デフフッドという概念から考えたこと(9月3日追記)
デフフッドという概念をnoteで知った。
デフフッドを導入したろう教育の実践。
https://note.com/matsuzakijo/n/nc71cc69f10b9 で知った。
すごく興味深い。
こんな説明がある。
この用語は、生まれつきのろう者(ネイティブサイナー)であり、イギリスにあるブリストル大学ろう者学センターの教員を務めていたパティ・ラッド(Paddy Ladd、ろう文化の研究で博士号を取得)が作ったものです。
彼は、ろう児・者のことを、外の世界に生きる他者(マイノリティ・マジョリティの両方)と対話し、またマジョリティとしての聴者とマイノリティとしてのろう者との間にある社会的・歴史的な物語とも対話し、そうして自己との対話を深めていくことで、ろうである自分はどのような人間として生きていくかを探求する存在として捉えています。つまり、「ろう」である自分の生き方の探求であり、「自分探し」であるといえます。
これは、医学的・身体的に聴覚に障害があるといった固定的なもの(デフネス、Deafness)に傾注し、どのように「自分探し」をして生きている人間なのかに関心が向けられないことへの異議申し立てでもあるといえます。この点から、自分探しをする者には、難聴、ろう重複障害、盲ろうも含めて考えることができるでしょう。
そして、この探求の過程こそ、彼は「デフフッド」であるといっています(Paddy Ladd、2007)。デフフッドは探求の結果ではなく探求の過程を指していることに注意する必要があります。そもそも、探求した結果として現れるろう児・者一人ひとりの姿は必然的に異なるものですし、最初からこうあるべきだと強制するものではないのです。一人ひとりが生きる外の世界も、家族、学校、地域など、その特性や中身が違いますよね。だからこそ、彼は、探求の過程こそが大事だと強調しています。
このデフフッドの説明からいくつかのことを考えた・
この概念を生み出したパティ・ラッドは以下の3種の対話を通して「ろうである自分はどのような人間として生きていくかを探求する存在として捉えています」とのこと。
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(ろう者の)3種の対話
1,外の世界に生きる他者(マイノリティ・マジョリティの両方)と対話
2,マジョリティとしての聴者とマイノリティとしてのろう者との間にある社会的・歴史的な物語との対話
3,自己との対話
そして【つまり、「ろう」である自分の生き方の探求であり、「自分探し」である】
と書かれている。
「ろう」というアイデンティティは、その交差性を考慮するにしても、とても大きなアイデンティティを構成する要素になのだろう。しかし、アイデンティティを構成するのは、それだけではないはず。さまざまな要素が交差してアイデンティティは形成される。そして、ここに書かれているように、デフフッドが過程であるとするなら、ろう者のアイデンティティにおけるデフフッドにも濃淡があるに違いない。濃いデフフッドと薄いデフフッド。
デフフッドを考えるとき重要なのは、3種の対話のなかの、二つ目の「マジョリティとしての聴者とマイノリティとしてのろう者との間にある社会的・歴史的な物語との対話」だろう。ろうであるということを社会的に認識するプロセスであると言えるかもしれない。
ろう者が「ろうである」ということを社会的にどのようなことであるかを考え、それと連関して、自らとは、どのような存在なのか、という考えるプロセスとしてのデフフッド。しかし、それを【自分の生き方の探求であり、「自分探し」である】と言ってしまうことには逡巡がある。「自分」は探さなくても、そこに存在している。その自分とは何かについて、言語化を試みる中で、その「自分」のありようも変容していくかもしれない。それは「自分探し」というよりも「言語化のプロセス」であると言えるかもしれない。
「言語化」と書いて、気がついたのが「独自言語としての日本手話」ということ。言語としての日本手話で概念化したものを文章としての日本語に翻訳するというプロセスがあったりするのだろうか。そこに翻訳が媒介するので、手話言語で概念化したものを書き言葉としての日本語に翻訳する際に、抜け落ちたり、ニュアンスが変わったりすることもあるかもしれない。「日本手話は概念化にはむいていない」というような話をどこかで聞いたことがあるような気がするが、それが事実かどうか、ぼくは知らない。ネイティブのろう者が存在する自らについて、言語化し、概念化するとき、用いるのは日本手話なのか、書き言葉としての日本語なのか、これは当事者に聞いてみたい話でもある。
デフフッドという言葉から、そんなことを考えた。
ちなみに、ぼくはこのもとになった長いnote全文をちゃんと読んでいない。冒頭のデフフッドの説明をかじっただけなので、誤解や間違いはあるかもしれない。
【9月3日追記】
前に日本手話学会の会長もやっていた森壮也さんから以下のコメントをもらった。
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