障害の社会モデルと障害の人権モデルに関するメモ(8/29追記)2023年12月追記
アンナ・ローソン/アンガラッド・ベケット
障害の社会モデルと人権モデル:相補論に向けて (JD仮訳)
~~以下の感想は、2021年当時のまま~~
先日、日本弁護士連合会主催の「2019年>障害者権利条約の締約国法制に与える影響に関する院内集会」でテレジア・デグナーが提唱している「障害の人権モデル」というのを聞いてから、それがとても気になっています。
そのタイトルの日本語に翻訳された文章は以下
テレジア・デグナー
障害の人権モデル
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/rights/rightafter/a_human_rights_model_of_disability_article_December_2014.pdf
原文は以下
https://www.researchgate.net/publication/283713863
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A human rights model of disability
Article · December 2014
author: Theresia Degener
Evangelische Fachhochschule Rheinland-Westfalen-Lippe
この文章、それなりに長くて、ぼくは読むのに苦労したので、以下に抜き書き。
まず結論から書いてしまうと
「私の命題は、⼈権モデルは障害の社会モデルが進歩したものであり、CRPD (障害者権利条約)を実⾏するツールだということ」というもの。
ここでテレジアさんが以下のように書いている説明は背景を理解しやすくしてくれる
(権利条約制定の過程で)障害の医学的モデルは間違いなく正しい道筋ではないという全体的合意があった。 むしろ、障害の社会モデルは条約の哲学的基礎として想定されていた。医学モデルから社会 モデルへのパラダイムシフトはしばしば CRPD の主な成果として述べられてきた。しかし、 障害の社会モデルが交渉の過程での⼀般的な参照パラダイムであったことは事実だが、 CRPD は障害の社会モデルを超えて、障害の⼈権モデルを法典化したと私は理解する。
以下は最初に書いた結論的な部分、ちょっと長めに引用。
私のCRPD理解は、この条約がその代替案、つまり障害の人権モデルを与えているというものである。それは決して障害の社会モデルに対する唯一の代替物ではない。多くの障害モデルが、障害学の内外で開発され、最近ではケイパビリティアプローチモデルや文化モデルがある。私の命題は、人権モデルは障害の社会モデルが進歩したものであり、CRPDを実行するツールだということである。
気になっているのは社会モデルと人権モデルの関係で、これをどう整理したらいいのか、考えていて思いついたのが以下。
従来、障害学では個人・医療モデルから社会モデルと言われてきた。
この流れに人権モデルを位置づけると、以下のように言えるのではないかと思った。
個人・医療モデルから社会・人権モデルへ、と。
つまり、個人モデルに対応するのが社会モデルであり、医療モデルに対応するのが人権モデルではないかと。
個人モデル ⇆ 社会モデル
医療モデル ⇆ 人権モデル
これはテレジアさんが言っている、
人権モデルは障害の社会モデルが進歩したものという位置づけとは違うのだが、こんな風に整理したら、ぼくにはわかりやすかった。
障害学のMLで上記を書いたうえで、
「上記のテレジアさんのもの以外で、人権モデルについて、日本語で書かれた論文があれば教えていただきたいです。また、誰かに書いて欲しいと思ってます。」と書いたら
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障害の人権モデルについては池原さんが書いてますね
前DPIの院内集会で配布されたものあります
(1) 社会モデルから人権モデルへ
社会モデルを理念的に純化すると、心身機能に障害のある人の日常生活および社会生活に制限や困難を生じさせている原因は障害のない人たちにとってのみ適合するように作られた既存社会の構造にあるとされる。したがって、その構造を障害のある人にとっても適合する形に変えれば、すべての制限や困難は解消するという帰結が導かれる。しかし、そうした社会構造の是正がなされても、障害のある人には機能障害に基づく心身の苦痛や衰弱、余命の相対的な短さや健康への不安などの個体としての苦悩がありうる。それらは既存の社会構造と機能障害の不適合性とは関係なしに生じうる。また、例えば、重症筋無力症の人が必要とする人工呼吸器について考えると、呼吸筋やそれを支配する神経系に損傷のない多くの人にとって呼吸は特別な社会的装置を要せずに生理的に自律的に支援なしに行われており、既存の社会の構造が呼吸筋やそれを支配する神経系に損傷のある人に適合していないために呼吸の困難性や人工呼吸器の必要性が生じているとは考えにくい。
社会モデルは、機能障害を持つ人の日常生活および社会生活を制限し困難化させる主要な原因を作っているのは既存社会であることを白日の下にさらす役割を果たしている。そして、障害のある人個人に原因を見出し、個人を変えていくことに腐心してきた伝統的な制度・政策を社会に原因を見出し、社会を変えていく制度・政策に転換をするためのパラダイム転換の役割を果たしている。しかも、社会モデルはその制度・政策転換の梃として障害のある人の権利を基礎づける役割も果たすことができる。しかし、すべてを社会的原因に帰する単純な還元主義は障害という複合的な現象を単純化することによって取り上げるべき要素を考慮の対象から取りこぼす弊害に陥る。心身の苦痛や衰弱その他の個人の心身に生じる苦悩や生理的なレベルでの制約など社会構造との関係が希薄な個人的ニーズに対して医療的、福祉的対応を要する領域は社会構造が改革されても残る。これらをすべて既存社会の偏頗な構造から説明しつくすことには無理があり、平等権だけがすべての問題解決の鍵になるわけではない。
こうしたことから、社会モデルを超えた人権モデルを基本とすることが考えられる。人権モデルとは、社会モデルが明らかにした既存社会の構造により生み出される不平等と排除という構造の根源にあるものを人権規範の視点から捉えなおし、障害のある人を包括的で総合的な人権の享有主体として再構成するモデルということができる。
国際人権規範の歴史を振り返ると、世界人権宣言(1948年)から自由権規約(1966年)および社会権規約(同年)に至るまでは、普遍化された人(「すべての人間」、「何人」など)あるいは「すべての人民」を対象とした国際人権規範になっている。これに対して人種差別撤廃条約(1965年)および移民労働者と家族の権利条約(1990年)は植民地化(colonization)や人種差別(racism)に焦点を当てた個別テーマに関する人権条約である。女子差別撤廃条約(1979年)は性差別(sexism)に対応し、権利条約は障害者差別(ableism)に対応する個別テーマに関する人権条約である。テーマ別の人権条約は、人種や移民、女性や障害のある人の各々の歴史的社会的経験を踏まえた人権規範の必要性が認識されたことによって形成されてきた。これらのテーマ別人権条約に共通する特徴は社会的に従属的な地位(subordination)に置かれた人々を対象にしているという点にある。社会的従属性とは支配(dominance)と服従(submission)という社会構造に基づく関係である。社会的に従属的な地位に置かれた者は、事実上、権利の享有主体としての地位を認められず、社会的排除と差別的で抑圧的な処遇の対象とされてしまう。彼らに対する差別はそれ以外の同胞集団内での差別とは比肩できない深刻さが伴う。人権の享有主体性さえもおびやかす集団的排除と抑圧、差別的取り扱いは、人間の尊厳を損ない、あらゆる人権の保障を実効性のないものにしてしまう。それに対抗するためにそれぞれの社会的従属集団に応じたテーマ別の人権条約が形成されてきた。権利条約も障害のある人が「社会の平等な構成員としての参加を妨げる障壁及び人権侵害に依然として直面していること」(前文k)から策定された人権条約である。テーマ別人権条約が規定する差別禁止は社会的従属化を打破するために中心的な役割を果たしている。
しかし、障害のある人の場合は他の社会的従属集団とは異なり、従属的な社会構造そのものからもたらされる制限や困難だけではなく、個人の心身機能に伴う制約もあるという特殊性がある。個人の心身機能に伴う制約に対する従来の解決方法は社会権に基づいて医療・福祉サービスを提供することであった。しかし、それらのサービスは一般の人の生活とは分離された特殊なものとして提供されるもので、社会からの分離と社会的排除を補強し、社会的従属化を強める結果を招いていた。また、それらのサービスは障害のある人を処遇の客体にし、各個人の自律性を否定してしまう問題もはらんでいた。
こうしたことから人権モデルは障害のある人の人間の尊厳を最高規範として一方では社会的従属化による排除と抑圧、差別を禁止し、他方では障害のある人に対する医療、福祉的な給付が人間の尊厳を守るための規範に従って提供されることを求める。排除と抑圧、差別の禁止は伝統的には自由権に基づくものであるが、地域社会からの排除をなくすためには国家の積極的な対応と社会資源の開発などの社会権的なアプローチも求められる。また、医療・福祉的給付は主として社会権の役割とされるが、それらは分離や社会的排除を伴わない方法によって提供されなければならず、また、本人の意思に基づくことや身近な地域で提供されることなど自由権的な枠付けに基づいて提供されなければならない。自由権と社会権は人間の尊厳の確保のために不可分的、相互依存的、相互関連的に役割を果たさなければならない。
2 権利条約と人権モデル
権利条約は、1条において「全ての障害者によるあらゆる人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し、及び確保すること並びに障害者の固有の尊厳の尊重を促進することを目的とする」と定め、人間の尊厳を最上位規範(3条a)として規定している。このことはもともと、同条約が「障害のある人の権利及び尊厳の保護と促進に関する包括的かつ総合的国際条約」(Comprehensive and Integral International Convention on the Protection and Promotion of the Rights and Dignity of Persons with Disabilities)として議論されていた経緯からも窺える。最終的には条約名を簡明にするために現在の名称にし、そのかわりに本来の条約のタイトルの趣旨は目的規定(前文および1条)に落とし込むことにしたものである。同条約は、平等権の保障(5条、障害のある女子:6条、障害のある児童:7条)にとどまらず、自立した生活と地域社会への包容(19条)、教育(24条)、就労(27条)、健康(25条)、ハビリテーション・リハビリテーション(26条)、文化的で相当な社会的生活の権利(28条、30条)等々の自由権的権利から社会権的権利に至るまで包括的で総合的な権利保障を定めている。しかも、同条約が保障する人権について同条約前文cは、「普遍的(universality)であり、不可分(indivisibility)のものであり、相互に依存(interdependence)し、かつ、相互に関連(interrelatedness)を有する」ものであるとしている。
社会モデルから導かれる権利は自由権的あるいは市民権(civil rights)的色彩が濃いが、障害のある人の尊厳を守るためには自由権と社会権を不可分に保障し、それぞれの権利の不可分性、相互依存性と相互関連性を重視したハイブリッドな権利保障が必要である。例を挙げれば、権利条約は、自由権的な側面から特定の生活様式での生活を強いられない権利を保障するするとともに社会権的な側面から地域社会における生活と地域社会への包容を支援し、地域社会からの孤立等を防止するために必要な在宅サービス、居住サービスその他の地域社会支援サービスを利用する機会を保障しなければならないと定めている(19条)。また、社会権的側面から障害のために必要とする保健サービスの提供を求めるが、そのサービスは自由権的側面から障害のある人の人権、尊厳、自律を守って提供されるようにすることを同時に求めている(25条b、d)。人権モデルは、障害のある人を排除する偏頗な社会構造を差別禁止規定によって是正するとともに、障害のある人の個人的なニーズに対する社会権的な対応が再び障害のある人の尊厳、自律を損ない、他の者とは別路線の排除的な構造に陥らないための自由権的なセーフガードを設定する。したがって、権利条約の各規定は人権モデルに基づいて理解することができる。
池原さんは2017年に行われた「なくそう! 差別と拘禁の医療観察法! 11・26全国集会」でもその点を強調していたとのことで、集会での講演は以下のサイトから見ることが出来る。
https://acppd.org/a/932
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とのこと。
2021年8月29日追記
上記の池原さんの文章も相当にデゲナーさんの人権モデル論に引っ張られている感じがある。
そう強く感じたのは長瀬さんに生存学研究所のMLで以下を教えてもらったからでもある。
障害の社会モデルと人権モデル:相補論に向けて(2020年・Anna Lawson and Angharad E. Beckett)
JDの資料なのでワードファイル
この文章では デゲナーさんの主張の「人権モデルは社会モデルを発展させたものだ」という議論を否定し、その二つのモデルが相補関係にあるのだと主張している。これを読んで気づいたのだが、ぼくが感じていたのは、デグナーさんの「社会モデルという言葉を消してしまうかのような記述」だった。そうではなく、相補関係を持つものだという、こちらの議論がすっきりしていていいと感じた。
誰かがデグナーさんと、ローソンさんらの違いについて、もとの学問が違うから、みたいなことを、書いていた(あるいは言っていた)と思うが覚えていない。
~~追記 ここまで~~
この議論に立岩さんが『不如意の身体』(53頁)(最後に引用)で書いている「社会モデルの本義」の議論を重ねるのも興味深いと思うが、さらに長くなりそうなので、とりあえず、ここまで。
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以下、コピペ
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アンナ・ローソン/アンガラッド・ベケット
障害の社会モデルと人権モデル:相補論に向けて (JD仮訳)
The International Journal of Human Rights 2021, 25:2, 348-379
The social and human rights models of disability: towards a complementarity thesis
Anna Lawson and Angharad E. Beckett
Centre for Disability Studies, University of Leeds, Leeds, UK
2020年1月30日提出、2020年6月12日採用決定
キーワード:障害、国連障害者権利条約、障害の社会モデル、障害の人権モデル、対立装置
概要
この論文は、長年続いてきた障害の社会モデルと、急速に台頭してきた人権モデルとの関係についての考え方を改めることを目的としている。特に、後者が前者を発展・改善させるという有力な見解(改善論、the improvement thesis)に異議を唱え、代わりに2つのモデルが補完関係にあること(相補論、the complementarity thesis)を論じる。本稿ではまず、国連障害者権利条約の作成と監視において、2つのモデルがそれぞれどのように用いられてきたかを調べるため、関連文書の言説分析(談話分析、discourse analysis)を行った。これにより、この政策的文脈において人権モデルの重要性が増していることが明らかになった。また、この2つのモデルの運用例を示し、続く議論に役立てた。次に、改善論の基盤となっている2つのモデルの比較を批判し、フーコーの「権力のテクノロジー」やベケットとキャンベルの「対立装置」の方法論を用いて、この比較分析を深め、発展させた。その結果、我々は2つのモデルは異なる主題と異なる機能を持つと主張する。人権の文脈においては、これらのモデルの役割は補完的かつ支持的なものである。
- はじめに
過去40年間、障害の「モデル」は、障害の政治、障害学、障害者の人権を形成する上で重要な役割を果たしてきた。障害を社会的に作り出された抑圧の一形態として提示する「障害の社会モデル」[1]が基礎となった。この社会モデルは、障害者運動に根ざした考え方であり、「障害」という概念を政治的に再利用し、「機能障害」のある(あるいはあるとみなされた)人々が経験する、社会的に作り出された不利益や疎外を表す言葉として使っている。この言葉の核心は、社会的に生み出された排除や不利益と、個人の特定の心や体の特徴とを区別することにある。1981年、障害者インタナショナル (DPI)は、「身体的、精神的、または感覚的な機能障害による個人の機能的制限」と「物理的および社会的な障壁により地域社会の通常の生活に参加する機会が失われること、または制限されること」を区別した[2]。 一方、その数年前、イギリスの団体「反隔離身体障害者連合」(Union of Physically Impaired Against Segregation, UPIAS)」は、「障害」を抑圧の一形態とし、「我々が社会への完全な参加から不必要に隔離され、排除されることによって、我々の機能障害の上に課せられるもの」と表現した[3]。
