かつラディカルに論じ、市民社会から認知される援助理論・実践に向けて示唆や提言を行う。日本とオーストラリアのクリティカル・ソーシャルワーク研究者による画期的な国際的共同研究である。


目次

まえがき 
横田恵子

第1章 ソーシャルワーク実践における援助技術教育―普遍的モデルの多元的再検討
横田恵子

第2章 解放のソーシャルワーク
木原活信

第3章 オーストラリアのソーシャルワーク専門教育―クリティカル・ソーシャルワーク理論の構築
舟木紳介

第4章 Critical Social Work Theory Meets Evidence‐Based Practice in Australia
Bob Pease  抄訳 舟木紳介

第5章 クリティカル・ソーシャルワーク試論―細部に変革のちからが宿るという視点から
加茂陽

第6章 クリティカル・ソーシャルワーク実践論―ミクロレベルに宿る変革のちからの生成モデル
大下由美

帯には「実践論への根本的な問い直し」と大きく書かれている。

まえがきでソーシャルワークについて以下のように書かれている。
具体的にソーシャルワークは、介護、児童、虐待、ドメスティック・バイオレンス(DV)、学校教育、社会保障給付から先端医療場面での自己決定といった広範囲にわたる現象について、具体的な対応はもちろんのこと、コミュニティにおける指針の提示や社会政策への提言や 立案まで、今までにも増して様々な役割と機能が期待されるようになってきた。 (ⅰ頁)
と書き、その上でこの要請に応えられているかと問い、 ふたつの具体的な問いを立てる。
1、人々が直面する社会的な問題を解決するための仕組みづくりに対して寄与できているか?
2、今までと同じように立ち行かなくなってきた人々の日常生活や親密な関係性に対して、指針や方向性を示し、さらには手立てを講じることができているか?
この二つの問いに応えるために著者たちが論考を寄せたもの、とのこと。(ⅱ)

そして
編者としては「社会の中でソーシャルワーク実践と実践者養成の果たす役割と機能は自明であり、それを支えるのが専門性というものである」という方向には与したくはなく、 「いやいや、事はそう簡単でもないのだ」ということがうまく伝わればよいのだが、と思いつつ、試行錯誤で全体を編んでみた。
と書かれている。

さらにこの本のタイトルの「解放」について、抑圧された人々の解放という意味のほかに、「通常のソーシャルワーク実践で繰り返される援助概念や方法のあれこれに、もうこれ以上いたたまれない、という感覚を持っている」そういう意味での「解放」でもあると書かれている。

ぼくにはそもそもソーシャルワーカーという自覚があまりなくて、ソーシャル・アクティビストにはなりたいと思うんだけど、その違いはなんだろう?

