『ケア宣言』メモ
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ケアを貶める政治を越えて、ケアに満ちた世界へ。
コロナ禍は、ケア実践やケア労働の重要性と、それを疎かにしてきた社会のあり方をあらわにした。ケアの概念を手がかりに、家族、コミュニティ、国家、経済、そして世界と地球環境の危機を解明し、ケアを中心に据えた対案を構想する。
目次
序章 ケアを顧みないことの支配
第1章 ケアに満ちた政治
第2章 ケアに満ちた親族関係
第3章 ケアに満ちたコミュニティ
第4章 ケアに満ちた国家
第5章 ケアに満ちた経済
第6章 世界へのケア
解説(岡野八代、冨岡 薫、武田宏子)
(以下、引用文の強調部分はすべて引用者)
第1章 ケアに満ちた政治から
・・・「ユニバーサルケア」という着想を広げるために、このケアの理論をさらに一歩進めたいとも思っています。すなわちそれは、一つの社会の理想であり、その社会ではケアが生のあらゆる領域において前面にかつ中心にあり、直接手をかけるケアワークだけでなく、コミュニティや世界そのものの維持のために必要なケアワークに対しても、みなで連帯して責任を引き受けます。 ・・(略)・・これが意味するところは、お互いをケアし、そして自然世界を略奪するのではなく、むしろ回復させ、育むための能力を私たちが身につけ、高められるような、社会的・制度的。政治的な諸機関を発展させ、それらを第一に考えるということです。46-47p
48頁では、【「ケア」という概念は、パラドクスと相反する感情に溢れています】と書かれていて、さらに、(トロントのようなフェミニストは)・・・「様々なケアの形態に不可避である相反する感情については説明していません」と書かれているが、訳者の岡野さんは解説でこの「説明していません」という部分を否定している。
解説で岡野さんは以下のように書く。
・・トロントはケア活動には複数の局面があり、複数の個人のあいだで必ず行われる以上、何の局面には「軋轢」が 存在する——本書48で論じられているのとは違い——と注意を促す。トロントは 実際、「軋轢は、ケアに内在している」と はっきり断じている。ケアの中心に〈他者(自然・自分の身体も含む)が何を必要としているか?〉という問いかけが存在する限り、ケアのニーズは、実際に担われるケアによっては充たされないことがあり、ケアを担う者が、他のケアの ニーズに応じる責任に迫られれば、いずれのケアを実行するのかを選ばなければならない 。癒される必要に気づきながらも、実際にそのケアに対する責任を負わないかもしれないし、 また、担った者が、ケアを受けた者たちから、それ相応の応答を得られない場合もある。すなわち、ケア実践の際、葛藤や軋轢から誰も逃れることができない。ケアを実践、 活動としてその内容を見きわめることによって強調されるのは、ケアのプロセスを「美化しない」ことである。201p
おそらく、トロントの理論などにも精通していると思われる、この『ケア宣言』の著者たちが、なぜ、このような単純なミスを犯しているか、というのを岡野さんに聞いてみたい。
肯定的な感情と否定的な感情の双方は、私たちのケアの実践とケアする能力の双方と不可避に絡みあっています。ケアが能力として、そして実践として複雑であり、乗り越えるべき多くの課題を伴うというまさにその理由から、身近な他者と遠くの他者の双方をケアすることを可能にするために不可欠の社会的基盤が提供され、保障されなければならないのです。51p
これ、なんか悪文の代表みたいな文章だと思う。
自分ならどう書くか、考えてみた。最初の文章はまあ、そのままでもわかる。次の文章にちょっとだけ手を加える。
~~~
ケアは能力として、そして実践として複雑であり、乗り越えるべき多くの課題を伴う。まさにそれを理由として、身近な他者と遠くの他者の双方をケアすることを可能にするために、不可欠の社会的基盤が提供され保障されなければならないのです。
~~~
訳に使われた翻訳単語を変えずに少しは読みやすくなったような気もするが、意訳して読みやすくするか、直訳して原著の感じを残すか、判断は難しいと思う。
ともあれ、読みにくい文章の利点は、わからないので、何度も読み返してよくわかっていなかったということが浮かび上がるところ。身内のケアと、地球やコミュニティを含む他者のケアの両方が必要ということなのかと思う。ケア関係が複雑だからこそ、それを身内の中で閉じたものにせず、他者との関係にも開いていくことがとても大切だという話なら理解しやすいし、そのために「不可欠の社会的基盤が提供され、保障されなければならない」というのもわかるが、その解釈で正しいのかどうか、不明。
55pでは、障害者の自立生活とは、自分でなんでもやることではなく、他の人と同様の日常生活における選択肢とコントロール権を持つことだというラッカの文章を紹介したうえで、以下のように書いている。
私たちは、依存と病理の破滅的な結びつきを打ち壊し、それぞれ異なり一様ではないけれども、私たちはみな相互依存を通じて、またそれによって形作られているのだということを、認識する必要があります。
このように、真にケアに満ちた政治を再想像するために、私たちは私たちの生存と繁栄がいつでもどこでも他者のおかげである、その無数の仕方を認識することから始めなければなりません。ケアに満ちた政治は、この相互依存と、そこから不可避に生じる相反する感情や不安の双方を理解しなければなりません。私たちは、なくすことのできない私たちの差異とともに、私たちに共通する依存が課す様々な困難を認めて初めて、特別なニーズが何であろうと、またケアの与え手か受け手かにかかわらず、これらの立場がしばしば互恵的であることにも気を留めながら、あらゆる人の潜在能力を育てるのに必要な技術や資源を十分に評価できるようになるのです。53-54p
これも直訳風の酷い日本語の文章だと思うけど、まあ、言いたいことはわかる。
そして、重度の知的障害の人の「自立生活」を考えるとき、それは「他の人と同様の日常生活における選択肢とコントロール権を持つこと」だと単純には言えないのではないかと思えてくる。言葉で伝えることの出来ない重度の知的障害者が何を求めているか、複数の支援者とともに試行錯誤し、手探りでそれを実現しようとするのも、「自立生活」と呼んでいいのではないか?
