Nothing About Us Without Us の訳から考えたこと

Nothing About Us Without Us の訳から考えたこと

「私たちのことを私たち抜きで決めないで」と訳されることが多いにですが、直訳を考えると、「決める」という話だけではありません。「私たちに関すること(のすべて)を私たちを抜きで何もするな」という話です。つまり決めるときだけでなく、「私たち」について、何かの話し合いをするときも、研究をするときも、そこに「私たち」の声がなければならない、という話なのだと思います。


「私たち」(当事者)の声とは誰の声か

 個人に関わるケースであれば、当事者の声とは何か、というのはわかりやすいです。しかし、例えば、障害者全体とかLGBTなどの人たち全体に関することを話し合うとき、あるいは、その人たちにに関わる法律や規則や政策を決めるとき、具体的に誰の声を取り入れるか? というのは微妙な判断が求められる部分です。

 ここでの考え方としては、少数派(マイノリティ)としての「私たち」の声を意識的に語れる人、多数派の意見に水をさせる人がそこに含まれることが望まれているのだと思います。多数派と同じ意見を述べる、あるいは多数派に迎合しがちな少数派の人が、その場で声を発することにあまり意味があるとは思えません。そういう意味で、障害に関わる審議などに、どのような人が選ばれているかというのは大切な問題であり、しかし、現状では、迎合しがちな人が選ばれているケースも少なくないと言えるのではないでしょうか。


Nothing About Us Without Us とオープンダイアローグ
 オープンダイアローグの始まりにもNothing About Us Without Usは関係しています。オープンダイアローグの公式なガイドラインとも言える『対話実践のガイドライン』の冒頭には以下のように書かれています。
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1 このガイドラインが目指すもの
 1984 年 8 月 27 日。この日は、オープンダイアローグの歴史にとって、特別な日になりました。

 この日、オープンダイアローグ発祥の地であるケロプダス病院で、ある取り決めが交わされました。それは「クライアントのことについて、スタッフだけで話すのをやめる」という、とてもシンプルな取り決めでした。

 この日を境に、治療ミーティングは原則として、クライアントらと複数スタッフでなされることになりました。対話そのものがクライアントとともに治療方針を決めていく場所となり、治療スタッフだけで方針を決める場は不要になりました。この一日で、何もかもが変わったのです。
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 つまり、オープンダイアローグの始まりもまた、Nothing About Us Without Us だったわけです。そして、治療方針が決まる場所に、当事者が治療者と対等な関係で話せる場が必要であり、そのことが治療の効果に有効だとされています。また、このように「本人のいないところでは本人のことを決めない」というのが、オープンダイアローグの透明性の原則として書かれているのですが、森川すいめいさんはそれについて、発祥の地でトレーニングを受けたとき、「本人のいないところで本人のことを決めないだけでなく、話さない」のが原則だと学んできたという話もどこかで読みました。(どこで読んだか忘れましたが)。


Nothing About Us Without Us とマイノリティ(少数派)の人の支援(あるいは政策作り)

 これは少数派の人たちの支援の現場でも考えなければならない話ではないかと思うのです。確かに、これを決めてしまうことは、いろいろな困難は伴うかと思います。例外が必要な場合もあるかもしれません(例外を増やしてほしくはないですが)。しかし、個別支援の計画案を作るときの本人参加、また、それをチームで確認し、確定するとき、当事者がそこに参加していることの意味は大きいのではないかと思います。すべての場に参加してもらうことは難し面もあるかもしれませんが、まず、それを原則とすることはできないでしょうか? もし、どうしてもできない場合でも、そこに本人がいることを前提に話をしたり、文章を書いてみるのは効果があるかもしれないと感じています。

 支援者と呼ばれる人(私もその一人ですが)や少数派のための政策策定に関わる人は、いつでもNothing About Us Without Us という言葉を胸に刻む必要があるのだと思います。そして、それは決める場面だけでなく、何をするにしても、すべての場面でそうなのだ、ということも。


結語として

 ある意味、これは参加型民主主義の原則と言えるのだと思います。その当事者が仮に小さな子どもであっても、認知症の高齢者であっても、彼や彼女に関することを話したり、何かを決めたりするとき、そこにその人が居ることの大切さがあると思います。この人にはわからない、と決めつけないで、その人の気持ちをどうやったら汲み取ることが出来るか、試行錯誤してみることが大切なのではないでしょうか?

 話はそんなに単純ではないこともあるかもしれません。例えば、その人に強いフラッシュバックというような症状があるとき、そこにいることを無理強いはできないでしょう。でも、それでも最低限、本人がそこにいるのが原則なのだと伝えて、我慢できるかどうかを確認してみることはできるのではないでしょうか?

 とりあえず、チームで、あるいは友人と「私たちに関すること(のすべて)を私たちを抜きで何もするな」ということについて、話しあってみてはどうでしょう?

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