『なぜ人と人は支え合うのか』メモ

画像なぜ人と人は支え合うのか ─「障害」から考える

渡辺 一史 著


以下、出版社のデータ

から
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編集者から
今日、インターネット上で渦巻く次のような「問い」にあなたならどう答えますか? 「障害者って、生きてる価値はあるでしょうか?」「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では弱者を救おうとするのですか?」。気鋭のノンフィクションライターが、豊富な取材経験をもとにキレイゴトではない「答え」を真摯に探究! あらためて障害や福祉の意味を問い直します。障害者について考えることは、健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもあります。2016年に相模原市で起きた障害者殺傷事件などを通して、人と社会、人と人のあり方を根底から見つめ直していきます。

この本の内容
障害者について考えることは、健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもある。2016年に相模原市で起きた障害者殺傷事件などを通して、人と社会、人と人のあり方を根底から見つめ直す。
この本の目次
第1章 障害者は本当にいなくなったほうがいいか
  不思議な身体のつながり
  植物状態から生還した天畠大輔さん
  ・・・

第2章 支え合うことのリアリティ

  『こんな夜更けにバナナかよ』の世界
  「公的介護保障制度」って何だろう?
  ・・・

第3章 「障害者が生きやすい社会」は誰のトクか?
  「あわれみの福祉観」ではなく
  「医学モデル」と「社会モデル」
  ・・・


第4章 「障害」と「障がい」―表記問題の本質
  私たちの障害観はどう変わったか
  「障がい者制度改革推進会議」 
  ・・・


第5章 なぜ人と人は支え合うのか
  価値を見いだす能力
  愛情あふれる放任主義
  ・・・

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「障害者って、生きてる価値はあるでしょうか?」
「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」

「どうして強い人間が、弱い人間を生かすために働かなきゃならないんですか?」
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では弱者を救おうとするのですか? 優れた遺伝子が生き残るのが、自然界の摂理ではないですか?」
39p
これらの問いについて、渡辺さんは「素朴で露骨で、一件モラルやデリカシーを欠いているかのようにも思えるこれらの問いは、じつは自らの存在意義に対する真摯な省察ともつながる大切な問いではないかと私自身は考えています」と書く。

以下、その前も含めて引用
 まさに私自身がそうだったのですが、口にするかは別にして、そうした問いを心に浮かべることで、あたかも世の中のウソや欺瞞を見抜いた気になっていたものでした。・・・表立って口にしづらい問いだけに、なおさら心の奥底にわだかまり、匿名性を確保できるネットの世界にあふれ出てしまう側面・・。
 今日では、日本が抱えている「財政難」という要因も加わって、こうした問いになおさら力を与えてしまっている傾向があります。植松被告の主張も、こうした社会の風潮を如実に映し出している側面があるのですが、果たして、これらの問いは本当に正しいのかどうかをよく吟味して考える必要があると私は思っているのです。
 また、素朴で露骨で、一件モラルやデリカシーを書いているかのようにも思えるこれらの問いは、じつは自らの存在意義に対する真摯な省察ともつながる大切な問いではないかと私自身は考えています。40p
著者の渡辺さんは「生きる価値があるのか」と問う人に、まず最初にこう聞いてみるべきです、という。

「では、あなた自身は、自分に生きている価値があると、誰の前でも胸を張って言えるんですか? 価値があるとしたら、どうしてそう言えるんですか?」46p

「人の生に意味も無意味もない」と言ったのは杉田俊介さんだった。
それはについては https://tu-ta.seesaa.net/article/201704article_4.html に書いた。

ちなみにこの件についての山田由美子さんのブログは

ここから、植松被告が。「もし自分だ言われたら」というようなことを想像することができない人間だという話になる。渡辺さんは「自分の意見は言うが、反論を受け付けない」という植松被告の姿勢が、彼の主張を成立させている根幹にあり、このことはまず第一に知っておくべきこの事件の重要なポイントだ、というのだが、果たして本当にそうか?ここはよくわからないまま残った。

74pで引用している最首さんの発言から
 そもそも人間は、「自分がどうして生まれてきたのか」ということさえ、わからないわけでしょう。その解決できない「わからなさ」の中に、大切なことがあるんです。そして、わからないからこそ、あらゆることに「ためらう」わけで、「わからなさ」というのは、もう歯がゆいほど優柔不断になるんですね。
 でも、わからないからこそ、いろんな希望も期待もある。植松青年にはそういう思いがない。何でも即断してしまって、迷いがない。だからこそ、私は植松青年に問いかけていかなくてはならないと思っているんです。 早急にわかる必要はないと。「わからない」 ということをもっと大切にして欲しいのだと。
「わからない」ってことに関しては、自信がある。わからないことだらけなので、あまり大切にはしてないかも。

細かい話だけど、星子さん、「だいたい一日中うちで音楽を聴いています」(75p)ってあるんだけど、もう、あの事業所には行ってないのかな?

