欲望形成支援についての疑問、必要なのは「欲望気付き支援」だと思う

いま、思い出せないのだけれど、どこかで誰かから、「大切なのは、意思決定支援ではなく、欲望形成支援ではないか」という話を聞いた。
けっこう長い間、気になっていた話だったのだけど、しばらく放置していた。
以下に書いたように、何かのきっかけ(これも忘れてる)で、この中身を知らないまま、連れにこの題目について話して、何もわかってなかったことに気づいて検索したら、以下のブログが出てきた。
「意思決定支援」じゃなくて「欲望形成支援」じゃないか?っていう話ーー「精神看護」2019年1月号がすごい!  https://yoshimi-deluxe.hatenablog.com/entry/yokuboukeisei

で、ますます気になって、雑誌を購入して、國分さんの講演録を読んで、気になった疑問を医学書院あてに書いたのが以下。
精神看護 Vol.22 No.1、購入して読ませていただきました。
「大切なのは、意思決定支援ではなく、欲望形成支援ではないか」という話にそそられたからです。

これが、重いと言われる知的障害者の自立生活(支援付き一人暮らし)をすすめるときに、とても大切な話であるような気がしています。

しかし、ぼくはこの中身を知らないまま、連れにこの題目について話したら、レイプの欲望形成も支援するのかと返されました。 形成すべき欲望とそうでない欲望、誰が決めるのか、というような話も含めて、この話が本になったら、読んでみたいと思っていました。

國分さんは以下のように話しています。
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 僕はむしろ「欲望形成の支援」という言い方をしたらどうだろうか、欲望形成を支援するような実践を考えたらどうだろうか、と思っています。「意思」というこのとても冷たく響く言葉は切断を名指ししていますから時間的です。それに対して「欲望」は過程であり、また、人の心の中で働いている力であるという意味で、どこか ”熱い”過程です。
  欲望を意識するのはとても難しいことです。自分のことだからこそわからない。だから周囲に手助けしてもらったり、一緒に考えたり、話し合ったりしながら、自分の欲望に気付いていく必要がある。それを支援するというのならとてもいいと思うんです。
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そうであるなら、「欲望形成支援」ではなく、「欲望認識支援」とか「欲望気付き支援」といったほうが正確なのではないかと思うのです。自分のなかにある欲望に気づく、正しいとか悪いとかではなく、自分の中にそれがあることに気づくこと、まず、そのことが大切だという話で、それを行うかどうか、そこに國分さんが嫌いな「意思」というのが入り込む余地があると言えるのかもしれません。

そこで質問なのですが、なぜ、國分さんは「形成支援」という言葉を使われたのでしょう? その背景には中動態的に関係性の中で欲望も形成されていくというような含みもあるのかもしれませんが、そうであれば余計に、必要なのは中動態的に形成されていく欲望の「形成の支援」ではなく、そのプロセスに「気づくことへの支援」なのではないかと思うのです。

(自分の(汗))心のなかには実現させないほうがいい欲望も渦巻いているわけです。だから、欲望を形成する支援ではなく、発生してしまった欲望と向き合うこと、あるいは欲望が発生しないことへの気づき、などを支援することが大切なのかもしれない、と思うのでした。

自閉傾向のある人とつきあって感じるのは、欲望を否定されることに対する憤りや怒りです。まず、欲望があることに当事者が気づくこと、支援者もその欲望を頭から否定するのではなく、その形成過程も含めて想像し気づくこと、重要なのはそちらではないかと感じるのです。

そのうえで、***したいという気持ちはわかるんだけど、それをしちゃうと結果として、こんなにまずいことが起きてしまう、他の誰かを傷つけてしまうということを理解してもらうというか、本人自身に気づいてもらうことが大切なのではないでしょうか。

と考えたのですが、ぼくの理解が間違っているかもしれないと思います。なぜ「形成支援」なのか、教えていただければ幸いです。
欲望こそ、中動態的に、形成するとか、されるとかではなく、関係性の中で出来てしまっているものではないか? そして、ここを読み返して思うのは、國分さんが主張しているのも形成の支援ではなく、気づきの支援ではないかと思えてならない。

確かに、「自分にはしたいことなんてない」という人たちはいるだろう。そこで自覚的な欲望はない。しかし、本当に欲望がないのか、そこは掘り下げると、違うものが見えてくる可能性は高いかもしれない。そこでも問われているのは、形成の支援ではなく、気づきの支援であるはず。形成の支援というと、どうしても、ないものを構築していく作業のように聞こえてしまう。しかし、問われているのは、そういうことではないのではないか。

同時に、意思決定支援も、欲望形成支援も、欲望気付き支援も、支援者から当事者へのコントロールになりやすいという明確な自覚が支援者には必要なのだろう。
先日行った「障害のある人の自立生活について考える」シンポジウム https://everevo.com/event/59760 で講師の又村さんは支援者のしたいことと当事者のしたいことを混ぜないこと、「混ぜると危険」なことを強調していたが、そこは十分に自覚的であるべきで、いくら自覚的でも間違ってしまう危険があることに留意すべきだと思う。まず、支援者の側が、自分が当事者に何を期待しているか、どうして欲しいと思っているかに自覚的になり、それを自分で言葉にしてみて、当事者がその思いに引っ張られずに、本当にしたいと思っていることは何かということをいっしょに探すことが必要なのだと思う。 そういう意味からも、形成支援と言わずに、気づき支援と呼ぶ方がいいように感じる。

