『更生支援における「協働モデル」の実現に向けた試論』メモ その2(第3章のみ)
第3章って合計44頁分しかないのに今回も長い。
【第2部】協働モデルの理論化
第3章
協働モデルと犯罪学・福祉学・社会学・自殺の対人関係理論
59pから、長所基盤モデルの含意を明確にするため、長所基盤モデルの代表的な研究例であるS・Maruna氏の研究及び良き人生モデルとともに、 長所基盤モデルには含まれないが矯正実務上大きな影響力を有していると思われるRNRモデルを紹介。
RNRはリスク・ニード・応答性という3つの原則からなる(応答性という単語Responsivity はうっかり読み飛ばすと、「責任」という単語と読み間違いがち)。
リスク:処遇密度を再犯リスクに合わせる。
ニード:犯罪誘発要因の評価を行い、当該要因に的を絞った働きかけを行う
応答性:一般応答性と特別応答性で構成。一般応答性は、処遇においては認知行動療法を用いるべきもの。特別応答性とは、認知行動療法に対する個々の犯罪者の応答性が高まるよう、犯罪者の長所学習能力、動機付け、人格等の個人的な要素に対応した処遇の個別化を行うというもの
このRNRが実務で重視されているのは、この原則に従って行われた処遇は、そうでない処遇よりも再犯防止の効果が高いから。
しかし、これへの批判もある。さらにはその効果が、どのようなメカニズムで生じているのかが明らかにされていない、とも書かれており、その批判の上に「良き人生モデル」がある。
良き人生モデルとは、「犯罪者が、本人自身が納得でき、また、犯罪活動の減少にもつながる生き方を形成するために必要な心理的・社会的資本を犯罪者に提供すること」を目指すもの。
『性犯罪からの離脱「 良き人生モデル」がひらく可能性』 (日本評論社2014)から
62p
65p~は協働モデルと長所基盤モデルの類似点として、3つが挙げられている。
1、伴走者の必要性
2、主体性の尊重
3、アイデンティティ変容
これは
このインタビューから見えてきた更生支援における3つの共通点
①伴走者の必要性
②人間関係の改善の必要性
③相互変容の必要性
36p
とかなりダブっている。
「更生支援における3つの共通点」での「③相互変容の必要性」に関してぼくは、必ずしも変えることではなく、本来の自分を見つけることが大事なのではないか、という違和感を書いたのだが、ここはぼくが書いた違和感を覆す内容になっている。
ここではMaruna氏が行ったインタビューから、犯罪にかかわるセルフ・ナラティブを分析し、犯罪から離脱している人に共通する3つのナラティブについて紹介するのだが、その最初の一つとして、以下のように書かいている。
1、本人の「真の自己」を形作る中核的な信念の形成。つまり、犯罪から離脱する『新たな私』を見つけるのではなく、犯罪していなかった『かつての私』を見つけて、再構築すること。
そう、ぼくの「変わらなくてもいい部分もあるのではないか」ということへの返答がこれではないかと感じたのであり、森田ゆりさんの定義するエンパワメントも、これに近いのではないかと思った。
「伴走者の必要」が提起される箇所で以下のように書かれている。
「Maruna氏は、当事者のアイデンティティ変容が外・部・か・ら・の・(傍点、引用者)エンパワメントによって始まることを指摘していたが、共同モデルも当事者の立ち直りに付き添う伴走者の存在が必要であると論じてきた」
この「外部からのエンパワメント」という表現が気になる。エンパワメントのプロセスもまた、伴走者との相互作用の中で、自らの存在の根源に触れるというようなものであって、決して「外部からの」というようなことではないのではないか。「エンパワメントのプロセス」を「外部からの」という風に提起するべきではないとぼくは思うし、そのあたりにこの「協働モデル」の核心もあるのではないかと思うのだった。
6 協働モデルと長所基盤モデルの相違点(68p)
両者を比較したときの協働モデルの5つの特徴
① 支援者と被支援者の区別の不可能性に「より自覚的」であること。
・両者の対話から生まれる相互変容の過程を重視する。
② 能力の向社会性を必ずしも要求しないこと。((2)能力の全方向性 )
・社会に認められる能力のみに着目することは、多数派の論理の押し付けになることがある
③ 人間関係をより重視する。
④ その実践は段階的なプロセスではなく、連続的で不可分に連なっていて、その精神はすべての手続きにおいて反映されなければならないこと。(4)協働モデルの普遍性
⑤ ①~④をまとめれば、そのモデルが再犯防止をめざさない人間関係を構築するためのモデルであること。(5)再犯防止をめざさないこと
・再犯防止を目指す他のモデルは、結局支援者の正しさの押し付けとなる可能性を排除することができず、再犯防止へと方向づけられた関係性を受け入れるものしか射程に入れることができないのである。
