『刑務所の精神科医』メモ
著者 野村俊明
〈私には、非行少年少女や受刑者の多くが人生の偶然や不運に翻弄されているように見えた。そして、人生のほんのわずかな何かが変わっていれば、自分も少年院に入って反対側の椅子に座っていたかもしれないと感じていた〉
刑務所や少年院などの受刑者・被収容者の中には、精神障害が理由となって法を犯した者もいれば、矯正施設という特殊な状況下で精神障害を発症する者もいる。しかし、受刑者たちの治療の前には、つねに法の「平等主義」が立ちはだかってきた。
親の顔も知らずに育った青年。身寄りもなく、万引きを繰り返して刑務所と外の世界を行き来する老人。重度の精神障害のため会話もままならず、裁判すらできずに拘置所に収容されつづける男性――。著者は精神科医として、矯正施設でありとあらゆる人生を見てきた。
高い塀の向こうで、心の病いを抱えた人はどう暮らし、その人たちを日夜支える人々は何を思うのか。私たちが暮らす社会から隔絶された、もうひとつの医療現場を描くエッセイ。
目次
はじめに
刑務所医者事始め
矯正施設で見た家族のかたち
保護室で聞いた除夜の鐘
精神鑑定は精神医学の華なのか
不注意と落ち着きのなさと寛容さと
発達障害は何をもたらしたか
高齢者の病いと罪と
フィンランドの刑務所
往診が教えてくれること
矯正施設における精神療法
あとがき
主要参考文献
ここまで みすず書房のHPから
また、このHPでは「虐待が奪いゆくもの」よりの抜粋も読める。
https://www.msz.co.jp/news/topics/09037/
荒井さんの「障害者差別を問い直す」を予約して、取りに行った10月1日に図書館の新刊書の棚で偶然見かけて、読み始めたんだけど、すごく面白かった。ちなみに図書館の本の日付のスタンプも2021年10月1日だった。なんという偶然の邂逅。刑務所や少年院などの「矯正施設」での精神科医の仕事や矛盾がかなり明確に書かれていた。 いくつか、もう少し突っ込んで欲しいところもあったが。
HPの抜粋に続く部分で書かれていることにすごく同意した。
「幼いころから重ねて虐待を受けていた人を対象とする場合、体系化された精神療法は無力であるか、効果はあってもきわめて限定的」
「必要なのは安定した衣食住を提供すること、根気よく支え続けること」であり、
「狭義の精神医学にできることははごくごく限られている」という。24-25p
33pには「非行少年少女」(この呼び方、どうなんだろう?)の逸脱行動の主たる要因が養育環境か障害か、その評価が難しいとされ、結局、できることはすべてやる、という結論で、以下のように書かれている。
「結論が出せない以上、薬物療法に終始するのも誤りだし、トラウマケアにこだわりつづけるのも誤りである」
「貧困は多くの場合、家庭を地域から孤立させる」
「虐待を保護者・養育者の個性・特性に還元するだけでは、おそらく解決の糸口は見出せない。それは問題の根本を見誤ることになる。子どもを社会全体で育てるという視点がないと、虐待を減らしていくことはできない」35p
「一番必要とされているのは、洗練された心理学的手法ではなく福祉的な配慮と根気強い支持的な対応なのである」55p
これらは、すでに、言われていることだが、繰り返し主張されるべきだろう。
97p~は自身が少年時代を振り返って、ADHDだったという話。これも面白い。
104p~はADHDの薬物療法の話。リタリンの問題から、それがADHDに使えなくなった経過が描かれ、いま、使われているコンサータが基本的には同じ成分からできているが、代謝速度をゆっくりにしたものという説明など。
129pにはASDの急増の背景が描かれている。
成人のASD患者の増加の背景には、診断基準の変化、ASDに関する知識の普及、精神科受診の閾値の低下、などの要因があるだろう。注意しなけらばならないのは、もともと一定の割合でいたASDの人たちが、現代社会でいっそう「生きにくく」なっていて、それが受診者の増加につながっているという疑念である。(中略)学校や会社が余裕と寛容さを失っていると言えるかもしれない。今風の表現で言えば、「同調圧力」が強まっているために、ASDの人たちが病院で治療を求めざるをえなくなっているということかもしれない。
