『排除の現象学』(赤坂憲雄著)メモその1(1章まで)
排除の現象学(ちくま学芸文庫は1995年初版)赤坂憲雄著
以下、出版社HPから
秩序創成のための暴力としての供犠。異人という内なる他者の殺害―それこそがあらゆる秩序の起源に横たわり、それゆえに現在も飽くことなく繰り返されている血まみれた光景である。いじめ、浮浪者殺害、イエスの方舟事件、超常現象への傾斜などの、まさに現代を象徴する事件のなかに潜む「排除」のメカニズムを解明する。
序章 さらば、寅次郎の青春
第1章 学校―差異なき分身たちの宴
第2章 浮浪者―ドッペルゲンガー殺しの風景
第3章 物語―家族たちをめぐる神隠し譚
第4章 移植都市―鏡の部屋というユートピア
第5章 分裂病―通り魔とよばれる犯罪者たち
第6章 前世―遅れてきたかぐや姫たちの夢
終章 失われたヒーロー伝説
以下は
『学ぶ、向きあう、生きる』(楠原彰著)メモ
https://tu-ta.seesaa.net/article/201307article_1.html から
メモが残っていて、思い出したのだが、この本で紹介されていて、この『排除の現象学』のことを知ったのだった。
~~~~~
【〈10〉市民社会がつくりだす新たな排除と差別】
ここで引用されていた赤坂憲雄さんの文章。1980年代以降のイジメの背景に、クラスに障害者が少なくなったことではないかという話だ。
赤坂さんの文章、孫引き
おそらく現在の学校という空間は、この差異の喪失状況を典型的なまでにしめしている。そこにはもはや、絶対的な、誰の目にもあきらかといった差異は存在しない。可視的な差異を背負った子供たちは、特殊学級や養護学校(引用者注:現在の特別支援教室や特別支援校)にあらかじめ振り分けられ、排除されてゆく。養護学校義務化(1979年)が、かぎりなく学校という場の均質化を推しすすめたことは疑いない。
微細な差異をおびて浮遊する、分身のようによく似た子供たちの群れ、小学校のクラス集団が、仲間というより極度に緊張した孤独な群衆にみえてくる、という現場を歩いたいく人かの取材記者の判で押したふうな感想も、同一の現象をさしている。差異の消滅とは秩序の危機である。(初出『朝日ジャーナル』1986年6月6日号、現在は大幅に加筆訂正され、ちくま学芸文庫版の『排除の現象学』1995年に収録)135-6p
79義務化以前の普通クラスにどれだけ障害をもったクラスメイトがいたかと思い出せば、高校の同級生には確かにいたのだが、…それ以降のクラスにどんな変化があったのか、ぼくは知らない。
とはいうものの、ぼくは311で初めて知った赤坂さんがこのような指摘をしていたという事実に驚く。この赤坂さんの文章の全体も読んでみたい。
~~ブログからの転載、ここまで~~
最後まで読んで、読書メーターに書いたもの
いつ読み始めたのか、覚えていない。覚えているのは、かなり長い間、ぼくのカバンの中にあり、ある時はカバンの中から出されていた時期さえあったということ。それでも、なんとか読了。改定新版が出されたのが1991年で、そこから30年。初版が出されたのは1986年、文庫版が出されたのが1995年。ぼくの手元にあるのが3刷で1998年。いまは使われない「精神薄弱」という言葉が多用されていたり、歴史は感じるが、その言葉を封じた後に残ったものについても、明確に語られている。メモを書くのも時間がかかりそうっていうか、無理かも
記録を見ると、5月11日に注文していた。
以下、付箋に沿って
序章 さらば、寅次郎の青春
以下の指摘、まったく視野になかった。
・・・はたして、ほんとうに優しい愛に満たされているか。毒のない笑いを誘う牧歌的な表層の物語の底には、酷たらしい、もうひとつの物語=現実が隠されているのではないか。