さらに、この少し後で、以下のように書いている。これが「大文字のケアの政治」の大事な部分ではないかと思う。
さらにいえば、人間の相互作用の複雑さを認識させてくれるケアの実践は、社会のあらゆるレベルにおける民主的なプロセスを再創造し、より自由前にそれに参加する能力を高めてくれます。結局のところ、相関する感情や矛盾した感情を持ちつつ、それとうまく付き合っていくことは、民主的なコミュニティを築き上げる鍵となります。もっと大きな構想のひとつの核として、参加型の民主主義を深めていくことによってのみ、私たちはケアにまつわる多くの相談する感情と適切に付き合っていこうと臨むことができるようになるのです。 54-55p
第3章 ケアに満ちたコミュニティ
ケアに満ちたコミュニティ創造に、特徴的な4つの核(80p~)
1,相互支援
2,公的な空間
3,共有された資源
4,ローカルな民主主義
1,相互支援
ケア提供とケアの受け取りに基づくコミュニティによって、その構成員には幅広い相互支援が与えられる。
(相互支援なのだから、与えられるだけではないと思うのだが、どうなのだろう?)
長期間活動の存続のためには構造的な支援が必要
2,公的な空間
その空間は、誰もが共有していて、共同で維持され、私的な利益に左右されない。
この共有の公的空間を拡張することは、あらゆるものを私有化しようとする新自由主義の衝動を反転させる。
3,共有された資源
そのコミュニティでは人びとのあいだで資源を分かち合うことを第一に考える。
道具などの物質的資源だけでなく、オンライン情報などの非物質的資源も含まれる。
4,ローカルな民主主義
ケアに満ちたコミュニティは民主主義的。
ラディカルなミュニシパリズムと協同組合を通じて、地域に根ざした関与とガヴァナンスを拡大。アウトソーシングからインソーシングへ。
この4については、96pにも書かれている。
「ケアに満ちたコミュニティは、
民主的なコミュニティである」
モデルとして、北西イングランドのブレストン市、遠く離れた企業との契約にお金を払うことから、地域の供給者や労働者協同組合に投資することへの切り替え。 そのブレストンモデルは合衆国のオハイオ州クリーブランドモデルに倣っている。
102p要約
コミュニティは美化されたりもする。
ケアがないコミュニティの事例も多いし、反動的な課題を押し付けるためにケアが利用されるかも。
また、新自由主義によって損なわれた部分を埋めるために人々の隙間(すきま)時間を利用することを「ケアに満ちたコミュニティ」は決して意図していない。
新自由主義を終わらせ、人々のケアする能力を高めることを意味する。
真に民主的であるために、企業による悪用を終わらせ、協同組合を育て、アウトソーシングをインソーシングに変えるようなミュニシパル・ケアの形態が必要。
ここに例示されているように、バルセロナなどのミュニシパルと呼べるような領域からの変化はすでに実現しているし、それが不可能ではないという話の根拠になる。問題はそのバルセロナを日本社会でどのように実現していくか、という話でもある。
『第4章 ケアに満ちた国家』において、微妙な言い回しでの「企業が誘導する」経済成長からの脱却の必要と書かれている。しかし、ここではそうでない経済成長の是非や、そもそも経済成長が必要かどうかについては触れられていない。そして、国家にとって最も重要である責務は持続可能なケアの社会的基盤を国家内に構築し、維持することであるはず、と書かれている。105p
一つの大きな課題は、その責務を担うためには、国家がお金を持っていることが求められるということだ。ケアに満ちた国家のための予算の組み換えは必要とされるが、組み換えだけで足りるのか、ということが課題となる。この衰退を続ける日本の経済を見ていて。
108pでは以下のように書かれている。(要約)
奥深い相互依存性と傷つきやすさの認知に基礎づけられたケアの社会的基盤を、国家は緊急に構築する必要がある。そして、構成員すべてがお互いに繁栄していくための物質的・社会的・文化的条件の整備が求められるし、それは実現可能である。そのように議論するためにケインズ主義福祉国家の再考が求められる。
ここでも課題は「持続可能なケアの社会的基盤を国家内に構築し、維持すること」と「経済成長」の連関。この『宣言』がいうような「ケア」がどのように実現可能になるか。