ま、どうでもいいか。



前書きでの1章と2章の紹介は簡潔でわかりやすい。

とりあえず、メモっておこう。
第1章では、ソーシャルワーク実践者養成教育にかかわる問題から、私たち自身の「解放」を考える。現在、「援助技術教育」というくくりで教えられている領域について、学校教育モデルでソーシャルワーク実践が持つリアルな身体性を教えることができるのか、さらに、現在、学校教育で教えられている援助概念が依拠する歴史的、地理的、思想史的文脈に触れずしてソーシャルワーク実践を理解できるのか、という論点を提示しそれらへの回答の試みとして実践事例を提示する。
~~~
第2章では、多面的・多元的な人間の解放そのものを視野に収めつつ、ソーシャルワーク実践が目指す解放の概念そのものを吟味する。ここでは、日本のソーシャルワーク実践の陥りがちな個人の内的な快方に傾注する傾向に対し注意を喚起し、外的解放をも同時に追求する視座の必要性を、ナラティヴ論のフレームを援用しつつ、同時に解放の神学を参照しながら進めていく。さらに、人権と社会正義の概念が、解放概念と結びつくことでアクティベイトしていくことも指摘される。 (ⅲ)

3章4章はオーストラリアにおけるソーシャルワーク実践と実践者教育に関する論考。

それは日本のそれへのオルタナティブの提示。
オーストラリアのソーシャルワークは、「解放」概念に触発され発展を遂げ、90年代からはそこにポストモダンの視点を加味しつつも、一方では「飽くなき価値の相対化」を押し止める価値規範として「人権」「社会正義」の概念をもダイナミックに包摂している。
と書かれている。

そして、5章6章に関して、【「解放」というキーワードの根源をたどりながらも、大きな理論と大きな社会運動なきあとに社会変革を志向するための議論が試みられる】とあり、ぼくの大好きなテーマ設定なのだが、中身が難しすぎてついていけなかった。とうわけでほぼ飛ばし読み


~~
第1章 ソーシャルワーク実践における援助技術教育―普遍的モデルの多元的再検討
 横田恵子

ここではまず、日本のソーシャルワークがミクロな関係に終始し、ソーシャルワークの国際定義にあるような、問題を生み出す社会構造とのかかわりを見る視点が欠如しがちだという指摘がある。その帰結として「ソーシャルワークの実践者養成教育を、激変する現代社会における新たな公共性の担い手を養成する教育として位置付けるという提案である」と書かれる。

そこから導かれる内容として
1、実践の場に応じた行為を構築する技能の伝承
2、ソーシャルワーク実践を規定する歴史的・社会的文脈の理解
3、エンパワメント概念の理解を伴うアクション志向の実践的経験
この三つの側面がバランスよく含まれるべき、
とされ、以下でそれぞれに応じた記述がなされる。

1において、熟達した実践者が示す揺るぎなさと有能感は、ヒューマン・サービス実践のなかで得られるものであり、学校教育を現場に持ち込んで得られるものではなく、仕事の中で使われ、職業集団メンバーのフォーマル/インフォーマルな相互作用の中で生成・熟達していくワザだと書かれている。

 そこから得られる手法として「正統的周辺参加」という概念が紹介される。その説明が書かれているがここでは略。

(ソーシャルワーカーの)実習については以下のように記載される。
現場に加わる初学者を「学校から派遣されてきた実習生」というヨソ者と見なすかぎり、初学社・指導者・実践現場の熟練者が三者三様に抱えている方られない不全感はなくならない。唯一の打開策は、初学者を最初から「ヒューマン・サービスの実践組織の正当なメンバー」として扱うことなのである。・・・。「期待して実習に臨んだのに、デスクワークばかりで面白くない」というレベルで囁かれる初学者の不満も、彼(女)の参加が正当化されるだけで劇的に意味を変える。書類の整理や職員が出払っている時の留守番といった周辺的で単純な作業は、初学者が自らの参加の正当性と組織内での責任を確認してこそ、重要な意味を持つからだ。自らのメンバーシップが明示的な形で示されるだけで、日々繰り返される書類のコピーも事務所の留守番も、様々な暗喩や象徴となって初学者の身体にアプローチしてくる。気づきは理屈で起こるものではなく、身体全体で「腑に落ちる」ときに起こるものであること、・・・。(15-16p)