疑いもなく、映画『男はつらいよ』は、フーテンの寅という名の異人をめぐる怖るべき排除の物語である。映画の表層からは隠されているとしても、寅次郎の身体には、幼少年期からの血まみれた苦い記憶が数も知れず蓄積されているはずだ。寅次郎は生まれついての、排除を宿命づけられた異人である。にもかかわらず、『男はつらいよ』は徹頭徹尾というべきか、あくまで下町の美しい人情映画に仕立てられている。下町という人間共同体、その仮構された親密なる世界から逐われ、放浪の境涯を択ばざるをえなかった異人の怨念や毒は、かぎりなく稀薄にされ、ひとりのアブない異人を優しげに抱擁してみせる下町=共同体こそが、ひそかなる絶対者の座を占めるのだ。そうして一編の愛すべき道化の物語はできあがる。だからこそ、『男はつらいよ』は大衆的な人気を博してきたのだということは、否定しがたい。(13頁)
そして、段落が変わり、下記のように続く
はみだし者の寅次郎は、つかの間家郷へと帰還し、やがてまた死にいたるまでの流浪の旅へと出立してゆく宿命(さだめ)を背負い、その宿命に忠実であるかぎりにおいて、家郷の人々にあたたかく迎えられ、受容されもするのだ。いわば、フーテンの寅次郎はひたすらおとなしい植物的異人としてのみ、この下町の人情映画の主人公であることを許されているのである。これが、隠蔽された現実のもうひとつの貌(かお)といえるだろうか。(13頁)
ともあれ、テキヤのにいちゃんが常に植物的である、という設定自体が荒唐無稽と言えるかもしれない。テキヤが常に平和的に成立する稼業だとは思えない。
そこで浮かんだセリフ
「それを言っちゃあ、おしめえよ」
寅次郎にも動物的な時間があったはず、と見るのがまっとうだろう。映画には描かれていないが。さらに赤坂さんは寅次郎インポテンツ説も展開するのだが、好意を寄せる女性の前では、踏み込めない寅次郎にも、動物的に女性に向かう時間もあったと読み解くのがまっとうなのではないだろうか? もちろん、これも映画には描かれていないが。
第1章 学校―差異なき分身たちの宴
~いじめの構造を読む~
この章では、いじめに関するたくさんの事例が紹介され、それに赤坂さんが文章を加えている。
いじめを倫理や道徳のレヴェルから断罪するのはたやすいが、子供たちの現実にたいしてはほとんど無効であるといってよい。子供たちのいじめが多く、学校を現場として再生産されつづけるかぎり、学校という場にそくして問題は読み解かれねばならない。が、そうであるとしても、子供たちの現実はひとつの純粋培養された光景として、わたしたちの世界そのものの現実を映しだす鏡となっていることを忘れてはならない。21P
そう、そのことを時として忘れている。「インクルーシブな学校を」と主張する背景に、インクルーシブではない「わたしたちの世界そのものの現実」がある。障害者を排除し、支援校や支援級に追いやる学校があるのは、学校の体制の問題だけではない。その体制を支え、それが当たり前であるかのような「わたしたちの世界そのものの現実」がある。
反抗的な子、手のかかる子・問題をおこす子など、教師か無意識のうちに翼分子みなしている子供を排除することは、子供たちにとっては教師への迎合であると同時に、子供たちの集団内部からの異分子の摘発ということでもある。みなと少しでも違った行動・違った様子をしている子供は、容赦なく制裁し、排斥しようとする集団心理が、そこには働いているかにみえる。
しかし、子供たちをめぐる状況はもう半回転ほどよじれて、奇妙に歪んだ光景をあらわにしている。もはや、たんに性格・身体ないし家庭における負性を刻まれた子供たちだけが、いじめられっ子に択ばれるわけではない。教師に疎外される子供が標的になりやすいと同時に、まったく逆に、教師に可愛がられひいきされている(と子供たちには見える)子供が標的となるケースもまた、よくみいだされるのである。36p
職場でも、幹部の方針に異を唱えると排除されがちな傾向は強いと思う。そして、幹部がそんな風に扱うと、迎合する人が出てくる。これはやはり大人の社会の写し絵的な感じがある。また、あまりにも露骨に取り入ろうとする人がいたら、嫌われるが、その人が職場でいじめられることはないかなぁ?