この後、宣言は英国における戦後福祉国家の優位性について記述し、それを壊したのが新自由主義だと主張する。109頁の小見出しは「福祉国家とその不満」となっているが、この節には福祉国家への不満の記述はない。そして、次の小見出しが「ケインズ主義国家を再考する」となるのだが、この節にも福祉国家への不満やケインズ主義国家の再考には直接触れられているようには思えず、新自由主義の影響力の拡大の問題とケアに満ちた国家構想が描かれるだけではないかと読める。福祉国家がここで描かれているようなケアに満ちた国家ではなかったという話ではあるが、再考すると書きながら、その再考はとても不十分だと思える。
例えば、以下のように書かれている。
私たちが相互に依存する存在であることを考慮して、ケアに満ちた国家のすべての市民は、生涯にわたって意義深く価値ある生を生きる者として認知される必要があります。したがって、文化的な規範の転換は、私たち全員が本来的に依存する存在であると国家が公に認めることを伴うものであり、これにより、自律性と依存性は同じ現象の異なる側面であると理解されるようになります。
こうした方向で福祉国家について大幅に再考していくことで、私たちは、伝統的な家庭内のジェンダーによる役割分担を乗り越えることになります。なぜなら、ケアすることの必要性とケアされることの必要性が両方とも、私たち全員によって共有されるようになるからです。こうしたことから、福祉国家について再考することは、公的供給がどのように構想され、分配されるのか再考することをも意味しています。ケアに満ちた国家は絶対に、父権主義的であったり、人種差別主義的、あるいは植民地への入植者が牛耳るような国家であったりしてはなりません。ケアに満ちた国家の公的供給は、依存を深める方向へ展開するものではなく、障害学が「戦略的自律と自立」と呼んできたものをあらゆる人々が育むようになり、また、国家と多様なコミュニティの内部で、あるいはそれらの間で、新しい関係性が生まれることが可能となる条件をつくりだすものです。そして、ここで念頭に置かれている新しい関係性とは、人々が繁栄し民主主義的実践に参加するために必要なものを受け取っている状態に基礎づけられています。
言い換えれば、国家は、コミュニティとケアに満ちた市場が繁栄するために必要なサーヴィスと資源が円滑に提供されるよう管理するのみならず、民主的参加が縮小せず拡大することを促進することに責任を負わなければなりません。・・・114-115p
興味深いのは強調した以下。
~~
自律性と依存性は同じ現象の異なる側面
~~
ケアに満ちた国家の公的供給は、依存を深める方向へ展開するものではなく、障害学が「戦略的自律と自立」と呼んできたものをあらゆる人々が育むようになり、また、国家と多様なコミュニティの内部で、あるいはそれらの間で、新しい関係性が生まれることが可能となる条件をつくりだす
~~
障害学的に考えると、自立の度合いが依存の多様性の度合いであるなら、ケアに満ちた国家の公的供給は、依存を深める方向へ展開するものではないかもしれないが、依存を広範囲に広げて、薄めていくものでもあると言えるかもしれない。また、「戦略的自律と自立」が求められるとしたら、それは戦略的依存が求められているという風にも言えるかもしれない。
そして、それが必要だというこの話に合意したとして、大きな問題は、それをどのようにして、国家的なコンセンサスにしていくのか、という話でもある。やはりここでも方法はミュニシパル的な領域からの変化を拡大させていくという方向なのだろう。
125pでは国民かどうかにかかわらず、国家に居住するすべての人がケアし、ケアされる権利を持つという認識が必要だと書かれる。歴史上、もっとも周辺化されてきた人々が優先されなければならないとのこと。
そして、 ここで福祉国家の限界のことが明確に以下のように語られる。
戦後の福祉国家の前提を複数採用しながらも、その伝統的な人種化された政策と厳格な階層性、性別と人種による役割分担を拒否することによって、・・・
ただ、ここに書かれている「伝統的な人種化された政策と厳格な階層性、性別と人種による役割分担」という話、福祉国家の限界は多々あり、人種的マイノリティや女性や性的マイノリティが被っている差別は福祉国家において現在でも少なくはない。しかしここで具体的に何を指しているのか不明。
そして、この「拒否することによって」に続く以下の文章に注目する。
私たちの革新的な国家の構造は、経済的問題及び環境問題によって難民と移民が出現する条件を弱めることになるでしょう。 実際、もし地球上のあらゆる国家を組織化する際の中心原理としてケアが採択されれば、経済的不平等と大量の移民は減少、環境に対する不正義は、世界を怪我することへの相互的なコミットメントを通じて是正されることになります。
世界中がケアに満ちた国家になれば、難民や移民は減るかもしれないが、先進工業国が先にケアに満ちた国家になれば、移民は増えるのではないか?
