『分解者たち』メモ(4章まで+掲載された書評など)

この読書メモ、かなり前に書いたのに、ブログにあげていなかった。この数年は仕事でも世話になっている猪瀬さん。
その後、この農園にも一度だけ行かせてもらった。とても素敵な場所だった。もっと行きたいと思いつつ、行けていない。

以下、生活書院のホームページ

https://seikatsushoin.com/books/%E5%88%86%E8%A7%A3%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1/

からコピペしたものを一部加工

~~~
「とるに足らない」とされたものたちの思想に向けて

分解者たち

見沼田んぼのほとりを生きる

猪瀬浩平【著】 森田友希【写真】

[定価]   本体2,300円(税別) 
[ISBN]978-4-86500-094-8
[判型]46判並製
[頁数]416頁

障害、健常、在日、おとな、こども、老いた人、蠢く生き物たち……

首都圏の底〈見沼田んぼ〉の農的営みから、どこにもありそうな街を分解し、

見落とされたモノたちと出会い直す。

ここではないどこか、いまではないいつかとつながる世界観(イメージ)を紡ぐ。

【目次】

序章 東京の〈果て〉で

 「とるに足らない」とされたものたちの思想に向けて
 見沼田んぼという空間
 風景から人びとの歴史を読み取る
 排出されたものたちの蠢き──「分解」ということ
 恩間新田の内奥で
 「おらっちの生活は自立っつうのになってっかい」
 この本の構成


第一部 胃袋と肛門

 第一章 見沼田んぼ福祉農園のスケッチ

  福祉農園を構成する人びと
  食べること、育てること──休日の食卓
  老いること、経験の循環(リサイクル)──平日の食卓
  営農のスタイル
  農園の土作り──馬糞のこと
  廃棄されたものを分解する
  そこに本当にあること

第二章 首都圏の拡大と見沼田んぼ──福祉農園の開園まで

  首都圏という歪な身体
  人口急増期の埼玉県南部──大宮市長秦明友の時代
  ごみとし尿が流れ着く場所
  高度経済成長期の見沼田んぼ──狩野川台風から見沼三原則へ
  開発と保全をめぐるせめぎ合いから、保全・活用・創造の基本方針の策定へ
  見沼田んぼ福祉農園の開園──シュレッダーの手前、荒地からのはじまり

第三章 灰の記憶──越谷市の三・一一

  中心のなかの辺境という問題
  農村から郊外へ
  下妻街道の傍らで
  灰の記憶


第二部 地域と闘争(ふれあい)

第四章 〈郊外〉の分解者──わらじの会のこと

  平穏なベッドタウンで
  まちを耕す
  密室の団欒──開かれた場ということ
  「被災地」という言葉を分解する

 第五章 三色ご飯と情熱の薔薇

  三色ご飯
  兄の高校入試
  情熱の薔薇
  のろのろと歩き、颯爽と走る

第六章 まつりのようなたたかい──埼玉の権力の中枢で

  ある風景
  知事室占拠に至るまで
  占拠された知事室、占拠した身体の群れ
  「雲の上の人」との対話
  まつりの後に


第三部 どこか遠くへ、今ここで

第七章 土地の名前は残ったか?──津久井やまゆり園事件から/へ

  追悼会で叫ぶ
  万歳と吶喊──人の名前と土地の名前
  相模湖町一九六四
  相模ダム一九四一‐四七
  夏の祭礼の前に
  (追記)下流の青い芝──川崎の小山正義

第八章 水満ちる人造湖のほとりから──相模ダム開発の経験と戦後啓蒙

  飯塚浩二──ゲオポリティク論の間、娘との距離
  川島武宜・大塚久雄──濃密な与瀬経験
  総力戦体制下の与瀬
  「髭を生やした飯塚君」

 第九章 「乱開発ゾーン」の上流で──見沼田んぼの朝鮮学校

  朝鮮学校が見沼田んぼにあること
  埼玉朝鮮初中級学校の誕生
  サクラとアオダイショウ
  校庭のイムジン河

終章 拠り所を掘り崩し、純化に抗う


あとがき──〈私〉たちの経験を解(ほど)いて、一冊の本を編む

写真について メモ

参考文献

~~HPからの転載ここまで~~


読後、直後のメモに少し手を加えたもの

~~
6月9日の日曜日に、北村小夜さんが話すというのを楽しみにして読んでいたのだけど、時間を間違えて行けなくて残念だった。2日後の火曜日の朝、読了。見沼田んぼを軸に、見沼田んぼに終わらない猪瀬さんの関心に沿って、ノンフィクションの物語が展開される。「『とるに足らない』とされたものたちの思想に向けて」という吹き出しが生活書院のHPに掲載されている。「とるに足らない」人間なんていない。自分や他者を「とるに足らない」と感じるあなたがいるだけ。同時に、他者を「とるに足らない」と思う奴なんて「とるに足らない」奴だろ