一九七九年に養護学校が義務化され、あきらかな差異をかかえた子供とそうでない子供との分離が、公然と行なわれるようになった。このこと、いじめの関題をかんがえるとき、きわめて重要なエポック・メーキングな出来事として頭におかれるべきだ、とわたしは思っている。それはいわば、秘め隠されてきた排除の構造が、市民社会の表層へ浮上してきていることを象致するような事件であった。念のために言い添えておけば、養護学校の義務化というできごとは原因であると同時に、結果である。均質化を求める効率至上主義的な、市民社会を生きるわたしたら自身のある要請と選択の結晶であったといってもよい。いずれ制度と心理の両面において、それは教育の現場に大きな影を落としている。新聞の社会面にいじめをめくる記事が載りはじめたのが一九七八・九年であることは、たんなる偶然なのだろうか。
子供たちは誕生以来、*ヵ月検診や*歳児検診といった関門をへて、入念に身心状況をチェックされる。なんらかの障害をかかえた子供は公的に登録され、学齢期にたっしたすべての子供を対象とする就学時健康診断によって、いわゆる特殊学級や養護学校へと振り分けられる。
したがって、子供たちは小学校に入学する以前に、すでにある選別チェック過程をつうじて、その身心の逸脱性を削ぎおとされている。学校は学齢期にある子供のすべてに開かれているわけではない。「健常児」という規格にあった子供たちだけが、学校の門をくぐることを許されるのである。54-55
1979年より前の学校とその後の学校という比較は興味深いと思うが、ほんとうにそうか、という疑問も残る。それ以前も養護学校はあったし、それをきっかけに、みんなが養護学校に行くようになったわけでもないのではないか。養護学校に行く生徒が増えているのは、21世紀に入ってからの方が顕著なのではないか。そのあたりは誰かがちゃんと記録すべき話なんだろうと思う。
とはいえ、選別チェックがあり、通常級に入ることを事実上拒否されている多くの子どもがいまもいるのは事実だと思う。多くの地域で親が望めば通常級に入れるようになっていると思うが、そこに、その子に応じた配慮がなされている例は稀有なのではないか。その結果、通常級に入った子どもが。実質的に「排除」の対象となり、いじめられたり、何もしてもらえないということもありそう。そんな風に子どもが学校で何の配慮も受けられないという理由で、多くの親は支援校を選ぶ。そして、通常級を選ぶ親を「虐待だ」と非難する人まで出てくる。
参照:【知的障害児を通常学級へ これは親の行き過ぎた「教育虐待」】という文章が支持を受けていることと日本社会の排他性(2021年3月追記) https://tu-ta.seesaa.net/article/202011article_3.html
上に引用した文章に続いて、赤坂さんは以下のように続ける。
入学と同時に、子供たちはいやおうのない競争の渦中にたたされる。学科の成績競争はむろんのこと、学校から家庭にまたがる日常生活のあらゆる場面にわたって、熾烈な競争がくりひろげられる。教室の壁にところせましと貼られた競争表や点検表。個人ごとの表・班ごとの表。漢字の点取り表・計算問題の点取り表・自由研究の実績表・宿題の点検表・読書冊数の競争表・忘れ物点検表・机やロッカーの整理整とん比べ表・ハンカチや爪の清潔検査表・給食の点検表......。いささか漫画的であるが、大便の点検表まであるらしい。朝出ると5点・家に帰ってからは3点・出なかったら0点。朝出るウンコがなぜよいか問われることはない。ここでも個人差は無視され、画一的な価値基準が強要される。わたしの知っている小学六年生は、一時間の授業で何回手をあげて、何回指されたかをメモ帳にそれぞれ書きとめ、教師に提出させられていた。授業を落ちついて聞き理解する余裕など、まったくなくなるだろう。さすがに、この競争は長続きしなかった模様だ。55p
この競争の状況、今はどうなっているのだろう。やはり、この状況についていけなくて、学校に行けなくなる子どもも多いのではないか?