第5章 ケアに満ちた経済
冒頭で以下のように書かれる。
ケアに満ちた経済があるとすれば、いったいどのようなものでしょうか。第一に、そして何よりも、それは、私たちが互いをケアしあうことを可能にしてくれるあらゆることとして、経済を想像しなおすことを意味するでしょう。それは、私たちのケアのニーズが多様であることを前面に出し、その多様性を迎え入れるでしょう。それだけでなく、そのニーズが満たされる方法も、ただ市場での交換だけでなく、世帯内、コミュニティ、国家、そして世界のなかで満たされるといった多様性をも喜んで受け入れるでしょう。すでにここまで論じてきたように、新自由主義的資本主義が、「自由主義」を極端に拡大し、人間の経済活動のあらゆる局面に押し入ってくることを止めなければなりません。127-128p
~~
・・・私たちは、経済的なるものの本性と、それが及ぶ範囲を想像しなおし、ケアが真に組織の中心原理となり、「ユニヴァーサル・ケア」が根底的なモデルであるような社会のなかに、経済を埋め込まなければなりません。128p
社会に経済を埋め込むと言ったのはポランニーか? もう100年くらい前。
強調されるのは、経済は「生命態の環境の一部」であるということ。この生命態、もとの英語が何なのか気になる。エコシステム? 原著を買うかどうか迷う。
そして、そのための2点
1,資本主義的市場の力とその範囲を制限し
様々な領域における私たちのケア活動が市場に取り込まれたり、
市場から引き離されることを命じるような、文化的、法的規範を書き直す必要
ケアを市場にまかせるのもよくないし、ケアを市場に依頼することを拒否するのもよくないという微妙な話だ。
2,デヴィッド・ハーヴェイが論じたように、消費者と生産者、ケアの受け手と与え手を、再び結びつけるために、「ヴェールを取り去り、 市場の物神性を解明し」なければならない。
エコ社会主義的な市場を始動し、ケアに満ちた交換の仕組みを、限りなくより民主的で連帯的なものにしつつ、所有、精算、そして消費の様式が 、地域、国家、そして究極的には国際的なレベルにわたって平等主義に基づくように取り組んでいくことができるようになる。129p
空想エコ民主主義という細谷さんの評価(『ケアするのは誰か?』について)が浮かぶ。
135ページでは資本主義の市場論理とケアは相容れることがないと断言する。
しかし、129pでは、「市場から引き離されることを命じるような、文化的、法的規範を書き直す必要」が主張されている。市場から引き離されることも否定されていたわけで、そこには論理矛盾があるのではないか?
