『支援のてまえで』メモ(学術会議の報告書からの引用とちょっとした批判を追記)

いろいろあって、長いメモ。
生活書院のホームページ    https://seikatsushoin.com/books/%E6%94%AF%E6%8F%B4%E3%81%AE%E3%81%A6%E3%81%BE%E3%81%88%E3%81%A7/
では以下のように紹介されている。

暮らしに根差しながらまずはかかわるところから始める、
とはどのようなことか。

支援のてまえで

たこの木クラブと多摩の四〇年

三井さよ、児玉雄大【編著】

[定価]   本体2,300円(税別) 
[ISBN]978-4-86500-108-2
[判型]46判並製
[頁数]368頁

ものすごい勢いで物事が変化していく支援の現場。
発せられた言葉はあっという間に過去のものになり、日々更新されていく。
でも、だからこそ、多摩の人たちが何をしようとしてきたのかを伝えたい。
昔を懐かしむのでもなく、「いま」をそのまま切り取るのでもない、そうした記録を残したい。

 
【目次】 

はじめに──たこの木クラブと多摩の前史  三井さよ
 1 暮らしに根差し、かかわることから始める――たこの木クラブや多摩の特徴 10p
 2 多摩というところ――複数の事業所によるネットワーク  15p
 3 三つの保育園と就学時健康診断反対運動  19p

 コラム たこの木追っかけ日記――たこの木にまつわる諸々のこと①  荒木巧也  37p

第1章 たこの木クラブと多摩の四〇年  三井さよ
 1 多摩で育まれていた土壌 42p
 2 子ども会活動と地域   69p
 3 食べることと暮らしと  87p
 4 青年たちの課題へ    102p
 5 事業を立ち上げる    109p 
 6 制度との緊張関係         138p
 7 引き継ぐものは何か      155p
 ■注 ■文献         166p

 コラム たこの木追っかけ日記――たこの木にまつわる諸々のこと②  荒木巧也 181p 

 Photo たこの木キャンプ(一九 九四 道志川)184p

第2章 支援は〈やりとり〉の連続に尽きる  岩橋誠治 187p
 1 「関係づくり」から「支援」へ    
 2 相手があっての支援・その相手とは? 
 3 支援をする側/される側――そもそも何を支援している?
 4 わからない相手との関わり
 5 関わり続けるしんどさ
 6 ともに生きるための支援①――制度/支援の利用はレッテル貼りではない
 7 ともに生きるための支援②――たとえ「制度の対象者」と捉えなくても
 8 ともに生きるための支援③――様々な関係を築く中に
 9〈やりとり〉というコミュニケーション
 10 支援は〈やりとり〉の連続に尽きる

 コラム たこの木追っかけ日記――たこの木にまつわる諸々のこと③  荒木巧也 210p

第3章 子ども会から働く場へ――たこの木の三〇年、あしたやの二〇年  和田幸子 213p
 1 たこの木ひろば開設
 2 働く場つくり準備会からたこの木企画へ
 3 はらっぱ開設――たこの木共働企画へ
 4 あしたや開設――あしたや共働企画へ
 5 共に働くって?――最初の思い
 6 制度利用――作業所の補助金から、障害者自立支援法へ
 7 線引きの問題――支援法内事業に移行して
 8 働くということ

 コラム たこの木追っかけ日記――たこの木にまつわる諸々のこと④  荒木巧也 238p

第4章 支援のその先へ――すいいち企画  児玉雄大 243p
 1 すいいち企画との出会い
 2 ある日のすいいち企画から
 3 支援しない支援
 4 交戦しない反乱・ゲリラ作戦としてのすいいち企画
 5 支援のその先へ

 コラム たこの木追っかけ日記――たこの木にまつわる諸々のこと⑤  荒木巧也 267p

 Photo 夏合宿(一九九四 馬頭) 271p

第5章 諦めることを諦める――たこの木クラブのスタッフとしての一〇年間 横田彰敏(聴き手+構成:三井さよ) 275p
 1 たこの木クラブで働き始めた頃
 2 当時のたこの木クラブの印象
 3 転機になったのは?
 4 介助者たちの「温度差」
 5 横田さんの立ち位置
 6 岩橋さんはどう見えるか
 7 デタッチメント

 コラム たこの木追っかけ日記――たこの木にまつわる諸々のこと⑥  荒木巧也 312p

第6章 介助を続けていく  寺本晃久 315p
 1 オーダーメイドで暮らしをつくる
 2 一緒にいることとその難しさ

特別付録 講演録「重度の知的障がいのある人の一人暮らしを支える」
    岩橋誠治(編集・ヒビノクラシ舎)  327p
 1 「知的当事者の一人暮らし」と「私たちの一人暮らし」
 2 重度の知的障害者が自らの暮らしをはじめられない理由
 3 重度知的当事者の自立生活支援の系譜と多摩市のたこの木クラブ
 4 「専門性」と「支援のレシピ」
 5 地域移行支援事業に関わって
 6 連続する暮らしの中で支援を連続させていく
 7 地域で暮らすということ
 8 事業所によるヘルパー派遣制度について
 9 キーパーソンを育てる
 10 おしまいに

おわりに  三井さよ 350p


最初に読書メーターに書いたメモ

初めのほうはそうでもなかったが、だんだんすごい本だと思い始めている。とり出して、使いたいフレーズがたくさんある。もちろん、いくつか納得できないこともある。ともあれ、興味が尽きない「たこの木」界隈の歴史と現状、そこでのシノゴノ言いながら、それでも営みを止めるわけにはいかないリアリティがつまっている。

いろいろつまり過ぎていて、どこからメモを書こうか迷う。
最初に
先日、ブログで言及した専門性と支援の一般化に関連するところをとり出してみる。
参照:風雷社中の挑戦と支援の一般化(ガイドヘルパー講習のためのクラウドファンディングの開始に)
https://tu-ta.seesaa.net/article/202006article_4.html

特別付録 講演録「重度の知的障がいのある人の一人暮らしを支える」  岩橋誠治(編集・ヒビノクラシ舎)
4 「専門性」と「支援のレシピ」
ここにはこんな風に書いてある。

「自閉症」とか「発達障害」という言葉が日本に紹介されたのは1988年ということらしいのです。たこの木クラブはその1年前の1987年にはじまっていますから、「そんな言葉なんて知らないけれど地域で一緒に暮らしてきた」という自負が私たちにはありました。また、自閉症や発達障害という言葉に代表される当時の専門性は、「人を分けること」に特化していたので、私たちは「そんな専門性なら必要ない」「専門性より関係性だ」と息巻きながら、ずっと彼らとやり取りを続けてきました。「専門性に頼ることなく自分たちでなんとかする」ということで、。やっていけた時代でもあったのです。ですが、発達障害の専門性もこも30年間でだいぶ様変わりしました。「社会的相互作用」とか「対人的相互反応」などの話の中で、「いかに関係を作っていくか」ということが焦点となり、「人を分けるj」よりも「一緒がいい」と主張する専門家も増えてきています。実は、私たちも半ば意固地になって専門性を排してきたために、「自分たちが気づかないところで当事者との関係が大きくズレてきてしまっていた」ということを思い知らされる、ある重大な事態に直面することにもなりました。それから、「専門家が言っていることって何だ」「専門性って何だ」と勉強するようにもなったのです。・・・335-336p

 ここに書かれている「ある重大な事態」というのはフィットする支援の件だろうか。別の件かもしれない。いずれにせよ、専門的な知識があれば、「自分たちが気づかないところで当事者との関係が大きくズレてきてしまっていた」ということが防げるのだろうか? そのズレた原因は専門性の欠如とは違うところにある場合が圧倒的に多いのではないかと思うのだが、どうなのだろう?