渡辺さんがいまでも読むと、「つい目頭が熱くなって」という片桐さんという人の鹿野さんへの追悼文がいい。
 別に立派な人だったとは思わない。むしろダメな所が目立つ人だった。
 重い障害があるのにがんばっている、ということで評価を甘くしたくない、という思いもある。迫りくる衰弱や痛み、 奪われる自由と軽んじられる人権、ということを健常者は知る必要があるとは思う。でも健常者も辛いわけでね。しかし差別や軽視にさらされていながら、あるいはいろいろな困難に直面しているのに、誰からも援助も支援も、共感もしてもらえない健常者もたくさんいる。これは辛いでしょ。
 それに比べて鹿野さんは・・・略
 ダメなのに多くの人に囲まれたのはなぜか。一般化はできないのだろうが、私が彼の元を離れなかったのは、決定にも弱さも隠さず、ずるかったり、繕ったり、人にあたったり、自分を立体以上に大きく見せようとしたり、そんな誰もが持っていながら誰もが隠したがる面を、彼は全てさらして、まる裸で生きていたからだ。本人としてはさらすつもりはないのにバレバレ、ということもあるが、まぁ、それも含めてだ。
 丸裸の彼は、丸裸の魅力、などと表現できるようなしろものではなく、たびたび、むしろぶざまとさえ言えた。彼が持っていたのは、美しく強く生きる魅力ではなく、ぶざまだがエネルギッシュに生きているという迫力だった。それをすごいと思った。痰がたまったときに鳴る人工呼吸器の「 ピー!」 という警報音は、鹿野という ヤカンの笛が、彼自身のエネルギーの沸騰を知らせているかのようだった。
 丸裸の鹿野靖明はぶざまだった。しかし、それが、かっこよかった。(抜粋)
132-133p


渡辺さんは「ともに生きる社会」とか「共生社会」という言葉の耳障りの言いポジティブなイメージを紹介した後、こんな風に書いていて、面白いと思った。
 しかし、実際はどうかといえば、鹿野さんとボランティアたちの例で見てきたように、最終的にはそこに行き着くこともあるにせよ、前段階としては、確実に面倒くさいことが増え、摩擦や衝突、葛藤といったストレス的な要素がむしろ増える” 混沌とした社会” をイメージした方が良いのではないか、と私は考えています。
 なぜなら、障害者と健常者がともに生きる社会とは、”異文化”どうしのぶつかり合いという側面が必ずあるからです。 136p
そして、こんな記述も。
・・・私たちの社会は、「かわいそうな障害者」や「分相応で控えめな弱者」に対しては、とてもやさしい面(温情)があるのですが、社会に対して毅然と主張してくる障害者や、弱者の枠をハミ出すような側面がかいま見えたとたん、平然と冷たくなる特質があります。こうした「あわれみの福祉観」というものから、私たちはなかなか自由になることができません。137p

152~153pには、ノーマライゼーションの説明として、バンク=ミケルセンが紹介されているが、 もし、竹端さんの『「当たり前」をひっくり返す』がこの本より前に書かれていたら、この記述も少し違うものになっていたかも。

 ちなみに、ぼくは上記の本でニーリェのノーマライゼーションをヴォルフェンスベルガーが改竄したというのはわかったが、ミケルセンがそこでどう影響しているかはわからなかった。


末尾に教科書的な説明を張り付けておくが、ここに書かれているノーマライゼーションの評価も竹端さんのヴォルフェンスベルガーの評価と微妙に違う。

204pからは海老原宏美さんが紹介されていて、彼女が縄文杉や富士山を見て畏怖を覚えるのは人間の感性の問題で、それらと意思疎通ができるわけではない。意思疎通ができないから、何の価値も見いだせない、死すべきというのはおかしい。「『価値を見いだす能力がない』だけじゃないですかって私は思うんです」という彼女の意見を紹介する。206p