それに続けて、ASDが疾病や障害ではなく、「個性」・「特性」として理解しようという動きが盛んになていて、それは障害を個人モデルではなく社会モデルで定義しようという動きと関係している、とされる。 そして、「社会モデル」はASDだけでなく程度の差はあるにせよ精神障害全般にあてはめうると思う、と書かれている。130p
140pあたりには、累犯の高齢受刑者が知的障害だったり、認知症だったりという話もある。これもTSなどではいつも言われる話だが、何度も捕まって、裁判にかけられたり、刑務所に入ったりしているのに、その間、誰も気づかないというのが大きな問題。っていうか、本当に気付いていないわけはなく、見て見ないふりをしてる可能性が高いんじゃないか。
143Pからは欧州の刑務所のことが書かれている。高齢受刑者は欧州のいろんな国で増加傾向にあるけれども、日本ほど高いところはないし、窃盗などの微細で高齢者を受刑させる国もない、とのこと。
そして、その後には刑務所に入ってしまってからどんなに精神状態が悪くなっても、刑務所を出て医療の場に移ることはまずないことや、認知症の受刑者を受刑させる無意味さについて書かれていた。
そして、ここには書かれていないことで、やはり大切ではないかと思ったのが、本人が望んだら、地域と連携して回復のためのプログラムを受けるために、受刑中から関係をつくったりすること。そういうことがないところで、地域に戻っても、繰り返してしまう可能性は高いと思う。そういう仕組みをなかなか作ろうとしない、法務省、前にもどこかで書いたけど、刑務官の職域を減らしたくないからじゃないかと疑いたくなってしまう。
あと興味深かったのが以下。
・・・。少年院や刑務所での治療では、「悪いことをした」人が相手である。こちらが善で、相手が悪、という図式にはまってしまうと意味のある治療関係はできない。既成の価値観に縛られない工夫が必要だと考えていた。もちろんこれは、価値判断をいったん保留にしようということであって、何もかも相対化してしまうことを意味しているわけではない。191p
そして、193pの最後の方で、筆者が勤めていた当時、医療少年院では、少年同士が生活環境について話し合うことが禁止されていて、グループワークができなかったという事例が報告されている。筆者は映画『プリズン・サークル』を見ていないのか、それへの言及はこの本にはなかった。しかし、この映画にもあるように、そのグループワークを受けることができるのは、何万人もいる受刑者のなかの、ほんの数十人だけという現実がいまもある。
そして、この話に続いて書かれているのが、依存症の治療は誘惑があるところでやらなければ、意味がない、という話。その通りだと思う。刑務所などを出てから、依存症からの回復とつながる取り組みが必要で、その多くは医療的な治療ではなく、当事者ミーティングだったり、福祉的な支援だったりするはず。矯正施設の中でできることは、それとつながっていようと思えるようなモチベーションの形成、そして、具体的なつながりの準備で、場合によっては受刑者が受刑中に外に出て、つながりをつくっていくようなことが求めらrているのではないか?
さらに興味深かったのが以下のフレーズ。
かつて少年鑑別所の日課に個室で何もしないでいる時間が多いことを知った人から「なぜもっと強制教育をやらないのか」とお叱りを受けたことがあったが、実はこういう時間こそが内省が生まれてくるために重要なのである。「時間の速度をゆっくりにする」(長田弘)ことが、何か考えるためには必要なのである。
確かにそうだと思う一方で、時間さえあれば内省できるのか、という疑問も残る。少年や少女に時間を与えるだけで内省に導くのは難しいと思う。時間と共に、内省につながる「何か」が必要で、それが何かを明確に言い当てることはできないが、彼女や彼の気持ちに寄り添った何かで、何らかの強制ではないはず。
メモは以上。
ほんとに偶然に出会った本なのに、面白かった。
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