供犠という分身たちの宴
学校という規格化された時間の流れにのれないと予想される子供は、小学校へあがる以前にチェックされ、特殊学級や養護学校へと振り分けられる。そして、就学後に学校という軌道から免れてゆく子供が、普通学級から排除されたすえに辿りつくのも、それらの学級や施設なのである。学校は制度として、たがいに補完しあう陰陽ふたつの部分に分断されているといってもよい。
いわば、学校はいま、あきらかな差異を背負った子供を排除することによって、かぎりなく閉ざされた物質的時空を形成しているのだ。言葉をかえれば、学校という場から周到に、異質なるもの・偏奇したもの・不透明なものがとりのぞかれている、ということでもある。57頁
このあたりも、30年以上を経て、どうなっているか知りたいところ
矢印→は排除の方向を示す。
つねに一 方通行的な運動であり,
逆の移動はほとんど不可能である。人為的にひかれた境界線......の下方,
特殊学級・養護 学校は,学校(普通学級)
からの排除の受け皿の役割をはたしている。
059
この構造はいまも変わらない。わかりやすい図だと思う。
いじめがこうして厳粛なる供犠の庭であるかぎり、子供はだれ一人そこから逃れることを許されない。しばしばいじめに加担することを消極的にであれ拒んだ者が、裏切り者として制裁され、いじめのあらたな標的に指名されるのは、そのためである。子供たちはだれしも、骨身に沁みてそれを知っている。供犠は全員一致を原則とする。この全員一致の原則を犯す者は、集団の秩序そのものへの違背行為をおこなう者であり、鋭い忌避の対象とならざるをえない。
いじめを倫理の位相から裁きうるとかんがえる人々、あるいは、いじめなど子供社会には昔からあったことだという先入見を捨てきれぬ人々には、いじめの場の現在をつらぬく深層構造が見えていない。子供たちはいじめが倫理的には「悪」であることを知りつつ、いじめを構成する場自体の孕む圧倒的な強制力の前になすすべもなく、翻弄されている。また、いじめはたしかに昔からあったが、ここまで場の強制力が全的にあらゆる子供たちを呪縛し、際限もない相互暴力と生け贄ゲームの渦中に追いつめている時代は、たぶん八十年代の現在をおいてほかにない。67頁
そして、いま、2020年代、学校はどうなっているのか。同じ構造が維持されているようにも思えるが、さらに悪化しているようにも感じる。これらのことを、この時の赤坂さんのテキストに即して分析してくれる人が現われるのを待ちたい。
さらに上記の文章に続けて書かれた以下で、例の和光学園での小山田氏のいじめの告白ととても重なる。時期は少しずれてるかもしれないが。
いじめを語る少女らの会話に一度でも耳をそばだてたことのある者は、その異様なほどの無邪気さを幽かな戦慄にも似た思いとともに記憶しているはずだ。ある種畏怖の念すら覚えているかもしれない。それは、子供たちの共同性の規範力(=禁制)にぴったり寄り添っていることからくる自然さであろうか。少女の意識は、供犠をささえる内なる眼差しにまったく同化している。いじめはいけない、といった共同性の外部から聴こえてくる声は、すこしも少女の意識の深みには届かない。共同性に違背することの恐怖が共同性そのものを成立させているという構図は、あたかも共同体的な心性のかかえこむ禁制をめぐる光景に酷似している。だとすれば、少女の無邪気さとは、たとえば共同体の定住民たちが憑きもの信仰とよばれる排除メカニズムにけっして疑いをいだかず、自然かつ自明な現象として受容しているような心的水準に対応しているといえるかもしれない。67-68頁
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排除にむけたあらたな差異の発見
いじめは昔から子供の世界にはよくあることだーーという、ひとかけらの真実をふくんではいる先入観をカッコにくくる労を惜しむとき、現在のいじめの実相はけっして見えてはこない。いじめ現象の裏側には学校がある。学校という場をはなれては、いじめ自体が 成りたたない。それゆえ、逆にいえば、わたしたちはいじめという問題を透かして、いまの子供たちの世界、とりわけ学校という場そのものの解読作業へと向かうことができるのである。
ここまでは、とてもわかりやすい話だ。
赤坂さんは、これに以下のように続ける。