社会モデルの観点からは、障害は社会的に生み出された不正であり、抜本的な社会変革によって挑戦し、排除できると考えられる。オリバーは、1980年代初頭に「障害の社会モデル」という言葉を紹介した際に、UPIASがはじめておこなった機能障害と障害の区別を参考にしたことを認めている[4]。オリバーは、この社会モデルによる障害の理解を、「障害の個人モデル」と呼ばれる一連の伝統的なアプローチと適切に区別し、後者を、「障害の『問題』を個人の中に位置づけ、...この問題の原因を、障害から生じると想定される機能的制限や心理的喪失に起因するものとみなす」とした[5]。
1980年代初頭以降、社会モデルは、地理的・分野的な違いを超えて、豊富な文献を生み出してきた。したがって当然のことながら、その表現や使用方法には大きな不一致がある[6]。その結果、この言葉が、特定の著者がどう理解しているかの説明なしに使用されることが多いため、混乱の可能性が高まる[7]。したがって、評価の枠組みとして社会モデルを使用することは「困難に満ちた道」[8]であると考えるのは、ミラー氏だけではないと思われる。用語の使用方法を明確にするために、本稿では「社会モデル」という用語を、上述のUPIASとDPIのアプローチを指すために使用し、必要に応じてUPIAS/DPI版社会モデルと表現して他の使用方法と区別する。
過去30年の間に、社会モデルに代わるものが数多く登場してきた。人権法、人権政策の文脈では、これらのうち最も重要で影響力のあるものは、障害の人権モデルである。初期の説明の一つによると
人権モデルでは、人間が本来持っている尊厳に焦点を当て、その後必要な場合に限り、その人の医学的特徴に焦点を当てる。このモデルは、自分に影響するすべての決定において個人を中心に置き、最も重要なことには、主な「問題」を個人の外、社会の中に置く[9]。
主な問題を個人の外にある社会的要因に置くことで、この説明は、障害の人権モデルと社会モデルの類似性を強調している。実際、カンターが認めているように、この2つの用語は同義語として使われることもある[10]。しかし、人権モデルは社会モデルからの脱却として扱われるなど、対照的なモデルとして提示されることもある[11]。2006年の国連の障害者権利条約(CRPD)の採択[12]以来、まだ比較的新しいにもかかわらず、人権モデルの利用は急速に増えている。こうして以下の第2節が示すように、国連障害者権利委員会(CRPD委員会)が締約国のCRPD実施の努力を監視する際に今日参照するのは、社会モデルではなく人権モデルである。
本稿では、社会モデルと人権モデルの関係に焦点を当てる。人権モデルが社会モデルを拡張し、改善するという見解が広まっている[13]。我々が「改善論」と呼ぶこのアプローチに異議を唱え、代わりに「相補論」と呼ぶものを主張する。我々の相補論によれば、2つのモデルの関係は、それぞれが独自の役割を持っているため、どちらも他方のモデルを改善するものとは見なされない。障害者の人権を促進する上でこれらの役割は補完的であり、共生的である。
本稿の残りの部分は4節に分かれている。第2節では、CRPDの作成と監視における2つのモデルの働きについての言説的分析を行う。ここでは、この特定の法・政策の文脈において、人権モデルがますます普及していることを示すとともに、それぞれのモデルの異なった役割や機能の具体例を示す。第3節では、改善論を示し、その基礎となったモデル間の比較を批判する。第4節では、2つのモデルの主な違いと、我々が「対立装置」と呼ぶものとしての役割を明らかにし、説明することにより、相補論を展開する。この2つのモデルの機能や運用の分析は、第2節のCRPDの作成と監視において各モデルが果たした役割の議論から得られた例によって裏付けられる。最後に第5章で結論を述べる。
- 国連障害者権利条約の作成と監視における2つのモデルの役割の比較:ケーススタディ
2.1. 目的と方法
CRPDの起草と、その実施に対するCRPD委員会の継続的な監視は、社会モデルと人権モデルが果たす役割を探る上で興味深い材料を提供している。本研究の主な目的は2つある。第1に、条約の起草と監視に携わる人々の取り組みで、社会モデルから人権モデルへの移行がどの程度行われているかを理解すること、第2に、この文脈において2つのモデルが果たす特定の役割(機能)を特定することである。
このケーススタディは、関連文書の言説分析の形をとっている[14]。起草段階に関しては、CRPDを起草するために国連総会が設置した委員会であるアドホック委員会(AHC)の議論の記録を分析した[15]。監視段階に関しては、2019年夏以前にCRPD委員会が発表した総括所見を分析した。これらの各文書の中で、「社会」、「人権」、「モデル」、「アプローチ」という用語を用いて電子検索を行った。その結果、障害の社会モデルと障害の人権モデルとの関連性をチェックし、どちらのモデルの議論にも関係のないテキストは除外した。帰納的なアプローチを採用し、文書内の各モデルの使用パターンや明示的または暗黙的な解釈を特定することを目指した。
この目的のために、我々はフーコー的な言説の理解を採用した。言説とは、「真実」の地位を獲得し、我々が自分自身と社会的世界をどのように定義し、組織するかを決定する意味システムを形成し、作成するものである[16]。言説は我々の社会的な相互作用を継続的に形成し、変形する。ここで行われた言説分析は、本節および後述の第4節において、2つのモデルがどのように機能しているか、障害の「問題」に社会モデルと人権モデルのどちらでアプローチするかを巡って行われた闘争、およびこれらの言説が関連する制度やプロセスにどのように影響したかを考察するための基礎となる[17]。
2.2. 条約の作成
2.2.1. 社会モデルの役割
社会モデルがCRPDの形成に重要な役割を果たしたことは広く認められている。ケイアスとフレンチによれば、社会モデルは条約に「重大な影響」[18]を与えた。トラスタドッチーアは、CRPDに「情報を提供する知識ベース」を提供したと述べ[19]、デグナーは「国際的な障害者運動のモットーとして...法的改革を要求する強力なツールとして機能した」[20]と述べている。社会モデルは、CRPDの起草時にこの意味で広く理解されていたようである[21]が、このプロセスに関わった人々の数や、言語的、政治的、地理的な多様性を考慮すると、このモデルに対する見方や理解に多少の違いがあるのは避けられない。
分析の結果、社会モデルは4種類の文脈で言及されており、それぞれ異なる役割で使われていることが分かった。A)一般的な参照枠として、(B)定義を提供するため、(C)平等とインクルージョンを促進するため、(D)連帯を促進するため。これらを順に説明する。
(A)一般的な参照枠としての社会モデルの使用
AHCの文書の中には、UPIAS/DPIの障害の社会モデルに関連した考え方が重要な役割を果たしていることを認めているものが数多くある。草案作成の比較的早い段階である2003年7月のAHC第2回会合では、障害の社会モデルにとって重要な「機能障害の経験と障害の経験」の区別に注意が向けられた[22]。この「障害」の社会的理解の重要性は、AHC第7回(最後から2番目)の会合でコスタリカ代表が強調した。
最も重要な点は、このプロセスが始まって以来、障害を医学的介入によって治癒する必要のある欠陥や病気と見なす医学的障害モデルが完全に捨てられたという事実にコンセンサスが得られたことである。現在、主流となっているのは、機能障害のある人が生活する環境と本人との間の相互作用を問題とする社会モデルである[23]。
また、同代表は、障害の社会モデルと人権との関連性に注目し、次のように述べている。
障害の社会モデルは、障害者がその能力を十分に発揮することを妨げられているのは、機能障害のせいではなく、法律、態度、建築、コミュニケーション、その他の差別的な障壁の結果であることを強調している....。障害の社会モデルは、権利に基づくアプローチと組み合わされている。障害の社会モデルは、権利に基づくアプローチと組み合わさって、(i)障害者を、社会の他の構成員と同様に自分の人生の進路を決定することができ、また決定すべきである権利保有者として認識し、(ii)社会的および物理的環境によって課される制限を人々の権利の侵害と定義する[24]。
(B) 定義付けのための社会モデルの使用
障害の社会モデルは、定義に関する2種類の議論で取り上げられた。1つは、条約の中で社会モデルを明示すべきかどうかという議論であり、もう1つは、障害の定義を含める場合に、どう定義すべきかという議論である。
第一の論点については、AHCの初期(第3回)に、インドとヨルダンが、条約の「一般原則」条項で社会モデルについて具体的に言及すべきだと提案し[25] 、イエメンもこのアプローチを支持した[26]。AHCの第8回の最終会合において、中国は前文に以下の段落を追加することを提案した。
障害とは、機能障害を持つ個人と環境の障壁との相互作用から生じる参加制約の状態であるという、障害の進化する概念を認識し[27]、この提案は、「障害の社会モデル」という言葉に明示的には言及していないが、AHCの議長が認めたように、「障害の社会モデルを反映した言葉を条約本文に追加する」提案であった[28]。多少の調整を経て、この言葉はCRPDの最終版である前文の(e)項に表現されている。
障害が...機能障害を有する者とこれらの者に対する態度および環境による障壁との間の相互作用であって、これらの者が他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加することを妨げるものによって生じる。
第二の、これに関連する問題は、「障害」を定義する場合、どのように定義すべきかということで、AHCの交渉の中でさまざまな場面で浮上した[29]。最終的には、障害の定義は盛り込まれなかった。初期の段階では、定義を盛り込むのであれば、障害の社会モデルを反映したものにすべきだという「一般的な合意」があったと言われている[30]。AHCの議論の日報によると、「障害」の定義や指針にとって社会モデルが適切であることは、韓国[31]、グアテマラ[32]、エチオピア[33]、イスラエル[34]、タイ[35]、ニュージーランド[36]、ノルウェー[37]、セルビア・モンテネグロ[38]、DPI[39]、欧州障害フォーラム[40]、国内人権機関グループ[41]、国際障害コーカス[42]によって受け入れられていたようである。一方、イエメンとシリア・アラブ共和国は、障害の「医学」モデルと「社会」モデルの両方の要素を取り入れる試みを支持した[43]。このアプローチは、世界保健機関(WHO)が国際生活機能分類(ICF)で採用したものだと主張した[44]。
AHCの第8回最終会合の直前に、バンコクで開催されたUNESCAPのワークショップで、参加者(アジア太平洋地域の政府、障害者団体、国内人権機関、非政府組織、国連機関、市民社会の代表者を含む)は宣言に署名した。ここには、「条約に盛り込まれる 『障害』の定義は、社会モデルのアプローチを反映したものでなければならない」というAHCメンバーへの要請も含まれていた[45]。しかし、社会モデルに従って障害を定義することの詳細な意味合いは、公表されたAHCの文書の中では広範な議論の対象とはならなかった。ただし、オーストラリアは条約に障害の定義を含めるという主張に関連して、このモデルにいくつか言及している。AHCの第4回会合でオーストラリアは、「障害の社会モデルは重要であるが、...障害を純粋に環境の機能としてみると、定義は実行不可能になる」と述べ、「障害」の定義は「条約の下で保護を受ける権利を有する人々」を明確に特定すべきであり、これらの人々には「身体的、精神的、知的な障害に加えて、将来の、過去の、またあると見なされた障害」のある人々が含まれるべきであるとの見解を示した[46]。第7回セッションでは、オーストラリアが、さまざまな種類の機能障害や機能制限を明確にした上で、障害の詳細な定義を提案した[47]。日報によると、オーストラリアは「障害の社会モデルは、障害を理解するための理論的枠組みを提供する」とし、このモデルを厳密に解釈すると、「社会が作り出した障壁が取り除かれれば、国は障害者に対してそれ以上の義務を負わない」との見解を示している[48]。オーストラリアは、提案した(「機能障害」と「障害」の概念に基づく)定義について、社会モデルと矛盾しないと説明している[49]。このアプローチは、UPIAS/DPIモデルの基本的な考え方を反映しているように見えるが、日報によると、オーストラリアは社会モデルを「生理的機能である機能障害、障害と環境との相互作用を認識する障害、そして機能障害や障害によって生じる不利益を指すハンディキャップ(社会的不利)の概念」を取り入れたものと説明している[50]。しかし、UPIAS/DPIの社会モデルでは、「障害」と「ハンディキャップ」を区別しておらず、「障害」という概念を、機能障害を持つ個人の外部にある環境的、法的、態度的、その他の要因によって引き起こされる不利益や抑圧を指すものとして使用していることを強調しておく。
前述のとおり、CRPDには、「障害」の正式な定義は含まれていない。これは条約の定義条項(第2条)で定義されていない用語である。しかし、その意味については、前述の前文のパラグラフ(e)で指針が示されている。これは、UPIAS/DPIの古典的な社会モデルによる「障害」の理解を反映したものであり、「機能障害」の概念とは区別されている。
また、CRPDの対象となるべき「障害者」という言葉の意味については、条約の目的を明確にした第1条において、網羅的(列挙的)ではない指針が示されている。これによると、
障害者には、長期的な身体的、精神的、知的又は感覚的な機能障害であって、様々な障壁との相互作用により他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加することを妨げ得るものを有する者を含む[51]。
第1条が、機能障害や、「さまざまな障壁」から生じる参加の制限、不平等に焦点を当てていることは、UPIAS/DPIの社会モデルと密接に関連しているが、「障害のある人(persons with disabilities)」という言葉はそうではない。この社会モデルに基づけば、「障害者(disabled people)」とは、特定の種類の抑圧や不利益を経験している人々を指し、「機能障害のある人(people with impairments)」とは、何らかの(あると思われた)機能的制限や心身の違いを持つ人を指す。しかし「障害のある人(persons with disabilities)」はほとんど意味がない。
「障害者(disabled people)」ではなく「障害のある人(persons with disabilities)」という用語を好む理由は、「ピープルファースト」言語の支持者によって提唱されており[52]、それによると、人への言及は、その(あると思われた)機能的制限への言及の前に置かれるべきである。「機能障害のある人(people with impairments)」という言葉は、ピープルファーストと社会モデルの両方のアプローチの用語上の意味合いと一致しているように見えるが、「機能障害」という言葉には違和感がある。「機能障害」という言葉は、体と心の違いに汚名を着せる社会的規範を肯定し、再確認しているとみなされることがある[53]。言い換えれば、社会が「機能障害」と判断するものは、社会的/文化的に決定されたものであり、「能力主義(ableism)」の結果であるという議論がある[54]。障害関連の用語の選択や意味合いについて活発な議論があるにもかかわらず、AHCの公表文書ではこの問題は表面化しておらず、したがって「障害のある人(persons with disabilities)」という用語の使用は明確な根拠に基づくものではないようである。この用語に関する議論がなされていないのは、多国籍・多言語での交流が行われたことが要因、あるいは少なくとも一因と考えられる。「機能障害(impairment)」や「障害(disability)」という用語が北欧のどの言語にもうまく翻訳されないというトラウスドッテーリの観察[55]からも、関連する複雑さがうかがえる。
(議論がなされなかったことの)説明はできても、結果的には混乱を招いている。CRPDでは、「障害」という言葉を、UPIAS/DPIの社会モデルのように、社会的に作られた抑圧や不利益という意味で使うこともあれば、「機能障害」の意味で使うこともある。このためカイエスとフレンチは次のように主張した。
CRPDは、障害の社会モデルを遵守すると公言しているにもかかわらず、機能障害と障害の間の今日の概念上の混乱を永続させ、おそらく今や取り返しのつかないほどに凝り固まった[56]。
(C)平等とインクルージョンを促進するための社会モデルの使用
社会モデルは、第一に非自発的拘禁、第二に法的能力、第三に教育、第四にリハビリテーションという特に4種類の問題に関するAHCの議論において、障害、機能障害、診断を、排除、隔離、あるいは低レベルの権利保護を正当化することに反対する主張を支えるために用いられた。これら4種類の議論で社会モデルがどのように使われたか、順に説明する。