福祉工場で担当者が行う実習生の受け入れは、ここで書かれているのを超えて、かなり本格的にメンバーとして受け入れ、本人のやる気を喚起していると感じているが、このことを意識したら、さらにいいものになるかもしれないと思った。


2 ソーシャルワーク実践を規定する歴史的・社会的文脈の理解

   ソーシャルワーク実践の本質にかかわる文脈依存性

1950年代頃から、制度論と技術論の対立があり、ソーシャルワークの方法や技術か、制度の変革かという議論があり、【80年代以降、ソーシャルワーク実践はこの問題については社会制度の変革も含めて、技法・技術論に軸足を置くようになる。そして、それ以降、現在まで「より明確な固有の専門性の確立」という方向を目指して止まない】とある。

「社会制度の変革も含めて、技法・技術論に軸足を置く」っていうのがどういうことかよくわかんないのだけれども、制度と技術って、つまんない対立だなぁと思う。だって、どんな場面でも両方ないとダメでしょ。その対立って、いったいなんなのだと思う。

ともあれ、ヒーリーという人は「現状を、制度的支配言説と専門家言説、そしてそれら2つに対する対抗言説の3つのちからのせめぎあい」と言っている、とある。18-19p
(19p~の以下の記述も興味深いのだが、読み飛ばしていると何のことだかさっぱりわからなくなったのでちょっと丁寧に読み返してみた。)


 2.1 ドミナント言説の中でのソーシャルワーク実践の価値
(ドミナント言説、とか言わないで支配的言説っていえばいいと思ったものの、特別な意味を持たせようとしているのか)

 2.1.1 ソーシャルワーク実践を規定する3つの言説(制度的支配言説と専門家言説、そしてそれら2つに対する対抗言説の3つだろうが、最初は読み飛ばしていたので気がつかなかった)

 ここで多くのソーシャルワーク実践と教え込まれてきた価値観との緊張が存在するのが普通だとされ、そのせめぎあいの結節点としての実践の現実が(ヒーリーという人のものを援用して)紹介される。その前提として、現在の福祉・医療の現場が

 1、人々のニーズ

 2、援助者が依拠する専門知識体系

 3、ソーシャルワーク援助実践の固有性

 4、そもそも対人援助とは何か

という点においてさまざまな言説がせめぎあい、緊張関係をおりなす場と化す、とされる。


さらに1990年代以降の現代社会で揺るぎなく存在しているのは

 1、「法、先端医療言説(bio-medical discourse)」

 2、「ニューエコノミー言説(neo-clasical economic discourse)」

  (この訳は両方とも意訳なのだろうが、過剰(あるいは過小ではないか?)

1について、そこになぜ「法」が入るのか意味不明。bio-medicalという言葉の意味がよくわからなくて調べてみたのだが、わからない。この言葉を使ったものから推測すると、生物学医学をまたぐ広範な領域をさす言葉じゃないか。フーコーのバイオ・ポリティクスと関係なさそう。「法」という含意は見当たらない。

2については新古典派経済学という定訳があるのに、それを使わない意味が分からないし、その後の文脈においても新古典派経済学と訳したほうがわかりやすかったのではないか。意訳するのであれば、いっそのこと新自由主義言説とすればよかったのにと思う)

ともあれ、これがひとつめの「制度的支配言説」とされる。

これに対して、【ソーシャルワーク実践の専門性・固有性を信奉する立場にこだわり、従来通り「心理学的・社会学的な知」を背景にして、所謂「専門対人援助技術に関する実践理論」を構築していく立場が援助コミュニティ内部における腫瘤が対抗言説である】とか書かれるこれが2つ目の専門家言説。

その両方に対抗するのが「オルタナティブ言説」で【60年代から引き続く消費者権利運動の流れを汲んではいるが、それに加えてスピリチュアリティや宗教的価値観を取り入れ、ハイブリッド化しつつあるのが特徴】とされる。

なぜ、この3つなのかはこの段階では提示されない。

 2.1.2 ドミナント言説

