東アジア的家族と自立生活運動について

障害学のMLに投稿した文章、こっちにも残す。しかし、このタイトルは当初考えていたことだけど、中身とは遠いかも(汗;)
~~以下、転載~~
ときどき、中途半端なことを書かせていただいています。

昨日から気になっているのが
東アジア的な家族と自立生活運動の関係です。

どなたか、先行研究をご存じでしたら、教えていただけたら幸いです。

これが気になったきっかけは以下です。
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知ってる人は知ってる「たこの木クラブ」の岩橋さんが過去に呼ばれていった講演会のレジュメがネット上にあったというのを教えてもらった。「支援のてまえで」岩橋バージョンという話もある。
P30-33に掲載とのこと。
このPDFの全体は
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Strengthening the Basis of Practices for Inclusive Society
共に生きる実践の足下を固める
~東アジア的風土を視野に~
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神戸大学大学院人間発達環境学研究科 ヒューマン・コミュニティ創成研究センター 障害共生支援部門 ~~
そのレジュメで岩橋さんはこのシンポジウムのテーマに沿う形で以下のように書く。
・西洋的発想=個人の確立・個人に保障される権利(自立生活運動)
・東アジア的発想=全体の中に位置する個人(就学運動)
これが面白く、ここからいろんなことを連想した。
知的障害者の支援付き一人暮らしは西洋的発想だけでいかないところに、奥が深いものがあるのではないか?
ここから発想したのが、「東アジア的な家族」と「自立生活運動」の関係。誰か、そのあたりを書いてないかグーグルで検索したが、見つからない。
 で、灯台下暗しというか、この岩橋さんの講演のレジュメが掲載されているPDFを読み返して、面白いと感じたのが津田英二(神戸大学)さんの共に生きる実践の足下を固める』という文章。立てた問いに関する直接的な回答ではないものの、かなり隣接しているものを感じた。以下のようなことが書かれていた。(超適当に抜粋) 
・・・
 近代主義の人間像のもとでは、〈私の中にある彼の像〉がどのようなものであろうと、本物の彼は別に確固としてあり、本物の彼自体に尊重すべき価値があると捉えられてきたと思います。この人間像から、「他人がどう思おうと私は私」「本物の私がいるはず」という自己像が生まれ、さらには他者との差異によって自他の存在を価値づけようとする指向が生まれるのではないかと思います。競争社会の中で過剰に自尊心を喪失したり、自意識過剰になったりするのは、こうした指向のせいなのではないでしょうか。

 しかし、実際の生活場面では、〈私の中にある彼の像〉によって彼の存在を認めているという側面があるように思います。私自身も、多くの関わりのある人たちの〈私の像〉によって存在を認められ、それらの 〈私の像〉から私自身がたくさんの影響を受けているように思います。〈他者の中にある私の像〉と私自身 がとても重大な関係をもっているからこそ、その像に無関心ではいられません。その像に働きかけ、そのことによって私の存在を承認してもらおうとしています。

 つまり、〈私の中にある彼の像〉は、彼に向かって開かれていることが大切なのです。「かわいさ余って 憎さ百倍」というのは、この像が彼に向かって開かれていない状態、彼と共有されていない状態の結果な のではないでしょうか。〈私の中にある彼の像〉が私だけのものであれば、私と彼とは自己中心的な関係に 終始するのではないでしょうか。彼が〈私の中にある彼の像〉を共有し、それを私とともに創り上げてい くというイメージを持つことで、彼は私の中でかけがえのない他者としての地位を築くのではないかと考 えるのです。そして、そういう〈彼の像〉がたくさん生まれることで、彼の社会的な承認が確固としたものになるのではないかと考えるのです。

 そうだとしたら、〈私の中にある彼の像〉を豊かにしていくことが重要な意味をもちます。〈私の中にあ る彼の像〉は、私と彼との間の実際のやりとりを通して豊かになっていきます。「彼ってこういう人なんだ なぁ」という経験を積んでいくことです。先述した人がこんなことも言っていました。「彼と街にでかける と、必ず何かが起こる。何かが起こることで彼のことがもっとよくわかるようになる」と。単に向きあっ ているだけでなく、私と彼とが一緒に何かをすること、同じ体験をする中で〈私の中にある彼の像〉が豊 かになっていくということなのでしょう。

 このように経験を通して〈私の中にある彼の像〉を豊かにしていくことを、〈いっしょにものがたりをつ むぐこと〉と表現してみようと思います。〈いっしょにものがたりをつむぐこと〉の延長に〈いっしょに歳 をとる〉ことがあり、さらに〈共に生きる〉があるのではないでしょうか。11-12頁
そして、津田さんは結語部分で以下のように書く。
  私たちは文化的に、他者とのつながりをたいへん重視してきたし、他者とのつながりによって自己形成してきたはずなのですが、今その他者とのつながりがたいへん脆い状態にあるようにも感じます。それとともに、「私は私、あなたはあなた」とか「本物の自分を探す」といった、変に強がりと不安が透けて見える精神が跋扈しているように感じます。念のため蛇足を加えると、私とあなたとは違う人生を歩んでいます。だから、あなたはあなたの人生を歩んでくださいという以外にありえないのですが、最初から最後までそれで貫徹するというクールな関係しか描けないことが問題だと思うわけです。私の人生とあなたの人生が交差して、相互に影響を与えあい「共に生きる」ということが、私たちの人生の中でたいへん重要な役割を果たしているのではないか、ということを主張したつもりです。

 もう一度、私たちの文化的背景とそれに基づく自分自身のあり方、他者との関係について省察しながら、私たちの生きている現場の足下を固める必要を感じています。東アジアには、私たちが共有している足場から、真に「共に生きる」実践が数多く自生しています。まずその事実を知り、そこにある人々の生き方や精神から学ぶところから始めたいと思うのです。14頁
 このあたりの話と、「意思決定支援が必要」と言われているような、いわゆる「重度の」知的障害者の自立生活というか、支援付き一人暮らしを実現する実践を重ねて考えると面白いものが見えてきそうな気がしたのでした。

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