立岩さんの「障害者と/の労働について:覚書」から(また本の紹介はしてない48回目)
「障害者と/の労働について:覚書」 http://www.arsvi.com/ts/20210011.htm
として生存学のサイトで公開されている。研究会の案内にこの文章からの引用があった。
「障害者の就労という主題に限らず労働について考えることはこれからしばらくの大きな主題だと、私はかなりにまじめに思っている」
「労働の分配・労働の分割もおもしろい主題としてある。しばらく私たちは消費社会を語ってきたのだが、とくにこれから何十年かは労働がもっとも大きな主題の一つとなるだろう」
「ここではごく基本的なことを。一番単純には、「障害」に対応する英語は disability であり、労働は ability を要する行ないであり、ability がなければ仕事にはつけない、収入も得られない、終わり、となりそうだ。そして私自身は、そこからものを考えてきたところがある。働けないものは働けない、は事実として、ゆえに得られないのはおかしい。では、というようなことである」
確かにすごく大切な主題だと思う。そして、にもかかわらず、それを正面からちゃんととりあげている人は少ないかもしれない。
また、最後の文には留意が必要だと思う。見過ごされてきたさまざまなability があり、必ずしも直接的に生産に結び付かないものもある。また、生産に結び付くability であっても、「障害者」というレッテルや見た目でability がないものとみなされ、あるいはみなされそうだという理由での労働からの排除はいまでも多い。
「働けない」あるいは「働いても、その価値が認められない」人にも配分されるべきだというのは、かなり多くの人が納得できる議論だろう。もちろん、少なくない数で、それを否定する人たちもいる。そして、その配分の多寡についても、議論が必要で、それはとても大切な部分でもある。他方で「働かない人」をどう考えるか、という話はよりややこしい。
立岩さんの労働と分配についての考え方、ぼくの理解では
「能力に応じて働き、労苦の多寡によって差を残しながらも平等志向の分配があり、働けなくても必要なものは得られる」(この平等志向の分配について、昨日は時間に応じてと言っていたと思う)というもの。ともあれ、フルタイムでがんばって働いても、年収が200万円に満たない人がいる一方で、1億円以上の年収を稼ぐ人がいて、さらに、ちょっとした国家予算並みの年収を得ている人がいるような状況は明らかにいびつだと思う。(これは国内だけの比較)
また、ずっと、ひっかかっているのは「働けるもの」とそうでないものの区分。「働く」をどう解釈するかという話だが、ぼくは従前の解釈よりもっと広く捉えていいのではないかと思う。以前から主張している話だが、ALSでTLS(意思疎通が一切できない状態)になっても、その人の存在が周りの人に肯定的な影響を与えることができる可能性があるなら、それを「働いている」としていいのではないかと思う。この日の研究会でも少し、話題になったが、それを誰が、どのように判定するか、というのが課題ではある。
この話でぼくが提起したのが
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というカール・マルクスの1875年の著書『ゴータ綱領批判』に書かれたスローガンとの連関。ぼくが思うに、これはマルクス主義・共産主義の中心的なスローガンだったはず。
20世紀を通して行われた社会主義の実験。おそらくは、そのテーゼを掲げながらも、それをちゃんと実現しようとした国家はなかった。そして、その実験はほぼことごとく失敗して、21世紀に入った。それがなぜなのか、どうして成功しなかったのかという真剣な総括が必要だと思う。
これへの一定の答えがないまま「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」と主張しても説得力に欠けるかなぁ。
立岩さんの話と、この覚書を契機に、そんなことを考えたのだった。
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原稿、ここまで
少し違う角度からの、この研究会の感想は
https://tu-ta.seesaa.net/article/202109article_2.html
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