ともあれ、この文章に続けて岩橋さんは、専門知識をマニュアルではなく、「支援のレシピ」として活用していくことを提唱している。マニュアルはそれを基準に正しいか間違っているかを計るものだが、レシピはもっと自由に自分なりに足したり引いたりして、結果をフィードバックするものだ、ということ。その輪の中に専門家の人も入ってくれたら嬉しい、と岩橋さんは言う。

【半ば意固地になって専門性を排してきた】のには理由があったはずだ。子どもの時からこの「専門性」が分ける理由にされてきた。「この子には専門的な教育が必要なのです」「そのための専門的な場所が必要なのです」「専門的な施設に入所するのがこの子の幸せにつながるのです」

そんな風に、この「専門性」でたくさん痛い目にあってきたはずなのに、岩橋さんは意外に寛大だと思う。「専門性」という言葉を錦の御旗にして、無理矢理地域から引きはがされたりしてきた歴史がある。最近はインクルージョン的なことの必要を説く場合もあるが、専門性が分離を正当化するような言説はもう過去のものになったといえるだろうか?

以下は三井さんとのフェイスブックでのやりとり。

Sayo Mitsui 「寛大」というより、「専門性」も利用する側にまわってやる、こちらの視点で利用し尽してやるという、大変「傲慢な」姿勢だと、私なぞは受け止めております😀

田 雅英 確かに(笑)
ただ、いまだに怪しい専門性が跋扈しているなかで、使える専門性と捨てるべき専門性を区別して、どれについて、それが言えるのかという視点も必要かも。

支援のてまえで.jpg

この表紙の写真、いろんな解釈があるらしい。

・仲間外れの岩橋さん
・見守ってる岩橋さん
・入りたいのに言い出せない岩橋さん

ここをどう見るかということを考えることから、「たこの木」のこと、見えてくるものがあるかもしれないと思わせる絶妙な1枚

本全体のボリュームを見ると、たこの木の歴史を三井さんが書いた「はじめに」と1章が本の半分を占めている。

さっき引用したHPの文章にものすごい勢いで物事が変化していく支援の現場」という表現がある。
支援の現場はほんとうに、ものすごい勢いで物事が変化しているだろうか? 何十年とかいう単位で見たら、制度や、知的障害者をめぐる人の意識は変化している。それを「ものすごい勢いで物事が変化していく支援の現場」と考えるのか、それとも大切なことは何も変わっていないじゃないか、と考えるのか。

忘れないようにメモに残しておきたかったのが、たこの木子ども会に参加していた井上さんの経営する
「やきとん酒場あおば」の話。三井さんはこんな風に書く。

(なお、やきとん酒場あおばの焼き串は本気で本当に美味しいので、町田に立ち寄った際にはぜひどうぞ)83p https://twitter.com/inomasa19790324

ここはぜひ行きたい。内容とは直接関係ないのだけど、メインの著者の三井さんの性格をよく表していると思ったココ。なにせ「本気で本当に美味しい」って(笑)