237頁からは【「行き詰まり」を打開するために】という節が置かれている。

これは『障害者運動のバトンをつなぐ』という本ののテーマでもある。

生活書院のサイトでは
いまだ道半ばの障害者運動。七〇年代の運動の創始者たちが次々に逝去する中、先人たちが築き上げてきたものをどのように受け継ぎ、どのように組み換え大きく実らせていくのか。その大きな課題に向き合うために、これまでを振り返りこれからを展望する。
と紹介されている。

すごく簡単に言ってしまえば、いまの障害者の暮らしを支える介助の仕組みを作ってきた運動のスピリッツが制度が整ってきたことで見えなくなり、運動が力を失っている状況が「行き詰まり」を生んでいる、と言えるかも。

この本では『障害者運動のバトンをつなぐ』での熊谷普一郎さんの文章が引用されている。
制度を作ってきた世代には全体を見通すことが出来る、としたうえで、後の世代について以下のように表現する。
 どころか、その後に入ってきた世代というのは、ある意味では出来上がった制度の中にうまいこと囲い込まれる形で、四方を手厚い援助の壁で囲まれた、見晴らしの悪い密室の中に入れられ、「特に不便があるわけではないけれども、なんだか釈然としない」といった見晴らしの悪い状態に陥っていくという問題がある。 (『障害者運動のバトンをつなぐ』から孫引き、この本では240p
尖鋭な活動家が担ってきた自立生活が一般化する中で、このような変化はある意味、必然なのではないか、とも思える。使いやすい制度になれば、活動家でなくても、だれでも使えるようになる。そこで、活動家が持っていた熱意をそうでない人に押し付けることはできない。そうなったときに、どのような介助の形があるのか、ということがあまり考えられてなかったのかもしれないと思った。

243pからは【「福祉」が芽生える瞬間】という節で、深田耕一郎さんの『福祉と贈与』、そして、新田勲さんのことが紹介される。
 この本の中で、深田さんは、「システム化された福祉は誰も傷つかない代わりに、ドラマもない。ドラマのないところに人間の尊厳も生まれない」と指摘しています。244p
と渡辺さんは書くのだが、『福祉と贈与』を読みかけで置いたままだったのを思い出した。
ドラマなんかなくても、人間の尊厳はあるんじゃないかと思うんだけど、文章の前後の脈絡がわからない。
それから、深田さんが新田さんを紹介する以下も興味深い。
「・・・
  新田さんは、ぼくは障害者なんだと。そのへんが面白い。手だってぐにゃっと曲がってて、言葉もしゃべれない自分は、弱者で困っている立場だから、健常者から手を差しのべられることが必要なんだと。だから、ぼくをかわいそうな存在として、ちゃんと見なさいと」

「かわいそうな存在として?」
「お金をもらうから、この人を支えようじゃなくて、こういうぼくの状況をみて、あなたがたは、心が動かないのかという。仕事だからやるんじゃなくて、カラダが動くし、何より心が動くだろうと。心が動かない人間は、ダメだよ と」
「それは同情とか、あわれみではなく?」
「もっと心の奥深くの動き……。でも、ここはなかなか伝わりにくいのと、ちょっと誤解を与えるんですよね。スレスレのいい方なんです。
 あと、新田さんがよくいっていたのは、1億円積んでもやってくれない人はいるけど、1億円なんか積まなくてもやってくれる人はいると。お金じゃなくて、人には思わずカラダが動く場面があるでしょ と。要するに、それが福祉というものが芽生える瞬間なんだと」245-246p

そして、この本の本文を渡辺さんは以下の一文で閉じる。
 結局、私はこう考えるのです。人と人が支え合うこと。それによって人は変わりうるのだということの不思議さに、人が生きていくことの本質もまた凝縮しているのだと。249p
ここは、そんなふうにも言えると思った。


あとがきには
「あの障害者に出会わなければ、今の私はなかった」――そう思えるような体験をこれからも発信し続けていくことが、植松被告の問いに対する一番の返答になるはずですし、植松被告に同調する人たちへの何よりの反論になるはずです。255p
とあるのだが、 それが一番の返答かどうか分からない。 ブルーハーツではないが、答えはもっと奥の方にあるような気がする。


ちなみにぼくがノーマライゼーションについて社会福祉士の資格取得のためのレポートで書いたのが
https://tu-ta.seesaa.net/article/201509article_4.html
倉本さんのアブノーマライゼーションを持ち出して、まったく評価されなかったもの。

これを書く前に竹端さんの本とか、読んでいれば、ちょっと違ったかも。
ちなみに竹端さんの本でニーリエのノーマライゼーションが改竄されたと書かれてる件については
https://tu-ta.seesaa.net/article/201902article_4.html で紹介。


2月11日追記

「自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。
でも人間の社会では何故それが行われないのでしょうか?