~~~

書き出し、冒頭部分が興味深い

「とるに足らない」とされたものたちの思想に向けて

 この本は、 「とるに足らない」とされたものたちをめぐるものだ。どこにでもありそうな、とりたてて特徴的なものもないようにみえる地域が舞台だ。その地域で、そのものたちが生きてきた姿を、そのものたちが営んできたこと、残したものを描く。そのことによって、私たちが生きてきた時代がいかなるものだったのか、私たちが雑多な存在と共に生きていることがどういうことなのかを表す。

 それは、他者と分かり合う美しい共同体の姿にも、みなが同じ課題と向き合い解決するそんな成功物語にも、どちらにも当てはまらない。ただ、人や多様な存在が”共に”生きていることの凄みと、それぞれの存在が束の間に交わる時の熱を描く。

 多くの人にとっての基準から外れたものが憎悪の対象となり、一切の敬意を払われることもなく暴力の対象となる――さらにいえばそのような存在が「不幸しか作ることしかできない」と断じられて殺傷の対象とすらなる――今という時代に必要な思想を、私はこの作業が表すと信じる。14p

ちょっとかっこよすぎないか、って感じもあるのだが、確かに、猪瀬さんの仕事は、ここに書かれたような仕事になっているように感じた。

 開発を規制された見沼田んぼは首都圏開発の周縁であり 、そこには首都圏の中心部では居場所を失ったものたちが押し寄せた。それは例えば、下水処理場であり、ごみ焼却場だった。火葬場が計画されたこともある。なかには、時間が経過していくうちに次第に風景に溶け込んでいくものもあった。見沼田んぼ北西部にある市民の森・見沼グリーンセンターは、もともと大宮市のごみ収集場所だった。 大量に捨てられるごみは埋め立てられ、そこに木が植えられ、そして「市民の憩いの森」として整備された。

 私に見沼田んぼをただ美しい農村景観として描くのを躊躇わせるのは、首都圏/東京という歪に肥大化した身体の肛門から排出されたものたちである。

 そして、私が見沼田んぼに惹きつけられるのは、それらの存在があるからだ。排出されたものたちが、思わぬ形で出会い、ぶつかり、交わる、すれ違う。そこでものとものが交わり、熱が生まれる。28-29p 

 ここでは「とるに足らない」どころか、行く先々でじゃまにされ、行き場を失うような存在について書かれている。

 ただ、ちょっとひっかかるのは、それを書いているのがテニュアの大学教員で、それらを俯瞰することができる位置にいることができて、そんな人が書いているということ。猪瀬さんがそういう人でないことは直接にも知っていて、彼の抱えている熱量はこの本からも伝わってくるのだけれども、それでも、「とるに足らない」とされている場所にもう少し近いところにいると思われる自分にはそんな感じが残り、おそらく、ぼくよりもっと「とるに足らない」とされる場所に近い人からは、それは強く感じられたりするのかもしれないと勝手に思ったりした。

 いろんなしがらみの中で、そんな場所に立っているしかなく、また同時にその場所を使って若い人に対して、あるいは社会的な位置も使って発言したり行動したりすることの大切さというのもあると思う。 しかし、そんな場所に立てるということの痛みをちゃんと感じなければならないというのは自戒を込めて書いておこうと思ったのだった。

上記をフェイスブックにあげたら、知り合いから以下のレスポンスをもらった。

 猪瀬さんの日々を少しは知っている身としては、あまりにもあたらない評だと思います。

「そんな場所」に立っているなんて思えないから、ワタシも本を作ってきたつもりですし、高みにある「そんな場所」を否定したところからこの本は書かれているとワタシは思っています。立っている場所を妙に腑分けして不自由になっているのは、つるたさんなのではと思います。