さっき書いたように訳が変な・・・。  

 1、「法、先端医療言説(bio-medical discourse)」

 2、「ニューエコノミー言説(neo-clasical economic discourse)

 この2つがドミナント言説の価値基盤であり、【多くのソーシャルワーク実践は、組織的文脈、特に官僚組織の文脈で行われるため、この圧倒的な支配言説の下に自らの援助行動を沿わせていく必要を持つ。この流れの中で支持されるのが、ひとつは「根拠に基づく実践(EBP)」であり、もう一方では「ケア・マネージメント」ということになる】(20p)とされる。

ドミナント言説の価値基盤の流れの中で支持されるのが【「根拠に基づく実践(EBP)」であり、もう一方では「ケア・マネージメント」】と書かれるのだが、この2つ、使い方によっては別の流れでも使えるものになるのではないかと思うのだが、どうろう。

22pでは専門家とユーザーの間に立ち通訳機能を果たすことが要求されるソーシャルワーク実践者について記載がある。 そして以下のような問いがたてられる。
・圧倒的に説得力を持ち強力である先端医療言説の下で 、ユーザーは、他の選択肢を本当に「十分に知り、自ら選択する」ような自己決定を行うことが可能だろうか? サービスユーザーにとって、圧倒的で明確な存在である「専門家」がその領域特有の言葉や概念を駆使して行う「説明と助言」を受けた後に、それをあえて選ばないことは、容易だろうか?
・その当事者に専門家言説を相対化するだけの「ちから」があったとして、「ユーザーのラディカルな自己決定」が行われようとするときに、それを支援するだけの「ちから」をソーシャルワーク実践者が持っているのだろうか?
・遺伝子カウンセリングの現場や発達障害児のノーマライゼーションを目指す早期療育プログラムにソーシャルワーク実践者として関与するとき、それは人間存在の多様性や尊厳の問題とどのように折り合いをつければよいのだろうか?
この問いに続いて、以下のようになことが記載される。
予防と治療という枠組みがあまりにも揺るぎないため、ソーシャルワーク実践の基盤となる価値観との緊張関係はますます高まる。実践者としては、組織的文脈、現代社会の趨勢として抵抗感をもちつつ受け入れざるをえないが、このような強力な言説を超えたところで自己決定は可能なのか、科学的中立性が結果的に社会的排除やマイノリティー差別を助長していないかどうか、などをよく考える必要がある。 23p
予防や治療といった行為が、当事者の尊厳や自己決定と抵触する場面はありそうだ。
ユーザーがそれを拒否したいと考えるとき、ソーシャルワーカーはどのような立場に立つべきなのか問われる。

そして、【その支配的な言説をやみくもに拒否するのではなく、その効用や限界を認識してこそ、それらの価値観や専門家特有の言い回しを逆手にとって、リサーチやアドボカシーといった手法で参与する可能性が生じる】とある。

よくわからない部分も多いが、おそらく24pに記載される以下との連関で考えることは可能だろう。。
現実の客観的記述に疑義を呈し、現実を形作る諸言説の構成に注意を向ける構築主義的な見方が用いられる傾向がある。この立場に立てば、医療・福祉サービスがケア機能以上にコントロール機能を持つことを指摘し、それらのサービス供給を担う自分自身に対しても、より自己言及的で批判的な立場を取るようになる。
だんだんメモが微細に入りすぎ、面倒になってきた。支配的言説と専門家言説の親和性が気になり、そもそも専門家言説は支配言説が変われば、それにそって動くような性質のものなんじゃないかと思う。確かにその性質は微妙に違うだろうが、わける意味があるのか、とも思う。

というわけで面倒になってきたので2.1.3の専門家言説の説明は略。


2.1.4 覆すちから:能動的で全体的なサービス・ユーザー像を形作るオルタナティブな言説
このオルタナティブ言説は、前の二つの言説と全く違う立場に立つ「異議申し立てのちから」として存在する、と書かれている。そこには二つの潮流があり、ひとつは60~70年代に起こった公民権運動や消費者運動の立場を継ぐものであり、もう一つは宗教・スピリチュアル系のもの。