というYahoo知恵袋での回答が秀逸で話題になっているので紹介(2019年2月11日採録)


最近、話題になっていて読んだのだけど、よく見るとけっこう古い。2011年6月のやりとり。

mex********さん 2011/6/118:19:42
え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません
弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません
虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています
***
自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です
個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます
個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです

種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません
「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)

そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです
必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、
あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り

「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです
そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります
「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」
高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する

個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です
どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました
生物の生存戦略としては大成功でしょう

(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)
「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ

あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です
遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)

アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです

その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです

「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです
我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです



資料・ノーマライゼーション。 空白行挿入
[社会福祉キーワード] ノーマライゼーション
助教 平野 光洋
 「ノーマライゼーション(Normalization)」とは,障害者(広くは社会的マイノリティも含む)が一般市民と同様の普通(ノーマル)の生活・権利などが保障されるように環境整備を目指す理念です。こういうとすばらしく聞こえますが,逆にいえば,このような思想が出る背景には,障害者を取り巻く環境は,普通ではなかった(アブノーマル)ということなのです。
 ノーマライゼーションは,デンマークの知的障害者の親の会による運動から生まれました。デンマークの社会省で知的障害者の施設を担当した「ニルス・エリク・バンク-ミケルセン(Niels Erik Bank-Mikkelsen)」は,多くの知的障害者を収容した大型施設の生活環境に疑問をもつようになります。自由に外に出られず,食べるのも寝るのもいっしょの集団単位の生活がナチスの強制収容所を彷彿させるものだったからです。実は,バンク-ミケルセン自身にも第2次世界大戦中にレジスタンス活動により,ナチスの強制収容所に収容されていた経験があったのです。彼は,知的障害者の親の会と共に,知的障害者の生活条件の改善のために法改正にのりだします。そして親たちの願いをもっともよくあらわす言葉「ノーマライゼーション」という言葉を盛り込んだ「1959年法」を誕生させるのです。