ケアが市場と相容れないという理由がいくつか挙げられるのだが、市場がケアの質を担保している部分はあるのではないか? 誰がどのようにケアの質を維持するのかという課題は小さくはない。
市場的な競争のまったくない場所で、ケアの質をどう維持するか、医療も同様かもしれない。
質を維持するだけでなく、向上させていくために、市場競争と報酬だけがモチベーションを生むわけではないと思うが、市場的な要素をすべて排除して大丈夫なのかという疑問が残る。
140pでは新型コロナを受けて、スペインでは医療がすべて国営化されたという。そこでの医療の水準などをどう維持されているかが気になる。例えば、英国のNHSでは予約を取ってから通院までに時間がかかったり、医療の水準に不満がある日本人がいるとかいう話を聞く。
そして、少し後に、質を維持するためにも、「市場を再‐規制化」し、市場の役割を再設計する、とある。高齢者介護の現場で働く知り合いが言うには「現在、市場競争なんてしてられるゆとりなしですね。労働条件悪すぎて質は下がりっぱなし。介護に効率性、生産性論理は当てはまりません」とのこと。
まず、公的給付水準を十分にする必要があり、市場をどうこうするという前に、それが必要。市場原理を働かせるにしても、「市場を再‐規制化」し、市場の役割を再設計するにしても、それがなければ始まらない。
そのうえで、介護保険制度や障害福祉サービスの仕組みを持続可能なものにするための持続可能な公的財源の投入が必要なのだろう。
そして、ここでは、その市場の役割を再設計するために「配分機能から利益を得るのが富裕層などではなく人々と地球であることが確約されている必要があります」と書かれている。
市場の再‐規制と、それによる再設計のアイデアとして、例示されるのが
・協同組合
・国有化
・革新的なミュニシパリズム
・地域化(ローカリゼーションか)
・インソーシング
・公共とコモンズのパートナーシップ
など。142p
ここで考えなければならないのは20世紀いっぱいをかけて行われた壮大な社会主義実験の失敗体験ではないかと思う。単純な国有化・公営化・共同所有が腐敗は専制政治を許してきた実験の失敗をどう総括し、腐敗しない公共の復権が求められている。
ともあれ、これに続けて、以下のように書かれている。ここも文章が長いので文節化してみた。
・上記はすべて
・私たちの市場が
・そして生産と消費の手段が
・集団化され、社会化されるだけでなく
・民主化されることになる
・その方法である
20世紀の社会主義実験の失敗の大きな要因は、民主化抜きの集団化がもたらした弊害だったと言えるだろう。数々の国で行われたにも関わらず、ぼくが知っているかぎり、ほぼすべての国や地域で「社会主義」国家の民主化は失敗したのではないか。なぜ、それが成功しなかったのか、どうすれば成功するのかという考察がもっとあってもいいと思うのだけど、ぼくは寡聞にして知らない。
144pでは「ケアに満ちたエコ社会主義的な市場」という表現も使われ、(前述した公的資源の国有化や労働者協同組合などの)オルタナティブに共通していることは、として、以下のように書かれている。
規制され、民主的に統治された市場の必要性であり、そうした市場は限りなく平等主義的で、参加型で、環境的にも持続可能なものです。私たちの社会的、そして地球的な関心は、利益よりもまず優先されなければなりません。私たちに必要なのは、総合支援の協働的なネットワークに焦点を当てて、全ての人のケアのニーズに応じた、社会的、物質的な富の再配分を志すような、ケアに満ちた経済の編成です
繰り返すが、言いたいことはよくわかるし、その通りだと思うのだが、20世紀に、そこに失敗してきた歴史があり、その失敗をどう乗り越えるかという視点が希薄すぎるのではないかと感じている。
続いて示されるのが、スペインにモンドラゴンの事例。モンドラゴンの実験は偉大だと思うが、モンドラゴンは同じような規模の第二のモンドラゴンを形成することが出来なかったのではないか?
146pからは、それが可能な限り地域に根ざしたものでなければならないとした上で、
「地域経済の再生には、商業を人間らしいものへと変革し、グローバル・ノースとグローバル・サウスの双方で、労働者が環境権に対する組織的な酷使に対抗する可能性があります」
と書かれている。この「グローバル・ノースとグローバル・サウスの双方で」という視点はとても重要だと思うし、この視点を欠いた解決はあり得ないと思うのだが、さらっと書けるほど、その圧倒的なコンフリクトの解決は容易ではない。
第6章 世界へのケア
ここで新型コロナの話になる。相互依存の不可避性というような話から、
こんな風に書かれている。
・・・。これは、国境を越えて急速に蔓延したCovid-19 のパンデミックによって、突如として破壊的な形で明らかになってきました。結局のところ、国家レヴェルでのー資本家の富を保護するか、あるいはヘルスケアワーカーに関心を向けるかといった様々な国家の優先事項によって形づくられた異なる決定が、ウイルスのグローバルな広がりにも、私たち自身の生きる可能性にも影響を及ぼしてきました。同時に、グローバルなロックダウンによって逆説的にも、どうしたらより良い世界をつくりあげることができるのだろうかという可能性の片鱗を、突如として垣間見ることになりました。私たちは、国家間で設備を共有し、大気の質が改善され、地域的な相互扶助が実践され、そして労働時間が短縮されたのを、目撃してきました。
私たちはまた、直接手をかけるケアやその他の形態のエッセンシャルワークの価値が、感謝とともに認められたことも目にしてきました。