この前者について、注目すべきは、60~70年代を起源にする運動であり、古いタイプの社会運動はそこに含まれないということでもある。その古い運動は社会運動であっても専門家に弱かったりする。

そして、この前者について以下のように書かれている。
 前者は、支配言説と専門家言説の双方から「サービスの受け手」 として無力化されてきたサービス受給者像への異議申し立てである。 (中略) これらの運動は、社会変革のための抵抗運動へと発展する志向を併せ持っており、批判理論や正義の再配分、といった左派的な主張と合流する傾向がある。そのことで、ラディカルなオルタナティヴが提言できるという面もあるが、一方では、異議申し立ての集団運動そのものがアイデンティティ・ポリティクスと化してしまい、対抗集団内に新たな排除と差別を生む危険性もはらんでいるといえよう 。25p
後者については、異なった文脈から生じているとヒ―リーは指摘している。
「あまりにも急速に先端化していく 支配言説に抗してモラル・フレームワークを形成しようとする試みであったり、反対に 支配言説によって残余化された諸領域、諸サービスを補完する形で最近になって台頭してきた言説だったりする」(26p)

 2.2 さまざまな言説の結節点としてのソーシャルワーク実践
【援助実践のための技術】を学ぶということは、このような輻輳する文脈の結節点として様々なソーシャルワーク実践が並列して現存していることの理解と、そのような状況を批判的に読み取いていく洞察力を身につけることである。決してナイーブに心理学や社会科学に依拠をした立場のみを主張し、援助専門家志向を表明することではない。

 ところは現実に「援助技術方法論」 として初学者が学ぶのは、心理学(と社会学)に依拠した「専門コミュニティ内部での支配言説」のみである。 】(26-27p)

こんな風に使えない福祉教育が幅を利かせてるということか?


3 エンパワメント概念の理解を伴うアクション志向の実践的経験
   開発学的視点からの人権概念の再検討

ここで筆者は近年ソーシャルワーク実践領域でも比較的安易に使われている「エンパワメント概念」に疑問を呈する。 日本のソーシャルワーク実践教育が前提としているのは「ユーザーと実践者のミクロなユニットを基本単位」とすること。そのようなものとして教えているのでエンパワメントを基本的に「個人の能力強化と覚醒」に焦点を置くものと定義している。 それへの疑問が以下で出される。

 3.1 エンパワメント概念の言説性と人権アプローチ

 ここで 佐藤寛のエンパワメント論(2005)を援用し、開発領域においても様々な定義があるエンパワメント概念だが、「エンパワーメントは当該社会内部の社会関係の変容によって達成される」という最終目標においては合意が形成されている、として上記のようにエンパワメント概念をミクロのユニットにしてしまうことを批判する。 (29p)

 ここはぼくも見落としがちだった部分ではないかと思う。いままで森田ゆりさんの、「エンパワメントは支援者から与えられるものではなく、自分が本来持っている力に気づくプロセスだ」という定義にのみ注目していた。それはそれで正しいと思うのだが、本人が自ら、本来持っている力に気づくために、社会というか所属するコミュニティで尊重される必要がある。従来、劣っているものとして見下されていたとすれば、社会(あるいはコミュニティ)がその見方を改めるかたちでの【当該社会内部の社会関係の変容】が求められるわけだ。

 同時に当該社会【全体】の社会関係の変容がなくても、エンパワメントは可能ではないかと思う。当事者が信頼する誰かが、既存の社会関係が歪んでいることを認め、当事者の尊厳を尊重してくれることでエンパワメントは実現するのではないか。

森田ゆりさんはこんな風に書く。
エンパワメントとはまずもって一人ひとりが自分の大切さ、かけがえのなさを信じる自己尊重から始まる、自己尊重の心は自分一人で持とうと意識して持てるものではない。まわりにあるがままのすばらしさを認めてくれる人が必要だ。無条件で自分を受け入れ、愛してくれる人が。