まず非自発的拘禁に関して、世界精神医療ユーザー・サバイバー・ネットワークは、非障害者にとっては自由の剥奪の根拠とならない状況で障害者の自由を奪うことは、障害者に「社会的不利益」を課すことであり、「社会モデルでは、それは差別である」と主張した[57]。同ネットワークは、「自由の剥奪はいかなる場合にも障害に基づいてなされてはならない」という表現は、「自由の剥奪はいかなる場合にも障害の存在に基づいてなされてはならない」という表現よりも好ましいという見解を示した。その理由は、前者が「単純明快で、障害をジェンダーや人種に匹敵する社会的カテゴリーとして扱っており、これは条約のプロセスを通じて障害のある人が主張してきた立場である」のに対し、「『障害の存在』という表現は医学モデル的な色合いを持っている」というものであった[58]。
第二に、法的能力との関連では、機能障害や診断を理由に法的権利が制限されたり、否定されることが非常に多い。タイは、AHCにおいて、この点を懸念し、これは社会モデルと一致しないとした。報告によると、タイは「障害の社会モデル、すなわち社会が人々に障害を課すという考え方を支持する」とした上で、「障害者の法的能力を制限することは、障害の医学モデルを強化することになる」と述べた[59]。
第三に、教育を受ける権利については、障害者が他の人と同等の選択肢を持てるような教育制度を求める議論に関連して、障害の社会モデルへの言及がなされた。英国障害者団体協議会がAHCに提出した資料によると、
特別教育制度の多くは、障害のある人との協議を経ずに開発されたため、医学モデルのアプローチが反映されており、今後は社会モデルのアプローチに移行すべきである[60]。
同様に、インクルーシブ教育研究センター(英国)は、CRPDが、
障害の社会モデルを完全に反映し、障害のある人の教育への完全参加を妨げる障壁を取り除くことに政府の義務を集中させるべきだと訴えている。障害や機能障害を理由に一部の学習者を別の環境で教育することは、障害の医学的・慈善的モデルを前提とした障害観を反映し、永続させるものである[61]。
最後に、障害の医学モデルではなく、社会モデルに沿った形でリハビリテーションの権利を明確にする必要性が、多くのAHCメンバーによって強調された[62]。これは、自立生活や、教育、労働、地域生活への参加に不可欠な非医学的な支援やサービスの開発を犠牲にして、障害者の生活のすべての側面を医学的に管理しようとする従来の傾向に対する根強い懸念を反映したものである。国際障害コーカス(IDC)によると、
IDCの最大の目標は、リハビリテーションを医療の文脈や医学的なモデルだけで捉えないことである。ハビリテーションとリハビリテーションは、個人が日常生活の中で障害に対処するための新しい技術と知識をもたらす。.... リハビリテーションは、医療よりも教育に関係している[63]。
国際リハビリテーション協会と国際障害コーカスは、「ハビリテーションとリハビリテーションを健康に近接して配置すると、障害の医学モデルを強化する危険性があり、障害のある人の権利と尊厳を侵害する」ため、ハビリテーションとリハビリテーションは健康の権利とは別の条項で扱うべきだという見解を示した[64]。イスラエルの代表も、これらの問題を2つの別の条文に分けることを支持し、それが「医学モデルと組み合わせた社会モデルの肯定」(その理由説明はないが)になることを示唆した[65]。コスタリカ代表は、リハビリテーションと健康を同じ条項で扱うことは「リハビリテーションに対する医学モデルのアプローチを支持することを意味する」という誤った見解に異議を唱え、リハビリテーションは広く理解されている健康権の重要な構成要素であるが、リハビリテーション・サービスは「医学的視点」で組み立てられる必要はなく、またそうすべきではないと主張した[66]。
機能障害の有無や診断に基づいて権利を制限すべきではないという主張を支えるために社会モデルを使用することは、UPIAS/DPI社会モデルの中心にある政治的要求に根ざしている。それは、障害に対する政策対応を、教育、雇用、家庭生活、医療などの文脈において、障害者の生活のコントロールを医学および関連専門職に委ねるものから転換することである。この関心はCRPDの最終的なテキスト全体に反映されている。CRPDの目的は、「全ての障害者によるあらゆる人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し、及び確保すること並びに障害者の固有の尊厳の尊重を促進する」[67]とされている。これは多くの条項で特に強調されている。特に、「障害の存在は、いかなる場合にも自由の剥奪を正当化してはならない」とする第14条1項b、「いかなる場合にも、子ども又は父母の一方若しくは双方の障害を理由として、児童を父母から分離してはならない」とする第23条4項が挙げられる。さらに、障害者は他の人と「平等に」権利が与えられるという要件は、条約の本文すべてに含まれている。
(D) 異なる機能障害のある人の間の連帯を促進するための社会モデルの利用
障害の社会モデルが言及された最後の文脈は、作成される条約は、機能障害の種類や程度で人々を区別すべきではないという議論と関連していた[68]。社会モデルは、障害を生み出す社会的構造や慣習を認識し、それに抵抗する取り組みに向けて、さまざまな種類の「機能障害」のある人々を団結させる役割を果たすことで、この懸念に直接応える。
機能障害に基づく法的差異に挑戦するための障害の社会モデルの使用は、AHC の第 7 回会合での議論への国際障害コーカスの寄稿に関する次の報告で明らかである。
…多くの国が、「精神病」への医学モデルのアプローチにより心理社会的障害に対応している。これは、心理社会的障害のある人々を、より広い範囲の障害のある人や彼らが享受する保護から排除するものである。しかし、社会モデルのアプローチでは、心理社会的障害のある人にまつわる汚名、偏見、固定観念が、それ自体が非常に障害をもたらすものであり、しばしばその人権の侵害につながることを認識している[69]。
レバノン代表は、最終的に第31条となったデータと統計に関連して、障害の医学モデルから社会モデルへと移行するために、「国は単に機能障害を列挙するだけの統計調査から脱却すべきである」と主張した[70]。
第3および4回会合の日報によると、カナダ代表は、「重度または重複した」機能障害または障害という用語を含めることに異議を唱えていたが、それは、そのような用語が「障害コミュニティ内にヒエラルキーを生み出し、障害の社会モデルではなく医学モデルを反映する」からであった[71]。「世界精神医療ユーザー・サバイバー・ネットワーク」とDPIも同様に、この用語を「医学モデルの概念」[72]であり、「障害のある人を重症度で区別する医学モデルに基づく用語」[73]を含んでいるとして、テキスト案からの削除を支持した。
異なる種類の機能障害のある人を区別することへの、社会モデルに影響された同様の抵抗は、条約の本文に「様々な形態の」機能障害または障害という言葉を導入する案に反対する議論のひとつにも見られる。タイの代表は、最終的にCRPDの第8条[74]となった条文にこの語句を導入する提案を支持できない理由を説明する際に、「障害の社会モデルの原則に賛成する」と述べており[75]、メキシコの代表は、障害の「様々な形態」への言及は「医学モデルの視点を反映している」と述べた[76]。
CRPDの最終版では、機能障害の重さには言及していないが、「より集中的な支援を必要とする人を含むすべての障害のある人の人権を促進し保護する必要性」[77]を強調している。求められる支援の性質や強さは、さまざまな要因によって異なる。CRPDでは、一般的に機能障害の種類には言及していないが、2つの例外があり、いずれも異なる種類の機能障害のある人の連帯感を損なわない理由に基づいたものである。
機能障害の異なる種類に言及している最初の例外は、CRPD第1条である。先に説明したように、CRPD第1条は「障害のある人」の意味についての指針を示しており、機能障害の範囲のイメージを示すために、機能障害の種類を非網羅的に示している。このようなアプローチは、CRPDが対象とする人口の範囲について各国が制限的なアプローチを展開するのではないかという懸念に照らして、間違いなく有用であった。
2つ目の例外は第24条3項(c)で、国は「盲人、ろう者又は盲ろう者(特に盲人、ろう者又は盲ろう者である児童)の教育が、その個人にとって最も適当な言語並びに意思疎通の形態及び手段で、かつ、学問的及び社会的な発達を最大にする環境において行われることを確保すること。」を保証するとしている。これは、特定の種類の機能障害について言及しているが、そのような障害のある子どもを他の障害者と区別したり、分離するものではない。むしろ、教育制度の設計において、特定の機能障害のある子どもの状況を考慮する必要があることに単に注意を喚起するもので、そうすることで、これらの種類の機能障害のある人の代表組織がAHCで提起した特定の懸念に対応している[78]。
2.2.2. 人権モデルの役割
AHCのオンライン記録を検索したところ、「人権モデル」という言葉は出てこなかった。これは、AHCの議論の中で社会モデルについて頻繁に言及されているのとは対照的である。
CRPDの本文には、障害の人権モデルについての明確な言及はない。しかし、人権モデル支持者は、CRPDの内容と人権モデルの間に密接な関係を描いている。スタインとスタインのような著者は、CRPDがこのモデルと「同様の方向性」[79]を持っていると主張しており、デグナーはさらに進んで、CRPDを障害の人権モデルの法典化と表現している[80]。
2.3. 条約の監視
2.3.1. 社会モデルの役割
AHCの議論とは対照的に、CRPD委員会の総括所見の中で社会モデルが言及されることはほとんどない。委員会は、唯一ペルーに対する総括所見において、「条約が定める社会モデルを実施するための首尾一貫した包括的な戦略」が欠如していることに懸念を表明し[81]、
性別、年齢、障害別に集計されたデータの収集、分析、普及を体系化するための措置を講じること、医学モデルから社会モデルへの変化を考慮した上で、条約の様々な規定の実施に関する進捗状況を監視・報告するための法整備、政策立案、制度強化を支援するためのジェンダーに配慮した指標を開発することを勧告した[82]。
AHCの議論で障害の社会モデルが強調されていることを考えると、総括所見でそれがより頻繁に言及されていないのは驚くべきことである。委員会がペルーへの総括所見を発表したのは2012年4月で、委員会の活動期間としては非常に早く、3番目の審査国であった。
2.3.2. 人権モデルの役割
CRPD委員会は、その第8会期(2012年秋)以降、「障害の人権モデル」や、これと互換的に使用されていると思われる他の言葉(「人権に基づく障害モデル」[83]、「人権モデル」[84]、ある例では「障害の社会・人権モデル」[85]や「障害に対する人権モデル」[86]など)に頻繁に言及している。我々は総括所見での「障害の人権モデル」の4つの重要な使われ方を区別した。それぞれについて以下この節で説明する。しかし、これらを検討する前に、このモデル(またはその変形)への言及の大部分は、委員会がそれによって何を意味しているかの説明を伴っていないことに留意することが重要である。人権モデルへの言及は、委員会が描く障害政策の「医学モデル」アプローチ(医療専門職が障害者の人生の選択と機会に対して不当な力を与えられている[87])との対比、およびそこからの脱却の必要性を示すだけの場合が多く、また、CRPDと、障害者の人権の保護と促進に必要な社会的変化を促進し、もたらすための政府の責任を明確にすることへの略語の一つとして用いられている。しかし、総括所見が人権モデルのさらなる説明を行っている場合は、以下にその詳細を紹介する。
(A)障害の人権モデルを障害戦略、政策、法律に組み込む提言
まず、人権モデルは、国が障害戦略や法律・政策全体に組み込む必要性と関連して言及されている。例えば、アルゼンチンに関する委員会の所見では、「障害の人権モデルを十分に考慮して、条約に定められたすべての権利を実現するための広範かつ包括的な戦略」の策定を求めている[88]。障害の人権モデルに基づく広範な障害・人権戦略の策定に焦点を当てた同様の見解は、他にも見られる[89]。また、人権モデルとの整合性を確保するために、法律や政策を見直し、改訂する必要があることも頻繁に言及されている。例えば、委員会は総括所見の中で、一般的なレベルの法律や政策一般においても[90]、また、より特定の法律、政策、事業に関しても[91]、このモデルとの整合性を確保することの重要性を強調している。
委員会は、さまざまな法律や政策での障害の定義に関して、人権モデルとの整合性を確保する必要性を強調している[92]。またこのモデルは障害評価制度に関しても言及されている[93]。ポーランドに関する総括所見の中にある下記の指導は、マルタに関する総括所見の中にもほぼ同じ文言で登場しているが、この文脈で人権モデルが何を求めているかを詳細に説明している点で珍しい。
「障害の人権モデルを完全に取り入れ、人権に基づくアプローチによる障害評価を確保すること。特に、
(i) 障害評価の仕組みの設計に障害のある人の組織を関与させること、
(ii) 障害評価を行うための素材となる情報の生成に障害のある人を関与させること、
(iii) 複数の評価方法をやめること、
(iv) 評価要件に関する情報をアクセス可能で利用者にわかりやすくすること」[94]
(B)障害の人権モデルの意識の向上および研修に関する提言
第二に、CRPD委員会の総括所見の多くは、意識の向上と研修に関連して、障害の人権モデルに言及している。例えば、ブラジルへの総括所見で、委員会は「一般市民、公務員、民間の関係者に対して、条約の内容と障害の人権モデルを普及するための戦略が特に欠如していることに懸念を抱いている」と述べた[95]。中国に関するものなど、さまざまな総括所見で明らかにされているように、この普及には、意識向上プログラムにおいて障害のある人を「独立した自律的な権利保有者」として描くことが必要である[96]。また、委員会がカナダに対して「社会への包摂を支援するためのすべての公的キャンペーンやプログラムにおいて、自閉症者を認識し、彼らの人間としての尊厳と価値を強化する障害の人権モデル」を採用するよう勧告したことに示されるように、こうした意識向上活動が特定の障害者グループを排除しないようにすることも必要とされる[97]。
人権モデルは、国民全体の意識向上に関連して使用されるだけでなく、特に裁判官や法曹界、医療専門家など、より対象を絞ったタイプの研修に関連しても言及されている。医療専門職への関連研修の重要性については、多くの総括所見で言及されている[98]。法曹関係では、委員会は、カナダ政府に以下の措置を勧告した。
法的拘束力のある人権文書としての条約、障害の人権モデルとその原則、および委員会の法解釈について、司法官および法執行官の意識を高め、能力開発プログラムを策定すること...[99]
アルゼンチンに関する総括所見の中で、委員会は同様に裁判官の研修と能力開発を勧告しているが、そこでは法的能力という特定の文脈に合わせている。したがって、委員会は締約国に対し、裁判官が「後見や管財を認めるのでなく、支援された意思決定システムを採用する」ことを奨励するために、「障害の人権モデルに関する研修ワークショップ」を提供するよう求めている[100]。
(C) 自由の剥奪と施設収容への懸念、およびその障害の人権モデルとの不整合
第3に、人権モデルへの言及は、障害者から自由を奪い、施設生活の対象とする制度への懸念と関連してなされることが多い。委員会は、アゼルバイジャン[101]と韓国[102]に対し、「障害の人権モデルに基づいて」地域社会での支援サービスを展開し、脱施設戦略を加速するよう求めている。同様の勧告は、オーストリア[103]とアルゼンチン[104]への総括所見にも見られるが、精神保健サービスとその実践という特定の文脈においてである。
(D) 障害者の代表組織の関与と協議
第4に、委員会は人権モデルを、政策や制度を障害者の代表的な組織との協議や関与のもとに設計・実施するための勧告に結びつけることがある。最も一般的には、この関連付けは、障害を評価するシステムの文脈で行われている[105]。しかし、障害戦略の策定[106]、国際協力や持続可能な開発の政策やプログラム[107]、意識向上活動[108]など、他の文脈でも見受けられる。これは、CRPDの第4条3に沿った関与と協議を、委員会が人権モデルの特別な優先事項とみなしていることを示唆している。
- 改善論とそれを支える比較
改善論は、デグナーによる人権モデルの説明で最も明確に示されており、人権モデルが社会モデルとどのように異なるかについて6つの命題の形で提示されている[109]。彼女は、医学モデルのアプローチから社会モデルのアプローチ、そして人権モデルのアプローチへと、歴史的な進展があったことを示唆している。デグナーは、人権モデルの登場をCRPDの採択[110]と結びつけているが、「人権モデル」という言葉はそれ以前にも使われていたと指摘している[111]。彼女は人権モデルの説明の根拠としてCRPDの条文にしばしば言及し、また前述のように、CRPDは「障害の人権モデルを法典化したもの」であると主張している[112]。