以下、初めから順を追って、メモを書いていく。

~~~

「はじめに」

三井さんは、たこの木になぜ はまってしまったのかと問い、多岐にわたるが、としつつ、二つをあげる。以下、おおざっぱにまとめたもの。

1、生活や暮らしとは何か。あたりまえに「暮らす」とはどういうことか、それを意識させられること。

2、「理解」より前に「かかわる」という姿勢。とにかく目の前に人にかかわる姿勢。そのために「地域から奪われる」ことに抗うこと。      12p

2に関連して、無害でもかわいくもない「やらかしちゃった」人が地域から奪われがちなのだが、興味深いのは「やらかしている」障害者への対応。14p

たこの木クラブ界隈の人たちは、その人の「障害特性」から入らない、語らない。その場でその人がどんな思いを抱いていたか、そのふるまいはどのような経緯で生まれるのか、なぜ他の人間にとっては問題として意識されるのか、といった個別具体的なことを議論することはある。往々にして結論はでないが、出なくても、かかわりを止めることはない。14p

まず、大切で見るべきなのは「障害特性」ではなく「個別性」という「たこの木」の姿勢に学ぶべきだろうなと思った。

日本社会は「障害があっても地域で暮らす」ということに賛同する価値観に移行しつつあるが、そこで「許容」されるのは、かわいかったり、「無害な」障害者だと三井さんは書く(13p)

上記の二つがどこから生まれ、とう育まれ、どう根付いているか、そこを40年の歴史と現在の活動から探るのが本書の目的。15p

17ページでは多摩ニュータウンにおける知的障害者支援のネットワークが紹介されている。グループホームはP事業所、就労継続B型はQ事業所、仕事帰りのたまり場はR,電話で相談するのはTという団体の代表。

それぞれの歴史や個性を持ったそれらの団体が連携して一人一人の生活を支える。そのネットワークの成り立ちを三井さんは書いている。ここでは紹介しないので、興味のある人は読んでください。

途中に挟まれている「たこの木追っかけ日記」(荒木さん)で紹介されている岩橋さんがもらった言葉としての「解らないから付き合う」。この言葉が「今の自分を支えています」と岩橋さんはメールに書いている。39p

第1章 たこの木クラブと多摩の40年

この1章で興味深いのは「支援」というテーマがたこの木で2000年頃、深夜まで及ぶ議論を繰り返す中で浮上したという話。「分けない」というのをテーマにしてきたが、そうとは言えなくなってきたという話でもある。

5 事業を立ち上げる

(1)「共に働く」場づくり

 ただ、生活全体を見たときには、実は大きな核となるのは、日中をどのような場でどのような人たちと過ごすか、ということである。暮らしの中心となるような通う場や働く場があってこそ、暮らしは安定する。こうした場がつくられることと、介助者派遣の仕組みづくりや住居探しなどの支援とが一体になってこそ、自立生活の支援が可能になる。

 そのような場は、たこの木クラブのなかでもたこの木企画という形で育まれたが、それ以外のところでも生まれていた。109-110p

①ちいろばの家のその後(110p~)

その前の55ページでちいろばの家の始まりの話はでてくる。単なる飲み会としての「親父の会」が新聞回収をはじめたことをきっかけに1985年にできたリサイクルショップ。最初は一般の企業として、スタート。以下はその後の話。

「ちいのばの家」の事例。障害があってもなくても同一時給だったとのこと。それが立ちいかなくなり、授産施設に転換して、障害者から切り捨てるのかと非難されたとある。継続のために犠牲しなければいけないことがあり、何を犠牲にするかという部分で事業者は問われることになる。批判はあっても、障害者が働く場所を残すための選択だった。(112p)

②複数のワーカーズコレクティブ(112p~)

ここでは生活クラブ生協が作り始めたワーコレに、障害のある人も「共に働く」ということを持ち込んだ斎藤美都栄さんとそのワーコレ「つむぎ」や「風」などと当事者の野上さんが紹介される。ほかにも多摩市周辺には障害を持つ人が「共に働く」ワーコレがいくつかある、として注47では、八王子の「パンの家コスモス」(現在はワーコレではなく名称は「Cafeこすもす」)が紹介されている。多摩市周辺のワーコレで何人くらいの障害者が働いているか、気になるところ。

③たこの木企画からあしたや共同企画へ

あしたやの前身がたこの木企画だって、知らなかった。あしたやからたこの木が派生したと思っていた。ここも共通の時給という理念が残っているらしい。

6 制度との緊張関係

(4)対象者と呼ぶまえに

ここで対象者(クライアント)とか利用者(ユーザー)と相手を固定して捉えたとき、失われるものがたくさんあるとして、最初にあげられているのは以下。本人たちの世界が「支援者」だけに囲まれた、ひどく狭くて単色の世界になってしまう・・」(150p)
そして、三井さん自身の体験が書かれる。彼女が暴力をふるってしまう自閉症の男性から後頭部に「一発食らい」それから、その人を怖がっている自分に気が付き、その人とつきあいの長い清井さんに「どうしてますか」と聞く。すると「普通にしてる…かな」という答えがあり、「お昼ご飯を一緒に食べるとかしていれば違ってくるんだと思う」というアドバイスをもらう。三井さんはそれが「多摩のやりかたなのだと思う。・・・そして、ここからしか生まれないものがきっとある」(152p)と書く。いろんなことがあっても、隣に座り続けることって大事なのかなぁと思う。特に何か話さなくても、普通に一緒にいること。三井さんはそれを専門家は呆れるかもしれないと書いているけれども、そんなことはないんじゃないかなぁ? ま、いろんな専門家がいるから、一概には言えない。これを書いた後で三井さんから聞いた話では


7 引き継ぐものは何か

(1)時代と場所の特性 

「多摩の人たちは社会運動へのハードルが低い」「労働運動や学生運動を経験した人が多いということがかかわっているだろう」(156p)というのを前提に、「しかし、ただ継承したものではない」ということを三井さんは強調する。

「多摩の支援ネットワークでは、「生活者」としての姿勢こそが重要であり、中心とみなされているところがある 」(157p)と書かれている。「生活者のとしての姿勢」ってなんだろうと思う。いろんな課題で社会や行政に対して、ガンガンやるが、あくまでも中心となるのは日々の事柄だ、というのが三井さんの説明。読んでいるとわかるのだが、「日々の事柄」とはいうものの、自分だけの日々の事柄ではない。ここでは障害者の日々の事柄がテーマになっているが、「生活者としての姿勢」というときに、そういうマイノリティの日々の事柄は見失われていないというのが多摩の特筆すべきところでないかと思った。

・・。多くの議論を重ねてきた人たちのはずなのに、とやかくいう前に、まず自分の目の前にあることや人にかかわる傾向がある。そして先に挙げた石田さんの発言のように、その点こそがお互いの信頼関係の鍵となっていたようである。159頁

そう、目の前の人とかかわり続けることの大切さは忘れないようにしたい。

そこに続けて、三井さんはこんな風に書く。

・・労働運動や学生運動との関係は無視できないが、その単なる延長線上ではないのである。注力するポイントが変わり、見えるものも変わり、場も変わっている。「闘い」や「闘争」という言葉はすでに似合わない。取り組むべきものは、大文字の世界ではなく、目の前のここにある。そのことは、多摩の支援ネットワークの中心的な役回りを果たした人たちは、おおむね共有していたと思う。159p

ここは個人的に違和感が残るところだった。事実としては三井さんが書いている通りかもしれない。少なくない人がそんな風にいうのを聞いたことがある。

問題はいまの状況は【「闘い」や「闘争」】が必要のない状況なのかどうか。闘い方や闘争の方法は旧態依然としていていいとは思わないが、不必要だとは思えない。取り組むべきものは大文字の世界にも残っているにもかかわらず、それが見えなくなっている、そして、いままでの方法では、その大文字の世界にアプローチできない状況なのではないかと思う。

労働運動や学生運動が見落としてきた豊かなものが、たこの木の周りにあるのは間違いなく、単なるその延長線上ではないだろう。

労働運動はともかく、学生運動は日本ではほとんど見えなくなってしまっているが、いまでも労働運動の現場で苦闘している人は少なくはないはず。なかなか成功はしていないが、新しい労働運動を再構築しなければならないという問題意識を持つ人もそれなりに存在するはず。問題は『大文字の世界』をめぐる闘争と『目の前のここ』がうまく接続できていないことだとぼくは思う。多摩の人たちがどんな風に考えているのか、ぼくは知らないけれども。
ともあれ、それらに加えて当時、多摩「ニュータウン」だったことを三井さんは指摘する。


(2)いまの時代だからこそ大切なもの