それへのぼくからのレスポンス

僕も猪瀬さんが 普通の大学教員と違うということを知っていて、 そのことをリスペクトしています。
そこが伝わらなかったとすれば、 僕の表現力不足でしょうか。

確かに腑分けして、不自由になってるところはあります。

自分について、ぼくが立っている場所は、どうだろうという疑問を最初に書くべきだったのかもしれない。

大学教員ほどリスペクトされることはないが、「とるに足らない」とされることはあまりないようにも思う。行く先々でじゃまにされてはいるけど(笑)。

2019年10月11日のPARCのイベントで、自分にも答えのないこの疑問を猪瀬さん本人に聞いてみた。「とるにたらない」とされることについて。まじめに考えて答えてもらったことは覚えているのに、そのメモが残っていない(涙)。そのイベントの紹介文は最後のほうに貼った。ともあれ、自分がどこに立って「とるにたらない」とされることについて語るのか、というのは欠かせない視点じゃないかと思うのだった。


読書メモに戻る。

第4章は・・・越谷市と、春日部市で活動するわらじの会のことを描く。・・・20歳を過ぎる頃、あのわらじの会が一体何をしている団体なのかを調べ始めたのが、私がものを考えるようになったひとつのきっかけである。既存の障害学や障害者を運動をめぐる議論では収まりきれない、わらじの会の活動の意味を、その傍の地域で暮らしてきた私の視点で描く。43p

既存の障害学や障害者の運動の議論の枠組みとは何を指すのだろう。そんなものがあるとしたら、どんな形をしているのだろう。そこがとても気になった。 猪瀬さんを障害学のシーンで見たことがなかったのだけど・・・。

農園をめぐるすべてのことについて言えるが、その葛藤を回避してしまった とき、私たちは同質的な人々の集団になり、そしてその時に農園は農園でなくなると私は思っている。75p

「その葛藤」とは、虫刺されから、結婚したいのにできない身の上で子どもを見るときの葛藤まであらゆる葛藤。

そう、巷にある障害者就労支援事業所では、葛藤は避けられ、時に見えないようにさせられる。葛藤は解決はしないかもしれないが、そこに正面から向き合うことが必要なのだろう。


第四章〈郊外〉の分解者──わらじの会のこと
  2節 まちを耕す  から
ここでは、まず、わらじの会の初期メンバーの橋本克己さんや藤崎稔さんのことが紹介されている。橋本克己さんは車椅子で渋滞を引き起こし、ホーンを鳴らされても聞こえないので平然として脇に寄ろうとせず、藤崎さんはファストフードの店員さんに食事介助してもらう。そして、こんな風に書かれている。

 そうやってあちこちで人々を巻き込みながら、街を耕した。そこに権力や差別と対峙する自立した主体は存在しない。むしろ権力が用意した差別をそのまま生きてしまいながら、傍らの人びととも、制度ともせめぎ合いつつ、多様な存在が生きる場を作り出していく運動がある。固く踏み固められた地盤を、ワラジムシや、オカダンゴムシ、ミミズなどの分解者が豊かな土壌に変えていくように。・・・(203p) 

分解者の秘密がここで明らかになる。(この前にも書かれてるかもしれないけど)

3節 密室の団欒──開かれた場ということ から

205pでは支援費制度から自立支援法の流れが説明された後で、こんな風に書かれている

・・。障害当事者がそれぞれの地方自治体と交渉しながら勝ち取ってきた福祉制度は、国の制度に包摂されるとともに管理と応益負担の原則が力を増している。

 そんななかでもわらじの会は、時流の影響を受けながら、 取り込まれ尽くさずにいる。・・・

また、その少し先では、ある晩の藤崎さんの家での食卓の風景が描かれた後で、こんな風に書かれる

 重度の障害のある人、倦怠期にある介助者、近隣に孤独を感じながら暮らす女性、家出女性、そしてロボット。血のつながりのない者たちが、団地の一室で食卓の周りで蠢く。一見クリーンに整理された現代という時代の中で、藤崎さんの「自立生活」は、「自立生活」が多くの人にとってそれほど容易ではないことを露わにしながら、様々な悩みや欠損を抱えた人や、それを補おうとする――しかしそれは多くの場合不発に終わる――〈ひと〉と〈もの〉を引き寄せていく。そして消化されないまま古びた団地に満ち溢れ、混じり合い、怪しく醗酵していく。