障害の社会モデルとエンパワメントの関係については、ずっと考えてきた課題でもある。話はそれるが、少しそれについて考えてみる。
とりあえず現状では https://tu-ta.seesaa.net/article/200905article_3.html に少し書いたものがある。

そこでは、とりあえずの結論として、こんな風に書いている。
このような立場から、障害者が障害ゆえに生きにくさを感じているということがあるのなら、まず変らなければならないのは社会のほうじゃないかという考え方が生まれるし、自分はそのように言っていいんだと気づくプロセスがエンパワメントだというふうにも言える。そして、さらにそのような社会変革をめざす社会運動は、そのプロセスに参加することがエンパワメントにつながるようなプロセスになるようにしていく必要があるのではないか。
同時に、小川善道さんが書いているように、エンパワメントのために社会モデルが必要であり、また、社会モデルの出自でありまた帰結でもある社会を変革していくというアプローチのためにもエンパワメントは必要になってくる。その両方は相互に必要とされていて、それらをダイナミックにかみあわせていくことが必要なんじゃないかと感じたわけだ。
「エンワーメントは当該社会内部の社会関係の変容によって達成される」という言葉から触発されて、以前に書いたものを引っ張り出してきた。

「エンパワーメントは当該社会内部の社会関係の変容によって達成される」というが、エンパワメントはゴールのないプロセスだと思う。森田さんにならって言えば、「自分自身のすばらしさに気づくプロセスがエンパワメント」なのだから、「達成」というとき何を指すのかが問題。だから、その「達成」はゴールではなく、到達段階と考えるべきだろう。

向谷地さん流に言えば、エンパワメントには「場の力」が必要ともいえるだろう。その「場」で肯定されることが本人の気づきのプロセスを促進する。

さらに「障害」とされる「心身が多数派と異なる状態」が「~~ができない」という状況を作り出していると考える前に、「心身が多数派と異なる状態」も持つ本人を「~~ができない」という状況に置いているのは主要に社会の問題であるという「障害の社会モデル」の視点を持つことが自己肯定感やエンパワメントを促進するだろう。

同時に「主・要・に・(社会の問題)」と書いたように、どんなに社会が変わっても残る「~~できなさ」はある。その「~~ができない自分」を丸ごと受け入れる「存在の肯定」は自らがかかわる社会との関係の中で育まれるはずだ。それもまた「場の力」と呼ぶことができる。

エンパワメントは個に注目するが、その「個」は社会の存在抜きにはありえない、社会的存在としての「個」である。

ここで書きたかったことは、「エンパワメント」と「障害の社会モデル」と「場の力」の抜き差しならない関係だ。それぞれがそれぞれに影響し、自分自身と社会をじたばたしながらも、少しでもましな方向へと変えていくことにつながっているのだと思う。

エンパワメントはかけがえのない自分に気づくプロセス。

固定した自分など どこにもなくて、絶えず変容していく。

ポジティブな気分の時だけではなく、凹んで「どうでもいい」という気分になるときもある。それぞれの状態に応じたエンパワメントがあるのだろう。


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話が大幅にそれたので読書メモに戻す。

エンパワメント概念の混乱について以下のように書かれている。
エンパワメントという概念の中に「人々がそれぞれの理想(の援助実践)」を込めることは、ソーシャルワーク実践のみならず、ヒューマン・サービス実践全般における「当事者ー他者」観の曖昧さ、合意のなさをそのまま反映しているといえよう。対人援助実践の根幹に関わるこの「誰が/誰のために/何をするのか」 という問題を曖昧にしたままでは、初学者が混乱するのも無理はない。初学者が実践現場で職人する三つ目の混乱は「私は誰のために何をしているのか」というものであり、これに対しても援助技術論と演習教育は明確な答えを用意できない。むしろ、明確化しようという試みでは開発力が一歩進んでいる。29p
このあとに先ほど俎上に挙げた話が続く