この後、①~⑤について、より詳しい説明が展開される。
(1)支援者と被支援者の区別の不可能性
について、これは「グレーな領域を正面から認めること」だという。
長所基盤モデルでも、この点を見逃しているわけではない。当事者の社会への再統合をいうのであれば、「それは『悪い』個人をとりあげて、その人に再統合されることを求めるという前提を疑い、社会もまた変化することが必要という双方向通行である」としている。しかし、この長所基盤モデルが言うところの「傷ついた癒し手」について、これはピアサポートというような話なのだが、この存在を構造化してしまう危険があり、そうならない担保について無自覚だと書かれている。
この援助者と被援助者の地位の固定化の危険に自覚的でなければ、従来の二項対立に戻ってしまうことすらある、として、その過程について竹端さんの『 枠組み外しの旅』を以下のように引用する。
教育や支援の世界でも、「正しさ」は 世界観の変容とともに変化する。
だが、その「 正しさ」を 伝える側である教育者や専門家が、 自らが信じる 旧来の「 正しさ」の 絶対性にこだわり、 それを神聖不可侵なものとして「神話化」し、「自らの作り上げた神話」を「 さらに復活させ、 強力に支配していく」なかで、 学生や入院患者よりも、 その「正しさ」 という「神話」のほうが方が 大切にされはじめる。 そこに「 地位 の固定」が生じ、関係性が上下に固定化されていく。その中で、「 他の人の言葉を奪いながら、 自らが言葉をたくさん使」う という 支配- 服従の 関係性が強化されていく。
竹端『 枠組み外しの旅』(青灯社2012年74p)
(この本の70pから孫引き)
著者はこの引用から、上述したピアサポートへの危惧にもつながる以下を導く。
傷ついた癒し手が自己の経験を絶対化し、 それを相手に押し付けてしまえば、そこに、「支配―服従 の関係性」が生まれる。このような関係性の下においては、長所基盤モデルが本来目指した「逆ラベリング」どころか、当事者に押し付けられたスティグマをさらに根深いものにしてしまいかねない。70p
ちなみに、こうした事態を避けるために提案されるのが、『相互変容課程』。「当事者だけでなく、支援者もいっしょに変われ」というわけだ。
ここで、再び竹端さんの『 枠組み外しの旅』が引用される。それを簡単に書いてしまえば、支援者側の『注意・宣言・恫喝』を止めて、当事者に求める変革の過程をいっしょに体験する、当事者に求める変革の形で自分も同じことをする。そこで共に学び、対話する、そこから動的なプロセスとしての「学びの渦」が生まれる(70-71p)、ということらしい。誤読ならごめん。
そして何かが生まれる5つのステップがある。
① 当事者の「生きにくさ」そのものや「想いや願い」を、 病状や本人の犯罪傾向としてではなく、自分が知らない本音やビジョンとして耳を傾け、そこから学ぼうとする。
② 「問題の一部は自分自身」であることを認め、他責的に相手を糾弾することなく、「現実をビジョンに近づける」ために「創造的緊張」を活かそうとする。
③ 支援者と当事者を 「切り分け」ることなく、「相互に依存し、提供し合う一つのシステム」として認識する。
④ 対象者を「操作」する前に、まず「自分から変わる」必然性が生まれる。
⑤ この自らの変容が、他の支援者や行政、家族や当事者自身の変容をもたらす大きなきっかけになる。
ここから、協働モデルは、犯罪者に「多くの不公正の 『解決』の一部」であることを認識させると同時に、 互いが「問題の一部が自分自身」であると認識することをも要求するという特徴が見出される。さらに、長所基盤モデルが「潜在的」であるとした「一般大衆の理解を変化させ、よりポジティブなアイデンティティを創造するための、エンパワメント思考で行動的で集合的な」社会運動は、協働モデルにおいては学びの渦そのものとして中核に位置づけられることになる。しかし、ここで注意しなければならないのは、協働モデルにおいては、このような社会運動も相互変容過程に位置づけられるということだ。すなわち、スティグマを付与しようとする社会を変革されるべき敵と見るのではなく、社会をも長所を持った協働のパートナーとみる。 ・・・。このような精神を端的に表しているのは、向谷地生良氏の次のような言葉である。
精神障害をもつ人たちに対する 地域の視線には厳しいものがあった。その中で大切にしてきたのは、「地域には誤解や偏見が渦巻いている」と考えないことであった。人を変えたいと思うとき、相手を「問題のある人」ととらえず 、いかに自分を変えるかが大切になってくるように、地域を変えたいと思ったときにも 「問題のある地域」と考えないで、むしろ地域のために精神障害を体験した町民として何ができるかを大切にし、地域の良いところを”ほめる” ことを心がけてきた。