 この老朽化した団地の一室、あるいは密室に、開かれた場(オープンスペース)ということを考える大切な手がかりがあるように、私には思えてならない。208p

 密室のオープンスペースか、猪瀬さん、うまいこというなぁと思う。雑多な人が集まり、残然とした中で、愚痴とかどうでもいいようなことを食べながら話し、そして帰って行ける場所。どう考えても、制度化されようもないそんな場所。そんな場所をたくさん作っていくことが人が生きていくための、不可欠とまでは言えないかもしれないが、とても大切なスペースになる。「生きていくための隙間」という風にも言えるかもしれない。不可欠ではないかもしれないが、そんな隙間がない世界はとても生きにくい。

4節 「被災地」という言葉を分解する  から

これが、この章の最後の節となり、そして、いちばん最後の段落ではこんな風に書かれている。

 東京の郊外としての埼玉に移住し「意識」ある市民によってはじまった「障害者運動」は、彼ら自身を埼玉に移住させた農業の近代化、農村の開発という波が、彼らの支援の対象である「障害者」を生み出していることに気づく。その気づきのなかで、彼らの運動は障害のある人の自己決定や自立生活を求める運動と一線を画していった。そして社会を劇的に変化させるのではなく、差別をも含みこんだ多層的な関係を日々の暮らしと交わりのなかで、 編みなおしていくという思想を手に入れていった。それはまた、今、暮らしと仕事、学びの現場において様々に分断されようとする私たちが、それでも様々な存在と手をつなぎ続けるための知恵を示している。212p

ココ、とても面白く大切な視点と思う。このことを否定できない。

でも、「しかし」と思う。いま、社会を劇的に変化させようなんていう障害者運動なんて少なくと見えるところには存在しないのではないか。
ただ、アドボカシーで社会や制度を改良しようという運動はたくさん存在している。ぼくが参加している運動もそんなひとつだ。わらじの会の人が一線を画そうとしたのは、劇的な変化を求める運動とではなく、法律や行政制度の仕組みを、ある一定の枠の中で変化させようとする運動に対してではないかと思うのだけれども、どうだろう?

254pでは、以前、丸木美術館の役員をやっていた北村文子さんが1988年のの泊まり込み終結のあっせんに入ったという話があってびっくり。

そして、この「被災地」という言葉を分解する】というフレーズがふたたびメモしてあった。それ以上、何も書いていない。


ここまで来て、この読書メモがアップされていない理由がやっとわかった。

ここまでしか、メモを書いていない。つまり、5章から先のメモを書いていないのだった。

もう書けそうにないので、ここでアップロード。

こういう埋もれた読書メモ、いくつかあるなあ、たぶん。


以下、障害学のMLなどでこのブログを紹介するにあたって、書き足した部分
~~~

ここでも既存の障害学がチャレンジを受けていると感じたのでした
こんな風に書かれています。

第4章は・・・越谷市と、春日部市で活動するわらじの会のことを描く。・・・20歳を過ぎる頃、あのわらじの会が一体何をしている団体なのかを調べ始めたのが、私がものを考えるようになったひとつのきっかけである。既存の障害学や障害者を運動をめぐる議論では収まりきれない、わらじの会の活動の意味を、その傍の地域で暮らしてきた私の視点で描く。43p

既存の障害学や障害者の運動の議論の枠組みとは何を指すのだろう。そんなものがあるとしたら、どんな形をしているのだろう。そこがとても気になった。
~~いまの段階でのメモ、ここまで~~

以下は、このMLにアップロードするにあたって、書き足している部分。
いずれ、ブログにも書き足します。
~~
わらじの会のような不定形な、しかし、地域に密着した団体こそ、障害学がテーマにあげるべき、しかし、なかなか記述しにくい話なのかもしれないと思うの でした。
わらじの会でとても興味深かったのが、他地域での取り組みと同様に、地域で生きていくことにこだわりながら、その母体に「総合養護学校をつくる会」が含まれていること。それについて、山下さんはフェイスブックで以下のように書いています。