そして、この支援は行為後でも有効なのではないか? あそこで当事者はなぜそうしたのか、責めるのではなく、その時の気持ちをたどって、そうしてしまった自分の欲望を思い出すこと、そのための気づきの支援でもある。これは、「反省させると犯罪者になります」https://tu-ta.seesaa.net/article/201712article_2.html という本から学んだ話でもある。

國分さんが中動態の本で指摘したように、ほとんどの事柄については、欲望とか意識しないで、まさに中動態的に動いて実行してる面もある。そのすべてに形成支援や気づき支援をかぶせることはできない。必要に応じて、支援に入ることになるが、その取捨選択にも恣意は入る。それを選ぶことにも慎重になるべきだし、問題行動だけにフォーカスされたりしたら、そんなのはやりたくなくなるだろう。意識的に肯定的な行為に関して、振り返ることが必要な場面もあるかもしれない。

そんなことを考えた。


國分さんの講演のタイトルは 中動態/意志/責任をめぐって』

國分さんの文章を少し長めに引用。

責任の再肯定へ

「意思決定支援」から「欲望形成支援」に

 最後の話題です。熊谷晉一郎さんに聞いたのですが、最近、医療の現場では「意思決定支援」とよく言われるそうですね。これはよかれと思って行われていることなのでしょうが、意志(意思)という言葉をこういう形で使うことに僕は違和感があります。非常に冷たい感じがします。

 「オレンジジュースがいいですか?リンゴジュースがいいですか?はい、わかりました、リンゴジュースですね」

 これが「意思決定支援」であるのならば、「意思決定支援」は責任の押しつけと言わざるを得ません。「あなたがリンゴジュースって言ったんでしょ。リンゴジュースの選択はあなたの責任ですよ」というわけです。新自由主義体制において、自由が選択の自由と混同されてしまったことも、こういう考え方が当然視されてしまったことの理由の1つでしょう。

 「意思決定支援」の考え方が出てきた背景は容易に想像できます。患者のことを患者以外の別の誰かが決定して、それをパターナリスティックに押しつけるのはおかしい。他者による決定の押しつけを疑うことは正当です。

 だから患者自身に患者のことを決めさせようというわけでしょうが、これでは単に責任を押しつけることにしかならない。今までの関係が単に反転しただけです。

 僕はむしろ「欲望形成の支援」という言い方をしたらどうだろうか、欲望形成を支援するような実践を考えたらどうだろうか、と思っています。「意思」というこのとても冷たく響く言葉は切断を名指ししていますから時間的です。それに対して「欲望」は過程であり、また、人の心の中で働いている力であるという意味で、どこか”熱い”過程です。

 欲望を意識するのはとても難しいことです。自分のことだからこそわからない。だから周囲に手助けしてもらったり、一緒に考えたり、話し合ったりしながら、自分の欲望に気付いていく必要がある。それを支援するというのならとてもいいと思うんです。


責任とは応答すること。
中動態こそ責任を考え直すために必要なもの

 今は医療の現場を想定しながらお話ししましたけれども、そこに限定されず、広い意味で自らの欲望の形成について考えることは、最終的に責任感につながっていくと思います。自分が抱いている欲望を十分に理解するからこそ、自分がやっていることに責任感を持てるのではないでしょうか。

『中動態の世界」はサブタイトルに「意志と責任の考古学」とあるんですが、「意志」と「責任」という2つの言葉の価値は全く違っています。僕は「意志」に対しては強く否定的なんだけれども、「責任」についてはもっと考え直さないといけないと思ってるんです。

 今使われている「責任」は、意志という概念を使って人に押し付ける責任ですよね。でも、もともと責任ってそうじゃなかったはずです。責任というのはresponsibilityであり、応答すること(response)と切り離せません。自分の直面した事態に応答しなければならないと感じること、それが責任ではないでしょうか。

 そう考えると、意志の概念を使って押し付ける責任というのは堕落した責任なのです。つまり、応答するべき人が応答しないものだから、仕方なく、意志の概念を使って、「応答すべきは君なんだから応答しなさい」と押しつけているのです。そして僕らはそういったものだけが責任だと勘違いしている。

 だからこそ、意志という概念から離れて、「人はどうやったら応答すべきものに応答できるだろうか」という論点から、responsibility/responseというものを考えていかないといけないと思います。

 こう考えていくと、じつは中動態の概念こそが責任を考えるために決定的に重要であることがわかると思います。ごくたまに「中動態って無責任になることですか」と言われるんですね。中動態の概念は意志の概念を疑問に付すからです。

 しかし全く逆なのです。「私がこれに応答しなければならない」と感じることはまさに中動態的なプロセスです。責任感は中動態によってこそ記述できる。意志からしか責任を考えられなくなっている私たちが間違っているのです。「中動態の世界」における意志の否定は、責任の否定ではなくて、責任の再肯定であり、責任を再検することを求めているのです。どうもありがとうございました。

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