子供たちがみずからの時間を根こそぎ学校に奪われているかにみえる、この学校に浸された時代。その最大の指標は、差異の喪失という状況にある。そこでは、たがいに分身と化した子供たちが、他者のうえに異人の表徴を探りだすことにひたすら精魂傾け、いつ果てるともしれぬイケニェ・ゲームの囚人となっている。差異がないがために、このゲームはどこまでも陰湿な、仁義なき戦いの様相を呈することになる。
たとえば、そこに、可視的なあきらかな差異を刻印された子供を置いてみればいい。かって上福岡市であった在日朝鮮人少年の自殺は、それを残酷なまでにわたしたちの面前に突きつけた。子供たちはこぞって、あきらかな差異をスティグマとして負った子供にいじめを集中させるだろう。そのとき、かれらは自分に跳ねかえる不安をいだくことなく、(以下略)。071
このあたりは学校現場から遠く離れたところにいるぼくには、なかなか見えない。これが書かれてから40年以上の月日が経過し、学校は今、どんな風になっているのだろう。
ここから、いい方向に変化しているとは思えない。ぼくが定時制高校にかかわったゼロ年代、そこには中学時代に上記のような状況で排除されたのかもしれない子どもがたくさんいたように感じていた。そこから、さらに10年以上。
ここには、特徴的で悲惨な一面が描かれている。学校も人の営みである以上、そんな一面だけで語れないのも、また事実だろう。
こんな話があるからこそ、インクルーシブな教室が求められていると逆説的に語ることが出来るかもしれない。そこに向けた小さな営みは確実にあるはずだ。しかし、多くの学校で、いまでもさまざまな「違い」が祝福されることなく、「呪い」のようなものに転換され、いまでも、見えやすい排除とともに、見えにくいかもしれない排除が続いているようにも感じる。
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以下
https://bookmeter.com/reviews/83733717 から
saiikitogohu
「寅次郎は性的な不能者である、と書いた。もしかすると、寅次郎を不能か童貞のままに押し止めているのも、共同体と観客の意識せざる暗黙の強制であるのかも知れない。…性を禁忌として封じられた寅次郎の内面に想いを届かせてしまった観客には、もはや無垢なる笑いの優しさはありえないだろう」15
「みずから学校を拒んだはずの子供たちが、じつは学校とその価値規範にもっとも深く囚われて身動きならなくなっているらしいことを知るとき、子供たちの内的現実に占める学校の比重は予想をはるに越えて大きい。…学校の内面化」22
saiikitogohu
「学校という規格化された時間の流れにのれないと予想される子供は、小学校へあがる以前にチェックされ、特殊学級や養護学校へと振り分けられる。就学後に学校という軌道から逸れてゆく子供が、普通学級から排除されたすえに辿り着くのも、それらの学級や施設なのである。…いわば、学校はいま、あきらかな差異を背負った子供を排除することによって、限りなく閉ざされた均質的時空を形成している」57
「秩序は差異の体系のうえに組み立てられている。差異が消滅するとき、成員たちは模倣欲望の囚人となり、たがいに模倣しあい均質化してゆく。「いわば、分身の状態。この分身価こほが、差異の消滅の避けがたい帰結のかたちである。…差異の消滅。この秩序の危機にさいして、…全員一致の暴力としての供儀。…分身相互のあいたに飛び交っている悪意と暴力は、一瞬にして、その不幸なる生け贄にむけて収斂…供儀を契機として、集団はあらたな差異の体系の再編へと向かい、危機はたくみに回避される…学校ないし教室という場は、それが秩序をなす空間であるかぎり、絶え間ない差異化のメカニズムに支えられている」63
saiikitogohu
「差異の喪失状況…→微細な差異の競いあいゲーム」59
「時代の空気を共有しながら、なおかつ自分自身を一個の差異をはらむ存在として時代に登録することは。氾濫する商品というモノに模倣欲望を刺激され、絶え間ない分身化の危機にさらされている子供たちに残された、数少ない自己表現のかたちのひとつ…外部からの眼差しには、差異の喪失、分身化としか映らぬ光景が、子供たち自身にとっては差異の乱反射として体験されている」79
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