入所施設で暮らす知的障害者の比率がこの10年でかなり下がっている(162p)ことを三井さんは指摘するのだが、知的障害者としてカウントされている人の増加分を考えると、比率ではなく実数で見る必要があると思うのだが、どうだろう? 資料を見ていないので、なんとも言えないのだけど。

ちなみにこの10年ほどで34万人増加とのこと https://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/r01hakusho/zenbun/siryo_02.html

問題は人数がどれくらい減っているかだが、知り合いの研究者によると、それなりに減少しているのではないか、とのこと。ただ、比率がかなり下がっているのは分母が増えている影響もあるだろう。

三井さんは多摩のネットワークを支えてきたもののひとつに「性別役割分業の影響」をあげる。賃労働から排除された女性が担い手になったという話だ。ここでの視点が面白いのは、ここで紹介された女性たちを見ていると、「賃労働に重きを置かれすぎている社会のほうが問題」(163p)だと見えてくるというところ。 ここでの社会を問題とする見方も興味深い。「女性を賃労働につかせない社会が問題」というのは前提にあるとしても、それだけでなく、「賃労働に重きを置かれすぎている社会」を問題にするわけだ。

上記が以下の三井さんの視点につながっていく。

ちょっとわかりにくい記述になっているのだが、三井さんは賃労働に就くことを選べる人、選べない人の問題に焦点をあてることを「時計の針を戻すかのような議論」と考えているかのような印象を受ける。(そういう意図ではないと三井さんに教えてもらったのだが、そのデータが見つからない)そして、以下のように書く。

・・時計の針を戻すかのような議論はしたくない。 

そうではなく、必要なのは、過去に積み重ねられてきたことから、大切なものを学び取ることである。(163p)

そして、大切なものとして、以下の2点を挙げる。

1、生活や暮らしを意識的に捉えかえし、それを基盤に考えること。

2、「障害特性」の「理解」といったことから始めるのではなく、目の前にいる人とかかわることから始めること。

読んでいて、思ったのだが「生活者」の対概念はなんだろう。「労働者」かな?

さらに、現実問題として、「賃労働に重きを置かれすぎている社会」はあるのだが、【「生活」「暮らし」とつながる「働く」という行為】や「労働」を全体性の中で捉えることが大切だと思う。だからこそ、三井さんはいまの社会で賃労働と比較して軽んじられているように感じる「生活」や「暮らし」をあえて強調するのだろう。「生活や暮らし」に「労働」は含まれるという考え方も存在し得るとは思う。そのあたりがぼくのなかで未整理なままだ。賃労働に切り縮められない「労働」や「働く」をそこに位置づけたいと思う。

とはいえ、「働く場」と「暮らす場」は切り離されていることが多い。多摩の知的障害者支援のネットワークはそこがうまくつながった事例と言えるかもしれない。また、賃労働から排除された女性たちや どうやって食べてるのかわからない岩橋さんがそのネットワークを形成する。その人たちの暮らす場は働く場とつながっているようにも見える。

 ぼくがこの業界に入った80年代、そして20世紀を通して、まだまだ入所型の授産施設とか、宿舎付きの福祉工場が多くて、働く場と暮らす場を切り離そう、外で暮らせる環境を作ろうというのがやるべきことのひとつだった。80年代に福祉工場の労働組合として、車いすユーザーが使えるアパートを要求して、行政と交渉したりしていた。自立支援法ができ、授産施設がB型になって、制度として、入所型の就労支援施設はなくなり、それらは分けられたけれども、住む環境や条件は整っているとは言えない現状がある。物理的にバリアフリーな物件は増えたけれども十分とは言えず、精神障害者とか知的障害者とか呼ばれる人たちが地域で生活するためのバリアはまだまだ高い。ただ、知的障害の人の一人暮らしのための住宅問題は80年前はほとんど顧みられることのない課題だったようにも思う。(主張していた人はいたかもしれないと思うが。)

 そういうことを前提に「働くこと」と「暮らすこと」の連関を考えてみたい。昔の入所型授産施設のような形で、それが重なっている場所は嫌だ。しかし、重なり方によっては魅力的な重なり方もあるだろう。

 例えば、農業とか農的な暮らしは、イメージでしか語れないのだけど、それがかなりダブっているようにも思う。農的な世界が豊かなのは、ライフがワークであり、ワークがライフであるようなところにあるのかもしれない。職人さんの世界もそれに近いものがありそう。働くことが社会的に有用でであり、そこで働き方を自分でコントロールできるような状況にあれば、ライフとワークは親和性の高いものになるのではないか。このライフとワークの重なり方は素敵だ。

 そうそう、これを今風に言えば、ワークライフバランスっていうことになるのか。もうあまり使われなくなったけど・・・。このバランス、一般的には男(あるいは男並みに働いてる人)はワークからライフのほうへというのが、少し前に流行ったこの言葉の内容だったと思う。ちなみに、女はライフからワークのほうへというのはあまり言われなかった。しかし、暮らすことと働くことの関係はそんなに単純な話ではないと思う。単に時間などのバランスではなく、ワークとライフが重なる部分を作ったりするということではないかと、この三井さんの問題提起を読んで思ったのだった。

 またヘルパーの仕事は他者の暮らしの場がヘルパーの働く場である。ここで「働くこと」は他者が「暮らすこと」と直結する。その人の働きがなければ暮らしが成り立たない人がいる。そういう仕事をエッセンシャルワークと呼ぶのだろう。ここには「当事者が生きること」と「支援者が働くこと」が重なる領域がある。それは支援者が生きる場でもある。

 支援者の側にいろんな意味での「余裕」というか「バッファ」というかそんなものがないと厳しい気がする。ライフとワークを気持ちよく重ねることができる、そんな働き方が可能になって欲しいが、制度がもたらす報酬の低さがそれをじゃましている側面も強いような気がする。昨今言われる、これはエッセンシャルワークへの報酬の低さの問題でもあるかもしれない。

 そして、それは目の前にいる、困っている人に関わり続けることから、内容のあるものになっていくような気がする。ライフを自分の家族のためだけに使うことが許されない社会は窮屈だけど、自分から目の前にいる人たちに関われるような関係性が作れたら面白いと思う。しかし、核家族で分断された都市生活で、目の前にいる人にかかわる機会はあまりない。家族以外の人の「生き・暮らすこと」に関わる関わる経験を持てる機会があるだろうか? そこで、有用なのはガイドヘルプなどを誰でも出来るようにしていくこと、それが楽しそうで、入ってみたいと思えるような状況を作っていくことかもしれない。

 この1章に、それぞれ長めの58個の注がついていて(166-177p)、それぞれが興味深い記述になっている。ここには共同連や社会的事業所の説明もあるし、「あしたや」から共同連大会への参加の話も出ている。なかでも興味深かったのが注55、長い注だけど、タイプしてみたくなった。こんなことが書いてある。

・・このように介助が「仕事」になることが持つ意味を大きく取り上げるだけでは、物事の一面しか見たことにならない。いかに「共に生きる」とは異なるものになったとしても、それでも介助という「仕事」は、一般の対人サービス業や、医師のような専門職とはかなり異なる。対価をもらえるからサービスをする、というだけではとどまれるものでもなければ、専門的技能を駆使して奉仕する、ということにとどまれるわけでもない。介助は一定の時間だけ担うものではあるが、そのスパンや仕事としての広がり、幅は、その時間だけで切り取れるものではなく、利用者からすればまさに「日常」である。利用者の「日常」をそれとして尊重しようとするなら、担い手の側も一般の対人サービス業風にふるまうことも難しければ、専門職風にふるまうことも難しくなる。日々の暮らしで介助者が四六時中「笑顔でサービス」というわけにはいかないし、排泄介助など私的領域にも踏み入れる際に、専門職のように白衣で感情的な距離を取るというわけにもいかない。実は「仕事」として介助を担う上では、多摩の支援ネットワークの人たちのように、「共に生きる」という姿勢を取り入れたほうが合理的に思えることも多い(三井さよ2018:62-93)。つまり、介助が「仕事」になると、「共に生きる」という姿勢から外れていくように見えるのだが、他方で介助を「仕事」として真剣に担うのであれば、「共に生きる」という姿勢につながっていくのである。だから、先述したとおり、あとから「仕事」として参入した人で、多摩の支援ネットワークに順応していく人も少なくない。(176-177)