開発領域においても様々な定義があるエンパワメント概念だが、「エンパワーメントは当該社会内部の社会関係の変容によって達成される」という最終目標においては合意が形成されている。
そして著者は「ソーシャルワーク領域においても、エンパワメント実践において到達すべき目標は同じであると考える」と書き、以下のように続ける。
人々の「人権と尊厳、福祉(well-being)、平等、公正」に資する取り組みが自らの傾注すべき価値であることを、ソーシャルワーク実践者自身が内在的にでも目的感覚として保持しているならば、エンパワメントに名を借りた実践の目的が、単にヴァルネラブルな人々の自己覚醒や効力感の増強に留まることなく、当該社会の社会関係の変容に設定されるはずなのである。29-30p
これ、どうなのだろう。【「人権と尊厳、福祉(well-being)、平等、公正」に資する取り組みが自らの傾注すべき価値である】とは思う。しかし、ソーシャルワークにおけるエンパワメントの目的が【当該社会の社会関係の変容に設定されるはず】だというのは短絡化しすぎているのではないか。

様々な困難を抱えたソーシャルワークが対象にする人々のエンパワメントを考えた時、まず必要なのは、社会関係の変容ではなく、自らの存在そのものの価値に気づくことではないだろうか? その先で社会関係の変容を求めるかどうかはソーシャルワークの領域ではなく社会運動の領域の話ではないか。もちろんそれが大切だと思うし必要だと思って参加しているのだが、 ソーシャルワーカーがその人のエンパワメントに寄り添うのはその人が自らの存在そのものの価値に気づくところまでではないか。そこから先もソーシャルワーカーがその人に寄り添って、その人のエンパワメントに付き合うというのはちょっと違うのではないかと思う。

社会運動の目的のひとつは【当該社会の社会関係の変容に設定される】というのは、たぶんそうだと思う。しかし、社会運動でさえ、その目的の中に、一人一人のエンパワメントということも含んでいるのではないだろうか。

エンパワメントを単に手段と限定してしまうことで、このような考え方が出てきてしまうのではないかと思った。エンパワメントは手段でもあるが、単なる手段ではなく、そのプロセス自体が生きていく上で大切な要素なのではないだろうか。

ここで著者はソーシャルワークと開発学をダブらせるのだが、ぼくの感覚ではやはり対象が違う。ぼくの感覚では、社会開発のプロジェクトの対象はコミュニティで、ソーシャルワークの対象は個人だ。しかし、個人といっても社会を抜きに個人はないわけで、ソーシャルワークは個人に向けて行いつつも、そこを忘れず、社会的な抑圧や差別があることを意識し、ソーシャルワーカーもそれをなくしていく道筋を意識すべきだろう。しかし、対象はあくまで個人なのではないか、と思う。国が決めた仕組みがおかしいことはよくある。そういう仕組みの中でのソーシャルワークで、そのおかしな仕組みを使わない抜け道がないかと探す。そして、役所には仕組みがおかしいことを訴えて、違う運用を求める。ソーシャルワーカーとしてできるのは個人的にできるのはそこまでで、そこから先は社会運動の活動家としての領域じゃないかと、そして、ソーシャルワーカーもそこに参加すべきだと思うのだが、その両者はちょっと役割が異なるんじゃないかと思うのだった。

そんな風に感じるのは両方にかかわる少数派のソーシャルワーカーだからだと思う。そんな風に仕組みの変革をちゃんと求めて運動に参加してるソーシャルワーカー、ぼくのまわりで見まわして、1割もいないんじゃないかと思うのだけど、どうなのだろう? きょうされんや共同連の事業所にいたら、少し違うかも。

32ページには以下のように書かれている。
 本節で展開しているエンパワーメントの捉え方に依拠するならば、実践者が身につけるべき視点は人々のニーズの問題化やそのアセスメント、充足にあるのではなく、ユーザーに代表されるヴァルネラブルな人々の人権(政治権・経済権・社会権・文化権)に責任を持つ担い手の変革を促す方に重点が置かれなければならない。
上に書いたように、これは違うと思うのだった。 ソーシャルワークに求められているのは、今抱えている生きづらさをまず軽減することではないか、 責任を持つ担い手の変革を待ってはいられない。