『統合失調を持つ人への援助論』(金剛出版2009年71p)
(この本の72pから孫引き)
とはいうものの、実際の地域は差別に満ちていて、うんざりするような現実がいっぱいあって、なかなかこんな風に寛容になれない・また、なってはいけない場面もあるのではないか? ただ、基本的なスタンスとして、このスタンスは大事かもしれないし、こんな風にアプローチすることがなかなかできていない、とは思った。
で、ぼくは『社会変革』だけでなく、『自己変革』が必要なことを「『社会モデル』と『エンパワメント』が必要だ」ということで表現しているつもりだったが、「支援者」と呼ばれるような位置に立って、変革しなければいけないのは自分自身だということをどれだけできてきたか、口では同じようなことを言ったこともあったかもしれないが、しかし、変われない自分にどれだけ自覚的であったかと問われるとおぼつかない。
これを読み返して、引用して気がついたんだが、「支援」と呼ばれるような仕事を始めて7年。気がつかないうちに、ぼくも変えてもらってるのかもしれない。
そして、特に興味深かったのが、社会運動とセルフヘルプグループ(SHG)に関する記述。
障害のとらえ方として、ほぼ医学・個人モデルしかなかった時代が長かった。それへのアンチとして社会モデルが誕生した。そして、70年代に「障害からの解放」を掲げる当事者による障害者運動が誕生し、(アルコールに関しては以前からあったが、それ以外の)セルフヘルプグループ(SHG)なども盛んになっていくのだが、その歴史を経て、一回りした形で、この本では向谷地さんのSHGに対する留意点(批判?)が紹介されている。以下のように。
向谷地は、従来のSHGが「『社会変革機能』に偏り、いわゆる明確な『自己変革機能』を持ち得なかった」 という。確かに社会を変えるために声を上げる、というのは「批判的思考」の行動化であり、大切な視点ではある。だが、「自己変革」なき「社会変革」とは、時には他者の糾弾に終始する。「反精神医療」の動きと軌を一にして進んだ精神医療改革を求める動きは、いつしか精神医療従事者への「批判的、対立的」な糾弾にすり替わり、協働というスタンスが取れない内容に矮小化された。確かに精神医療における「権力」関係の告発は大切だが、その告発を行ったところで、精神医療を抱えて生きる苦悩や生活のしづらさは、解消できない。ならば自らの「生きる苦悩」を少しでも減らすために「自己変革」を、SHGがもち得ないと、当事者運動は続かない。
『権利擁護が支援を変える』(竹端 現代書館 2013年227p)
(この本の73pから孫引き)
このSHGに関する見方への違和感は大きい。社会変革を注視し、糾弾を中心に活動してきたSHGのほうが声は大きかったかもしれないが、それは少数派で多くのSHGは権力に向かったりしていなかったのではないか。
この竹端さんの本を読んでおらず、どんな文脈でこれが語られているかわからないので、軽々に批判は出来ないが、かなり気になった部分。
とはいうものの【自らの「生きる苦悩」を少しでも減らすために「自己変革」を、SHGがもち得ないと、当事者運動は続かない】というのはあると思う。ここでいう「自己変革」の「自己」とは何かというのは明確にしたほうがいいと思うが。SHG自体が変われることも大事だし、そのメンバーが変わることも大事だし、メンバー相互が関係のなかで変わっていくことも大事だろう。
その直後に著者が書くのは70pに以下のように書かれていた話だ。
傷ついた癒し手が自己の経験を絶対化し、 それを相手に押し付けてしまえば、そこに、「支配―服従 の関係性」が生まれる。70p
この支配服従の権力関係がSHGに持ち込まれ、そこに権力関係が蔓延する危険があるという。
そして、以下のように書かれている。
この危険を避けるために協働モデルは「自己変革機能」を要求するのであるが、そのような権力関係が我々の中に深く内在化しているものだとすれば、「自己変革機能」を持つという意識だけでは、我々の中に深く内在化した論理に対抗することは困難である。そこで問題となるのは、我々が権力関係に対抗する「自己変革機能」をもつにはどうすればいいのか、ということである。自助グループに代わりうる新たな戦略を協働モデルは求めるのである。74p
この戦略のために著者は向谷地の「当事者研究」を参照する。
注番号からここで引用されるのは向谷地さんの「ソーシャルワークにおける当事者との協働」(一般社団法人日本社会福祉学会編『対論社会福祉学4 ソーシャルワークの思想』)かと思ったが、ここでこの本の初版本の「前掲注」の番号がずれていることに気がついて、出版社にメールし誤りを確認した。ここで引用されているのは上記の本ではなく、『統合失調を持つ人への援助論』。