三井さんの書きたいことはわかるような気もする。えらそうな専門家、もううんざりだよね。ろくなもんじゃない。

 で、「介助でお金をもらうこと」と「共に生きること」の微妙な関係はある。公的なお金をもらう限り、時間の過ごし方は説明できるものじゃなきゃいけない。でも、ここに書いてあるように、お金をもらう行為ということに留まっていては見えてこないこともある。

もちろん、介助に関して、感情的な距離をとって欲しい人もいるだろう。例え排泄介助であっても、っていうか排泄介助だからこそ、という部分もあるかもしれない。それは専門的かどうかという話とはちょっと違うような気がする。

また、注58ではWISE(労働統合型社会的企業)や共同連がすすめる社会的事業所の法制化に言及されている。そして、この法制化は道半ばだが、「個々の人たちの試みをサポートするものになりうるだろう」と書かれている。そのような形になって欲しいと思うが、現状の法制化案では、いまの総合支援法での給付よりも薄い給付が想定され、事業者はその理念に賛同しても、実際に法ができても移行しにくいものになっているのではないだろうか?

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二つ目のコラムで荒木さんはガイヘルに言及し、そこで岩橋さんが書いたブログ記事、「ガイヘルをコーディネートする」に言及する。この文章、WEBにはもう残ってないらしい。これにもいつか言及したい。


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第2章 支援はやりとりの連続に尽きる 岩橋誠治

岩橋さんが言いたいことが、かなりまとまっているなぁともったのが以下。

 障害者差別解消法が施行されて以降、盛んに行われていることのひとつに、「差別を解消するために、障害者のことを理解しましょう」という啓発活動がある。私にはそれが、人を足蹴にしておきながら、「倒れたら優しく手を差し伸べましょう」と言っているようにしか思えない。「障害の社会モデル」という言葉にしてもそうだ。「障害は社会に起因している」という視点自体はいいとしても、「そのような社会を作ってしまったのは他でもない私たち自身だ」という反省なしに語られるとするならば、「障害者もこの社会で生きて良い」という許可にしかならないように思う。そして、社会が許容しうる障害者のみが、「この社会で暮らすこと」を許されるのであれば、非常に問題だ。「支援」とは、「誰もが地域で生きること」を実現させる上で、それを阻もうとする様々な「障害」を解消するための取り組みなのだ。 (193p)

いかにも岩橋さんらしい感じはある。そして、同感できる部分は多い。

「障害者差別を解消する」ってどういうことだろうと思う。「踏みつけている、その足をどけろ」と岩橋さんは書いているのかもしれない。しかし、多くの人は踏みつけていることに気がついていない。そう、必要なのは「障害者を理解する」ことではなく、障害者を踏みつけている社会を理解することであり、自らがそこに加担していることに気づくことだと言えるかもしれない。

そんな風に考えると、DETの弱点は障害が社会の側にあるということを強調するあまりに、その差別する社会を構成しているのが自分だ、自らが加害の側に立っているということをすり抜けてしまうことではないか。
193頁からの4節「わからない相手との関わり」で岩橋さんは「当事者のことはわからない」という前提を強調する。

こんなことが書かれている。

 そもそも、「たぶんこの人はこう思っているだろう」「理解できたかもしれない」といった想定は、大概は外れているものだという実感が私にはある。そんな経験から私は、「支援」とは「いつまでたってもわからない人を相手にすること」だと思うに至ったのだ。だから、支援;マニュアルはいつまでも現時点の想定にもとづいた「とりあえずのマニュアル」でしかない。とりあえずそれを軸に当事者と関わり、そこに記された内容とは異なる様子を目にしたら、 

 それに対して専門家にありがちなのが、専門性に照らし当事者を「理解できたもの」として支援してしまうことだ。そのような支援では、往々にして専門家が描いたイメージや価値観の枠の中に当事者をあてはめることになる。当然その枠にあてはまらない当事者は出てくるのだが、その場合、当事者が悪者にされてしまうか、さもなくば専門家が判断ミスをしたと評価され、別の専門家へと引き継がれることになり、また同じことが繰り返されるだけなのだ。 

 暮らしはとめることができないし、それゆえに支援もとめられない。「当事者をよく理解した上で支援する」などと悠長なことは言っていられないのが現実だ。ならば支援者にとって大切なことは、「当事者理解できないままに支援している」という認識を持つことだろう。 そうであれば、支援のあり方を柔軟に変えることもできるはずだ。 そのために、日々懸命に関わっている人たちの想定は言うまでもないが、長年付き合いのある人の経験にもとづいた想定も必要だし、専門家による想定も必要だ。どれが正しくて誰が間違っているということではなく、それらすべてをひっくるめて、「当事者を理解しようとする思い」が大事なのである。 (195-196p)

 支援の経験が長くなれば、それだけ、ある人のことをわかっていると思いがち。確かにこの節にも書かれているように経験によってわかることもあるし、少なくない。しかし、それでわかった気になってしまうことを岩橋さんは戒める。おそらく【当事者を「理解できたもの」として支援してしまう】のは専門家だけでなく、ベテランの支援者もそうなのではないか。

8節(202p~)では、「たこの木では、ひとりの障害当事者の自立生活を複数の事業所で支援することを基本としている」として、その理由が書かれている。「当事者の本当の思いに近づく」ためにそれが必要だという。これは自立生活の話だけではなく、あらゆる場面で、本人の意思に近づくために、できるだけ複数の人が複数の視点で関わること、そして関わった人での検討が必要なのだと思う。

また、ガイドヘルパーについて、こんなことが書かれている。

街に繰り出す当事者が増えていることはうれしいのだが、社会の常識とはズレてしまう当事者の行動を必死の形相で静止したり、しゃがみこんで動かなくなった当事者の傍らにあきれ顔で立ち尽くすヘルパーを見ると、ヘルパーが社会と当事者の壁になっているように思うことがある。ヘルパーから「危険だから近寄らないで」という雰囲気を感じるとき、果たして その支援は支援になっているのだろうかと思ってしまう。せっかく移動支援で街へと繰り出すなら、当事者と街の人々との接点を探してみではどうだろうか。203-204p

思い出した。フィリピンのラルシュ・プンラっていうグループホームみたいなところに居候してるとき、散歩に行って、当事者が座って動かなくなって、ぼくもいっしょに迷子で帰れなくなったことがあったなあ。当時は携帯電話もなくて、電話BOXもなくて、青くなったのだった。あきれ顔してる余裕なんてなかったなぁ。

いまなら、待つしかない、そんな状況で傍らにいるぼくは、どんな顔をしてるかな?

岩橋さんのこの話で言えば、街の人を巻き込んで、街の人からも声をかけてもらったりすればいいかなぁ?

9節は【〈やりとり〉というコミュニケーション】

ここでまず岩橋さんは「コミュニケーション障害」という言葉に難癖をつける(笑)。最低でも二者間なのに、障害がある人が「コミュニケーション障害」と呼ばれることが多い。彼や彼女が発信していることを受け取れない側の問題はないのか、という提起だ。こんなことが書かれている。

・・・。当事者の思いを一般常識の秤にかけて通訳してしまえば、一般常識とは異なる世界観を持つ当事者にとっては、単にそれを押しつけられてしまうことになる。そして、自身の世界観を理解してもらえない辛さからパニック起こしてしまえば、当事者が悪者にされてしまうのだ。 私は〈やりとり〉というコミュニケーションが大切になると思っている。206p

そして、その〈やりとり〉とは何かという話だが、こんな風に説明している。

「関わってみる=やる」ことと、それに対する「反応を受け取る=とる」こと。それは「互いにわかり合おうとする過程」で行われるもので、・・・・206p

そして、それは二者間だけで終わるものではなく、

「蓄積された経験値を共有する者たちを皆んなで行われるもので、互いに分かり合おうとする過程を指す」(207p)

と岩橋さんは書く。

岩橋さんは208pで「多摩にはカリスマ的な当事者や支援者はいない」と書くが、外からは岩橋さんがそう見られているということに気づきべきかも(笑)。否、気づいているから、あえてこんな風に書いているのかなぁ?

さらに、次の節のタイトルは 【10 支援は〈やりとり〉の連続に尽きる】。ここに行きつく。

そして、この岩橋さんの文章の以下の結語部分はメモしておきたくなった。