障害の人権パラダイムに関するスタインとスタインの説明も似ている。彼らは、障害の社会モデルのように、これは「障害を生み出す上での社会の役割と、障害に基づく排除を是正する社会の責任を強調している」と指摘している[113]。その核となるのは「個人の繁栄(flourishing)」と「尊厳」である[114]。このパラダイムによれば、「障害者は、同質性規範を満たすからではなく、その平等な人間性によって平等になる権利がある」[115]とされ、資源の投入を必要とする「反差別措置と平等措置」を承認している[116]。また「不可分性」と「人権のプロセスと結果」を強調している[117]。CRPDの規定を詳細に引き合いに出したり、CRPDを障害の人権パラダイムの法典化と表現したりはしていないが、CRPDは「同じ方向性」を持っており、「このアプローチをとることを各国に義務付けている」と述べている[118]。
デグナーは、人権モデルへの歴史的な進歩は、社会モデルが完全に置き換えられることを意味しないと述べているが[119]、人権モデルは社会モデルの上に「構築」され[120]、それを「発展」させ[121]、「超えて」いる[122]と主張し、「障害の人権モデルは障害の社会モデルを改善する」という観察を「主な発見」としている[123]。2つのモデルの関係についてのこのような見解を、我々は「改善論」と呼んでいる。
すでに述べたように、改善論を支える2つのモデルの比較や対比は、デグナーによって6つの命題の形で示されている。そのうち、第1と第6は2つのモデルの重要な違いを示している。第1の命題の背景にある対比は、両モデルが主張する連帯の性質に関するものである。社会モデルの焦点は、特定の「健康や身体の状態」[124](UPIAS/DPIモデルの用語で言えば「機能障害」)を持つ、あるいは持つと認識されている人々に関連する連帯の主張である。一方、人権モデルは、特定の健康や身体の状態にかかわらず、すべての人間に関連する主張である。第6の命題の背景にある対比は、それぞれのモデルが行う働きの種類に関係している。社会モデルは障害を説明するために機能するが、人権モデルはCRPDを法典化し、政策策定のためのより詳細な「工程表」(roadmap)として機能する[125]。我々はこの区別に異論はないが、以下の第4節で説明するように、その意義が異なると解釈する。
しかしながら、社会モデルをUPIAS/DPIの意味で理解した場合、残りの命題の背景となっている対比は説得力を持たない。この観点から分析すると、残りの命題の根拠となっている2つのモデルの区別は、取るに足らないもの、あるいは幻想的なものに見える。
第2の命題は、「障害者政策に対する社会モデル・アプローチは、反差別政策と市民権改革を支持する」もので、人権モデルは「市民権と政治権に加えて、経済的、社会的、文化的権利の両方の人権セットを包含するという点で、より包括的である」[126]というデグナーの主張に基づく。他の論者も、社会モデルは人権アプローチよりもはるかに狭い範囲の権利主張を根拠づけていると主張している。例えば、スタインとスタインは、米国における新しい障害者の人権パラダイムを主張する際に、「社会モデルは、同じような立場にある人々を狭く同じように扱う形式的な正義の厳格な概念に押し込められてきた」[127]と主張し、「社会モデルの主張は形式的な平等の概念にのみ基づいているため、立法府は市民権保護を公布してきた。定義上、これらの反差別的な禁止措置は積極的な権利を包含しない」[128]と述べている。
しかし、UPIAS/DPI版の社会モデルには、社会的な障害化(disablement)のプロセスへの対応を行うための法的・政策的措置の種類を規定したり制限したりするものはない。オリバーが述べているように、「社会モデルの実施を導く青写真はない」。それは「実用的なツール」であり、「特定の地域の文脈、ニーズ、状況に合わせることができる」[129]。また、UPIAS/DPIの社会モデルは、さまざまな形の政策解決に対応できるため、人権に関する言葉や枠組みに容易に、あるいは安全に頼ることができない文化圏においても有用であると考えられる。UPIAS/DPI社会モデルの初期の提唱者が想定していた社会変革の規模は、フィンケルスタインの次の言葉からもうかがい知ることができる。
障害の社会モデルとは、既存の競争市場社会の中で「権利」を得るだけではなく、「人間」であることを可能にする社会を創造することに関係している[130]。
デグナーの第3の命題は、「障害の社会モデルは、障害者が機能障害のために痛みや生活の質の低下、早期死亡に対処しなければならないかもしれないという事実を軽視している」のに対し、「障害の人権モデルは、社会正義の理論を構築する際に、このような生活状況を認識し、考慮することを要求する」というものである[131]。社会モデルとは異なり、人権モデルは「機能障害を人間の多様性の一部として評価する」と主張している[132]。社会モデルが機能障害を軽視していることに懸念を抱いているのは、デグナーだけではない。シェイクスピアとワトソンは、彼らが「強い」バージョンと呼ぶ社会モデル(そこでは機能障害の問題が認識されず議論されていない)の理解に関連して、このような懸念に注意を払っている[133]。彼らは、「英国の多くの活動家が、公の場でまさにこの『強い』バージョンの社会モデルを使用している」[134]と懸念を示している。このような機能障害やトーマスが「機能障害の影響」[135]と呼ぶものを認めないことは、デグナーの指摘のように、強力で説得力のあるフェミニストの批判の対象となってきた[136]。
しかし、UPIAS/DPI版の社会モデルが意味を持つのは、モデルの中で機能障害という概念が認識されている場合のみであることを指摘しておく。このモデルの目的は、社会変革に焦点を当てることであるが、さまざまな種類の機能障害、影響、ニーズに対応し、それらを包括しなければ、そのような変革は効果的ではない。このように理解すると、人権モデルが機能障害の影響を認識し、「社会正義の理論を構築する際にそれらを考慮することを要求している」[137]というデグナーの観察は、社会モデルにも同じようにあてはまる。
第3の命題で人権モデルについて述べられたもう一つの重要な主張は、UPIAS/DPIの社会モデルにも同様に当てはまる。これは、このモデルが「機能障害を人間の多様性の一部として評価する」[138]というものである。第1の命題で認識されているように、機能障害の概念は社会モデルの中心である。その目的は、機能障害のある人を適切に評価する重要性を踏まえて社会変革を達成することである。このように考えると、第3の命題に含まれる社会モデルと人権モデルの違いは、比較的小さいと思われる。
第4の命題は、「障害の社会モデルは、障害政策の価値ある要素としてのアイデンティティ政治を軽視しているが、人権モデルはマイノリティや文化的なアイデンティティの余地を提供している」[139]というものである。ここでは、障害者のさまざまなグループの政治的アイデンティティを認識し、評価することの重要性に焦点を当てている。たとえば、特定の機能障害の経験を共有したり、機能障害と他の特性(ジェンダー、性的指向、年齢、民族、宗教など)の組み合わせによって集まった人々である。デグナーは、社会モデルとは異なり、人権モデルには「マイノリティや文化的なアイデンティティ」[140]のための余地があり、「アイデンティティのさまざまな層に配慮」し、「障害者が男性や女性、非白人、子ども、移民である可能性を認識している」[141]と述べている。
障害者運動には多様性がなく、交差的不利や複数のアイデンティティの問題を適切に受け入れていないという懸念が長年にわたって指摘されてきたのは確かである。しかし、これらの失敗は、UPIAS/DPIの社会モデル自体に起因するものではないと考える。この社会モデルに沿って社会変革を起こそうとすると、機能障害の種類、ジェンダー、セクシュアリティ、民族、社会経済的地位、年齢、宗教などの要因によって、障害化の経験が人々によって異なることを深く理解する必要がある[142]。
第 5 の命題は、機能障害の予防政策に関するものである。デグナーによれば、「障害の社会モデルは予防政策に批判的である」が、人権モデルは、障害者の人権を守るために機能障害予防政策がどの程度必要かを評価する手段を提供する[143]。CRPD(すでに述べたように、人権モデルの法典化として扱われている)では、障害者の健康の権利を実施する一環として、締約国は公共保健プログラムやその他の医療サービスへの平等なアクセスを確保するための措置を講じ、「障害の拡大を最小限に抑え、防止するためのサービス」を提供しなければならないことが明確にされている[144]。しかし、CRPDでは、一般的な人々への機能障害の予防は要求されていない。その結果、このような事業への投資は、国が障害者や障害者の権利のために支出しているとする金額に含めることはできない。
デグナーが強調するように、機能障害予防プログラムに対する社会モデルの批判の焦点は、怪我や病気、機能障害のリスクを減らすことを目的とした公衆衛生政策そのものではなく、そのような取り組みにしばしば含まれる、機能障害に関連する否定的で悲劇に満ちたイメージである。このようなイメージや言葉は、否定的な態度を生み出し、定着させる効果があり、まさにUPIAS/DPIの社会モデルに反する。これは同様に人権モデルにも反し、特に意識向上と障害の固定観念や偏見との戦いに焦点を当てたCRPD第8条にも反している。この点において、2つのモデルは一致している。
また、両モデルは、医療制度が機能障害のある人を包括的に受け入れ、回避可能な悪化のリスクを最小限に抑えるようなサービスを提供することを求めている点でも一致していると考えられる。オリバーが強調しているように、社会モデルは「機能障害に関する疑問や懸念を無視しているわけでも、医療や治療の重要性を無視しているわけでもなく」、「多くの場合、障害のある生活に関連する苦しみは、主に医療やその他のサービスの欠如に起因することを認めている」[145]。興味深いことに、オリバーは「障害の医学モデル」が存在するという考えを否定し、「代わりに、医学化を重要な構成要素の一つとする障害の個人モデルが存在する」と主張している[146]。したがって、機能障害予防政策の問題について、この2つのモデルの間に実質的な違いがあるかどうかは疑問である。
- 相補論とその根拠となる比較
4.1. モデルの種類の違い
4.1.1. モデルの激増
「モデル」という言葉は、様々な文脈で、様々な目的で使用されている。フリッグとハートマンは、モデルのタイプの例として次のものが見られたとしている。「探査モデル、現象学的モデル、計算モデル、発達モデル、説明モデル、貧窮モデル、試験モデル、理想化モデル、理論モデル、スケールモデル、発見的モデル、戯画モデル、教訓モデル、空想モデル、玩具モデル、想像モデル、数学モデル、代用モデル、象徴モデル、公式モデル、アナログモデル、手段的モデル」[147]。障害という特定の文脈では、障害の社会モデル、少数派モデル、北欧モデル、肯定モデル、文化モデル、生物心理社会モデル、人権モデルなどが挙げられる。
モデルが急増した理由を理解するのは難しいことではない。障害の社会モデルが早くから影響を与え続けてきたことが重要な要因であることは間違いなく、その理由は「モデル」という概念を障害の政治と学問の基本として確立したからである。その後のモデルは、社会モデルからの脱却やその改良のために開発されたり、社会モデルによって生まれた運動や社会変革の機運を高めたり、再び活性化したりすることを期待して導入されている。このことは、マリア・バーグスが主導した最近の研究プロジェクトに参加した英国の障害活動家の一部が、新しいモデルを求めていることからもわかる[148]。彼らの考えでは、緊縮財政や福祉国家の縮小などの政策が、平等や社会的保護、その他の人権に及ぼす障害関連の悪影響に対抗するために、「人権の社会モデル」という新しいモデルが必要かもしれないという。
とはいえ、モデルを増やしても、単に混乱を招くだけの危険性もある。マイク・オリバーの感想に共感するのは簡単である。
「障害の社会モデル」という言葉の背後にある考え方ではなく、その言葉を生み出した人間として、このようなさまざまなモデルの登場は、役に立つというよりもむしろ混乱を招くものだと思う[149]。
このような混乱を避けるためには、何がモデル化されているかを明確にすることが不可欠である。
4.1.2. 社会モデル - 障害の記述的・発見的モデル
UPIAS/DPIの社会モデルの主題または焦点は「障害(disability)」である。このモデルは、障害化(disablement)のプロセスを説明し、障害(disability)を社会的抑圧の一形態として定義することで、障害(disability)のオントロジー(概念を整理する体系)を提供する。
モデルの記述的役割と理論の説明的役割の区別は、1975年のハウエスのような尊い研究から生まれた[150]。UPIAS/DPIの障害の社会モデルは、記述的なモデルとして、障害化の説明的な理論とは区別されてきた[151]。例えば、トーマスは、社会モデルの役割は、障害のある障壁がどのように存在し、なぜ持続するのかを説明することではなく、そのような説明は「自分の理論的視点」によって形成されると述べている[152]。
UPIAS/DPIモデルは、機能障害のある人を障害者にする要因、つまり個人の外部にある要因を特定するためのシンプルなメカニズムを提供するという点で発見的であり、それゆえにその要因は社会変革のための運動の焦点となりうる。UPIAS/DPIモデルを障害化の説明理論であるかのように批判することは、このモデルの記述的・発見的機能を見落とし、さらには弱体化させる危険性がある。この点については、学界外の多くの障害活動家が力強く指摘している。例えば、リチャード・ライトは次のように書いている。
障害者運動における重要な問題の一つである「障害の社会モデル」が、特に学界において繰り返し攻撃を受けていることは、次第に明らかになってきている。同様に明らかなのは、「悪評」の多くが、我々の多くが特におかしいと感じる社会モデルの解釈によって引き起こされているということである。 我々は、障害者の活動家が、社会モデルは我々と一緒に生まれたものであり、我々はまだそれを利用しているのだということを学術関係者に思い出させる時が来ていると信じる[153]。
このように、社会モデルは、政策改革が必要な場所を特定するためのものである。社会モデルは、改革の方向性を示し、前述のCRPDの起草における役割に示されるように、社会変革を導く基本原則を提供する。しかし重要なのは、人権モデルが障害政策のモデルであるのに対し、社会モデルは障害のモデルであるということである。社会モデルは、障害に対する政策対応のための詳細な青写真や工程表を提供するために使用することはできない。この点は、デグナーの第一命題と最終命題、およびサマハなどの論者によって明確に指摘されている[154]。詳細な政策の青写真を提供していないという事実は、オリバーが指摘しているように、「特定の地域の文脈、ニーズ、状況に合わせることができる」という柔軟性の余地をもたらしている[155]。その機能は、法律や政策のための詳細な工程表を提供することではなく、他の社会構造やシステムとともにそれらを問い直し、方向転換させるためのツールを提供することである。社会モデルを効果的な「対立装置」としているのは、以下に説明するように、社会的抑圧の一形態として「障害」を再定義していることと、その発見的な性質である。
4.1.3. 人権モデル - 障害政策の規範モデル
対照的に、障害の人権モデルの焦点または対象は、障害の概念または考え方ではない。このモデルは、障害の明白なオントロジーを提供していない。例えば、障害を人権の否定とは理解していない。その理解では、障害は機能障害に基づく社会的カテゴリーではなく、機能障害の有無にかかわらず人権の否定を経験しているすべての人にあてはまる包括的カテゴリーに入ることを意味する。この趣旨の議論は(文脈は異なるが)ウォルブリングによって展開されている[156]。ウォルブリングは、ある望ましい社会規範(例えば、白人、西洋人、異性愛者、労働年齢、認知能力と身体能力のある人、中流階級の男性)から離れていると認識されていることを理由に疎外されているすべてのグループが経験する抑圧を表現するために、能力主義(ableism)を使用することができると提案している。しかし、現在までのところ、人権モデルに関してはそのような議論はなされていない。したがって、人権モデルの焦点は、障害の概念ではない。むしろ、障害への政策的対応についての指針(および要求)を提供している。したがって、人権モデルは障害のモデルではなく、障害政策のモデルと見ることができる。
人権モデルの性質は、障害者の社会的正義を前進させるために「何をすべきか」という問いに答えるという意味で、記述的ではなく規範的である。その答えは、CRPDに定められているように、人権の原則と義務に沿って、障害政策と法改正を進める必要があるというものである。
4.2. さまざまなタイプの役割または機能
4.2.1. 対立装置としてのモデル
障害政策の人権モデルと障害の社会モデルは共に、障害者の社会正義を高めるために機能する「対立装置」[157]と見なすことができる。対立装置は、支配的な規範を破壊し、異論を引き起こす[158]。「...抵抗活動の生成、再編成、増強」[159]を可能にし、個人や集団を再構築する。本節の残りの部分では、ベケットとキャンベルが開発した方法で、対立装置を分析枠組みとして用いることにより、2つのモデルの異なった運用や機能を検証する[160]。この枠組みは、フーコーの権力と抵抗の理論化[161]と、テクノロジーの4区分[162]を参考にし、発展させ、適応させたものである。