当事者研究というアプローチは、決して単一の当事者が抱える困難を解決するための問題解決の方法ではないということである。当事者研究というアプローチは、統合失調症などの精神障害を抱えて生きる上での、現実に対する「態度」や「構え」そのものだからである。それは、自分自身の抱える生きづらさの現実に対する「こだわり」や「 とらわれ」が「研究」という視点を取り入れることによって、「関心」や「興味」 へと変化し、観察的な態度の中で、自らの抱える問題を一つの「研究テーマ」として外在化する作業を通じ、生きづらさの構造の解明と解消に当事者自身が主体的に取り組もうをとする効果をもたらす。
そのように、当事者研究の意義とは「自分自身で、共に」の研究活動を実践することによって、自然と毎日の生活の中に、研究の成果が根を下ろし、生活の質の向上と具体的な生活課題の解消に活かせることにあり、毎日、どこでも、誰とでも可能なプログラムであるというところに特徴がある。(『統合失調を持つ人への援助論』101~102p、この本75p)
長い引用が続いたが、ここでのポイントは以下
・・・長所基盤モデルが自己をスティグマに対抗する手段と位置付けているのに対し、当事者研究は、スティグマを受ける自分の態度に着目し、スティグマと対立するという姿勢をとっていない。・・・。
さらに、当事者研究の特徴的な点は、長所やストレングスだけでなく、「弱さ」や「無力」にも着目する点である。 向谷地氏は「自己変革機能」をもったSHGが「無力」であることを認識しているという特徴を挙げた上で次のように述べている。
今後、この「無力さ」と「弱さーバルネラビリティー」こそが、ストレングスと並んでエンパワーメントの重要な構成要素としてSHGの活動の中に取り入れられなければならないし、時代はそれを要請している。それは、人間の「弱さ」とは「弱さの集合体」だからである。そしてSHGを貫く「弱さの思想」という人間尊重の思想が、近代の文明・社会・人間を支配してきた「強さの思想」を乗り越える社会全体にとっての希望であると信じるからである。
(注の番号がズレているが、これも前掲書50なので、『統合失調を持つ人への援助論』の54-55pから)この本では76p
「弱さの思想」については
https://tu-ta.seesaa.net/article/201404article_1.html にそのタイトルの本のメモを書いた。この本にも向谷地さんの影響が書かれている。辻さんはもうひとつ自分の弱さに向き合えていないと最近は思うようになったけど。
上記のブログにも書いたのだが、「強さ」ばかり強調された時代からの転換が求められているのは間違いないとぼくも思うのだが、問題はその転換がどう起きるか、起こすかということだし、人間が生きていく上では必要な「強さ」もあり、「強さ」だけがよいものとされてきた価値観を排して、「弱さ」もとりこんでいくことであり、「弱さ」に一元化することでもないのだと思う。
これに続く以下の指摘も興味深い。
長所基盤モデルは、社会からのスティグマに対抗するために、当事者の長所に着目し、アイデンティティ変容を目指すことで従来の刑事司法モデルが付与するラベリングを乗り越えようとしてきた。 その過程の中で、長所基盤モデルは当事者の「無力さ」や「弱さ」をなくそうとしてこなかったか。この過程は、当事者のみが無力で弱いと考えることを止めるという点では評価できる。しかし、長所基盤モデルが当事者の「無力さ」や「弱さ」を無くそうというアプローチを取ったのに対し、 協働モデルは支援者も「無力さ」や「弱さ」をもっていることに着目するのである。このようなアプローチの違いが、当事者活動が二項対立的構造に陥ってしまうかどうかの分かれ目であるといえる。 76p
少しおいて、これに続く竹端さんの『権利擁護が支援を変える』(竹端 現代書館 2013年)(ここも注番号(61)がズレている)からの再度の引用部分も面白い。
「この『無力』という『弱さの可能性』に着目し、「前向きな無力」とラベルを張り替えることにより、『弱さの集合体』を構築することができないか、これが権威主義構造や権力関係から当事者も支援者も自由になり、『共に考える』パートナーシップの関係を導き出し、『自己変革能力』や『セルフケア』の 考え方をSHGが取り戻すための切り札」なのである。77p(注61)
ただ、ちょっと待てよ、とも思うのだ。そもそもSHGは広い意味でのセルフケアのために作られたのではないか? SHGのHはいうまでもなくヘルプの略なのだが、例えば依存症のSHGは、基本的にセルフ・ケアを目的として作られているのではないか? 例え細心の注意を払っていても、そこに権力関係が持ち込まれることはあるだろう。そのことへの注意喚起という意味合いも含まれているのかもしれないが、依存症の回復のための当時者グループは『共に考える』パートナーシップの関係を導き出し、『自己変革能力』や『セルフケア』を行うためのグループなのではないだろうか?