 これらのすべてが、多摩の独特な人間関係が織りなした奇跡のコラボレーションの産物だと感じることもある。「あのときあの人がいたから」「 あの人と出会わなかったら」「○○があったから」「○○がなかったらどうなっていたか」等という話は山ほどある。それらはすべて周到に計算されたものではなく、各々の日常的な〈やりとり〉が、ある意味偶然に寄せ集まった結果なのだ。専門性がなくても、経験がなくても、「関わり続けたい」という思いを抱き、「関わり続けるためにはどうすれば良いのか」を考え、〈やりとり〉を続けてきた。一人ではどうしようもないから、いろいろな人を巻き込むためにも〈やりとり〉を重ねていった。その結果が「あの人がいた」「あの人と出会った」「○○があった」という話につながったのだ。

 このような状況を生み出すことも「支援」とするなら、支援という営みは、当事者とその支援者だけでなく、地域の人たちをも巻き込んで「〈やりとり〉を続ける」ということになるだろう。そして、支援を「障害者の理解を前提」に行う「専門的な関わり」にするのではなく、「互いにわかりあおうとする過程」で行う「〈やりとり〉の連続」として考えれば、互いを尊重しながら、関りを続けることができるだろう。208-209

【このような状況を生み出すことも「支援」】って、すごいと思った。


第3章 子ども会から働く場へ――たこの木の三〇年、あしたやの二〇年  和田幸子

ここで和田さんはたこの木クラブで働く場を作り始めて、それが「あしたや」になっていった経過を描いている。ここでも見えてくるのは、「働く場を作ろう」という意図から始まったというよりも、目の前の人と関り、付き合い続けているなかで、「働く場が必要だねぇ」というような感じで働く場も出来ていった、そんなイメージ。

そして、ここでも出てくるのは、福祉制度を使おうとしたときの軋轢。制度は「共に働く」を前提としておらず、「支援すべき障害者」というのを押し付けてくる。しかし、制度を使わなければ生き残っていけない現実があり、みんなそこでなんとかすり抜けることを考えるしかない。福祉工場がA型を選んだのも、それと同じだ。

あしたやがすごいところは、そんな制度のなかでもちゃんと有給休暇の制度を作っているところ。

和田さんはココを超えていくために、共同連が提起している社会的事業所という提案をする(234p)のだが、共同連が作った法案や韓国でできた制度などを見ると、理念は大丈夫だが、経済的にはそれだけで壁を越えていくのは難しいのではないかと感じる。

この章も最後の部分がとても素敵なので音声入力

 能力という物差しを持てば、障害のある人たちは切り捨てられ、一緒に働く関係は分断されてしまう。能力を問うことは、問題を個人のものにしてしまう。問題を個人に還元するのではなく、集団つまりあしたや全体の問題として考えよう。それが共同性というものだろう、と考えてきた。

 それぞれが、それぞれの力を出して、手応えをもって、ことを成す、ものを作り出す、そのことを働くこととしたい、と私たちは考えてきたのだと思う。

 とはいえ、難しい問題にも直面し、一緒に働き続けられなかった人もいた。それは能力の問題というより、一緒に働くことを成立させられなかったということなのだが、この問題は私たちには大きな宿題として残っている。そして今、それぞれが年齢を重ねてきて今までのように働けなくなっている人もいるし、これからは働かないということを選ぶ人たちも出てくるだろう。これまであしたやは「働く場」というくくりでやってきた。しかし、地域で生きていく、その中の働く場である。あしたやがこれまで通り「働く」というくくりだけでやっていくのか、いかれるのか、今大きな壁にぶつかっている。

 (中略)

 「共に」も「働く」も人間にとってあまりに深く、本質的なことがらで、そんなに簡単に答えは出ない。でも、答えが出ないことにこだわり続け、ここで踏ん張っていくしかないのだろう。そのふたつの間で悩み、喜び、疲れたり、元気が出たり、落ち込んだり、わくわくしたりしながら。

 働く場があること、仕事があること、報酬があること、そしてその報酬で生活できることを望んできた。でもまだまだ道半ばである。対等・平等な働き方を目指してきたが、こちらもまだ道半ばである。それでも、二つの車輪を軸に置き、皆が力を合わせているのは確かなことで、それはやはり、あしたやの誇りなのだと思っている。 236-237p

こんな風に感じていてもできないことが多かった、ぼくが働いている事業所。で、いまは外されて、なんの影響力もないんだなぁ。


第4章 支援のその先へ――すいいち企画  児玉雄大

児玉さんはすいいち企画での岩橋さんと横田さん自身の行動を紹介した横田さんのエッセイを紹介した上で、鷲田清一さんの『「待つ」ということ』の以下の二つの文章を引用し、「待つこと」と「支援する」ことの親和性を説く。

 待つことには、〈想定外の〉働きに期待することが含まれている。それを先に囲い込んではならない。つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか、それが〈待つ〉には賭けられている。

〈待つ〉というのは、その意味で、「応え」の保証のないところで、起こるかもしれない関係をいつか受け入れられるよう、身を開いたままにしておくことである。じりじりするほどゆっくりとしか 流れないその時間が、ついに無意味になること、つまりは〈待つ〉時間が奪われることを見越してなお〈待つ〉というのは、だだからけっして受け身の行為ではない。けっして無為ではない。

児玉さんはこの「待つ」と「支援する」を置き換えても成立するのではないかと書く。確かにそんな気がする。さらに「モノ」の「品質」を管理する手法であるPDCAサイクル(それは福祉教育で教えられるのだが)を否定する。想定できない「生活」を受け入れることこそが支援なのではないか、と主張しているように読めた。

ただ、ぼくはPDCAも否定はしない。もちろん、それだけでいけるとも思わない。そこからこぼれおちるものこそが大切だという児玉さんの意見はその通りだと思う。

PDCAで回る部分は、そのようにすればいいと思う。その領域のほうが広そうな気がする。しかし、そこだけで完結してしまうことは確かに危険。

児玉さんは以下のように書いている。

 岩橋さんと横田さんは、現行制度が命じる支援の手法(「人間の・生活の・支援」を「モノの・品質の・管理」のように行う手法)に対して、生理的なレベルでの嫌悪からあたりまえに拒絶しているのです。「私たちはモノではない、人間だ」と。すいいち企画にはそのシンプルさがあると思うのです。257p

いま、読み返すと、確かにそうかなぁと思う。 しかし、読んでいる最中に「わかりやすいが、 もう少し複雑ではないか」と本に書き込んでいる。でも、いまはそうは思えない。

この「すいいち企画」は「人間のモノ化への対抗」だというのが児玉さんの見方だ。障害者と呼ばれる人たちがそうでないとされる人達とともに「たこの木」の狭い事務所で、少し窮屈に、しかしまったりと過ごしている。制度から外れたそのようなあり方を児玉さんは、おそらく意識的に、過剰に意味付け用としているようにも思える。 その過剰さが面白いところでもあるのだが、やっぱりちょっと過剰だと思う。

ともあれ、児玉さんは、このすいいち企画を「抑圧的な制度への対抗」と(かなり無理やりに(笑))位置づけ、そのインフォーマルの戦術である「すいいち企画」の最大の強みは「自由で気楽」なことではなく、その「不可視性」にこそあると主張する(260-261)。 「すいいち」が制度ではないので、制度側から捕捉されないという話でもあるのだが、そのうえで、権力と交戦せずに、イマジネーションのある領域を解放するゲリラ戦における優位性という話でもある。これが以下に引用するこの章の最後の節の冒頭の文章とつながる

 現行の制度との対比からすいいち企画についてあれこれ考え始めたら、「人間のモノ化」と「抑圧的な制度」という。「支援」という枠だけでは括りきれない問題にたどり着きました。つまりその問題は、支援を含む 「福祉」の領域に限定されるものではなく、「文化」「教育」「労働」「環境」等、社会を構成するあらゆる領域と共通した「今日的な課題」と言えると思うのです。ならば、それへの対抗も「支援」という枠内だけで実践するのではなく、他の領域と連携しながら行うほうがはるかに効果的なはずです。・・・(262)。

これは話がでかくなってきた。でも、こういう話の広げ方は大好きだ。こうでなくちゃいけない。

「すいいち企画」がメインストリームの価値観に対抗する対抗空間として形成されているという風に読み替えることもできるだろう。さらに進めて「能力主義を無力化する場」」だと規定することもできるかもしれない。そう、障害者支援の話をそういうパースペクティブで語りたかったのだという気持ちがふつふつと湧いてきた。少し前に書いたように、そこには過剰な思い入れがあると言えるかもしれない。しかし、ここでは過剰くらいがちょうどいいんじゃないかと思う。

