オープンダイアローグ、「不確実性に耐える」ということ(7月5日追記)2022年2月岩橋さんのコメント再追記

昨夜(5月20日)、蒲田でOD(オーバードースではない)勉強会(オンライン)だった。

「不確実性に耐える」についての対話。

やはり対話から見えてくるものは多い。以下は対話の中で気づいたことや教えてもらったこと。

(最後に追記を書いて、もしかしたら、その追記で書いて事がひっくりかえるかも)、

ほとんどの人は確実なほうがすっきりして好きだろう。だからその逆の「不確実性」には「耐える」しかない。

自然と確実なものを求めてしまう自分の気持ちのありようを俯瞰することが大切なのかもしれない。


そして、大切なのは、『他者の不確実性』だと思った。自分のことに関して、確実なのが好きなのであれば、そうすればいい。

しかし、他者や他者との関係は不確実だという認識は大事なのだと思う。


そこで定型的なすっきりした回答を求めたり、なにか決めつけたりしていいことはない。

「子育てのなかで、『決めつけ』て、いいことは何もなかった』という発言はとても参考になった。


また、『まんが やってみたくなるOD』ではこんな風に書かれている。

第2の柱 計画は立てない

 これも非常にラディカルな逆説で、とてもオープンダイアローグらしい原理です。オープンダイアローグの解説では「答えがない、不確かな状況に耐える」とよく言われますけれども、そんな行儀のよいものじゃない。本当はもっと過激な原理です。

 不確実性に耐えるとは具体的にどういうことか。「ノープランで臨め」ということです。いっさいプランを立ててはいけない。予測もしてはいけない。だからPDCAサイクル(Plan-Do-Check-Act-cycle)みたいな発想はまったくない。ノープランで、ノー予測で、目の前の対話の過程にひたすら没頭する。これが基本姿勢になります。

 少なくともノープランという考え方は、あらゆる治療的立場に対立しますので、受け入れがたいと感じる人もいるかもしれません。だけど実際にそれでやるほうがうまくいくわけです。そもそも治療経過なんて、予測できないのが当たり前ですよね。「この人は再発もしないで1年経ったから、そろそろデイケア参加してもらって、順調だったら減薬しながら社会参加の方向を模索して……」みたいな直線的で連続的な予測がせいせいでしょう。67p

アンティシペーション・ダイアローグのアンティシペーションには見通し・プランも含まれているのではないか。ある意味、プランの塊みたいな気がしないでもない。確かに不確実ではあるんだけど。


そして、同時にODは続けることが大事だという話との整合性も必要になる。

居心地の悪い「不確実性」。

それに耐えなければならないのは当事者も。

そんな風に居心地が悪くても、不確実で先が見えなくても、対話を続けることが出来るような関係性を形成することも大切になってくるだろう。

もしかしたら、そこでは微妙なバランス感覚も必要になるかもしれない。「見通しがないときつい」という当事者に見通しをちらつかせたりしたくなると思う。だとしても、その見通しが「不確実だ」ということは伝える必要があるはず。

斎藤環さんはこのまんがの前の『オープンダイアローグがひらく精神医療』では不確実性を診断名をつけないこととも結び付けていた。

・診断名をつけず、ずっと曖昧なまま。その曖昧さ、不確実性を支えるのが、繰り返されるミーティングと継続的な対話


また、『オープンダイアローグがひらく精神医療』では隔離拘束と不確実性の連関についても書かれていた。

急性期の「不確実性」に対して日本の精神医療はどう向き合ってきたか、多くは隔離拘束、すなわち行動制限と身体拘束によって、である。近年、精神科病院における長期に及ぶ身体拘束の急増が問題視されつつあるが、この風潮に対抗するうえでわれわれが獲得すべき資質が「不確実性への耐性」にほかならない。226p

 そう、『まんがやってみたくなオープンダイアローグ』に書いてあるように、ODがいちばん必要なのは精神科医なのかもしれない。

ODが必要なの精神科医.jpg

この画像は東畑開人さんのツイートから
https://twitter.com/ktowhata/status/1370934140401373188


以下、7月5日追記

たこの木の岩橋さんに「不確実性に慣れる」はどうかなって、フェイスブックで言われて

蒲田の勉強会のラインに投げてみて、翻訳の問題があるかも、という指摘を受けて調べました。

翻訳で「不確実性への免疫」はどうかという意見もあったとのこと。


ところで、この不確実性に耐えるの英語は

Tolerance of uncertainty 
https://ejje.weblio.jp/content/tolerance によると tolerance は
~~
我慢、耐久力、寛容、寛大、雅量、包容力、耐性、公差、許容誤差

「不確実性に寛容であること」とも解釈できるかも。
「ま、いいんじゃない」って思えること、くらいな感じもあるのかなぁ。英語、知らんけど。

岩橋さんの「慣れる」は直訳ではないですけど、これもいいような気がします。

というわけで、「耐える」としてしまう嫌なものを我慢する感じが強いのですが、
「ま、いいんじゃない」とか「慣れる」くらいの感じの方がいいのかなあと思ったのでした。

2022年2月、フェイスブックでもらった岩橋さんのコメント追記
~~
通知が鳴って、この記事&ブログを読んで改めて考えたのですが、
「不確実性」に「慣れる」とか「耐える」という話。
よくよく私自身を振り返ってみれば、
「確実性」を思考し、いろんなことを段取りしたり、様々な事柄への対応を準備している私がいます。
自立生活を始めた当事者の支援をめぐり、関わる人たちに対して「支援のマニュアルを作る」ということはしばしばやっています。
私自身もやっぱり「確実」な方を求めていると思っています。

ただ、
「確実と思っていたこと」が「間違っていた」「ズレていた」と、想像もしなかったことが、「確実」と思っていた自分との比較の中で日常的に現れる機会が多く、それはとっても大変で面倒だけど、その時点で自分をニュートラルにしたり、実際は判らないけど「相手の方が正しい」と立ててみると、これまで自分が「確実」と思っていたことや「確実性」を求めていた方向がおかしいということに気づかされる。
気づいてみれば、「それ以前に描いていたことが一体何だったのか?」と思うほどに、様々な出会いによって覆される。

居心地の悪い「不確実性」
というのは確かだと思います。
それに「耐える」「慣れる」というのもなかなか難しいです。

「定型的なすっきりした回答を求めたり、なにか決めつけたりしていいことはない」というよりも、
すっきりしたいからあれこれと関わる。「とりあえず決めてみて」「そう来てた自分も意識しつつ」
新たな発見を見出せたことを喜ぶ。

そのためには、自分の周囲に様々な人がいなければならないと描く。

だって、同じような人ばかりだと同じような価値観の中だけにいると「確実/不確実」というより「当然・常識・あたりまえ」という無自覚な感覚が私自身を支配し、そこから抜け出すことさえできなくなるように思います。

「自立生活を始めた当事者の支援をめぐり、関わる人たちに支援のマニュアルをつくる」と先に書きましたが、
このマニュアルのタイトルには「とりあえず」という冠をつけています。

すなわち、「何も決めない」だと生活は廻せない。
又、自分たちが担う支援が当事者から見てどういう位置にあるかもわからない。
「確実」と思えるほどのものを作ったうえで、実際との差異を楽しめるようになるといいなぁ~と思うのです。
ある人が「子育てとは、親の基準を子に伝えるもの」と言っていました。

あくまでも「親の基準」であって、「その基準から子どもは子ども自身の基準を築いていく」

なんてことを改めてつらつら考えました。
~~
岩橋さん、コメントありがとうございました。

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