『ケアから社会を組み立てる』村上靖彦(大阪大学)メモ
雑誌「世界」2022年1月号 特集 ケア―人を支え、社会を変える
の読書メモ
に続いて、その次に掲載されている以下の文章のメモ。これもとても興味深い問題提起だった。
ケアから社会を組み立てる
村上靖彦(大阪大学)
冒頭近くで、以下のように書かれている。
・・・ケアを軸としてコミュニティを作ることはできないか? いや、もしかするとケアのコミュニティが、密かに今の日本のコミュニティづくりの軸になっているのではないか? これが小論の問いである。
本稿は顔の見える一人一人の声から出発する社会を構想する。弱い立場に置かれた人々が声を出すことができ、声にならない SOS をキャッチし、生存が可能になるような道筋を考え出す、そのような実践がある。さらにその手前には、見えない隙間で困窮している人を探し出し、声が出されるのを待つ実践もある。社会というものを徹底的に顔が見える関係から構想をすること、そのことは大文字の政治制度と権力で社会を考えてきた西洋の学問の歴史に抗するパラダイムチェンジとなるだろう。
岡野さんが上の論文で紹介した西洋の学問が、上述のような形でケアを軸に問題を立てる方向に変化してきているのではないか。また、東西を問わず、昨今の社会を考えるための質的調査は「顔が見える関係」で「声を聞く」ことを中心に考えられてはいないか。そういう意味でこの「大文字の政治制度と権力で社会を考えてきた西洋の学問の歴史」という表現にはひっかかりを感じた。東西を問わず、パラダイムチェンジは始まりつつあるのではないかと感じているし、顔の見える関係を起点にするという考え方は好きだ。
上記の文章に続いて、以下のように書かれている。
2020年度に子どもの自死が479人と過去最高を数えた。その一人ひとりがどのような理不尽な状況にあったのかを考えると胸が痛い。そして現在は現実入国管理局での非人道的な暴力と死が報道されている。マクロのレベルで見ると人権が簡単に 無視される国に私たちは住んでいる 。
と同時に21世紀に入って私たちは、理不尽な暴力や排除・抑圧が正当化される社会や制度に移行するコミュニティを各地で作り出してきたのではないか? さまざまな意味で暗い時代であるが、誰もが抱える弱さを基点とした「ケアのコミュニティ」とでも名付けられるコミュニティが密かに拡がっているのではないか? 看護師や社会福祉士、保育士といった専門職のイニシアチブで作られるコミュニティも大事だが、困難や傷を抱えた人たちが集まり支え合うピアサポートのコミュニティの存在が目に見えるようになってきたのは今世紀になってからのことである。そもそもデヴィッド・グレーバーが民主主義の起源を海賊に求めたように、国家とは異なる仕方で誰もが息をつける場が生まれるのではないか。上から法律や規範によってしばられる国家・社会・学校といった社会集団のすき間を縫って、ボトムアップで自発的に集まり支え合うようなオルタナティブな大小さまざまなコミュニティを私たちは作ってきた。 各地に広がってきた当事者研究のグループや、あるいは薬物依存の人たちが作ってきたダルクが思い出されるだろう。以下では、私がそのような場のひとつから教わったことから考えたい。
として、西成区の事例が「顔の見える関係」として紹介されているのがこの文章だ。西成区のキャッチコピーとして「来たら、だいたいなんとかなる」というのがあると紹介されていて、「ほんとかよ」と思って、検索したら、ほんとだった。https://www.city.osaka.lg.jp/nishinari/page/0000530720.html この話にはあとで触れる。
西成区の事例の紹介の後、以下のように書かれている。
どのような社会が生まれつつあるのか
おそらく、 西成で私がかいまみたようなコミュニティが全国で密かに生まれつつあるのではないだろうか。 有志で集まる自助グループのような小さいものもあれば、地域全体に広がる子ども支援の多職種連携のネットワークのような大きいものもあるだろう。それぞれの状況に応じて作られる形態は異なるだろう。 しかしある種共通の性格が21世紀に広がってきたコミュニティにはある。
もちろん、小さなコミュニティーづくりだけで現状の問題が解決するわけではない。西成で草の根の活動が盛んになった理由は、そもそも政治が経済活動を優先し、貧困や差別・障害のバリアなどの社会的混乱を放置していたがゆえでもある 。草の根の活動の存在を 、政治が福祉をなおざりにする口実にしてはいけない 。大文字の政治がなすべきことは大きい。そして大文字の政治においてこそパラダイムチェンジが必要だろう。このとき、ボトムアップでうまれつつある小さな社会の理念は、大きな制度のためのモデルともなるはずだ。
