流れる意思を点でなく線で(『殺す親 殺させられる親』から)(ほんの紹介37回目)2021年12月追記

たこの木通信、2021年3月号 http://takonoki.web9.jp/tsushin_401.php に掲載したもの。ちなみにこの本については、ここでの紹介が不本意だったので、2021年5月(403号)でも再び紹介している https://tu-ta.seesaa.net/article/202106article_7.html が、それでもやっぱり・・・。ま、能力の問題なのだと思う。
(たこの木通信、原稿料はないけど有償刊行物なので、しばらく時間が経ってからブログに転載してます。興味のある人は購読してください)
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流れる意思を点でなく線で(『殺す親 殺させられる親』から)

(ほんの紹介37回目) 今回、紹介するのは『殺す親 殺させられる親』(児玉真美著2019年生活書院)。

以前、児玉さんのブログのコメント欄で入所施設の問題についてやりとりをして、重症心身障害者への理解が足りないことを痛感させられたことは覚えているのですが、残念ながら児玉さんのブログの引っ越しでコメント欄がなくなって、記録は残っていません。追記の注:実は自分で残していたのです。https://tu-ta.seesaa.net/article/201906article_1.html ) この本でも さまざまな重症障害ケアの専門性の必要が説かれています。古いリハビリテーションは健常者に近づけることを目的としていたが、現在のリハビリテーションは日々の生活を楽にすることを目的としているという変化などについて、認識をしっかり更新する必要があるのだろうと思ったのでした。

また「施設から地域へ」というスローガンが、重症心身障害者に関して、地域での十分な受け入れ態勢もない中で実行され、親を追い込んでいる事例があるとされています。このあたりは詳しい事例も欲しいと思いました。

10万人以上もの人が入所施設に入れられていて、おそらく、その多くは地域に受け入れの体制があれば、施設で暮らす必要のない人だとぼくは思いますが、確かに、地域で受け入れる体制がないままに放り出され、家族に任されたりしたら、悲惨な状況が発生するというのは十分に考えられます。「施設から地域へ」というときに、そのあたりのことをていねいに話していく必要があると、この本を読んで、再度感じたのでした。

そして、ぼくがこの本で注目したのが「意思決定」に関する記述です。意思決定を点でとらえるのでなく、線でとらえる必要を児玉さんは書いています。そして、意思は単独で存在するのではなく、関係性の中で形成されるという話が平易な言葉で表現されていて、ほんとうにそうだと思ったのでした。こんな風に書かれています。

本当は、言葉では拾いきれない思いや合理で説明できない気持ちというものが私たちの中には沢山あって、「意思」として言葉にできるのは、常にその一部でしかないんじゃないだろうか。人の思いは「何色」と名付けられるような単色ではなく、様々な色が混じり合い、いくつもの色の「あわい」で常にグラデーションとなって揺れ動いているものだと思う。揺らがせるのは、その時々のちょっとした出来事だったり、人との関わりや、人のちょっとした言葉だったりする。大切なものやかけがえのない人のことであればあるだけ、私たちは互いに相矛盾する思いをたくさん抱え込んで、そこで引き裂かれてしまう。気持ちや思いがそれほどに不確かでつかみどころがないものなのだとしたら、それと完全に切り離すことなどできない「考え」や「意思」だって また、常に揺れ動く不確かなものだろう。

私たちの気持ちや思いや意思が生起したり形を変える場所は、きっと「自分」という閉じられた内部というよりも、たぶん「誰か」と「私」との間なんじゃないだろうか。人は常に自分自身と対話し続けているものだろうから、その「他者」の中には「自分自身」もまた含まれている。「私」が自分自身を含めた他者と出会い関係を切り結んでいるところ。自分を含めた他者とのやりとりを鏡にして「私」が「私」自身と新たに出会うところ。そこで、感情も思いも意思も形づくられては、常にまた形を変えていく。私たちがバラバラの個体でもなければ単なる「能力や機能の総和」でもなく、関係性とその相互性の中で生きる社会的関係的な存在だというのは、きっとそういうことなのだと思う。(154頁)

また、母親が抱えさせられる介護者としての重さに関して、ストレートに表現されていると感じました。彼女が「ケアラーへのケア」という手法でその重さを社会が分担していく仕組みを提案していることも大切な視点だと思います。

~~原稿はここまで~~



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