この枠組みを用いて、フーコーが特定した第1、第2、第4のタイプのテクノロジー、すなわち、生産や変換のために作動する生産のテクノロジー、記号、声明、シンボル、意味の使用を可能にする記号システムのテクノロジー、そして個人が自分自身を変えることを可能にする自己のテクノロジーとして、2つのモデルがどのように作動するかを考察し、それにより2つのモデルの明確な役割や機能を探る。また、この2つのモデルとフーコーのテクノロジーの第3のタイプ、つまりフーコーが「権力」と呼んだテクノロジーとの関係についても考えてみたい。しかし、4つのタイプのすべてが権力のテクノロジーとして記述される可能性があるという事実を認識して、(ベケットやキャンベルのように)我々は「規律」のテクノロジーと呼んでいる。対象を統制と支配に服従させる規律のテクノロジーは、政府機構と密接に関連しており、対立装置によって争われ、挑戦される。しかし、対立装置は、人権モデルとの関連で以下に示すように、それ自体が規律のテクノロジーの具体的な機能となることがある。
この分析枠組みを用いて、我々は2つのモデルを異なるタイプの対立装置として提示する。それぞれのモデルは、異なるタイプのテクノロジーを、異なる組み合わせで、異なる目的のために利用する。この2つのモデルは異なるものであるが、重要な点では、役割と実用性において補完的であることを示す。
4.2.2. 社会モデル
ベケットとキャンベルは、障害の社会モデルの文脈で対立装置の枠組みを開発した。彼らの分析は、本稿の議論にかなり関連している。我々は彼らの分析を参考にして、上記第2節で説明したCRPDの草案作成における社会モデルの使用と関連付け、分析を拡張する。
第一に、前述のように、社会モデルは、機能障害と障害という2つの別々だが関連した概念を生み出す。これはこのモデルが生産のテクノロジーとして機能しているということである。障害を社会的に作り出されたものとすることで、社会モデルは、障害を生み出す障壁を備えた不公正で障害のある社会という概念も生み出している。さらに、障害者と非障害者という2つのカテゴリーの人間を生み出している。前者のカテゴリーに属するかどうかは、一般的な能力基準に満たない何らかの特性を持っているか、あるいは持っていると認識されているかによる。この特性は多くの場合、生涯にわたって獲得され、その結果、個人は人生の大半をどちらかのカテゴリーの中で過ごすことになる。これらのカテゴリーの境界は、固定されたものでも不変のものでもなく、それ自体が変化しやすい社会的構築物である「機能障害」の概念や、アイデンティティの問題や運動への関与に依存している。
このような概念やカテゴリーを作り出すことで、社会モデルは、社会的な能力規範から外れた様々な身体的・精神的特徴を持つ人々を集め、障害者の社会運動を形成するように機能する。排除的な社会構造や態度、慣習による障害化の経験を共有し、抵抗や社会変革への約束を共有することにより連帯感や帰属意識が生まれる。
このような社会モデルの機能は、CRPDの起草においても明らかであった。このことがもっと目はっきりと示されたのはAHCの議論であり、社会モデルは、新しい条約に機能障害に基づく区別を盛り込むことに抵抗することで、様々な機能障害を持つ人々の連帯を確保するために用いられた。この区別は、特定の種類の機能障害のある人(例えば、心理社会的障害や知的障害のある人)に保障される権利保護の水準を低下させる可能性のある区別であった[163]。社会モデルが上記のような概念やカテゴリーを生み出すために機能していることは、「障害」の意味(CRPDの前文の(e)項で明示されている)についてCRPDが提供すべき指針に関するAHCの議論でも明らかである[164]。さらに高いレベルでは、社会モデルが「障害」を不正の一形態としたことが、社会モデルがAHCの議論の背景の参照点となった理由だと主張することもできる[165]。実際、社会モデルのこの機能は、障害に特化した人権条約を求める政治的原動力を生み出す上でも重要な役割を果たした。
第二に、記号システムのテクノロジーとしてベケットとキャンベルは、社会モデルが、解放のための障害政治と関連するタイプの声明と実践を明確にすると論じる[166]。例としては、「私たちぬきに私たちのことを決めないで」、「慈善でなく権利を」、「アクセシビリティとインクルージョン」などが挙げられる。また、「生物学は運命である」という主張、教育や雇用などの場で障害者を隔離する行為、障害者個人の人生の選択よりも医療やその他の専門職の専門性を優先する慣行など、反対方向の発言や実践に反対する基盤を提供する。
社会モデルがAHCの議論の中でこのように作用した例は、特に、平等とインクルージョンを促進するためにモデルが使用されたと前述した文脈において、再び確認することができる[167]。例えば、隔離された教育に反対する主張を支持するために用いられた。また、自由の剥奪と法的能力の文脈では、単に特定の機能障害の医学的診断に基づいて自由や法的能力を制限することを認める新条約の形成に異議を唱えるために使用された。個人の自律や主体性より医療専門職の専門性を優先することに異議を唱えるために使われたのである。
興味深いことに、公表されているAHCの文書には、CRPDには政府などが関係する意思決定プロセスに障害者を関与させ、協議する義務を含めるべきだという主張に関連して、社会モデルへの明確な言及がなされたことは示唆されていない[168]。これは、「私たちぬきに私たちのことを決めないで」という言葉が交渉の中でよく引用され、交渉が行われた国連の施設やシステムのアクセシビリティや包摂性に影響を与えるために使われたにもかかわらず、である[169]。この言葉は、社会モデルと密接に関連しており、社会モデルによって書かれていると考えられるが、内容面の意味合いについての議論のために、そのプロセス的な意味合いが軽視されることがある。この点については、サマハ氏も「社会モデルは、専門性への要求を変えることにより、制度的な選択に影響を与えることができる」と説明している[170]。なぜなら、問題を不利益や排斥への取り組みとして設定することは、医療や技術で解決する観点から必要とされるものとは異なる制度的な専門性を必要とするからである。
最後に、自己のテクノロジーとして、社会モデルは、障害者が「個人的な悲劇の物語を追放し、自分の身体を変化させ、...自分自身に働きかける」ことを可能にし[171]、欠損、欠陥、廃疾、哀れといったレッテルを拒否することができる。こうして、障害者という抑圧されたグループの一員として自分自身を新たに創造し、解放と社会変革を求めることができる。
AHC交渉において、このような社会モデルの働きの例を明示的に示すことは容易ではない。しかし、社会変革への外向きの焦点を含んでいるという点で、平等とインクルージョンの議論を支えるための社会モデルの利用は裏付けられている[172]。より広く言えば、この社会モデルの働きは、世界中の障害者運動の発展に寄与し、その結果、CRPDを育み、形成するための環境と集団的資源を生み出すのに役立ったことは間違いない。CRPDが採択される10年ほど前に発表された次の文章は、社会モデルが自己イメージや自尊心に与える影響について、一般に公開されている最も強力な証言の一つである。
私の人生には、障害の社会モデルの前と後の2つの段階がある。自分の経験についてのこの考え方を発見したのは、嵐の海のいかだだった。これは自分の人生に対する理解を与えてくれた。世界中の何千人、何百万人もの人々が共有している考え方である。私はこれにしがみついた。私の大黒柱となった。より広範な障害者運動にとっても支柱であった...。それは個々の障害者の自己価値、集団的なアイデンティティ、政治的な組織化を促進する上で中心的な役割を果たしてきた。社会モデルが命を救ったと言っても過言ではない[173]。
ここで紹介した社会モデルのさまざまな働きは、単独で機能しているわけではない。基礎的なレベルでは、障害者の「新しい集団」[174]の基盤を提供し、社会運動の枠組みを作るために影響し合っている。英国の代表的な障害者活動家は次のように言う。
「障害者」というレッテルが持つ人工的な性質にもかかわらず、外部の障壁の経験を共有することで、機能障害の違いにかかわらず、障害者は共通のアイデンティティを感じられる。社会モデルは、障害に関する「非難」を障害者に負わせずに障害を捉える貴重で効果的なツールを、障害者にも非障害者にも提供してきた[175]。
ベケットとキャンベルが示唆している[176]ように、社会モデルのこのような働きは、機能障害のある人の疎外、分類、対象化を生み出したり規制したりする規範的な実践や技術に対する障害者の抵抗を表現したり促進したりする、対立装置としての役割を反映している。したがって、重要な点は、このモデルは、政府の機構とそれに関連する規範のテクノロジーに抵抗するために作動することである[177]。
4.2.3. 人権モデル
人権モデルは、社会モデルと同じフーコーのテクノロジーの3つのタイプの具体的な運用とみなせるが、運用方法や結果は異なる。さらに、以下に説明するように、それは規律のテクノロジーとして機能する。この後の議論では、明確にするために必要に応じて社会的モデルとの簡単な比較を行う。また、必要に応じて、CRPD委員会の総括所見で人権モデルがどのように使用されているか(上記第2節で論じた)を参照し、議論に役立てる。
まず、生産のテクノロジーとしての人権モデルは、権利保有者を生み出す。また、権利を尊重する国や制度、権利を侵害する国や制度という区分を生み出す。これらの区分の構成員は固定的ではなく、具体的にどの権利のどの要素を見るかで変化し、また時間の経過とともに変化し続けることを明確にしておきたい。
これらの概念や区分を通して、人権モデルは、より広い人権運動の一部として、障害者を他の人々と一緒にまとめるように機能する。連帯感や帰属意識は、人間性を共有し、人間の差異や個人の尊厳の尊重に基づいて個人の繁栄を可能にするための積極的な社会変革への約束を共有することによって生まれる。このように、人権モデルと社会モデルは、それぞれの異なる帰属意識の主張によって特徴づけられる。前者は主に人類への帰属意識に焦点を当て、後者は障害者という政治的カテゴリーに焦点を当てている。
人権モデルのこのような生産的な機能は、CRPD委員会の総括所見の中で人権モデルに言及していることにある程度反映されている。最も明白な例は、権利保持者としての障害者の地位と、この地位を認識し尊重することの意味についての意識向上の取り組みの重要性に関連して使用されている[178]。
第二に、記号システムのテクノロジーとして、人権モデルは、障害政策への人権アプローチに関連する声明と実践のタイプを明確にしている。これは、障害者のための基本的な社会正義を確保するために国や機関に期待される行動の基準を定め、権利実施の進捗状況を監視するための実践と手順を作成し、指針を提供する。また、反対の方向に進む声明や慣行に異議を唱えるための基盤も提供する。例えば、総括所見は、勧告される人権モデルのアプローチと、「医学モデル」[179]やその他の問題のあるモデル(「慈善モデル」[180]、「施設化モデル」[181]、「特別教育モデル」[182]など)と呼ばれる代替的アプローチとを頻繁に対比させている。
人権モデルは、特にこのタイプのテクノロジーとして機能することで、デグナーが変化のための「工程表」というものを提供することができる。人権モデルが提供する政策と実践に関する指針のレベルは、社会モデルが提供するものよりもはるかに詳細である。ただし、CRPDにおける権利と義務の明確化は、他の人権条約と同様に、当然ながら国ごとに異なる実施戦略や実践の余地を残している。
第三に、自己のテクノロジーとしての人権モデルは、障害者が自分自身に取り組むことを可能にする。つまり、自分は他の人間と同じように価値のある人間であり、自分の選択や好みが軽んじられてはならない存在であり、地域社会の生活に包摂され、教育、雇用、余暇、家庭生活に参加する権利を持つ人間であるという、自尊心と自己価値の感覚を生み出す。社会モデルと同様に、人権モデルもしたがって個人レベルで大きな力を与える。
最後に、規律のテクノロジーに関連して、人権モデルは(社会モデルと同様に)、障害者を疎外し、不利にし、活力を奪う政府のテクノロジーに挑戦するために作動する対立装置として特徴づけることができる。さらに、CRPDに法典化されたことにより、またCRPDの国内および国際的な監視メカニズムを介して、人権モデルは、規律のテクノロジーとして機能すると理解することができる。フーコー的な意味での「規律」とは、望ましくない状態を是正し、望ましい行動を確保するためのテクノロジーを意味する。それは単に抑圧的な力の表れではない。規範や期待される行動が、政府やその他の機関、組織、個人によって植え付けられ、採用されるための微妙な手段も含まれている。規律のテクノロジーの鍵となるのは、手続き上の法制化、監視、検査、報酬や罰のメカニズムである。CRPDの適切な実施を監督するために設置された、国際および国内レベルの特定のシステムは、このようなテクノロジーの運用の例と見ることができる。
CRPDとそれに付随する選択議定書は、各国がCRPDの権利をどの程度実施しているかを監視し、理解と効果を高めるための指針を提供するための国際的な枠組みの一部として、CRPD委員会を設立し、機能させるための基盤となっている。実際、CRPD委員会の総括所見は、この国際的な監視プロセスの一部であり、関連する基準の明確化に貢献している。総括所見には、CRPDや人権モデルに合致した特定の戦略や改革を補完する形で、各国への賞賛が含まれているほか、時代に逆行する発展や不作為に対する批判も含まれている。CRPD委員会には、制裁措置を講じて国を「罰する」権限はないが、このような機関からの公的な批判は、国際的にも国内的にも政府の地位にダメージを与える可能性がある。
人権モデルが規律のテクノロジーとして機能している例は、国レベルでも見受けられる。この点で特に重要なのは、CRPDが締約国に条約の実施を調整し、進捗を監視するために設立を求めているメカニズムである。また、特に国際法に一元的なアプローチをとっている(訳注:批准した条約に国内法とおなじ効力を認める)国では、裁判所でCRPDを利用することができるという点も重要である[183]。
4.3. モデルの相補性
障害政策の人権モデルと障害の社会モデルには多くの共通点がある。これらはどちらも、抑圧的で排斥的な社会政治システムや慣行に対する障害者とその同盟者による抵抗によって形成され、その抵抗を支えている。このように、両者は同じ大きな目的に向かって活動しているが、モデルの性質上の重要な違いに応じて、特定の方法で活動している。最も基本的なことは、人権モデルが障害政策のモデルであるのに対し、社会モデルは障害のモデルであるということである。したがって、それぞれのモデルの主題と焦点は異なる。また、それぞれのモデルの機能の仕方も異なっている。
この2つのモデルがどのように機能しているかを上記のように詳細に分析すると、人権モデルが一般的に社会モデルに取って代わったり、改善されたりしていると考えるのは誤解を招くことが明らかになった。むしろ、この2つのモデルは、それぞれ異なる機能を果たしていると理解すべきであり、また、補完的な方法で協力し合っていると考えるべきである。この見解を裏付けるものとして、2つのポイントが挙げられる。
第一に、記号システムのテクノロジーと規律のテクノロジーに関連して前述したように、人権モデルは、特定の種類の法律と政策の発展を支援し、その実施を監督・監視するための特定の政府および国際的な構造とメカニズムを支援するように機能する。対照的に、社会モデルは、よりオープンな性質である。それは、より一般的な解放のための障害の政治と関連して機能する。前述の第2節でのAHCの議論の分析が明らかにしているように、それは人権の政策や枠組みに焦点を当てた解放のための障害の政治と関連して使用することができ、また使用されてきた。しかし、それは人権の場面に限定されるものではなく、主張や運動の目的が異なる文脈でも機能できる。この意味で、人権モデルは社会モデルよりも範囲が狭く、柔軟性に欠ける。つまり、社会モデルは、人権モデルが機能しない文脈でも、障害者が障害を生み出すシステムや慣行に抵抗できるよう機能する。
第二に、この2つのモデルは、重要な点において、人権モデルの働きが社会モデルに依存しているという点で補完的である。CRPD、ひいては人権モデルの重要な要素は、障害関連の政策、実践、手続きの作成に障害者組織が関与することである[184]。上記の議論から明らかなように、生産のテクノロジーと自己のテクノロジーとしての社会モデルの働きが、障害化に抵抗するために様々な種類の機能障害のある人々をまとめる障害者組織の形成を可能にしているのである。社会モデルによって生み出される連帯は、主に異なるタイプの機能障害のある人々の間で行われ、障害者の集団への帰属意識を生み出す。これは、障害者とその他の人々との間で、人類への帰属意識を生み出す人権モデルの連帯とは対照的である。障害者が集まって多種類の機能障害のある人を代表する組織を形成するのは、人権モデルではなく社会モデルである。社会モデルがなければ、機能障害に特化した組織はあっても、連合組織やその他の複数の機能障害の障害者組織の数は格段に少なくなり、CRPDや人権モデルで想定されている重要な役割を果たすことができない。このような代表的な組織がCRPDにとって重要であることは、AHCによる条約の起草において重要な役割を果たしたことを考えれば当然のことであり[185]、また、CRPD委員会の一般的意見7号やCRPDの条文自体も強調され、説明されている[186]。
- 結論
