障害 労働 配分 所得補償 に関するメモ(立岩真也さんの話から)
今年から立命館の生存学研究所の客員研究員にしてもらえたので、先端研院生プロジェクト「障害者と労働」研究会8月例会(講師・立岩真也先生)に参加することが出来た。8月27日金曜日夕方4時間の長丁場。
(お金はもらえない研究員のメリットをこれまででいちばん感じた体験だった)
4時間の研究会、疲れたけど、エキサイティングで面白かった。
まず立岩さんが「障害者と/の労働について」という題で授業形式の話
この講演の元になった話は
「障害者と/の労働について:覚書」
http://www.arsvi.com/ts/20210011.htm
として公開されている、。
研究会の案内に、上記の立岩さんの文章から引用されているのが以下。
「この主題が考えられてよいことについては幾度も述べてきた」
「障害者の就労という主題に限らず労働について考えることはこれからしばらくの大きな主題だと、私はかなりにまじめに思っている」
「労働の分配・労働の分割もおもしろい主題としてある。しばらく私たちは消費社会を語ってきたのだが、とくにこれから何十年かは労働がもっとも大きな主題の一つとなるだろう」
「この問いはかなりきっちり考えて複数の答しか出ない」
「ここではごく基本的なことを。一番単純には、「障害」に対応する英語は disability であり、労働は ability を要する行ないであり、ability がなければ仕事にはつけない、収入も得られない、終わり、となりそうだ。そして私自身は、そこからものを考えてきたところがある。働けないものは働けない、は事実として、ゆえに得られないのはおかしい。では、というようなことである」
確かにすごく大切な主題だと思う。
そして、にもかかわらず、それを正面からちゃんととりあげている人は少ないかも、っていうか立岩さんや生存学の人だけじゃないか。ま、ぼくが知らないだけかも。
ずっと、ひっかかっているのは「働けるもの」と「働かないもの」の区分。「働く」をどう解釈するかという話だが、ぼくは従前の解釈よりもっと広く捉えていいのではないかと思う。以前から主張している話だが、ALSでTLS(トータルロックトインステート)になっても、その人の存在が周りの人に肯定的な影響を与えることができる可能性があるなら、それを「働いている」としていいのではないかと思う。この日の研究会でも少し、話題になったが、それを誰が、どのように判定するか、というのが課題ではある。
それは後述するオランダの仕組みの話にも関係する。
このあたりの話は、もう少し先に書きたい。
そして講義というより、講義後の議論が面白かった。
立岩さんの労働と分配についての考え方、ぼくの理解では
「能力に応じて働き、労苦の多寡によって差を残しながらも平等志向の分配があり、働けなくても必要なものは得られる」(この平等志向の分配について、昨日は時間に応じてと言っていたと思う)というもの。
質疑で、ぼくが最初に提起したのが
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」
というカール・マルクスの1875年の著書『ゴータ綱領批判』に書かれたスローガンとの連関。
昨日、話を聞きながら、パソコンをいじっていて知ったのだが、このスローガンについてのWIKI、このスローガンの由来や出自など、かっこう詳しく面白かった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%8A%9B%E3%81%AB%E5%BF%9C%E3%81%98%E3%81%A6%E5%83%8D%E3%81%8D%E3%80%81%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%AB%E5%BF%9C%E3%81%98%E3%81%A6%E5%8F%97%E3%81%91%E5%8F%96%E3%82%8B
ぼくが思うに、これはマルクス主義・共産主義の中心的なスローガンだったはず。
立岩さんが言ってることは、これととても近いと思って、聞いてみた。
立岩さん、それが近いことは認めつつ、しかし、そこでのユートピア的な捉え方への疑義を語っていた。
司会がマルクス主義がまた注目されていることに言及していた。しかし、斎藤幸平さんは労働や配分にあまり言及してないという話も。
20世紀を通して行われた共産主義の実験。おそらくは、そのテーゼを掲げながらも、それをちゃんと実現しようとした国家はなかったと思う。そして、その実験はほぼことごとく失敗して、21世紀に入った。それがなぜなのか、どうして成功しなかったのかという真剣な総括が必要だと思う。
これへの一定の答えがないまま「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」と主張しても説得力に欠けると思う。それが掲げられながらなぜ実現できなかったかという、その人なりの答えの準備は必要なのではないか。
そして、昨日の研究会で議論の中心になったのは、生産と所得補償の連関の話だった。立岩さんの話の核心に迫る話でもある。
議論を特徴づけたのが、研究会の主催者の栗川さんが提起している軽減労働・同一賃金という問題提起。低減労働が不可避な人には合理的配慮として同一賃金があっていいのではないか、という提起であり、現に公立学校の教員では、そのように支給されている人がいるという話。職場の仲間意識の中でそれが守られているらしい。
(ちなみに立岩さんはこれに同意していない)
前提として、現状の社会における所得補償が不十分で、生産によって得ることが出来ない人は厳しい生活を強いられている、という話がある。 生活保護という仕組みは大切で重要な仕組みだと思うが、必要な人にちゃんといきわたる仕組みになっていない。以前に比べたら改善されたかもしれないが、まだ改善の余地は大きい。
生産への対価ではなく、所得補償として得られることに関するスティグマなどの問題もある。
そして、「所得補償と障害」の連関の深さはいうまでもない。そもそも、障害者というラベルが公につけられるようになったのは、「働けないという理由で低い水準の所得補償を受け取ることができる」ということのためだったのではないかというおぼろげな記憶がある。
その所得補償と生産への対価の話ではあるが、それが福祉型就労の対価として得られるオランダの仕組みに関する調査報告の紹介がチャットでもあったのに、チャットを記録して、URLをメモするのを忘れた。
(あとでMLで教えてもらいました。 https://www.nippon-foundation.or.jp/who/news/information/2018/20180726-4507.html からPDFがダウンロードできます。
前にも書いたように、ぼくは「働く」というのをもっと広く捉えて、その対価が得られるような仕組み(つまり、所得補償を組み込んで、労働の対価として得られるようなオランダ型を改善したような仕組み)があり、それで生活費をまかなえない人への所得補償という組み合わせがいいのではないかと、現状では思っている。
ちなみに、この日の立岩さんの講義、話の流れの概要を示す視覚情報(文字としてのレジュメ)がなく、あまり流れを把握できなかったのだけど、全盲の人には視覚情報としてのレジュメはいつもないわけだ。視覚障害の人で聞き取る能力が高い人が多いのは、そういう影響もあるのかと思った。
そして、労苦に応じた配分について。
ぼくは、それは時間だけではなくて、持たされる責任に応じて、極端ではない差が多少ついてもいいように思う。
一人の所得は年収で300万から800万くらいの間でいいんじゃなかいと思うんだけど、どうだろう?
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