ここで、「依存症からの回復のためのGはSHGと呼ばないのだろうか?」という疑問が沸き起こる。だって、それがSHGだとすれば、12ステップは(それへの批判も多いが)、自らの無力を認めるところから始まるのではなかったか? ここで提出されるべき問いの一つは竹端さんが、何をイメージしてSHGを語っているか、ということかもしれない。
上記の引用に続いて
(2) 能力の全方向性というタイトルで始まる一連の文章が置かれる。77p
そこではまず、長所基盤モデルでは向社会的役割を強化することが求められるのに対し、協働モデルでは向社会的役割が求められない、そして、それはなぜかという問いから始まる。
それはなぜかという問いを明らかにするために、著者が山谷で経験したパラダイムシフトの話が再び記載される。
それは「当事者との協働に基づいた互助できる関係づくり」という核になる発見が生まれた課程であり、上記の問いを明らかにするために必要だとされる。
支援とは一方的に与えるものではなく、 当事者が参加した上で協働していくものだということだ。支援とは時として多数派の論理の押し付けとなる危険を含んでおり、支援に対して熱心なほどその危険が生じやすい。「私たちのように生活すれば楽なのに」というような感覚では、支援は押し付けとなってしまう。私たちが正しいと考える生き方を押し付けるのではなく、当事者たちが自ら選択し、 それを尊重するという協働こそが追求すべき支援のあり方だということを感じたのだった。これは、本人の問題の解決策はその人のみが知っているということを前提としている。
………つまり、現在更生支援において主に行われている就労支援や資格取得支援だけでは何も解決しないのではないか。より本質的な、社会から必要とされていると感じることができなければ、資格があっても、就職しても、 更生はできないのではないか。就職すれば社会復帰は果たせたと考えることは、本質を捉えないあまりに表面的な捉え方なのではないか。就職したり施設が変わったりしたとたん、 生活状態が悪化し、再犯に至るという事例はまさにこのことを表していると思われる。そして、就労支援や資格取得支援は、多数派の押し付けではないか。本人が望まないにもかかわらず働かせようとすることは、まさに支援ではなく、支配なのではないか。働くことの強要は、我々の行動様式の一方的押し付けにならないか。また、支援が入ることによって 、コミュニティや人間関係が崩壊してしまうことはないのだろうか 。
ここから見えてくるのは、互助できる関係づくりと支援から協働への転換こそが我々が目指すべき道なのではないか、ということである。77-78p(20~21pにも同じ文章あり。強調は引用者。)
これは更生支援についての本だが、障害者の就労支援についても同じことが言えると思う。
「社会から必要とされていると感じること」の必要はその通りだと思う。そういう意味では「就労支援や資格取得支援だけでは何も解決しない」し「本人が望まないにもかかわらず働かせようとすることは、まさに支援ではなく、支配」だろう。そして「互助できる関係づくりと支援から協働への転換こそが我々が目指すべき道」であるという意見に異論はない。
しかし、ここで著者は「働く」ということを企業就労などに限定しすぎていないか。極端に言えば、1日に1分しか働けない人もいるかもしれないし、ロックトインされたALS患者のように「何も出来ない」とされている人がいたら、その人は生命を維持することがその人が働くということになる。その人が生存すること、それ自体が身近な他者にとって「働き」となる。
ぼくはいろんな「働き」を構想し、その「働く」に向けた支援という風に考えること。そして「働く」ことの大切さという風に問題をたてる。批判されつつも。
そして、就労支援とは本人が望まない就労を支援することではなく、本人が本当に働きたいという気持ちになることを支援することだ。そして、それが「互助できる関係づくり」の中で生まれることが望ましいし、支援というよりも協働の中で生じて欲しいと思う。微妙な言い回しになるのだが、それも「支援」なのではないか。共に働き、共に変化していくというプロセスを伴う支援というのがありえるのだと思う。著者の上記の結論を山谷で経験した体験から導いたというが、それが支援ではないと強弁することは逆に傲慢な話になるのではないか。
「より本質的な、社会から必要とされていると感じること」をともに働く場の中で獲得していくという方法があるはずだ。
上記の引用に続けて、以下のように書かれている。
著者が体験したパラダイムシフトを長所基盤モデルに当てはめる。そうすると一つの疑問が湧いてくるのである。それは当事者が取得する役割は(長所基盤モデルがいうように・引用者)「向社会的」である必要はあるのか、という疑問である。(78p)
この疑問が提出される前の段階で【長所基盤モデルでは向社会的役割を強化することが求められるのに対し、協働モデルでは向社会的役割が求められない、そして、それはなぜかという問い】が提出されているので、繰り返しというか、すでに答えが出ている感じが否めない。
この向社会的役割を求めないというありかた、うがった読み方をすれば、SHGが社会モデルに編重しすぎているという批判と読むことができるのではないか。ぼくは「向社会的役割を求めない」という字ずらを見て、「個人モデルだけで抱えた問題の解決が図れるのか?」という疑問を抱いたのだが、以下で見るように「向社会的」という言葉にはマジョリティの価値観を受け入れるという意味で使われることが多いようだ。
で、「向社会的」とは何か。
まず、検索すると、以下のような定義が出てくる。
「向社会的」とは、心理学の用語です。「 反社会的」の反対語です。 他の人や他の集団を助け、役立とうとする行動」のことを意味します。 対人的なつながりを積極的に求め、促進する行動のこと
ここで著者は社会に適合するような方法のみを「向社会的」と解釈し、それは違うという主張をしているようだ。しかし、社会をよくしたいという思い、差別をなくそうとするための行動こそが「向社会的」なのではないかと思ったりするのだ。「向社会的」が持つ意味を「現状の社会秩序維持的」ととらえてしまうべきなのか。ぼくには「向社会的」という言葉は社会に向き合おうとする反抗的で肯定的な態度だと思えてしまうのだけど、そのような意味合いを持たせないという含意があるのだろうか?