 そう、スマートでクールであることが要求される社会で、不器用に暑苦しくて過剰であることもまた、対抗空間を形成する武器になりえるのかもしれない。

 また若い人には「うざい」って言われるかもしれない(笑)。でもね、能力主義もスマートさもクールさもぶっとばすためには、それくらいの覚悟が必要なんだよ、と、とりあえず書いておこう。


第5章 諦めることを諦める――たこの木クラブのスタッフとしての一〇年間
     横田彰敏(聴き手+構成:三井さよ)
 この章は三井さんからスタッフの横田さんへのインタビューで、岩橋さんを通してしか知らなかったぼくには新鮮で、読み返してもめちゃ面白いんだけど、どうメモを残していいのか迷う。で、そうかと膝を打ったのが以下。

 横田さんはこんな風にいう。「私自身もね、当事者も、ありのままを受け入れるしかしょうがないんだな」とたこの木で思った、とのこと。「いい/悪いじゃなくて、『ありのまま』を受け入れるしかない・・」

 そう、「ありのままがいい」というわけではなくて、いま、目の前にいる人に対したとき「ありのまま」に受け入れるしかない、ということなのだ。自分に関しても、い・ま・の自分は変えようがなくて、それは受け入れて、それを出発点にするしかない。

 ありのままじゃ困る状態もあると思う。でも、スタート地点はいつだってありのままでしかありえない、という単純な話にいま、気がついた。

そして、三井さんもタイトルにしたこれ、やっぱり名言だと思った。

「諦めきれない自分のことも諦めれば、楽しいと思うんだよ」

最後のほうの二人での岩橋さんの話も面白い。


312p~の荒木さんのコラムのテーマは「共に」ということ。

そこで、岩橋さんの「共に」という言説とともに「できる」「できない」に関する家族会Sさんの文章が引用されている。Sさんは【たこの木の活動をやってて面白いなーと思うのは「できない」ことを「できる」ようにしない所だ】と書いている。できないありのままの相手を受け入れることができれば、それは素敵だと思う。ただ、その「できない」を誰がそのように決めるのかということも問われるんじゃないかと思う。「出来る」ほうが楽なことはたくさんある。そして、たぶんたこの木でも無意識にこの人にはこれができそうと思ったら、今できないことも出来る方向に促すことはあるんじゃないかな。

第6章 介助を続けていく  寺本晃久

グループホームと自立生活を対比した以下の文章はわかりやすくて、他でも使えるかもしれないと思った

 グループホームの場合、同居する人とのバランスを考えてしまうし、支援側や事業所の都合や運営方針が先に立つ所が大きくなると思う。建物の条件などで、制度的な枠組みでも規定される。その点、自立生活は自由だ。施設や制度に人を当てはめていくのではないので大変で手間のかかる仕事ではあるが、私は後に面白さを感じているというか、まさにそれをしたいから続けている。318p

で、面白くて、そうかと思い、しかし、そこに踏み切れる親や関係者は少ないかもしれないと思ったのが以下の部分。

 ・・・多摩の場合も、 必ずしも条件が整っているから始められたのではなく、 ある種の無謀かつ強固な意志がまずあって―― たとえばそのひとりが岩橋さんだったのだが――、見切り発車でとにかく生活を始めてしまうところから走り出し、走り出す中で現実を追いつかせていくと言った、ある種の力技でもってやってきた。「介助体制が整ってから」「支給決定がしっかり出てから」などと、「~ができたら」とか「~がないから」と言っていては、なかなか自立生活を始められなかった。319p

さらに以下の部分は、とりわけ知的障害者の「自立生活」とその支援の肝かもしれない。そして、寺本さんが書いているようにそれが人の暮らしであるような気もする。

 「サービス」として支援しているわけではない感覚がある。・・・中略・・・互いが「生活」という車に一緒に乗り込みどうにかして運転していく協力者の関係だと思っている。
 でも、その距離の近さは、一方で、自他の境界があいまいなところによる甘さや困難を生んでしまうことがある。お互いの強烈な個性に、お互いがひきずられ、巻き込まれ、惑わされる。感情的になる場面もある。さまざまな勘違いや行き違い、判断のミスや遅れは否応なく沸き起こり、結果、失敗し続ける。少なくとも常に失敗する可能性はある。今の今はうまくいったとしても、次の瞬間がどうなるかは誰にもわからない。障害者だとか介助者だとかに限らず、人の暮らしとはそんなものだという前提(諦め)が必要になる。

(略)

 それぞれの日常をすりあわせつつ、一緒に過ごすことは、以外に簡単ではない。そのための技術がいる。まずは「そこに一緒にいられるかどうか」が大事であって、それ以外のことはプラスアルファの部分でしかない。322-323p前諦か(笑)。

そして、これってパートナーとの暮らしにおいても言えるんじゃないか、と自分のこととして浮かび、寺本さんのパートナーの顔が浮かんだりした。


特別付録 講演録「重度の知的障がいのある人の一人暮らしを支える」
    岩橋誠治(編集・ヒビノクラシ舎) 

なぜかひとつの章ではなく、付録になっているこの文章。どうしてなのかな?

印象に残ったのは「一人暮らし」と「独り暮らし」は違うという岩橋さんの指摘。

そして、「一人暮らしをすべきだ」と主張したいわけではなく、【「それが当たり前だよね」って。】と言う。330p

ここから冒頭に書いた「専門性」の話が展開する。

次に当たり前だけど忘れちゃいけないと思ったのが

「利用者」としてではなく「その人自身」と向き合っていくということの大切さ(341p)

ここで岩橋さんは退院後の自立生活に関する成功事例と失敗事例をあげて、このように書いている。失敗事例は支援会議に集まったたくさんの事業所の人たちが【本人を知らないままにリスク回避ばかりを考えて、自分たちの専門性だけを持ち出した結果】だと岩橋さんは指摘する。これが対象の人を「利用者」として見る姿勢と言えるだろう。これに対し成功した事例は旧知の人の退院後の地域移行の事例で、わざわざケア会議を開かなくても、GHもB型も岩橋さんもみんな知り合いで、日常的に話ができて退院後の生活がスムースに行ったという話。
 いろんな人がその人の暮らしに関わるときに、支援の仕方を統一するのではなくて、分断された支援を連続したものにしていくことが大切なのだという。それは具体的に「先週はああなっていたけれども、今週はこうだった」「それは先週のあの時点であんなことが起きたから今週こんなことになったんだ」「なら今日からはこれでやろう」みたいな話だとのこと。自分の言葉で説明できない人の日中の支援と夜の支援や、介助者が日替わりで変わっていく支援をつなげていくのは、ここでさくっと書かれているように簡単には行かないと思うけれども、その大切さを意識して、つなげていく努力を続けていくことが問われているのだと思う。

そして「守秘義務」の話。

個人情報保護とか、守秘義務とか言いながら、自分たちにとって都合の悪い情報を覆い隠す事業所の多いこと。さらにそれが虐待の温床にさえなると岩橋さんは書く。「***はどうしたのでしょう?」と聞くと「守秘義務があるので答えられません」という事業所の危うさ。学術会議の任命拒否を説明しない政府も同じかも。

そして、ここから岩橋節全開という感じなので引用

・・・、これから重度知的当事者の自立生活支援を担いたいと考えている人たちの多くは、「制度上の利用者の1人暮らしを事業として支えたい」と思っているのでしょう。それは、「既にある本人との関係を維持していくために制度を持ち込む」たこの木クラブのスタンスとは大きく異なりますが、私はそれを批判するつもりはありません。事業者の視点で考えれば、むしろたこの木クラブの支援の方がダメなんだろうということも分かっています。でも、それでも、たこの木クラブのような支援をみなさんにやってもらいたいと思っています。今から30年後を目指して行ってもらいたいのです。 ・・・。私たちが30年前に多摩で自立生活をしている重度知的障害者と出会って、それに続いたのと同じように。ですから、私たちはこれから、「私たちと直接関係のない知的当事者の自立生活をどう実現するのか」ということについても考えていきたいと思っています。345p

最後の「ですから」とか、なぜ、「ですから」なのか、意味が解らないのだけど、なんとなくいいなあと思った。

次に親ではないキーパーソンの必要性を書いたうえで、最後の「おしまいに」で岩橋さんは、重度知的障害当事者の一人暮らしは、住宅ローンを組むようなもので、みんな借金して、ローンを組んで、その家に住みながらちょっとずつ返済していく。という。はじめは利息分を返すだけで、とにかく回しているだけだと。「支援の不十分さ」は「借金」と同じで、借金してでもやるしかない、できるかできないかではなく、やるかやらないか。つまりやるしかない。という結論に至る。好きだなぁ、こういうの。