要するにパンデミックは、私たちの生の網の目を維持するのにきわめて重要な多くの本質的な機能に、劇的に、そして悲劇的に光を当てたのです。それはまさに、看護師や医師、配送業者、そしてごみ収集作業員の労働です。しかし、このパンデミックはまた、国境を越えた連携や協働がいかに、命に関わるほど重要であるのかもあらわにしてきました
新型コロナが世界を変えた。そこには、こうあって欲しいと思えるようなものも含まれていた、という話でもある。
そして、以下のようにつづく。
破滅に陥る寸前から私たちの世界を取り戻すためには、あらゆる領域・段階・側面において、ケアが優先され、ケアが機能している必要があります。すなわち、親族関係からコミュニティに至るまで、そして国家から国境を越えた戦略―現在ではグローバル企業や金融資本の領域―に至るまでです。今日の私たちの世界がこれほどまでに荒廃している原因は、まさに不平等がグローバルに広がっているという現実にあります。このように、私たちのユニヴァーサル・ケアのモデルをグローバルなレヴェルにまで「拡大する」ためには、民主的なコスモポリタニズムを採用しながら、相互依存と資源の共有という原理に基づいた、国境を越えた機関や、グローバルなネットワークとの連携を発展させていく必要があります。144-145p
まここもこれまで繰り返し書かれてきた話ではある。
156p~提唱されるのはグリーン・ニューディール(GND)
GNDの有効性がとくとくと書かれた後で、158pではそれだけでは十分でないという、
既存の革新的な諸機関を足場にすることが提唱される。このあたりから、急に具体的になり、そして「それはどうなのか」と感じさせる部分でもある。
160pで紹介されるのは、オクスファムの2020年のレポート『今こそケアを』
ここで債務帳消しと累進課税の強化が提唱されている、とのこと。
また、トービン税の紹介もある。
164pではレベッカ・ソルニットのthe Guardianの記事のタイトルが紹介されている。それがこの本では『あらゆる抗議活動が世界のバランスを変化させる』と訳されている。
Rebecca Solnit: 'Every protest shifts the world's balance'
https://www.theguardian.com/books/2019/jun/01/rebecca-solnit-protest-politics-world-peterloo-massacre
168pではケアに満ちた国家では、国境の力を縮減させなければならない。越境を希望するすべての人に開かれていなければならないし、無理な越境を引き起こす不平等をなくさなければならない、と書かれているが、それをどのように実現するかが大きな問題であり、無理を伴う、難民という形の越境を止めることができる見通しは立たない。
この宣言の最後に「振り返ってみて」という1節が置かれる。そこで以下のように書かれている。
ケア宣言は、「ユニヴァーサル・ケア」のクィア的-フェミニスト的-反人種差別的-エコ社会主義的な政治構想を提案します。ユニヴァーサル・ケアとは、私たちは直接手をかけるケアワークに対してみなで連帯して責任を引き受け、また同様に、他の人々や地球が開花することに関わり、それをケアするということです。すなわち、真に集合的で共同的な生の形を取り戻し、資本主義市場に代わるオルタナティヴを適用し、ケアの基盤の市場化を逆転させるということです。・・・173p
と書かれる。あいかわらず、日本語としてどうか、と思える文章。とはいうものの、翻訳出版のスピードを優先すると、こうなるのはしかたないのか、とも思う。
これに続けて、それは「中央においても地方においても、福祉国家を回復させ、急進的に深めていくこと」だと書かれている。【「ユニヴァーサル・ケア」のクィア的-フェミニスト的-反人種差別的-エコ社会主義的な政治構想】とは福祉国家の回復と急進的な深化なのか。
で、ケア宣言は以下のように結ばれる
目下進行中のグローバルな厄災が、大規模な破裂の瞬間であるのは明らかです。しかしながら歴史的には、破裂は急進的な革新的変革への道のりを拓いてきました。第二次世界大戦の後には、多くの西洋諸国では福祉が成長を遂げ、かつてのヨーロッパ植民地では独立闘争が成功を収めました。しかし2007~8年の金融危機の後のように、破裂はナショナリズム、独裁主義、そして再興した資本主義が成長する引き金にもなってきました。
今日の課題は、急進的変革のこれまでの契機を足場にするということです。私たちがこの宣言で明らかにしてきた構想を実現するということは、Covid-19の遺産が、増大した新自由主義的独裁主義ではなく、ケアをあらゆるレヴェルにおいて中心に据えた新しい政治となるように、組織化をすることを必然的に意味します。ユニヴァーサル・ケアという構想は、喫緊であるだけでなく、気の遠くなるほど困難なものでもあることはわかっています。しかしながら、破裂というまさに今このとき、新自由主義の規範は崩れかけており、私たちはまれにみる機会を手にしているのです。あらゆる社会階層にわたって構造化されたケアのなさが蔓延していることが、いたるところで気づかれはじめています。ケアを率直に認めることから始めましょう。ケアがいつでもどこでも複雑である、そのすべても認めましょう。そして、私たちができるところから、より永続的で参加型のケアに満ちた展望、文脈、そして生活基盤をつくっていきましょう。174-175p