自分で「向社会的」という言葉が世の中で使われる用法を知らなかったので、上記のような言い方になるのだが、ここから見えてくることがある。「協働モデル」が「向社会的」であることを否定するのは、社会に向かうことなく、当事者の内面的な悩みに寄り添うだけで解決するかのような誤解を与える危険があるのではないか。社会に迎合するような向き合い方ではなく、社会の構造こそが当事者の生きづらさを生んでおり、「協働モデル」でそのような社会のありように向かっていくというスタンスが求められているのではないかと思うのだった。
筆者は長所基盤モデルがいうところの「向社会的」の範囲が明らかではない、とした上で「社会が正しいとみなしているのみを正しいとすること」の問題を指摘する。そんなものが求められるのであれば、うんざりだとぼくも思う。
そして、そうではなくて、もう一つの価値を見出していくような「雲仙・虹」や「かりいほ」の取り組みを紹介する。
そこで「かりいほ」の施設長の石川さんの言葉が引用される。
「就労というかたちで社会とつながる人もいるだろうけど、そうじゃない人もいる。何かを作りそれを買ってもらうことで社会とつながる人もいる。でもそれも難しいという人たちも、間違いなくいる。この難しいという人たちも、社会とつながることを可能にする支援論を現場がもたなければ、支援していくことは難しい」(佐藤幹夫著「続・『かりいほ』の支援論――利用者の『自分語り』に耳を傾ける」そだちの科学22号(2014年)39p)
この所長の言いたいことに同意しつつも、ここでも就労というのを狭くとらえすぎているのではないかと思った。ともあれ、ここで強調されるのは、支援者の考える「こうあるべき」という規範から自由にならなければならない、ということだ。
次に同じ文脈で「ふるさとの会」の話になる。ここで再び、佐藤幹夫さん関連の著作が引用される。佐藤幹夫監修NPO自立生活センターふるさとの会他編著『「生きづらさ」を支える本』
上記の本から引用されるのは認知症の人のごはんを食べていないという認識について。こんな風に
・・・。支援職員は「さっき食べたばかりなのになぁ……」と思いながら「食べていないのですね」と言うわけですから、演技していることになりますね。
……ひとまず演技してみると、相手の物語の中にそっと入っていくような感覚になってきます。そして、だんだんと、相手がどのような物語の中を生きているのかが、少しずつですが見えてくるのです。80p
「成解」概念について
続けて「正解」ではなく「成解」という竹端さんの主張が紹介される。
「正解」と対置した「成解」概念とは、ローカルな文脈という「空間限定的」で、かつあるタイミングでのみ適合するという「時間限定的」な制約を持つ概念である。そして、「当面成立可能で受容可能」で、その現場を変え得る力を持つ「解」としての「成解」こそが、福祉現場に求められる知そのものである。教科書的知識や専門職の偏見・先入観を外在的に押し付けた「正解」(=専門職主導)では、現場が大混乱する可能性は高いが、その眼鏡ですっきり課題が解決する可能性は、まずない。 今日の現場で、当事者の声に基づき、ローカルな文脈に寄り添うという意味で、福祉政策の課題は時間的・空間的文脈に依存的である。(竹端『枠組み外しの旅』154p) (この本では80-81p)
正解やルールを決める事ではなく、その場その場の状況に応じた最適解が必要っていうようなことを藤沢の「ぐるんとびー」の人が言ってたような気がする。そういうことだと思う。
これに続く82頁では「正義の優位」の観念が紹介され、井上達夫の『法という企て』が引用されている。以下のように
「人々が多様な善き生の構造を追求する多元的社会において公正な協力枠組みを設定する正義原理は、かかる多様な善き生の特殊構造のいずれからも独立に正当化可能であると同時に、いずれに対しても数約数を持たなければならないという要請」
つまり
「多元的社会においては、政治体の構成原理が自己の視点からだけでなく自己と善き生の構想を異にする他者の視点からも利用可能でなければならない」
のであり、自己の善き生を一方的に 押し付けることは、
「特殊な善き生の構想に依存しているがゆえに、それと異なる善き生の構想を追求する人々に対して公正ではない」 82p
というのだった。これに続けて、以下のように書かれる。
これと同様に、当事者の能力や可能性を支援者や第三者が決めて押し付けるようなことは、その支援者や第三者の「善き生」を当事者に押し付けることになるのであり、これもやはり公正とはいえないのである。つまり、この社会には多様な「善き生」をもった人々が存在し、ある人の「善き生」は、他の人の「善き生」に反するということのみで抑圧されてはならないのである。82p
ここで多様な「善き生」があるという話になっている。確かにそうだ。ただ、それだけ言っても解決にならないことも多いような気もする。例えば、「稼ぐ」をどう考えるか。稼がないで生きていくことが可能であれば、それはそれとしてありだと思うのだが多くの人にそれは難しいのではないか。
生の全体性を謳歌できればいいと思うのだが、その全体の中に「望まなくて稼ぐ」とかは入らないのだろうか? 「働けるけれども働きたくない」という志向があるとすれば、そこにどう向き合えるだろう。