障害のモデル、特に障害の社会モデルは、障害者の政治的参加、障害関連の法律や政策の策定、学際的な障害研究の発展の歴史において極めて重要な役割を果たしてきた。人権モデルは、2006年にCRPDが採択されて以来、特に法律や政策の文脈で注目され、大きな影響力を持つようになった。我々が行った分析は、社会モデルと人権モデルの関係を検証し、後者が前者に置き換わる、あるいは前者を改善するという一般的な見解に代わるものである。
CRPDの草案作成および監視におけるそれぞれのモデルの使用に関する言説的な分析は、両モデルの性質と機能を詳細に比較するための文脈と例を提供した。この検証に基づいて、我々は、これまでの研究が2つのモデルの間に描き、「改善論」の根拠としてきた多くの対比の妥当性に疑問を呈する理由を見出した。我々が行った2つのモデルの比較では、デグナーの2つの区別を支持し、その他の重要な相違点(社会モデルの主題が障害であり、人権モデルの主題が障害政策であるという事実を含む)を明らかにした。
障害政策の人権モデルと障害の社会モデルは、どちらも対立装置として機能しており、不当な障害を生む社会に対する障害者の抵抗によって形成され、同時にその抵抗を支えている。両者は、異なる方法で、生産、記号システム、自己のテクノロジーとして機能しており、人権モデルは、非常に特殊な方法で、規律のテクノロジーとしても機能している。人権モデルは、社会モデルの上に構築され、それを補完するものである。どちらのモデルも貴重なツールであり、学者であれ、障害運動家であれ、障害者の平等、参加、包摂、生活の質、尊厳を達成しようと努力している熟練者にとって、自分の道具箱に必要なものである。仕事に最適なツールを選ぶことが重要である。CRPDを実施するための国家の努力の監視など、ある目的のためには、人権モデルがより適切であるかもしれない。しかし、それ以外の目的では、社会モデルの方が引き続き適している。
この2つのモデルの役割とその関係を明確にすることは、障害と人権の分野における今後の研究や、障害学全般にとって不可欠である。人権モデルは、障害者政策のモデルとして重要である。人権モデルは、人権に合致した法律や政策を策定するための詳細な工程表や、進捗状況を監視するためのシステムや枠組みを提供している。より柔軟な社会モデルは、人権の枠組みに関連しない文脈において、解放のための障害政治を支援するために機能する。また、機能障害のある人々が、障害を生む社会の経験を共有することで、抵抗する主観性を形成する上で極めて重要な役割を果たしている。人権モデルが効果的に機能するためには、社会モデルと一緒に働かなければならない。したがって、人権モデルは、社会モデルを補完するものであり、社会モデルを改善するものではない。
Notes
[1] M. Oliver, ‘A New Model in the Social Work Role in Relation to Disability’, in The Handicapped Person: A New Perspective for Social Workers, J. Campling (RADAR, 1981), https://disability-studies.leeds.ac.uk/wp-content/uploads/sites/40/library/Campling-handicppaed.pdf (accessed October 21, 2019); M. Oliver, Social Work and Disabled People (Macmillan, 1983).
[2] Constitution of Disabled People’s International’, preamble, http://dpi.org/document/documents-of-reference/dpi-constitutionen.pdf (accessed November 26, 2019). Note, however, that the terms ‘impairment’ and ‘disability’ are not used to describe these ideas in the same way as by UPIAS. See further, D. Driedger, The Last Civil Rights Movement: Disabled Peoples’ International (Hurst & Co, 1989), ch 5.
[3] ‘Union of Physically Impaired Against Segregation/Disability Alliance: Fundamental Principles of Disability’, (UPIAS/Disability Alliance, 1976), p. 3.
[4] Oliver, ‘A New Model’ (n 1), pp. 31–32 of the online document.
[5] M. Oliver, ‘The Individual and Social Models of Disability’ (paper presented at Joint Workshop of the Living Options Group and the Research Unit of the Royal College of Physicians on People with Established Locomotor Disabilities in Hospitals, 1990), p. 3. https://disability-studies.leeds.ac.uk/wp-content/uploads/sites/40/library/Oliver-in-soc-dis.pdf (accessed October 6, 2019).
[6] That there are multiple social models of disability has long been recognised. See e.g. G. Dewsbury et al., ‘The Anti-Social Model of Disability’, Disability & Society 19, no. 2 (2004): 145; T. Shakespeare and N. Watson, ‘The Social Model of Disability: An Outdated Ideology?’, Research in Social Science and Disability 2 (2002): 9; C. Thomas, ‘Developing the Social Relational in the Social Model of Disability: A Theoretical Agenda’, in Implementing the Social Model of Disability: Theory and Research, eds. C Barnes and G Mercer (Disability Press, 2004).
[7] A point discussed more fully in J. Grue, Disability and Discourse Analysis (Ashgate, 2016).
[8] J. Miller, ‘The European Disability Rights Revolution’, European Law Review 44, no. 1 (2019): 66, 69.
[9] G. Quinn and T. Degener, ‘The Moral Authority for Change: Human Rights Values and the World Wide Process of Disability Reform’, in Human Rights and Disability: The Current Use and Future Potential of Human Rights Instruments in the Context of Disability, eds. G. Quinn and T. Degener (United Nations, 2002), 13, 14.
[10] A. S. Kanter, ‘The Globalisation of Disability Rights Law’, Syracuse Journal of International Law and Commerce 30 (2003): 241, 247 in fn 23.
[11] See in particular, T. Degener, ‘Disability in a Human Rights Context’, Laws 5, no. 3 (2016): 35; T. Degener, ‘A New Human Rights Model of Disability’, in The United Nations Convention on the Rights of Persons with Disabilities: A Commentary, eds. V. Della Fina, R. Cera, and J. Palmisano (Springer, 2017), 41; T. Degener, ‘A Human Rights Model of Disability’, in Routledge Handbook on Disability Law and Human Rights, eds. P. Blanck and E. Flynn (Routledge, 2017), 31. See also M. A. Stein and P. J. Stein, ‘Beyond Disability Civil Rights’, Hastings Law Journal 58 (2007): 1203 at 1209–10, although they refer to a ‘disability human rights paradigm’ rather than a ‘human rights model of disability’; S. Arduin, ‘Article 3. General Principles’, in The UN Convention on the Rights of Persons with Disabilities: A Commentary, eds. I. Bantekas, M. Stein and D. Anastasiou (OUP, 2018) (particularly at 98–99); S. Arduin, ‘Implementing Disability Rights in Education in Ireland: An Impossible Task’, Dublin University Law Journal 36 (2013): 93.
[12] A/Res/61/106, adopted on 13 December 2006.
[13] The growing influence of this view is noted e.g. by E. Kakoullis and Y. Ikehara in ‘Article 1. Purpose’ in Bantekas, Stein and Anastasiou (n 11) at 38 and 58–59.
[14] G. Bowen, ‘Document Analysis as a Qualitative Research Method’, Qualitative Research Journal 9, no. 2 (2009): 27.
[15] GA/Res/56/168 (19 December 2001) 61st item 76.67(b). During our analysis, the online archive of this Committee’s work was available at https://www.un.org/development/desa/disabilities/resources/ad-hoc-committee-on-a-comprehensive-and-integral-international-convention-on-the-protection-and-promotion-of-the-rights-and-dignity-of-persons-with-disabilities.html (accessed November 7, 2019). Unfortunately, however, these documents have subsequently been taken off line but the authors have retained copies.
[16] See e.g. M. Foucault, The Order of Things (Pantheon Books, 1970); The Archaeology of Knowledge (Trans, 1969).
[17] For examples of other work which has analysed the way different models of disability operate discursively, see M. Oliver, ‘Politics and Language: Understanding the Disability Discourse’ (1994). https://disability-studies.leeds.ac.uk/wp-content/uploads/sites/40/library/Oliver-pol-and-lang-94.pdf (accessed November 28, 2019); J. Haegele and S. Hodge, ‘Disability Discourse: Overview and Critiques of the Medical and Social Models’, Quest 68, no. 2 (2016) 193; B. Manago, D. Davis, and C. Goar, ‘Discourse in Action: Parents’ Use of Medical and Social Models to Resist Disability Stigma’, Social Science and Medicine 184 (2017): 169.
[18] R. Kayess and P. French, ‘Out of Darkness into Light: Introducing the United Nations Convention on the Rights of Persons with Disabilities’ Human Rights Law Review 1 (2008): 1. 7.
[19] R. Traustadóttir, ‘Disability Studies, the Social Model and Legal Developments’, in The UN Convention on the Rights of Persons with Disabilities – European and Scandinavian Perspectives, eds. O. Arnardóttir and G. Quinn (Martinus Nijhoff, 2009), 3, 16.
[20] T. Degener, ‘Disability in a Human Rights Context’ (n 11), 48.
[21] A point also acknowledged by Kayess and French (n 18), who refer to it as a ‘populist’ version of the social model; and Harper in P. Harper, ‘Embracing the New Disability Rights Paradigm: The Importance of the Convention on the Rights of Persons with Disabilities’, Disability and Society 27, no. 1 (2012): 1, who refers to it as a ‘non-radical’ version of the model.
[22] ‘Report of the Ad Hoc Committee Promotion of the Rights and Dignity of Persons with Disabilities’ Second Session, A/58/118 & Corr 1 (3 July 2003), (on file with the authors), Annex II.
[23] Rehabilitation International, ‘UN Convention on the Human Rights of People with Disabilities: Ad Hoc Committee Seventh Session – Daily Summaries’ (on file with the authors), 24 January 2006.
[24] Ibid.