例えば、私が実際につい先日、経験したのは、40歳で介護保険の適用を受ける特定疾病の人の話だ。その人たちは「介護保険優先」の原則を厳格に適用する福祉事務所の下では、たとえ生活保護でも1割負担が求められる(生活保護の場合は保護費から出るのだけど)。

他の理由で障害者になった人は障害福祉サービスを使うので、多くの場合自己負担がないのだけれど、介護保険を使う場合はいつも自己負担がつきまとい、いろんな事情で生活保護を受けていない低所得者も1割の負担が強いられる。これはおかしいと思って、区や都に電話したのだけれども、結局、仕組みがそうなっているから変えられないとのことだった。あとは抜け道を探すしかないのだと思った。そこから先、制度の改変を求めて運動を起こすことまで求められても、ソーシャルワーカーとしてはちょっと厳しいと思う。

~~以下、2022年6月の追記~~
こんな風に、ここではソーシャルワーカーに甘く、「制度の改変を求めて運動を起こすことまで求められても、ソーシャルワーカー(以下、SWと略)としてはちょっと厳しい」と書いてしまっているが、少なくとも、SWは制度に矛盾があることに自覚的で、さまざまな機会を通して、そのことを主張したり、変革の必要性を語ることは出来るのではないか? 矛盾の多い制度に従って、そのもとで粛々と仕事を進めるSWが多すぎるのだと思う。あきらめずに、矛盾を声に出し、可能なチャンネルを探して、時には作って、その矛盾をただすべきだという声を効果的に出すことを追求するのもSWの仕事であるはず。『脱「いい子」のソーシャルワーク』という本でAOPのことを読んで、そんな風に感じたのだった。

そして、この『解放のソーシャルワーク』もまた、AOPに関する本だということも出来るかもしれない。
(以下、さらに追記
と思ったのだが、『脱「いい子」のソーシャルワーク』を読むと、AOPの歴史が記述されていて、AOPは現在、カナダや英国でクリティカル・ソーシャルワークの主流であるとのこと。この本は主に豪州をモデルにしたクリティカル・ソーシャルワークの概説本、ということも出来るかも。
~~追記ココまで~~

この章では、その権力の保持者に働きかけて、日常の権利を守るための初学者のためのワークショップの方法などが紹介されていて、それはそれで面白いのだけど。

第4節のタイトルは ’TAKE ACTION’

サブタイトルは「日常実践としての援助技術教育事例の紹介」

冒頭にこんなことが書かれている。
本章で概観したような要素、すなわち(1)身体性、(2)文脈依存、(3)社会変革のアクター自認。をソーシャルワーク実践の要諦と考え、初学者に伝えるべき実践方法・技術だとするならば、援助技術教育はどのような組み立てとなるだろうか。それぞれの要素に対応するためには、(1)出来る限り正統的に実践現場に参加する状況を教育プログラム内に設定すること、(2)心理学的・ 社会学的な援助方法論のみならず、支配的言説とオルタナティヴな思考についても理解を促すこと、そして、(3)課題の中に初学者が実感できる組織レベルの変革体験を組み入れること、が必要となる。33p
いろいろ違和感を書いてきたが、この程度の話なら、合意できるレベルだと思う。

そして、この章の結語は以下
・・・現代社会において、ソーシャルワークの実践が社会問題の解決に資する専門的行為であると主張するのなら、その実践内容は、 混迷する現代社会における新たな公共性の生成に寄与するものでなければならない。このような実践をこなせる実践者を養成するには、従来から行なっている心理学(社会学)的知見のみに依拠した一時代前の近代的な実践者養成方法に拘泥することなく、文脈理解と権利意識への感受性が高く、その上状況に応じたコミュニケーションで人々と対峙できるような実践者を生み出す必要がある。37p
途中、いろいろ違和感があり、それは小さくなかったが、この結論は深く同意。

たった37ページの短い章なのに、メモが長すぎ。

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