~~~


4月7日(水)すいごごカフェは、春日部おもちゃの図書館前代表の白倉保子さんによる「総合養護つくる会から今まで」。白倉さんの語りの報告は、写真だけにとどめ、中身は後日改めて。
 わらじの会の三つの母体のうち、故八木下浩一さんらの川口とうなす会と越谷市職についてはさもありなんという人が多いが、総合養護学校をつくる会については「どうして?」といぶかる人が少なくない。
 今朝、あらためて谷中耳鼻科黄色い部屋の書棚を探っていたら、同会の会報と新聞記事が出てきたので、紹介しておく。
 会報は、1977年7月のものだから、わらじの会発足の9ケ月前だ。手書きで私の筆跡。以下はその一部。
 「・・・県立越谷養護学校の建設は、私たち会の運動と、それを支持してくれた多くの方たちの努力で実現したものです。しかし、それはまだ建物と人の一部ができただけです。私たちの希望は、会員で同校PTA会長でもある藤崎さんのいうように、ここが隔離・収容の場ではなく、地域と社会に向かってひらかれた、子どもと親の根じろになることであり、そのためには、私たちはまだ何もしていないに等しいのです。
 そのためには、また、学校の中でガンバルだけでなく、そこを否応なしに、隔離してしまおうとする、周りの地域、社会でガナバラねばなりませんが、会員のこどもたちがいる、施設、特殊学級、普通学級などで私たちはまだ会としての活動を行っていません。」
 「代課長補佐が『国の方針を受けて』を強調していたことにみられるように、54義務制実施は、福祉後進県の本県でも、教育・福祉体制全般にわたる大きな変動のはじまりになろうとしていること。子どものふりわけ、ふるいおとしがいっそう進められる危険性をじゅうぶんはらんでいること。いま私たちは、完全就学というあたりまえの要求は当然のこととして、その『完全就学』というコトバにかくれて、静かに各市町で進行している、ふりわけ、きりすて、かこいこみ教育の動きにも、ひとつひとつみんなでぶつかってゆかなくてはならない段階に来ていることが、はっきりしつつあるようです。」
 なお、朝日新聞の記事は、わらじの会発足から3ケ月目の1978年6月に同会(名称は変更)として県教委と交渉を行った時のもの。
 「来春から養護学校義務化がスタートするが、父母たちで結成する『埼玉県東部地区の福祉と教育を考える会』(白倉保子会長、会員165人)は24日、『養護学校に閉じこめるのでなく、地域の学校で普通児とともに学ぶことも保障してほしい』と県教委に11項目の質問状を提出するとともに、中村特殊教育課長らとこの問題について話し合った。」
 ちなみに、わらじの会現代表の藤崎稔さん(当時越谷養護PTA会長の息子、中3)が会に参加したのは、この少し後だった。
 こんな風にねじれあいながら、わらじが編まれていった。 https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/3767002580035021 から
~~~

いま、地域の学校がどんどん息苦しくなっていく中で、支援校が肥大化し、目に見えない形での排除が進行しているように感じています。
そんななかで、支援校も巻き込む形で、地域をインクルーシブな形にしていこうという、ある意味ねじれた、しかし、興味深い、そして、いまの時代に問われている取り組みではないかと感じています。

ぼくは研究者ではないので研究はできないのですが(あ、研究員かも)、猪瀬さんに「既存の障害学には収まらない」と言わせないような(現状では言われてもしょうがないかなぁと思いつつ)、障害学の広がりが問われているように思います。

また、メモの最後の方で触れた、障害者運動と社会変革という部分、障害者運動がいま、制度内での改良運動の枠から、なかなかはみだすことができていないという話も含めて、考えるべき課題ではないかと思っているのでした。
~~書き足した部分、ここまで~~



猪瀬さんの話(2019年10月11日)

【第18回PARCニューエコノミクス研究会】の案内文

分解と異化:『分解者たち:見沼田んぼのほとりを生きる』を書いて 

■猪瀬浩平(明治学院大学教養教育センター准教授)

■コメント:中野佳裕(早稲田大学地域・地域間研究機構次席研究員)

■司会:大江正章(コモンズ代表、PARC共同代表)