協働モデルは人間関係を特に重視。(3)
善き人間モデルも重視するがそれは基本財の一つ
それに対して協働モデルでは、「人間関係こそが問題解決へのもっとも初歩的で重要な要素でると位置付ける。82p
人間関係の重要性については、『自殺の対人関係理論:予防・治療の実践マニュアル』(日本評論社2011年)での『自殺の対人関係理論』が重要な示唆を与えてくれるとして、この本の83~ 84pにわたって展開される。
自殺の対人関係理論は・・・自殺潜在能力をもつ者が、負担感の知覚と所属感の減弱という2つの対人関係に関連した心理状態が同時に起きた場合に、自殺死を望むと整理している。・・・負担感の知覚は、その人の存在が社会や家族、友人にとってお荷物であるという感覚であり、・・・所属感の減弱とは、他者からの疎外感・・・。83p
これらの回復のために、支援者というよりも伴走者が必要という話につながる。
(4)協働モデルの普遍性
こんな風に書かれる。
協働モデルは制度や手続きのどこか一部分についてのみ当てはまるものではなく、制度・手続きを通して貫かれるべき原理である。
(5)再犯防止をめざさないこと
協働モデルは再犯防止をめざさないというところが、長所基盤モデルやRNRとの決定的な違い。
協働モデルは当事者に向社会的な能力の獲得を求めず、社会のために個人の能力や生き方を変えようとしない。
また、誰かにとっての善き人生も求めない。誰かにとっての良き人生を生きることを当事者に求めることは、良き人生を拒否する人に対しては「正解」の一方的な押し付けとなるからである。85p
それを平井秀幸さんの『刑務所処遇の社会学』(2015年世織書房)を援用して説明する。
そこでは、その「良き人生」モデルから距離をおいても健康で文化的な生活を送ることを可能とする「無条件」の「社会保障」が必要だとされる。
しかし、この【「無条件」の「社会保障」】を受け入れるのは難しいと感じる。例えば、貯金があって資産がある人が、それを使いたくないからということで生活保護を求めるようなことは認められないと思うのだった。
もちろん、これは極端な例で、その手前でのモデルの押し付けのようなことの否定を著者は言いたいのだろうが、その境目はけっこう微妙ではないか。例えば、49~50pに記載されている「悪友との関係を断つ」とか「人間関係を充実させる」というのは、まさに「良き人生モデル」ではないか。
そして、特定の「良き人生」のモデル(「労働する生」「コミュニティに参加する生」「社会に役に立つ生」(91p))にあてはめるようなことはダメだが、「人とのゆるやかなつながり」については必要だとされる(93p)。もちろん、ぼくも「人とのゆるやかなつながり」は必要だと思う。しかし、それもゆるいものではあるが、ひとつモデルではないか。 そっちはよくて、こっちはダメという基準はどこにあるんだろう。だから、ここで語られているのは「モデル」にあてはめるのがダメということではなく、モデルの強度の問題ではないか。強すぎる「良き人生モデル」はダメだが、「協働モデル」にもゆるいモデルはあるというべきなんじゃないかと感じたのだった。
そして、この部分に続いて、ゆるやかな関係性についての実践例が著者がかかわる団体のブログ記事から援用されている。
「支援を行うときに忘れてはいけない大切なこと」
2017-05-15 13:19:07(脚注には5月13日付とあるが・・・)
今日は、先日来所された年配の女性の相談者のお話です。
彼女は山友会のスタッフが夜のパトロールで顔見知りになり、少し話ができる関係にまで距離を縮めたときに、C型肝炎を患っていることを知りました。
大変な病気なので、生活保護制度を利用して病院に行きましょうと何度かお声かけしていましたが、色々な事情があるからと言ってお断りになり続けていました。
そんな彼女が先日、ご自身で山友会に来所され、病気を治したいと話してきました。
ご相談したのち、生活保護の申請をするために役所で待ち合わせをしていたのですが、当日現れませんでした。
もう会えないかと心配していたところ、後日、ひょっこりと再び山友会に来所され、ご身内の事など話せない事情があり、生活保護の事は先延ばしにしたいと話されたのでした。
ただ、C型肝炎のことは心配とのことでしたので、来所された日に山友会で診療をしていたボランティア医師に相談したところ、その医師と気が合ったようで、また来たいと笑顔で話されました。
私たちも、生活保護の話をするのは一旦やめて、いまは彼女との繋がりを保つことを第一歩と考えました。
忙しさに身を任せてしまうと、こちらの「良いであろうとする考え」と相手の考えや思いにズレが生じてしまいます。
自己選択、自己決定といった支援を行う上で大切にしなければならないことを忘れががちになってしまう自分を見つめ直す機会になりました。
95頁からは、検察による入口支援の問題に関する指摘がある。