~~~~
以下、学術会議の『提言 ケアサイエンスの基盤形成と未来社会の創造』について

この提言に、Iさんが「たこの木」でやってきたことがまったく違う文脈で、納得できない方向で解釈されてることに憤慨していた
( https://www.facebook.com/iwatyans/posts/3523673591035782 )のですが、その憤慨がはじめはわかりませんでした。そして、フェイスブックに書いたのは以下(ちょっと補足もした)
~~

Iさんが感じたような強い違和感を始めは感じることができませんでした。
で、つらつらと考えたのですが、たいしたことが書かれてないなぁと思ったのです。山田さんも書いてましたね。
すごく簡単に書いちゃうと、ケアしあう社会が必要で、その研究が必要だって話ですよね。それは必要なわけです。言うまでもなく。(たぶん)
で、この学術会議の文章の何が決定的にダメかというと、「ケアしあえない社会がある」としつつも、何がケアしあえなくさせているか、ということへの言及がほとんどないことなんじゃないかと思ったのです。(ちゃんと読んでないけど)
それはAIを使ったりITを使ったりという技術的な話で解決する話じゃなくて、Iさんが書いているように初めから分けている社会があるからだし、過度に競争させ、格差を広げる社会があるからだと思うのです。
そういう根本的な問題を等閑視して、技術で何かが変わるかのような話に行ってしまっているところがダメなんだろうな、とぼくは思ったのでした。

~~~


提言
ケアサイエンスの基盤形成と未来社会の創造

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-t291-7.pdf

から、『支援のてまえで』に言及している部分を引用
~~~
(3) 先端的なケアシステムと互恵的な価値や社会基盤を醸成する社会システム

 現代社会において、人々は様々な規模のコミュニティに属して生活や活動をしている。ローカルからグローバルへと謳われていることからも、その規模はある地域のコミュニティから、国や地域を超えた世界規模の結びつきにまで広がっている。ケア共同社会は、地理的に区切られた空間のみではなく、人々の関わりやある種の目的を達成する場、例えば、学校や職場として、あるいは人間関係のネットワークとして機能している。

 現代社会を生きる人々は、実際に存在する現実空間のみではなく、サイバー空間においても他者と密接な関係を築いている。インターネット上の様々なコミュニティにおいて、情報を得たり意見を発信したり、相談などの交流をすることも、現代社会を生きる人々にとってはケアとなっている可能性がある。例えば、患者会の掲示板やソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)での相互支援は、日常的に行われている。遺伝性疾患患者の会では、患者会メンバーが看護学、社会学、医学、遺伝学などの多学問分野の研究者や実践家と協働して、生活の工夫や病名を誰かに告げることの実態を調査し、その成果をホームページ上で「暮らしのヒント」として紹介している[10]。この研究の協働とホームページでの相互支援は、ケアサイエンスの一例となるだろう。ケアサイエンスは、そうしたサイバー空間における相互支援をも射程に入れる。

 その際、ケア共同社会を支えるシステムが求められる。このシステムは、先に述べた地域包括ケアシステムのように、地域における「住まい」「医療」「介護」「予防」「生活支援」などサービスを一体的に提供できる、国が推進するケアの体制のみならず、それぞれのケア共同社会が相互支援というケアを成り立たせるために、潜在的に機能させているコミュニティ固有の人間関係や情報ネットワークのことをいう。例えば、多摩地区には、障害をもつ子どもたちの生活を支援する複数の事業所や保育園などが作るネットワークがあり、彼らを支援しつつ、地域に暮らす人たちと結び付けている。このネットワークは 30 余年の時間をかけて作られ、活動を通して複数のクラブや会を生み出してきた。研究者も参加し、ネットワークをつくる人々と共にこのネットワークの歴史や実際を書籍として紹介するなどの活動をしている[11]。

[11] 三井さよ、児玉雄大(編著)「支援のてまえで―たこの木クラブと多摩の四〇年」、生活書院、2020 年
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