2019年3月に、私の地元見沼田んぼのことをめぐって一冊の本を出しました。この本は埼玉の高度経済成長期以降の地域史であるとともに、見沼田んぼ福祉農園が生む埼玉の障害者運動史であり、見沼田んぼ保全運動史であり、そして、私の家族史でもあります。写真家の森田友希さんと一緒に仕事をしたことを含めて、これまで私が考えていたことや、ひっかかっていたことへの応答でもあります。共生という言葉がよくつかわれるようになりましたが、その使用頻度に比例して意味が希薄化する中で、私は共生という言葉に、分解という言葉をつなげて、失われている何かを表してみたいと思いました。そのあたりのことを語りたいと思います。

以下はこのときのメモ、ほとんど内容はない。

狩野川台風(1958年9月)への恐怖感が見沼田んぼの保全を知事に決断(1965年)させたのではないか


のらんど

わらじの会

風の学校(猪瀬さんが学生の時作った)

シニア

ロータリークラブ

朝鮮学校




好井 裕明(日本大学文理学部社会学科教授)さんによる読書人の書評
https://dokushojin.com/article.html?i=5559

著書の身体や生きてきた歴史から生み出される言葉と理屈

分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる

著 者:猪瀬 浩平

出版社:生活書院

評者:好井 裕明(日本大学文理学部社会学科教授)


埼玉県南部に広がる見沼田んぼという農的緑地空間。福祉農園のある場所は、そこでも特に水はけが悪く、耕作放棄されていたという。一九九九年にそこは障害ある人たちが営農活動を行う場として作られた。著者は大学教員をしながら農園の事務局長をやり、日々そこでの暮らしを障害ある人たちとともにしてきている。四〇〇頁を超える分厚さ。心惹かれる写真がちりばめられ、頭だけの論理ではなく著者の身体や生きてきた歴史まるごとからうみだされる言葉や理屈が詰まっている。地域福祉の実践紹介や障害者の地域自立、住民との共生を美しく語りだす巷間によく見られる「福祉啓発書」ではない。「とるにたらない」とされた者たちが生きるためには、彼らと私たちが世の中で生きていくために、何をどのように考えたらいいのか。その基本的な方向やあり方を示す〝生きられた思想書〟だ。難解な言葉や概念などない。日常の言葉で〝思想〟が模索され、語りだされていく。だからこそ、いったい著者はこの語りで何が言いたいのだろうかと、著者の〝思想〟を私自身の〝腑に落とさん〟として懸命に読む。結果として、読後、しっかりと私はくたびれていることに気がつくのだ。でも、こうした〝くたびれ〟感は、とても心地よいものだ。

第一部では、見沼田んぼと周辺地域をめぐる構成の歴史が語られる。著者が活動する福祉農園とそこに集まる人びとの姿が描かれる。当事者や福祉関連者だけでなく多様な来歴をもつ人びとが活動に参加してきた。高度経済成長期以降の見沼田んぼと周辺地域である大宮・浦和の歴史が取り上げられ、東日本大震災と原発事故で見えてきた埼玉県のごみ処理の問題性が語られる。第二部では、埼玉県における障害者解放運動とそれに関わる人びとが描かれる。越谷市と春日部市で活動する「わらじの会」。自閉症である著者の兄の高校就学運動で著者は彼らと合流し「闘争(ふれあい)」の現場をともにする。特に障害ある生徒の高校入学をめざす運動を進める中で起きた一九八八年の埼玉県庁知事室占拠事件の顚末の語りは興味深い。この事件は著者にとっての「原点」なのだが、強制的に「ふれあう」ことになった県庁の各部署のリアリティが確実に揺らぎ細かい亀裂が入っていくさまは、当時の強烈な排除と闘争(ふれあい)とのせめぎあいから生じる響きであり、私も若い頃いた広島でも実践されていた「零点でも高校合格を」運動の〝熱気〟を思い出した。

本書は見沼田んぼをめぐるものだが、もう一つ二〇一六年七月二六日に起きた津久井やまゆり園での障害者殺傷事件への明快な主張が語られている。施設がある地域。そこは見沼田んぼ周辺地域と同様、首都圏の周縁としてダム開発された空間だ。ダム建設が始まった頃、建設労働力として強制連行された朝鮮人や中国人が多数動員されたという事実が語られる。そこでは彼らと地元の人々との交流があったであろうし、そこでは人びとのなかの「本源的多様性」が生きられていたはずだ。しかし戦後啓蒙知識人はその事実から何も学んでいないという著者の語りを読み、重度の知的障害者や重複障害者だけを周縁にまとめて収容する〝暴力〟が、事件の背景に息づいていることが改めて〝腑に落ちる〟。