それゆえボトムアップの社会づくりを考える前に、大きな制度について根本的な改善点を指摘だけしておきたい。今の政治制度は不可避的に「すき間」に追いやられる人を生む 。「すき間」を生まない制度設計はぜひとも必要であろう。さもなくば、草の根の活動は政策の不備を弥縫(びほう)するだけの役割になってしまう。
として、3つの要点が記載されている 。以下に説明文を除いて、表題のみ引用。
・制度的な排除と抑圧を解除する
・誰も取り残されない社会・誰もが生活に不安を持たずにすむ社会を目指す
・ケア労働を正当に評価する
これらが説明された後に、上記の主張につながる論者が著著とともに紹介されている。宇沢弘文、井出栄策、桜井智恵子、川口有美子、稲葉剛。
その上で著者が西成区に通うなかで学んだ要点として、4つ挙げられている。これも説明文を除いて、表題のみ引用。
・SOSのケイパビリティ(サインを出す当事者の力と権利と、それをキャッチす聴き取る支援者の力)
・すき間に追いやられて見えなくされている人を探すアウトリーチ
・生活を可能にするアウトリーチ
・複数の居場所
~~~
そして、結語として、以下のように書かれている。
重層的なアウトリーチでケアしケアされること、複数の居場所が利用可能であること。複数の居場所が利用可能であること。このような場が成熟した時に一人ひとりの声が聴き取られる。
一人ひとりの顔と声から出発して社会を作ること。 そのような社会をモデルとして大きな制度を考えること。これは民主主義を本来の姿へと***せることなのではないだろうか。 多数決や代表制は、すき間に置かれた少数派を捨て去ることもある。本来誰もが生存可能で尊厳を守られ、自分の意思を言葉にして引き取られる社会が民主制であろう。そのために何が必要なのかのヒントは、西成のように困難が集積した地域にこそあるのではないか。というのは、そこでは制度的な支援だけでは生存と安全を保証できないがゆえに、目の前にいる一人一ひとりの顔と声を起点としてコミュニティを作ってきたからだ。 このような小さな場所こそが、全ての人の生存と尊厳が保障されるような社会であり、制度のモデルなのではないだろうか。114p
納得できる視点ではある。そのために、民主主義の単位を小さくする必要があるだろう。どの程度まで小さくすれば、このような関係性を基盤に置いた民主主義が構想できるのか。そして、これが受け入れられるための生活のゆとりが必要なのだろう。それは必ずしも経済的な豊かさと直線的につながるものではない。
この文章の一部を紹介して、フェイスブックで教えてもらったのが、広告代理店があるライターに物語書かせて、炎上した『ティファニーで朝食を。松のやで定食を。』https://note.com/cchan1110/n/n5527a515fba2 このライターが批判された後に、西成でいろんな人の話を聞いて回ったことも記載されていて、あわせて読んで、とても興味深かった。上記で紹介した西成区のキャッチコピーとしての「来たら、だいたいなんとかなる」。このキャンペーン、電通が入っていて、そこの依頼で書いたことが分かりにくくさせられていたことなどが炎上の背景にあるようだ。そこで彼女が書いた記録(反省を含めて)と、この雑誌『世界』に掲載された文章をあわせて読むと、理解は深まるかもしれない。「来たら、だいたいなんとかなる」というスローガンっていうかキャッチコピー、それ自体はけっこう好きだ。ほんとうに、のように行政が働いているとすれば、という話でもある。制度は放置し、行政から独立して野宿者支援をしている人々だけががんばっているような状況があるとしたら、そのキャッチコピーを行政がどう使うかが問われるだろう。
この文章で描かれたようなコミュニティは現に存在している。それは西成だけではないだろう。しかし、それを制度とどのように接続していくか、そこには大きな困難と課題があるだろう。しかし、できることの一つは、コミュニティが成立しやすい環境を作ること。そのような土台を作れば、かならず、相互依存を基盤としてコミュニティが成立するとは言えない。また、そのようなコミュニティが開かれたものであり続けるための仕組みも必要だろう。コミュニティは日本社会に歴史的にあったはず。しかし、その多くには受け入れがたい因習とセットだったり、誰かの排除を前提としていたのではないか。そのようなものではない開かれたものとしてのコミュニティを構想できるかどうか。そこが一つの鍵になるのではないかと思う。
環境問題やグローバルに平等な社会を構想したときに、日本列島で右肩上がりの経済成長を追いかけるのはもう無理だというのは多くのひとが語っている話でもある。そんな中で構想しうる、従来の価値観を転換させる社会の基盤に、ここに描かれているようなコミュニティが必要だろうし、このようなコミュニティがうまれることが価値観の転換を促していくのだと思う。
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