[25] ‘Report of the Third Session of the Ad Hoc Committee on a Comprehensive and Integral International Convention on the Protection and Promotion of the Rights and Dignity of Persons with Disabilities’, A/AC265/2004/5 (9 June 2004) (on file with the authors), Annex II (Article 2: General Principles).
[26] Land Mine Survivors Network, ‘Daily Summary of Discussion at the Third Session’, (on file with the authors) 24 May 2004.
[27] ‘Compilation of Proposals Received from Government Delegations’ submitted to the Eighth Session of the Ad Hoc Committee (on file with the authors), p 3.
[28] Disabled People’s International, ‘UN Convention on the Human Rights of People with Disabilities: Ad Hoc Committee Eighth Session – Daily Update’ (on file with the authors) 21 August 2006.
[29] See e.g. Disabled Peoples’ International, Handicap International and the International Service for Human Rights, ‘UN Convention on the Human Rights of People with Disabilities: Ad Hoc Committee Fourth Session – Daily Summaries 23 August 2004’ (on file with the authors); Rehabilitation International (n 23), 31 January 2006; and Disabled People’s International (n 28), 23 August 2006.
[30] ‘Report of the Third Session of the Ad Hoc Committee’ (n 25), Annex II, footnote 12.
[31] Disabled Peoples’ International, Handicap International and the International Service for Human Rights (n 29), 23 August 2004.
[32] Ibid.
[33] Ibid.
[34] Rehabilitation International (n 23), 31 January 2006 – although Israel indicated that it would prefer the phrase ‘persons with disabilities’ to be defined instead of the phrase ‘disability’.
[35] Disabled Peoples’ International, Handicap International and the International Service for Human Rights (n 29), 23 August 2004.
[36] Rehabilitation International (n 23), 31 January 2006.
[37] Ibid.
[38] Ibid.
[39] Disabled Peoples’ International, Handicap International and the International Service for Human Rights (n 29), 23 August 2004.
[40] Ibid.
[41] Ibid.
[42] Rehabilitation International (n 23), 31 January 2006.
[43] Ibid.
[44] World Health Organisation, ‘The International Classification of Functioning, Disability and Health’, (paper submitted to the Ad Hoc Committee’s Eighth Session in ‘Contributions from UN System Agencies’) (on file with the authors), Tenet 6.
[45] ‘Joint Statement on an UN Convention on the Rights and Dignity of Persons with Disabilities’, adopted at the UNESCAP Workshop on Regional Follow-up to the Seventh Session and Preparation for the Eighth Session of the Ad Hoc Committee on an International Convention on the Protection and Promotion of the Rights and Dignity of Persons with Disabilities (21 July 2006), paper submitted to the Ad Hoc Committee’s Eighth Session in ‘Contributions from UN System Agencies’ (on file with the authors) para 4(a) (footnotes omitted).
[46] Disabled Peoples’ International, Handicap International and the International Service for Human Rights (n 29), 23 August 2004.
[47] ‘Proposed Modifications by Governments’ paper submitted to Ad Hoc Committee Seventh Session (on file with the authors).
[48] Rehabilitation International (n 23), 31 January 2006.
[49] Ibid.
[50] Ibid.
[51] For careful analyses of all the AHC discussions relevant to the CRPD’s guidance on the concept of ‘disability (not confined, as the present discussion, to documents explicitly mentioning the social model) see, on para (e) of the preamble, J. Lord, ‘Preamble’ and, on Article 1, E. Kakoullis and Y. Ikehara, ‘Article 1: Purpose’ – both chapters in Bantekas, Stein and Anastasiou (n 11).
[52] See e.g. T. Titchkosky, ‘Disability: A Rose by Any Other Name? ‘People-First’ Language in Canadian Society’, Canadian Review of Sociology and Anthropology 38 (2001) 125.
[53] For this reason, the term ‘condition’ was used instead by the International Disability Caucus in its proposal on Article 2 at the seventh session of the AHC (on file with the authors).
[54] See e.g. T. Campbell, Dyslexia: The Government of Reading (Palgrave Macmillan, 2013); F. Kumari Campbell, Contours of Ableism: The Production of Disability and Abledness (Palgrave MacMillan, 2009); G. Wolbring, ‘The Politics of Ableism’, Development 51, no. 2 (2013): 252.
[55] Traustadóttir (n 19), 12–13.
[56] Kayess and French (n 18), 21.
[57] Land Mine Survivors Network (n 26), 26 May 2004.
[58] Rehabilitation International, ‘UN Convention on the Human Rights of People with Disabilities. Ad Hoc Committee Fifth Session – Daily Summaries’ (on file with the authors), 3 February 2005.
[59] Ibid, 25 January 2005.
[60] Rehabilitation International (n 23), 24 January 2006.
[61] Centre for Studies in Inclusive Education, ‘Briefing for the Ad Hoc Committee’s Fifth Session’ (on file with the authors) at p 1.
[62] See e.g. comments by India and Jordan, Land Mine Survivors Network (n 26), 1 June 2004; and Republic of Korea, Rehabilitation International, ‘UN Convention on the Human Rights of People with Disabilities: Ad Hoc Committee Sixth Session – Daily Summaries’ (on file with the authors), 8 August 2005.
[63] Ibid. See also the International Disability Caucus’ contribution to this effect in Rehabilitation International (n 23), 25 January 2006.
[64] Ibid.
[65] Rehabilitation International (n 62), 8 August 2005.
[66] Ibid.
[67] CRPD, Article 1.
[68] See e.g. comments by Thailand and Mexico reported at Rehabilitation International (n 58), 25 January 2005.
[69] Rehabilitation International (n 23), 31 January 2006.
[70] Land Mine Survivors Network (n 26), 25 May 2004.
[71] Ibid, 4 June 2004.
[72] Ibid, 2 June 2004, per Disabled People’s International.
[73] Ibid, 3 June 2004, per World Network of Users and Survivors of Psychiatry.
[74] Report of the Third Session (n 25), Annex II (Draft Article 5: Promotion of Positive Attitudes) – proposal introduced by the Philippines.
[75] Disabled Peoples’ International, Handicap International and the International Service for Human Rights (n 70), 1 September 2004.
[76] Ibid.
[77] CRPD, preamble paragraph (e).
[78] For detailed analysis, see e.g. D. Anastasiou, M. Gregory, and J. M. Kauffman, ‘Article 24: Education’ in Bantekas, Stein and Anastasiou (n 11), 656; V Della Fina, ‘Article 24 [Education]’, in Della Fina, Cera and Palmisano (n 11), 439; and G de Beco, ‘The Right to Inclusive Education According to Article 24 of the UN Convention on the Rights of Persons with Disabilities: Background, Requirements and (Remaining) Questions’, Netherlands Quarterly of Human Rights 32, no. 3 (2014): 263.
[79] Stein and Stein (n 11), 1240.
[80] Degener, ‘A Human Rights Model of Disability’ (n 11), 33.
[81] CRPD Committee, Concluding Observations on Peru, CRPD/C/CO/1 (20 April 2012), para 6.
[82] Ibid, para 47.
[83] See e.g. Concluding Observations on Oman, CRPD/C/OMN/CO/1 (17 April 2018), para 46(b); Jordan, CRPD/C/CO/1 (15 May 2017), para 48(b); and Armenia, CRPD/C/ARM/1 (12 April 2017), para 6(b).
[84] See e.g. Concluding Observations on Paraguay, CRPD/C/PRY/CO/1 (15 May 2013), para 72; and the Russian Federation, CRPD/C/RUS/CO/1 (9 April 2018), paras 7 and 8.
[85] Concluding Observations on Turkmenistan, UN Doc CRPD/C/TKM/CO/1 (17 April 2015), para 10.
[86] Concluding Observations on the Seychelles, CRPD/C/SYC/CO/1 (16 April 2016), para 7(c).
[87] See e.g. CRPD Committee Concluding Observations on Norway, CRPD/C/NOR/CO/1 (7 May 2019), para 5(d); and the Philippines, CRPD/C/PHL/CO/1 (16 October 2018) para 6(a).
[88] CRPD Committee Concluding Observations on Argentina, CRPD/C/ARG/CO/1 (29 September 2012), para 8.
[89] e.g. CRPD Committee Concluding Observations on China, CRPD/C/CHN/CO/1 (15 October 2012) paras 9 and 10; Brazil, CRPD/C/BRA/CO/1 (29 September 2015), paras 6 and 7; and Saudi Arabia, CRPD/C/SAU/CO/1 (13 May 2019) paras 5(b) and 6(a) and (b).
[90] e.g. CRPD Committee Concluding Observations on Mongolia, CRPD/C/MNG/CO/1 (16 April 2015), para 8; Croatia, CRPD/C/HRV/CO/1 (17 April 2015), para 5; Qatar, CRPD/C/QAT/CO/1 (2 September 2015), para 7; Gabon, CRPD/C/GAB/CO/1 (2 October 2015), paras 10 and 11; and the United Kingdom, CRPD/C/UK/CO/1 (29 August 2017) paras 6 and 7.
[91] e.g., in connection with the ‘Comprehensive Legislation on the Protection of the Rights of Persons with Disabilities (2004)’ in Iran, CRPD/C/IRN/1 (5 April 2017), para 9; the Equal Opportunities Act and the Training and Employment of Disabled Persons Act in Mauritius, CRPD/C/MUS/CO/1 (30 September 2015), para 6; and the ‘envisaged reforms’ on disability certification, work capacity and retirement in Bulgaria, CRPD/C/BGR/CO/1 (22 October 2018), para 14.
[92] e.g. in its Concluding Observations on the United Arab Emirates, CRPD/C/ARE/CO/1 (22 August 2016), para 7; Morocco, CRPD/C/MAR/CO/1 (25 September 2017), para 6; Slovenia, CRPD/C/SVN/CO/1 (16 April 2018) para 4; Nepal, CRPD/C/NPL/CO/1 (16 April 2018), para 8; and South Africa, CRPD/C/ZAF/CO/1 (23 October 2018), para 5.
[93] e.g. in the Committee’s Concluding Observations on Montenegro, CRPD/C/MNE/CO/1 (28 August 2017), paras 44 and 49; Latvia, CRPD/C/LVA/CO/1 (10 October 2017), para 7; Algeria, CRPD/C/DZA/CO/1 (27 June 2019), para 7; Norway, (n 118, para 6); and Turkey, CRPD/C/TUR/CO/1 (9 April 2019), para 55.
[94] CRPD/C/POL/CO/1 (29 October 2018), para 6(b). See, for the similar passage in the Concluding Observations on Malta, CRPD/C/MLT/CO/1 (17 October 2018), para 6(b).
[95] (n 89), para 20. See also, for examples of similar concerns, the Committee’s Concluding Observations on Costa Rica, CRPD/C/CRI/CO/1 (12 May 2014) para 17; Mongolia (n 90), para 16; Gabon (n 90), para 21; Nepal (n 92), para 16; Oman (n 83), para 18; the Seychelles (n 86), para 19; Thailand, CRPD/C/THA/CO/1 (11 April 2016), para 20; United Kingdom (n 90), para 23; Algeria (n 93), 18; Malta (n 94), para 14; Norway (n 87), para 14; Philippines (n 87), para 19; South Africa (n 92), para 7; and Vanuatu, CRPD/C/VUT/CO/1 (13 May 2019), para 17.
[96] (n 89), para 16.
[97] CRPD/C/CAN/CO/1 (12 April 2017), para 20.
[98] See e.g. in those on Argentina (n88), para 39; Gabon (n 90), para 55; Lithuania, CRPD/C/LTU/CO/1 (11 May 2016) para 49; Qatar (n 90), para 46; United Arab Emirates (n 92), para 46; Niger, CRPD/C/NER/CO/1 (1 May 2019), para 42; Senegal, CRPD/C/SEN/CO/1 (13 May 2019) para 44; and Bulgaria (n 91), para 52.
[99] (n 97), para 10.
[100] (n 88), para 20.
[101] CRPD/C/AZE/CO/1 (12 May 2014), para 29.
[102] CRPD/C/KOR/CO/1 (29 October 2014), para 38.
[103] CRPD/C/AUT/CO/1 (30 September 2013), para 30.
[104] (n 88), paras 23 and 24.
[105] See e.g., the CRPD Committee’s Concluding Observations on Bulgaria (n 91), paras 10 and 60; Cuba, CRPD/C/CUB/CO/1 (10 May 2019) para 8; Malta (n 94), para 6; Philippines(n 87), para 7; Poland (n 94), para 6; Senegal (n 98), para 6; and South Africa (n 92), para 5.
[106] See e.g. Concluding Observations on Poland (n 94), para 6.
[107] See e.g. Concluding Observations on Bulgaria (n 91), para 70.
[108] See e.g. Concluding Observations on Norway (n 87), para 14; Philippines (n 87), para 19; and Poland (n 94), para 14.
[109] See references at n 11.
[110] See e.g. Degener, ‘A New Human Rights Model of Disability’ (n 11), 36.
[111] Ibid, 43 fn 6. See for examples of publications in which the phrase ‘human rights model of disability’ was used prior to 2014, T. Degener and G. Quinn, ‘A Survey of International, Comparative and Regional Disability Law Reform’, in Disability Rights Law and Policy, eds. M. L. Breslin and S. Yee (Transnational Publishers, 2002), 13 and 40; Kanter (n 10), 242. See also, for examples of publications in which the phrase ‘human rights model’ was used, in disability-related contexts but without adding the words ‘of disability’, Quinn and Degener, ‘The Moral Authority for Change’ (n 9) 14; Stein and Stein (n 11), where particular use is made of the phrase ‘disability human rights paradigm’ but where the term ‘disability human rights model’ also appears; A. S. Kanter, ‘The United Nations Convention on the Rights of Persons with Disabilities and Its Implications for the Rights of Elderly People under International Law’, Georgia State University Law Review 25, no. 3 (2009): 527.
[112] Degener, ‘A Human Rights Model of Disability’ (n 11), 33.
[113] Stein and Stein (n 11), 1221.
[114] Ibid, 1223.
[115] Ibid, 1212.
[116] Ibid, 1240.
[117] Ibid, 1223 and 1225.
[118] Ibid, 1240.
[119] Degener, ‘Disability in a Human Rights Context’ (n 11), 53.
[120] Ibid, 36.
[121] Ibid.
[122] Ibid.
[123] Ibid, 35.
[124] Ibid, 37.
[125] Degener, ‘A New Human Rights Model of Disability’ (n 11), 54–56; Degener, ‘Disability in a Human Rights Context’ (n 11), 46–47; Degener, ‘A Human Rights Model of Disability’, (n 11), 47–48.
[126] Degener, ‘Disability in a Human Rights Context’, (n 11), 38; Degener, ‘A Human Rights Model of Disability’ (n 11), 35.
[127] Stein and Stein (n 11), 1210.
[128] Ibid, 1209.
[129] M. Oliver, Understanding Disability. From Theory to Practice (2nd edin, Palgrave MacMillan, 2009), 52.