それにしても「分解者」とはいったい何をどのように「分解」していくのだろうか。人間が本来「生産」「消費」「分解」という多面的で重層的な役割をもつ存在だという主張は了解できる。そしていま忘れられている「分解」の側面から人間の尊厳や社会のありようを考え直す〝思想〟そして〝社会学〟は必須だろう。障害ある人びとを「分解者」と考え、彼らとともに生きることから何かを学ぶだけでなく、私も「分解者」としての側面を持つ人間としてどう変わりどう生きていけるのだろうか。本書の次にある著者の〝生きられた思想〟〝生きられた社会学〟を読みたい。



神奈川新聞の成田さんの書評

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=2401316926610543&set=a.290993960976194


『分解者たち』書評神奈川新聞成田さん.jpg


寺尾紗穂さんによる朝日新聞の書評

https://book.asahi.com/article/12437396

「分解者たち」 多様な人々の共生に地域耕す力

評者: 寺尾紗穂 / 朝⽇新聞掲載:2019年06月08日

分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる

著者:猪瀬 浩平

出版社:生活書院

ジャンル:歴史・地理・民俗

価格:2484円 

ISBN: 9784865000948 

発売⽇: 2019/03/29 

サイズ: 19cm/412p

「とるに足らない」とされたものたちの思想に向けて−。障害、健常、おとな、こども、蠢く生き物たち…。首都圏の底〈見沼田んぼ〉の農的営みから、どこにでもありそうな街を分解し、…

『分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる』 [著]猪瀬浩平、[写真]森田友希

 障がいのある兄を持つ1978年生まれの著者は、埼玉の見沼田んぼの福祉農園に一家で関わる中で育った。彼は自らの土地感覚を踏まえつつ、首都圏開発の周縁に位置し、下水処理施設やごみ焼却場、朝鮮学校といったものが集められてきた見沼田んぼと周辺地域の歴史を掘り起こし、その意味を咀嚼していく。タイトルにもある「分解者たち」というキーワードが表すように、居場所のない、見向きもされないものたちが、ダンゴムシやミミズが土を豊かにするように、少しずつ地域を生きやすい場所に変えてきたその軌跡は、静かに力強い。

 76年越谷市役所の職員から起こった、障がい者との共生を目指す運動は、「わらじの会」となり現在まで継続しているが、その初期の過程ではそれまで家の一室に閉じ込められてきた障がい者たちの「過去」が見いだされた。「寒いとき綿くりやってたんだ」という当事者の語りは、農業が機械化していく70年代までは、障がい者が農閑期の手間仕事の重要な労働力であったことを明らかにする。

 相模ダムと津久井やまゆり園の歴史に触れる章もある。ダム建設の日本人・朝鮮人・中国人犠牲者の追悼会では2017年、津久井やまゆり園事件の犠牲者も同時に追悼された。共にその場に参加した際、障がいのある兄が叫んだことについて著者は不安と不満を読み取り、思い巡らす。私達は自ら叫ぶことを忘れて言葉のみを空しく並べ、それ以外の表現を排除してはいないか。かつてその土地に響いた叫び、本当は今も人知れず響いている叫びに耳を澄ますことを忘れてはいないか。健常者と障がい者、日本人と朝鮮人、定住者と野宿者。いくつもの差異を無化していく営みの可能性を、著者は多様な者がうごめく見沼田んぼに見いだす。論文の硬さとエッセイの軟らかさをあわせ持つ本書は、読み終えた本の重さがそのまま筆者の未来への祈りのように感じられた。

 いのせ・こうへい 1978年生まれ。見沼田んぼ福祉農園事務局長
 もりた・ゆうき 1989年生まれ。写真家。

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読売新聞での書評は
https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20190601-OYT8T50116/


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