『レモンとねずみ』がぼくに教えてくれた

 『レモンとねずみ』(石垣りん詩集)から

若者

皆の体格が
目に見えて大きくなった

国土、と呼ぶものが
ゆたかにふくらみ
広くなったような気がする

だけどまだ裸ん坊だ
エラい人は
愛国心を植えたい
とおっしゃる

まあ待っていらっしゃい
そこには
鳥が落として行った見知らぬ木の実
風が運んだ花のたね
何かわからないものの芽が
いっぱい吹き出ようとしている

新しい土地は
昨日汚した手
銃の引き金をひいた手で
掘り返さないことです。

これは、ぼくの大好きな石垣りんさんの詩

日本がいまよりもっと元気だったころの詩

いまなら、石垣りんさんもこんな風には書かないだろう
「新しい土地」はもうどこにあるかわからず
「鳥が落として行った見知らぬ木の実」
「風が運んだ花のたね」
から
「何かわからないものの芽が
いっぱい吹き出ようとしている」
気配はない。

しかし、というか
だからこそというか、
充たされない人々の心に
「エラい人は
 愛国心を植えたい」
と言い続け
考える力をそぎ落とす教育が横行する

「昨日汚した手
 銃の引き金をひいた手」
その手のことを忘れたいという
強い意志が
「自虐史観」などという言葉を生み
中国や朝鮮半島への敵意があおられる

若者の体格の伸びも止まったのかもしれない

「国土、と呼ぶもの」は
シュリンクしているような感じさえある

しかし、それは悪いことだろうか
大きくなることの害悪に
気付き始めた人は少なくない

身の丈に合った暮らしの楽しさが
回復されなければならないと
考える人も増えている

そこに
未来への希望を
見つけたい

若者らしい快活さは
地域で循環する
新しい暮らしの形のために
使って欲しい

より早く
より大きく
そんな時代は終わりつつある

いまでも
「経済成長」という掛け声は
やまないけれども
そこに未来は見えない

お金で計られる大きさは
小さくなっても
もっと大切なものが
循環する社会がある

一握りのひとだけ
とても豊かになって
多くの人が
その豊かさを
享受できない社会の問題

パイを大きくする限界は
見えているはず

十分に大きくなったパイを
分かち合うことが
求められているのだと声を上げよう

豊かさを分かち合えない
そんな社会を終わりにしよう
そうじゃない社会をめざそうという人々が
世界で声をあげている

なかなか希望の見えない
日本社会

それでも目を凝らせば
希望の種はある

安易な希望など語るな
と友人の哲学者はいう

確かにそうなのだろう

しかし
それでも希望を語り続けたい

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