 デンマークにおけるノーマライゼーションの流れは,1960年代にはスウェーデンなど北欧諸国にも広がっていきます。スウェーデンのノーマライゼーションの運動に携わってきた「ベンクト・ニィリエ(Bengt Nirje)」は,ノーマライゼーションの理念を整理・成文化し,原理として定義づけました。ニィリエは,文献によっては,「ニルジェ」,「ニーリエ」と書かれる場合もあります。ニィリエは,ノーマライゼーションの原理を「社会の主流となっている規範や形態にできるだけ近い,日常生活の条件を知的障害者が得られるようにすること(1969年)」と定義し,さらに「ノーマライゼーションの8つの原理」(1日のノーマルなリズム,1週間のノーマルなリズム,1年間のノーマルなリズム,ライフサイクルでのノーマルな経験,ノーマルな要求の尊重,異性との生活,ノーマルな生活水準,ノーマルな環境水準)を実現しなければならないと位置づけました。ニィリエは,ノーマライゼーションをアメリカにも紹介しました。
 こうして,ノーマライゼーションがアメリカひいては世界中にも広がることになります。デンマークのバンク-ミケルセンが「ノーマライゼーションの父・ノーマライゼーションの生みの親」といわれるのに対して,スウェーデンのニィリエが「ノーマライゼーションの育ての親」といわれるのは,ノーマライゼーションの原理を整理・成文化して紹介し,世界中に広めたためです。
 アメリカに広がったノーマライゼーションを独自に理論化・体系化して発展させたのは,「ヴォルフ・ヴォルフェンスベルガー(Wolf Wolfensberger)」です。ヴォルフェンスベルガーは,ノーマライゼーションをアメリカやカナダで紹介し,アメリカのネブラスカ州などで政策に導入し,実践しました。ヴォルフェンスベルガーは,障害者などの社会的マイノリティが保護や哀れみの対象として一般市民から下に見られるのではなく,社会的意識の面で一般市民と対等な立場とする事がノーマライゼーションの目指すべきことであると考えたのです。1983年には,ノーマライゼーションの原理にかわる新しい学術用語として「ソーシャル ロール バロリゼーション(Social Role Valorization:社会的役割の実践)」を提唱します。「ソーシャル ロール バロリゼーション」とは,社会的に低い役割が与えられている障害者などの社会的マイノリティに対して,高い社会的役割を与え,なおかつそれを維持するように能力を高めるように促すことで,社会的意識の改善を目指す概念です。
 従来の北欧のノーマライゼーションでは,アブノーマルな個人への改善というよりは,アブノーマルな生活条件や社会環境の改善を重視するという特徴があります。それに対してヴォルフェンスベルガーの目指すノーマライゼーション(ソーシャル ロール バロリゼーション)の特徴は,「個人の能力を高めること」や「社会的イメージの向上」を重視する点にあります。通常に近い行動や外観をとるなど,文化的にアブノーマルな個人の行動・特性についてノーマルになるよう働きかけることも,重要視されます。この点が従来の北欧のノーマライゼーションの流れとの違いです。
 続けてノーマライゼーションの国際的な取り組みを紹介します。1971年に「知的障害者の権利宣言」が国連で採択されます。さらに1975年には,対象を障害者全般にも拡大した「障害者の権利宣言」が採択されました。1981年には,ノーマライゼーションの実現のために「完全参加と平等」をテーマに国連で「国際障害者年」が定められました。ちなみに日本で「ノーマライゼーション」が広く紹介されていくのは,この「国際障害者年」の頃です。「完全参加と平等」を具体化するため,翌年1982年には「障害者に関する世界行動計画」が採択されます。1990年にはアメリカにて世界初の障害者差別禁止法「ADA法(Americans with Disabilities Act:障害をもつアメリカ人法)」が公布されます。これは,障害者の社会参加促進の具体的内容を行政,民間に約束したものです。1993年には国連で「障害者の機会均等化のための標準規則」が採択されます。「機会均等化」とは,「社会の仕組みと,サービスや活動,情報,文書といった環境を,全員に,特に障害を持つ人に利用できるようにする過程」と同規則に記されています。これは,機会の平等化や社会参加の促進を目指した環境整備を指す言葉で,ノーマライゼーションに近い言葉といってよいでしょう。最近の出来事では,2006年12月に国連で「障害者権利条約」が採択されました。従来の「障害者の権利宣言」などは,法的な拘束力がないのに対して,「条約」を批准した場合は,法律並みの拘束力を持つことになります。

 最後にノーマライゼーションに関わるレポート学習についてですが,初心者がテキスト以外の文献を多く読めば読むほど,ノーマライゼーションの意味がわからなくなる可能性があるように思えます。なぜならノーマライゼーションは,人によっても異なる解釈があるからです。

 さらにノーマライゼーションは,他の社会福祉に関する用語と概念的に重なる場合が少なくありません。
 ノーマライゼーションと関連した概念には,「機会均等化」,建物や交通手段などにある様々な障壁(バリア)の解消を目指す「バリアフリー」,障害をもっていても誰もが利用・参加できる普遍的(ユニバーサル)な環境作りを目指す「ユニバーサル・デザイン」という言葉があげられます。
 他にも概念は重なるのですが,別の用語を使った方がいい場合もあります。例えばノーマライゼーションは,脱施設化により一般市民と同じ地域でともに生活することを目指す理念ともいわれますが,「脱施設化による統合化」を強調するのであれば,「インテグレーション」もしくは「メインストリーミング」を使用した方がよいと思います。
 またヴォルフェンスベルガーのノーマライゼーション(ソーシャル ロール バロリゼーション)では,「当事者自身の能力強化への働きかけ」にも焦点が向けられますが,「社会復帰や自己実現のために当事者自身の能力を強化する過程」という意味を強調して用いる場合は,「エンパワメント」や「リハビリテーション」を使用する方がよいと思います。
 多くの文献の情報を処理しきれず,ノーマライゼーションの意味がわからない状態に陥ったならば,今まで得た知識を捨ててでも,テキストに立ち戻ってレポートを書くことをお勧めします。皆さんのご健闘をお祈りいたします。
(東北福祉大学の通信教育用のサイトから・2019年1月31日収録)

テキストに立ち戻ってレポートを書けば、それは整然としたものになるかもしれないが、それじゃあ、面白くないよね。

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