[130] V. Finkelstein, ‘The Social Model Repossessed’, transcript of talk at Greater Manchester Coalition of Disabled People, 2001, p 4. Online at: https://disability-studies.leeds.ac.uk/wp-content/uploads/sites/40/library/finkelsteinsoc-mod-repossessed.pdf (accessed October 28, 2019).
[131] Degener, ‘A New Human Rights Model of Disability’ (n 11), 47. See also Degener, ‘Disability in a Human Rights Context’ (n 11), 40.
[132] Ibid, 47.
[133] Shakespeare and Watson (n 6).
[134] Ibid, 11.
[135] C. Thomas, ‘Rescuing a Social Relational Understanding of Disability’, Scandinavian Journal of Disability Research 6, no. 1 (2004): 22, 28.
[136] See e.g. J. Morris, ed., Encounters with Strangers: Feminism and Disability (Women’s Press, 1996). See also T. Shakespeare, Disability Rights and Wrongs Revisited (Routledge, 2014); D. Anastasiou and J. Kauffman, ‘The Social Model of Disability: Dichotomy between Impairment and Disability’, Journal of Medicine and Philosophy 38 (2013): 441.
[137] Degener, ‘A New Human Rights Model of Disability’ (n 11), 47; ‘Disability in a Human Rights Context’ (n 11), 40.
[138] Degener, ‘Disability in a Human Rights Context’, (n 11), 47.
[139] Degener, ‘A New Human Rights Model of Disability’ (n 11), 49; ‘Disability in a Human Rights Context’ (n 11), 43.
[140] Degener, ‘Disability in a Human Rights Context’, (n 11), 43.
[141] Ibid, 44.
[142] See e.g. A. Vernon, ‘A Stranger in Many Camps: The Experience of Disabled Black and Ethnic Minority Women’, in J. Morris (ed) (n 159), 48; A. Vernon, ‘The Dialectics of Multiple Identities and the Disabled People’s Movement’, Disability and Society 14, no. 3 (1999): 385; T. Degener, ‘Intersections Between Disability, Race and Gender in Discrimination Law’, in European Union Non-Discrimination Law and Intersectionality. Investigating the Triangle of Racial, Gender and Disability Discrimination, eds. D. Schiek and A Lawson (Routledge, 2011), 29.
[143] Degener, ‘A New Human Rights Model of Disability’ (n 11), 52; ‘Disability in a Human Rights Context’, (n 11), 45.
[144] CRPD, Article 25(b).
[145] M. Oliver, ‘The Social Model in Action: If I Had a Hammer’, in Implementing the Social Model of Disability: Theory and Research, eds. C. Barnes and G. Mercer (Disability Press, 2004), 18, 22.
[146] Oliver (n 5), 2.
[147] R. Frigg and S. Hartmann, ‘Models in Science’, in The Stanford Encyclopedia of Philosophy, ed. E. N .Zalta (Stanford University, 2018). https://plato.stanford.edu/archives/sum2018/entries/models-science/ (accessed October 21, 2019).
[148] M. Berghs, K. Atkin, C. Hatton, and C. Thomas, ‘Do Disabled People Need a Stronger Social Model: A Social Model of Human Rights?’ Disability and Society 34 (2019): 1034.
[149] Oliver (n 145), 20.
[150] L. C. Hawes, Pragmatics of Analoguing (Addison-Wesley, 1975).
[151] See e.g. Finkelstein (n 130); Oliver (n 145), 30.
[152] Thomas (n 135).
[153] R. Light, Social Model or Unsociable Muddle (Disability Awareness in Action, undated). http://www.daa.org.uk/index.php?page=social-model-or-unsociable-muddle (accessed April 17, 2019).
[154] See A. M. Samaha, ‘What Good is the Social Model?’ University of Chicago Law Review 74 (2007): 1251.
[155] Oliver (n 129), 13.
[156] Wolbring (n 54).
[157] This idea was introduced, in the context of art activism, in B. Holmes, ‘The Oppositional Device or Taking Matters into Whose Hands?’, in Taking the Matter into Common Hands: on Contemporary Art and Collaborative Practices, eds. J Billing, M Lind and L Nilsson (Black Dog, 2007), 35.
[158] Holmes (n 157), 37.
[159] A. Beckett and T. Campbell, ‘The Social Model of Disability as an Oppositional Device’, Disability and Society 30, no. 2 (2015): 270, 274.
[160] Ibid.
[161] See e.g. M. Foucault, ‘Sex, Power and the Politics of Identity’, in Essential Works of Foucault: Ethics, Subjectivity, Truth: Vol. 1, ed. P. Rabinow (The New Press, 1997), 163–74; M. Foucault, ‘The Ethics of the Concern for Self as a Practice of Freedom’ in Rabinow (ibid), 281–301; M. Foucault, Technologies of the Self: A Seminar with Michel Foucault, edited by L. H. Martin, H. Gutman, and P. H. Hutton (University of Massachusetts Press, 1988).
[162] M. Foucault, ‘Technologies of the Self’ (n 161).
[163] See Section 2.2.4.
[164] See Section 2.2.2.
[165] See Section 2.2.1.
[166] Beckett and Campbell (n 159), 275.
[167] See Section 2.2.3.
[168] Such as those now contained in CRPD, Articles 4(3) and 33(3).
[169] See e.g. S. Tromel, ‘A Personal Perspective on the Drafting History of the United Nations Convention on the Rights of Persons with Disabilities’, in European Yearbook of Disability Law, eds. G. Quinn and L. Waddington (Intersentia, 2009), 115.
[170] Samaha (n 154), 1308.
[171] Beckett and Campbell (n 159), 276.
[172] Section 2.2.3.
[173] L. Crow, ‘Including All of Our Lives: Renewing the Social Model of Disability’, in ed. J. Morris (n 136), 206, 206–207.
[174] Beckett and Campbell (n 159) 278, drawing on A. Negri and J. Revel, ‘On the Institution of the Common’, in Toward a Global Autonomous University, Cognitive Labor, the Production of Knowledge, and Exodus from the Education Factory, eds. The Edu-Factory Collective (Autonomedia, 2009), 172–9, describe this as a new ‘we’ or a ‘common’.
[175] Light (n 153).
[176] Beckett and Campbell (n 159).
[177] We acknowledge that like other oppositional devices it is possible for the social model to be co-opted by machineries of government and for it to be used as part of disciplinary practices and technologies that have disabling effect. See e.g. the UK Government’s express commitment to the social model in the United Kingdom Initial Report on the Rights of Persons with Disabilities (Stationery Office, 2011), https://www.gov.uk/government/publications/un-convention-on-the-rights-of-persons-with-disabilities-initial-report-on-how-the-uk-is-implementing-it (accessed January 23, 2020) at a time when it was introducing austerity measures with effects on disabled people that were subsequently condemned by the CRPD Committee as extremely damaging and retrogressive – see Committee on the Rights of Persons with Disabilities, ‘Report of the Inquiry Concerning the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland Carried out by the Committee Under Article 6 of the Optional Protocol to the Convention’ CRPD/C/15/4 (2 September 2016).
[178] See Section 3.3.3.
[179] See e.g. CRPD Committee Concluding Observations on Algeria (n 93), para 6; Bulgaria (n 91), para 9; Cuba (n 105), para 7; Norway (n 87), para 5; Rwanda, CRPD/C/RWA/CO/1 (3 May 2019) para 5; and South Africa (n 92), para 4.
[180] See e.g. CRPD Committee Concluding Observations on Saudi Arabia (n 89), para 5.
[181] See e.g. CRPD Committee Concluding Observations on the Philippines (n 87), para 34.
[182] Ibid, para 40.
[183] For extensive analysis of the ways in which courts in thirteen jurisdictions have used the CRPD, see L. Waddington and A. Lawson, eds., The UN Convention on the Rights of Persons with Disabilities: A Comparative Analysis of the Role of Courts (OUP, 2018).
[184] See, in particular, Articles 4(3) and 33 of the CRPD; and CRPD Committee, ‘General Comment No 7 (2018) on the participation of persons with disabilities, including children with disabilities, through their representative organisations, in the implementation and monitoring of the Convention’, CRPD/C/GC/7 (21 September 2018).
[185] See Section 2.2 above. See also Tromel (n 169).
[186] See references at n 184 above.
(翻訳:佐藤 久夫)
上の部分のマーカー及び、以下追加
「障害の社会モデルと人権モデルの関係に関する研究会」
http://www.reddy.e.u-tokyo.ac.jp/act/231202.html
のご案内です。
日時 2023年12月2日(土曜日)14:00-17:00
会場 東京大学小島ホール(2階)小島コンファレンスルーム(本郷キャンパス)
【主催】
障害者就労制度の日独英比較――法学と経済学の学際的アプローチ(科研費基盤B:研究代表者川島聡)
多様性の経済学(REDDY:研究代表者松井彰彦)
障害学会
【趣旨】
2022年秋に障害者権利条約の日本における実施状況について初めての審査結果である総括所見が公表された。そこで7回言及されているのは障害の人権モデルである。障害学の基盤をなす障害の社会モデルへの言及はない。そのため、改めてこの二つのモデルの関係に関心が集まっている。
そこでこの二つのモデルの関係について取り組んできた二人の専門家をお迎えして研究会を開催する。
一人は、障害の社会モデルと人権モデルの関係を明らかにした論文の著者であるアンハラッド・ベケット教授である。ベケット教授は英国リーズ大学社会学・政策学部の教授であり、同大学の障害学センター長をつとめた経験を持つ。また、障害学のジャーナル(International Journal of Disability and Social Justice)の編集長を務めている。
一人は、国際人権法学・障害法学の観点から障害学に取り組み、多くの実績を持つ川島聡教授(放送大学)である。同教授は、障害学会・日本障害法学会・国際人権法学会の理事である。
~~~このいイベントの感想~~~人権モデルと社会モデルの関係については、以前から気になっていたので、ぼくにはとても興味深いテーマ設定でした。
学術的な観点からはその限界や難点が厳しく論難され、実践的な観点からは新たな「モデル」の提示が要請されてもいる。率直に言えば、世界的には「過去の遺物」と捉えられるものになりつつあるといっても過言ではない。~~~これに関するベケットさんの見解も聞いてみたかったのでした。
~~研究会のアンケートに書いた感想ここまで~~
そこでアンケートに書いた感想は以下
ベケットさんの講演はとても興味深く、そして大切な情報に満ちていると感じました。質問欄に書いた質問を再掲します。~~~人権モデルと社会モデルの関係について、これまでいろいろ思い悩みながら考えてきましたが、ベケットさんの話を聞いて、とても腑に落ちるものがありました。 いくつかあるのですが、アカデミアは障害者運動に貢献すべきというすっきりした考え方です。アカデミアは重箱の隅をつつくような議論で小さな違いをいかにも大きな違いであるかのように議論し、アカデミアの中では「社会モデルは終わった」というような言説が渦巻いている中で、ベケットさんは「そうではない」。障害者運動が社会モデルに依拠して、運動を進めているのだから、その運動に寄与するような議論が必要で、今日の講演でもそのように議論を組み立てられているように感じました。 そんななかで、ベケットさんの主張する相補論については、確かにその通りだと思っていたのですが、そこから以下のことを考えました。 社会モデルに対応するのが個人モデル 人権モデルに対応するのが医療モデル そのように考えると、ベケットさんの相補論もわかりやすく整理できるのではないかと考えたのですが、この考え方について、ベケットさんがどのように考えるのか、聞いてみたいです。
亡くなった立岩真也の社会モデル理解(『不如意の身体』53頁)や「新たなモード」での飯野さんや星加さんの議論(読書メモ多数)や社会モデルは破綻しているので障害学は終わったという榊原さんの議論、さらにはポスト障害学の知見なども重ねて考えると興味深いと思う。
立岩真也の社会モデル理解(『不如意の身体』53頁)
7 社会モデルの本義
以上から医療モデル・個人モデルに対置される社会モデルをどのように解することができるか、むしろ解するのがよいのか、基本的なことが言える。
社会モデルの主張が意味のある主張であるのは、それがその人が被っている不便や不利益の「原因」その人にでなく社会に求めたから、ではない。少なくともその言い方は不正確である。医療モデル・個人モデルが「足がないからそこに行けない」と主張するのに対し、社会モデルは「車椅子が通れる道がないからそこに行けない」と主張するという対置は、わかりやすそうだが、正確ではなく、かえってわかりにくい。目的地に着くことが可能になる条件としてはどちらもそれなりに当たっている。問題は因果関係ではない。また、何をするのがよいのか、医療やリハビリテーションを受けるのか、それとも別の手段によって機能を補うのがよいのか、その選択肢の前者を常に採用するべきであるという主張であると受け止めるべきでもない。
二つのモデルの有意味な違い、あるべき対立は、社会の基本的な所有と分配のあり方に対する態度に関わっている。分岐は、一つ、ある人ができる/できないこととその人の生活の水準とを基本的に別のことと捉え、可能で正当な手段がある限りにおいて――どのようにしても差異自体がなくなることはないのだが――それを用い、人々が暮らせるべきであると考えるのか、それとも、一つ、生産し貢献する昔は基本的にその産物を取得してもよい、貢献に応じて受け取ってよいと考えるのかという立場の分岐である。
後者の立場は、政治哲学、厚生経済学その他の規範論的な議論において、様々に変形され、そこに生ずる不平等の是正がはかられるのではあるが、依然として基本的なところで肯定され維持されているその半端さを指摘し、それではだめであることを示すことが私の仕事の一部であってもきた。それに対して、以上のように考えてくるなら、私は、障害学の主張、その社会モデルの主張は、この後者の立場を基本的なところで是認せず、一人ひとりの身体の差異に関わってこの社会――それは後者の立場が基本的に是認する社会である――に生ずる不利を、当然のこととして、あるいは仕方なくではあっても、甘受すべきものとすることを容認しない主張であると捉えるべきであり、その時に、それは最も整合的であり、ありうる批判に有効に抗することのできる主張であると考える。その立場は私自身の立場でもあるのだが、それはその「学」が立ち上がったそのもとにあるものと、私が見てきてそこか(も)考えてきたものとが基本的には共通したものであるということでもある。
その上で、医療や専門家に対する批判は、そして個人に対して社会を対置しようとする主張は、社会がこの立場が批判するような社会である時、そこから派生して、しかし必然的に派生して現れるものである。すなわち、その社会においては、自らの、個人の能力を維持し高め回復すること、そのことによって生きていくことを当然とし、またそのように自らを仕向けなければ実際に生き難いのだから、自らを修繕し機能を高めることを優先させるだろうし、自己決定という選択が与えられたとしても、その方向に向かわざるをえないことになるだろうし、そのことに関わる仕事をする人たちに力を与えてしまうことになるだろう。そうでなければならないのではない。別様に社会はあることができるし、あってよいはずだ。社会モデルの主張はそのことを言ってきたのだと思う。
以上ごく手短に、しかも障害の(1)機能という側面だけに即して、言えるはずの概略を述べた。さらに詳しく検討するべきところが多々ある。また、少なくとも五つはあると述べたその全てでないとしても幾つかについて検討すべきことがある。それらの作業は別のところで行なうことにする。
立岩真也著『不如意の身体 』第2章 社会モデル53~54頁から
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