それは「(検察に雇われた)社会福祉士が被疑者の生活調整や福祉支援等についての助言を行うという取り組み」。検察は裁判にかけるかどうかを判断し、裁判になれば有罪にするために取り調べをするだけのような印象から考えると、前に進んでいるように思える。しかし、起訴するという強大な権力を持った検察が福祉と被疑者をつなげるというありかたが、本当にいいのかと問われる。96~98頁では、その法的な問題点等を含めて、さまざまな観点からの問題がより具体的に記載されている。そこで、福祉に必要な内発的なモチベーションは生まれにくい。だとすれば、検察がそれを行うのではなく、地域の福祉行政主導で行える環境を作るだけのほうがいいようにも思えてくる。
面白いのはこの著者がこんな風に批判する検察庁に入り検察官になったということ。メモその1にも書いたけど、彼が検察で何をやるのかが楽しみ。
ここまではわかりやすい話ではあるが、この先(98頁~)で弁護士による支援の問題が指摘され、そこにはいろいろ微妙な問題も孕んでいる。こんな風に書かれている。
・・・検察庁による再犯防止の取組みは、本人の主体性を制限していくような、協働モデルが目指す方向性とは真逆の方向に向かうものになりかねない。
このような問題は、刑事弁護にも内在している。近年は、弁護人が情状弁護として、公判中または刑事手続終了後に、被告人が福祉施設へ入所し更生支援計画に従った生活を送ることを主張することや、クレプトマニアや性犯罪における再犯防止策として入院または通院治療を受けることを使用することが行われるようになってきている。しかし、これは検察庁における取組みと同様に、実刑回避のために福祉施設への入所や入院という選択へと心理的強制が働くことになる。被告人の更生に熱心な弁護人ほど、心理的強制を善とし、本人の意思に基づく選択を阻害してしまいかねない。その点を看過すれば、福祉施設や病院が刑務所の代替施設になってしまう危険をはらむことになるのである。98-99頁
「本人の意思に基づく選択を阻害」ということは施設入所だけでなく、更生支援計画に基づく地域の暮らしでも同様のことが言えるだろう。出所後の福祉的支援が監視と変わらないものになる可能性もある。
この著者の主張はすっきりして、分かりやすいとはうものの、これに簡単に同意することはできない。
問題は【被告人の更生に熱心な弁護人ほど、心理的強制を善とし、本人の意思に基づく選択を阻害してしまいかねない】という部分。もしかしたら、そういうことはあるかもしれない。弁護士には社会福祉に必要な【本人の意思に基づく選択】を支えるというトレーニングを受けていないのだろうか?
これまで更生支援計画などなく、障害や病気に起因して犯罪を犯してしまい、有罪判決を受けて、罪を繰り返す人があまりにも多かったという現実がある。更生支援計画を作って、実刑を回避できるようになって、無駄に刑務所に入らなければならないということは減ったはずで、それは良くなった話ではあるという前提をまずは強調しておきたい。しかし、確かに著者がここで書いているように、【実刑を避けるための福祉】という逆転した論理がもたらす危険には敏感であるべきだろう。
ここまでが(1)~(5)の説明となる。
(6)協働モデルを定義する
これらに代わるものとして、著者は以下のように「協働モデル」の適用を主張する。
・・・協働モデルの特徴は、支援する者とされる者とを切り分けることなく、相互変容という学習プロセスに身を置き続けることを求めること、社会が関連する能力や価値観を押し付けることはせず、対話を通して社会のあり方やこれまで成長しされてきた支援のあり方を取り直していくこと。当事者の人間関係を充実化させることで、そこから様々な可能性が開いていくこと、協働モデルはあらゆる手続きや支援において適用されるべきものである。それらを一つのキーワードとしてまとめるならば、再犯防止を目指さない協働関係である。99p
協働モデルの定義
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協働モデルとは、伴走者と当事者のゆるやかな関係を基礎として互いの「無力さ」や「弱さ」を受け入れて「自分から変わる」という実践を当事者の家族や友人、職場の人々などの第三者を巻き込んで行なっていく相互変容過程である。100p
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それに続けて、以下のように書かれる。
この定義は、伴走者が「自分から変わる」という実践を通して当事者の人間関係を改善に導き、当事者が立ち直りへと歩んでいくことを示したものである。したがって、立ち直りとは、変容し続けることである。その意味で、私の売りは当事者にも、伴走者にも、そして社会にも必要なのである。
ただ、この定義は、相互変容過程を伴走者の視点から捉えたものとなっていることに留意が必要であろう。相互変容過程の全容を明らかにするためには、伴走者の視点と当事者の視点による分析が不可欠となる。 100p
この作業に入る前に、第4章と第5章は さらに伴走者の視点からの分析であり、第4章では「協働モデルに対して読者が抱くであろう疑問に答えながら協働モデルにおける相互変容のプロセスとその具体例を示したい」として、この第3章を閉じる。
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