新型コロナは確かに社会のかたちを変えつつある。そこに肯定的な変化を見と取ることはできるだろう。禍がもたらした、その肯定的な変化・そして社会の亀裂が可視化されたことを、社会の抜本的で肯定的な変化に結びつけることが出来るかどうか、問われているのは社会運動の側であると言えるかもしれない。
ケアを中心に置き、ケアから見えてくる課題に挑戦することと、社会変革を結びつけること、という構想は、ぼくが考えてきたこととの親和性も小さくない、というか、それを言語化してもらったという感じさえある。
しかし、そこに至るロードマップはあいかわらず貧弱すぎるくらい貧弱だ。メインストリームの圧倒的な経済力・影響力はSDGsが根本的な変化を求めているという主張さえ捻じ曲げ、自分たちの「商売」に都合のいいものに変えようとし、それに成功しつつある。
ここに書かれているように新型コロナが少しだけ開いた端緒を押し広げて、根本的な変化につなげていくことをあきらめてもつまらない。
どうすれば、そこで見えてきた矛盾を、さらに明確に見えるように出来るか、そこから根本的な変化につなげることができるのか、この宣言は、ひとつのスタートラインの提示、とも言えるのではないか。
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訳者解説には、この宣言が出来たバックグラウンドについて記述してある。
著者グループの人たちの専門分野とか。
そして、岡野さんの解説の以下の部分はとても興味深く、示唆に富んでいる。
責任と関係性を中心に据える「ケア」は、単に優しく温かで、愛の溢れる理想的なものではない。事実、〈他者を傷つけてはならない〉というケアの命法は、仮想ではない実際のジレンマの場面において葛藤を生む。中絶するかどうかに悩む女性たちにインタヴューをおこなったギリガンの「中絶決定に関する研究」において、中絶に悩む女性たちは、胎児やパートナーを含めた周囲の様々な人々に対して責任を果たそうとするが、それぞれに対する責任が衝突していることで、すべての人をケアすることができないという〈犠牲者選びのジレンマ〉に直面することとなる。彼女たちの声のなかに現れているように、ケアの倫理は、「すべてのひとが応答され、包摂されること、そして誰もひとり取り残されたり、傷つけられたりしないこと」(Ibid:63/109)を理念に置きながら、誰も傷つかないことが不可能であるという現実との葛藤に向きあい、その状況において、非暴力という理想にいかにして近づくことができるかを思考するなかで生まれた。すなわちケアの倫理は、積極的に応答することで人々を危害から守り保護することだけを目的とするのではない。さらにその倫理が要請するのは、「それでもなお、傷つきやすい存在のニーズが誰からも応答されなかったためにその生が危険にさらされたり、直接的に暴力を受けたりした最悪の場合には、過去に遡り、危害を特定し、断ち切られた過去とを結ぶ糸を紡ぎ直しながら、傷を癒し回復を目指すための新しい「現在」を創造しうるような関係性を、ひととひとの間に築かなければならない」(岡野2012:316)ということなのだ。
ただし、ギリガンが「もうひとつの声」の冒頭であらかじめ断りを入れているように、「私の記述するもうひとつの声は、性別ではなく、テーマによって特徴づけられている」(Gilligan1993a:2/xii)ということは、くりかえし確認されるべきである。すなわち、その後も当著作のタイトルが「女性の声」ではなく「もうひとつの声」であるということを指摘したように(Gilligan,1993b:209)、ギリガンはケアを女性に特有の「フェミニンな倫理」として示そうとしたわけではない。そしてその後の議論を経て展開されていくケアの倫理は、貶められてきたケアの価値を再考すると同時に、ケアを女性や周辺化された人々に割り当て搾取しようとする支配と抑圧の権力構造に目を向けるという点で、「フェミニストの倫理」であるといえる。ケアの倫理は、フェミニスト的視点から、抑圧的なケア環境に置かれた人々を保護するために、「善いケア」とは何かという規範に関する議論を展開してきた。
また一方で、ケアの倫理は「規範から外れているとされた声」にギリガンが耳を傾けるなかで生まれたのも事実である。このことから、グローバル・ノースで形づくられてきたケアの倫理は普遍性を騙ってはならないのであり(Tronto2020186)、ケアの倫理はその規範を指定することで、いかなる文脈を捨象し、いかなる声を掬い損ねているのか、すなわちケアの倫理それ自体がいかにして「支配的権力の一形態としても作用しうる」(Ibid:182)のかについても、注意深くあらねばならない。(訳者解説 192-193p から)
私たちは規範から外れた声をどれだけ聞けているか、と自らに問う作業を続ける必要があるのだろう。規範から外れた声を聞き続けることは、そんなに容易な話ではない。しかし、同時にケアの倫理に立てば、ケアする者もまた、ケアされなければならない。ケアする者がどのようにケアされるのかということは大切な課題だ。
また、194pに記載されているようにケア言説が満ち溢れている現状、そんななかで
「ケア」という理念にはそぐわないような行いが「ケア」を利用し、「ケア」として粉飾されている。本書はそれに対抗し、「フェミニスト的-クィア的-反人種差別的-エコ社会主義視点」から、ケアのあり方を捉えなおすという試みと実践なのだ。
と岡野さんは書く。岡野さんがここで何をイメージして書いているのか、読み取れないが、ケアの理念にそぐうケアとそぐわないケア、どのように見分けることができるだろうか? その境界線はリジッドであり得るだろうか?
