鈍感力とHSP メンタルの病は医療や薬ではなく、関係性の中で癒されるのではないか
リカバリーカレッジおおたの3回目
に参加して感じたこと。
今回のテーマは「新型コロナウィルス」
このテーマに関して、少人数で車座で話そうというイベント。
以下はこのテーマに直接は関係していないのだけど、思いついたことのメモ。
ぼく自身が、いろんな痛みにかなり鈍感で、それらをなぎたおして、やりたいことをやってきたかなぁということ。
それは鈍感力といえるかもしれない。
他方でHSP(ハイパーセンシティブ)と呼ばれる感受性の強い人たちがいる。
いろんなことを感じやすく、傷つきやすい人たちでもある。
ただ、その人たちも、あらゆることにハイパーセンシティブなわけではなく、琴線に触れる領域というのがあるような気がする。
ある領域では、けっこう鈍感だったりするのではないか。
あと、センシティビティの感度、けっこう、後天的なものに影響されている場合が大きいような気がする。
たとえば、ジェンダーに関するセンシティビティとか、男は目的意識をもって学ぶ必要があるかもしれないとお思う。
「男は」と一般化して書いたが、少なくともぼくはそうだし、強弱はあれ、多くの男に必要な学習であるような気がする。
ぼく自身は鈍感力という鎧を身に着けて、できるだけやりたいことをやってきたような気がするけれども、傷つく人もいたと思う。
ぼくがやりたいように前に進むために必要だったという側面もある。
まあ、なるべく傷つけたくないとは思うけれども、それはやりたいことと、他者とのコンフリクトのバランスの問題だったりもするかもしれない。
そのバランスをどこでとるかという「支点」の置き方が人によって異なるのだろう。
その支点が自分のやりたいことに寄せるために、鈍感力が必要かもしれない。
そして、鈍感力には二つの側面がある。
1、自分が傷つくことへ鈍感力
2、他者を傷つけることへの鈍感力
それぞれがそれぞれに危険だ。しかし、それは生きやすさをもたらすものでもある。
いろんな方面で傷つきメンタルを病んでいる人がいる。
もう少し、鈍感なら楽なのだろうになぁと思うが、ある領域では鈍感になれないというのが病だったりするのかもしれない。
否、それを「病」と呼ぶのは、それが「生きにくさ」を呼ぶから、というだけの話で、
鈍感なほうが問題ということもあるかもしれない。
ちょっとかじっただけだけれども、リカバリーとか、オープンダイアローグとか、ACTとかの営みを読むと、
メンタルの「病」(と呼んでいいかどうか)を癒すのは医学とか薬の力ではないように思えてくる。
もちろん、それらの有効な使い方は否定しないが、さまざまな人やものごととの関係性の中で、人は病み、
その回復もまた、関係性の中でしかありえないのではないか。
昨日会った友人重い鬱から立ち直れたのは映画「ボヘミアン・ラプソディ」と出会いが大きかったという。
体重が半分近くまで減るくらいの鬱で、通院を重ねていたのに、立ち直れたのは医師や医学によってではなく
体重が半分近くまで減るくらいの鬱で、通院を重ねていたのに、立ち直れたのは医師や医学によってではなく
映画「ボヘミアン・ラプソディ」によってうつが治ったと言っていた。
そんな話を聞いて、ますますそんな風に思うのだった。
この記事へのコメント