一人ひとりの「わたしの物語」は大切にされているか?(ほんの紹介38回目)(掲載後の追記も)

2021年4月のたこの木通信の原稿(ちょっとだけ手直し)+追記


一人ひとりの「わたしの物語」は大切にされているか?

(ほんの紹介38回目)

 今回、紹介しようと思ったのは学ぶ、向きあう、生きる~大学での「学びほぐし(アンラーン)」──精神の地動説のほうへ楠原彰 著太郎次郎社エディタス 2013年03月発行)

『被抑圧者の教育学』の最初の訳者である著者の「最終講義」。フレイレを紹介した人の教育実践の記録でもある。

一人ひとりが生きていくうえで必要な学び、そして学んだことを捨てること(アンラーン)について書かれている。「わたしの物語」について、こんな風に書かれている。

今日の僕たちの社会はこうした一人ひとりの「わたしの物語」が大切にされている社会だろうか。とりわけ屈折した「わたしの物語」をかかえざるをえなかった子どもや若者たちの物語に、真摯に耳を傾けようとする大人がどれほどいるだろうか。いま大人や社会システムが子どもや若者に吐きかかる言葉は、「自己責任」や「自助努力」である。

(中略)まず何よりも「わたしの物語」に耳を傾けてくれて、「わたしの物語」をそのまま受けとめてくれる他者と出会わないと、負の物語をポジティヴな物語に反転するきっかけをつかむことができないのだ。

そして、それはいじめる側にもこうした人がいるとした上で、以下のように続く。

"グローバルな時代の競争社会に生き抜くための学力を…"といった国家や巨大システムの教育の物語を、あたかも「みんなの教育の物語」であるかのように思い込ませながら、一人ひとりの子どもや若者の固有の「わたしの物語」を無化し押し潰し、彼ら/彼女らの生きることと学ぶエネルギーと希望を奪い取って久しいのが僕たちの社会ではないか。


ぼくは「私の物語」を聞くことができているだろうか。「支援」と呼ばれる営みの中でも当事者の「私の物語」にアクセスすることを試みる必要があるはず。

この本は「大学での学びほぐし(アンラーン)」とサブタイトルにあるが、unlearnを英辞郎で引くと

〔学んだことを意識的に〕忘れる

〔知識・先入観・習慣などを〕捨て去る

知識を捨て去る

 と出てくる。そう、学校や社会で押し付けられる国に忠誠を求める物語や勉強できる奴やお金を稼ぐ奴が偉いみたいな学びを捨てること。一人ひとりの物語に寄り添う、あるいは寄り添おうとすることが必要なのだ。「自分の物語なんてない」と思うかもしれない。でも、ここまで生きてきたことが自分の物語なのだと思う。それは否定したい物語かもしれないが。

 また、興味深かったのは赤坂憲雄さんの、1980年代以降のイジメの背景にクラスに障害者が少なくなったことがあるという話。

 おそらく現在の学校という空間は、この差異の喪失状況を典型的なまでにしめしている。そこにはもはや、絶対的な、誰の目にもあきらかといった差異は存在しない。可視的な差異を背負った子供たちは、特殊学級や養護学校(引用者注:現在の特別支援教室や特別支援校)にあらかじめ振り分けられ、排除されてゆく。養護学校義務化(1979年)が、かぎりなく学校という場の均質化を推しすすめたことは疑いない。

 微細な差異をおびて浮遊する、分身のようによく似た子供たちの群れ、小学校のクラス集団が、仲間というより極度に緊張した孤独な群衆にみえてくる、という現場を歩いた幾人かの取材記者の判で押したふうな感想も、同一の現象をさしている。差異の消滅とは秩序の危機である。(初出『朝日ジャーナル』1986年6月6日号、現在は大幅に加筆訂正され、ちくま学芸文庫版の『排除の現象学』1995年に収録)135-6p



 楠原さんのこの本の長い長い読書メモを残しています。
https://tu-ta.seesaa.net/article/201307article_1.html

~~転載ココまで~~

読み返すと、すごく尻切れトンボ。
赤坂さんの文章は確かに興味深かったのだけど、果たして、いまでも妥当だろうか?

クラスの中に「絶対的な、誰の目にもあきらかといった差異」があるのかないのか、
そして、そのことが何を意味するのか?

多くの同質な子どもたちが分断されて、それぞれ異質な他者になってしまっていないか?

否、赤坂さんはその分断された状況を予見して、これを書いたのかもしれない。

また、「クラス集団…仲間というより極度に緊張した孤独な群衆」になっているのか、いないのか?
大きく括ることの危険はあるだろう。クラスをちゃんと作れている教師もいるだろう。

こどもたちは、ちょっとした配慮さえあれば、こんな状況の中でも、なんとかする力を持っているだろう。
教員の多くは、そんな風にちゃんとクラスとその子どもたちを見ることができないほど疲弊しているかもしれない。

いずれにせよ、学校をもっと地域に開かれたものにしていく必要があるのではないか?

「先生集団」のなかだけで疲弊していないで、のびのびと地域の力に頼れるような環境が求まれらているように思う。


『排除の現象学』を読んで考えたいと思った。


追記

ちくま学芸文庫版の『排除の現象学』を購入して、読み始めたのに、なかなか前に進めない。


最近、毎月、『たこの木通信』に『ほんの紹介』を書いているんだけど、
締め切りを忘れて、ぎりぎりに、追い込まれて、前に書いたものをいいかげんにコピペしたものも多い。
書き終えて掲載された原稿をブログに掲載する段階で読み返して、ダメだなぁと思ったりする。そして、ブログに書き足す。
さらに何か月か後に、そのブログを読み返して、また書き足りてないと感じて、追記を書きたくなる。そして、書く。

でも、それでいいかなぁ、とも思っている。
ごめんなさい > たこの木通信を読んでるみなさん。



            

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