ケアの倫理と正義の倫理、この二つ、これまでの議論の中では、二項対立的に捉えられてきたことが多かったのではないかと思う。また、事実、そういう側面もあるだろう。しかし、岡野さんはここで、【ケア「か」正義か?】という枠組みそのものを疑うことこそが、ケアの倫理の特徴だという議論を紹介する。そこで援用されるのがアネット・ベアー。195-196p
こんな風に書かれている。
ベアーに始まるフェミニストたちは、ギリガンの出発点に女性たちが被ってきた不正義に対する告発を読み取ることで、〈ケア「か」正義か〉といった論じ方に無効化を 迫ったのだった。ケアの視点から、彼女たちはこれまでにない正義論を模索したのだ。196p
また、以下の部分は端的で秀逸だと思った。
3 ケアの理論へ
ケア実践への着目によって、ケアを担うなかで体得していく――から、本性では決してありえない―態度や倫理、他者関係へとフェミニストたちの関心が広がるにつれて、そもそも社会を構想する際の前提となる、(心身ともに)自立し、(意志を貫徹し、目己立法に従いつづけることが自己実現だと信じることができる。自律した個人といった社会が求める個人像に、フェミニストたちは根本的な批判の目を向けるようになる。彼女たちは、自立/自律していることを自認した個人こそが、ケアを担う者たち(≒女性)に依存しつつ、彼女たちを貶めてきた歴史と現状を批判するだけでなく、個人像を脆い、傷つきやすい人に定位し、他者とのケア関係のなかでようやく自尊心や諸価値を体得していくプロセスとしての個人化の途上にある人から、社会を構想するようになる(Cornell1995,Nedelsky2012)。199P
この続きで、この宣言でトロントに関して、「若干の説明不足」があるとして、トロントによるケアの定義などを紹介する。
その流れの中で、最初の方で紹介したこの宣言でのケアの相反的感情に関するトロント理解の課題が書かれている。
203pでは、新自由主義的な価値観が内面化している現実の中で、「ケアの理論は新しい社会構想を示すと同時に、私たち一人ひとりの生き方を問いなおす倫理でもありつづける」と岡野さんは書く。
そして最後に解説の結語として、以下のように書いている。
ここでは、「アベノマスク」や「お肉券」といったブラックジョークのような――とはいえ、一部の人に「お金を流し込んだ」不正の極みでもある――対策や、火事場泥棒とさえ揶揄される問題含みの立法の数々など、これ以上触れることはしない。ただ、まさに本書が各章で触れるような、人々のケア実践は、日本各地で今もなお多くの人の手によって担われつづけており(雨宮2021、稲葉・小林・和田編2020)、大手のメディアがオリンピック開催のために報道自粛をしているのではないかと思われる一方で、支援をいかに、本当に必要な人に届けるのか、ネットワークづくりと情報発信も含め、まさに直接手をかけるケアから、地方自治体との交渉まで、多くの人がケアに満ちた共同体を築きつつあるのも確かである。私たちは、こうしたケア実践のなかで手にした教訓を忘れてはならないし、これからも公にされるであろう記録に注意を払い、ケアを様々な組織の中心原理とするような社会を構想していかなければならない。
先述したように、イギリスではオルタナティヴな政策ヴィジョンの構築がすでに着手されている。ここ日本でも、一部の人たちのための政治を終わらせ、多くの人たちのための政治、すなわち、ケアを社会基盤と捉え、公的なケアを政治の重要課題の一つと考える人々が中心となる政治を、これまでの教訓と歴史を学びながら、みなで構築・構想していく時が来ている。政府から求められて、私たち自身の行動を変容させるのではない。私たちが政治の変革を求め、引き起こす時なのだ。211p
この結語に異論はない。「私たちが政治の変革を求め、引き起こす時なのだ」ろう。身近なところでの「ケア理論(の実践)」は、かなりの部分で実現可能なはず。それを同心円状に広げる努力も続けたい。しかし、それだけでメインストリームの変革、政治の変革は可能なのか、そこに課題が残る。
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