体験・経験と普遍をめぐって(川本隆史さんのロールズへの「偏愛」から)
岩波の『思想』2022年3月号の「思想の言葉」で川本隆史さんがロールズへの「偏愛」を書いています(笑)。
思想の言葉(『思想』2022年3月号)
ロールズ・ヒロシマ・キルケゴール――偏愛的一読者の覚え書き
https://www.iwanami.co.jp/news/n45945.html
体験・経験と普遍をめぐって、いろいろ考えさせられたので、ぐるぐる考えたことを、そのまま文字にしてみました。
というわけで、何か、これというような話が書けているわけではないのですが・・・。
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書かれているように、ロールズは1945年に日本に居て、11月に広島を見ているにもかかわらず、そのことを著作では明らかにしていない、とのこと。「広島への原爆投下が重大な不正行為である」ということは普遍的な話であり、経験に基づくものではないというような話ではないから、それを意識的に書かなかったのではないかと川本さんは発見された私信から推測している。
体験・経験と普遍をめぐる、考えさせられる話だった。
同時に体験や経験を抜きに普遍が存在しうるのか、とも思う。
実際に現場を体験したものだけが特権的に語りえる権利を有するというわけではないだろう。記録や証言から何が起きたかを知ることは出来るし、そこから語れることはある。
しかし、体験や経験がもたらす重みがあるのも間違いないように感じている。体験したものしか語りえない「何か」があるような気がするのだが、その「何か」を、ぼくは言語化できないでいる。「そんなものはない」という可能性も拭い去ることはできないだろう。
1945年11月、原爆投下3か月後の広島を見たロールズが広島への原爆投下が不正行為だという文章を書くあたって、それを見たという話を書くのを禁欲したという、そういう記述にあたってのスタンスの取り方を否定することはできない。
ロールズがたどり着いた「普遍的なこと」の出発点に彼が目撃したことはあったのだと思う。彼自身が原爆投下が正しいかどうかについて、ストレートに答えをだせたわけでもなさそうだ。そのプロセスを知りたいと思う。
同時に、原爆投下は不正であるという結論を万人が導けるように、その特殊な体験を語ることを禁欲したという態度には、それとして敬意に値する話でもあると思う。
普遍も体験から出発するのだと思う。しかし、その普遍を記述するにあたって、その体験を記述しないという方法をロールズは選んだ。
普遍も体験から出発するのだと思う。しかし、その普遍を記述するにあたって、その体験を記述しないという方法をロールズは選んだ。
そんな方法もあるのだと思ったが、やはり何か違和感は拭えない。
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