『脱「いい子」のソーシャルワーク』メモ(その5)障害当事者運動にみるAOP(茨木尚子)
7 障害当事者運動にみるAOP
——その可能性と課題 (茨木尚子)
この章の「障害当事者の支援からソーシャルワークが学ぶべきこと」
という節で、八王子のヒューマンケア協会という老舗の自立生活センターで行ったMさんの支援の例が書かれている。Mさんは家出してヒューマンケア協会に来たCPの青年で、親から自立し、八王子で自立生活をしたいという希望。そこでのセンターの当事者の対応は、「親へは本人が知らせるまで何も言わない」というもの。これが一般の専門相談組織なら、本人を説得して家に連絡させるか、無事保護していることをそっと伝えることになるだろうが、ここでは自立生活体験室を無償で提供し、本人がどうしたら自立生活が出来るか考える時間を作った。その後、本人が親を説得するために家に帰ることを決意したので、実家へ彼の応援に向かったという事例だ。
著者の茨木さんは、福祉的な支援においても、支援者として中立的でいいのだと割り切るのではなく、当事者の立場にたつ支援を模索しようとする努力が必要と感じたと書く。148-149p
ここで著者が言いたいことはわかるが、「当事者の立場にたつ支援」という表現のあいまいさがあり、そんなに単純ではないような気もする。いろんな当事者がいて、いろんな立場の当事者がいる。ここで言いたいことは、そのサービスを受ける本人の立場に立つ支援と書くと明確になるのではないかと思った。障害当事者が過半数であることが求められるCILの役員というような一般的な当事者の立場ではなく、相談した本人の立場ということが大切だと思うのだった。
この次の節は
「非当事者である支援者はどう参画するのか——"Ally”という関係を構築できるか」
というタイトル。ここでは当事者と非当事者について書かれている。CILが行うピアカウンセリングを記録したいと望んだ著者が、そこには非当事者の参加は認められないと言われた経験について、書かれている。そこで、非当事者としての限界を強く意識させられ、非当事者として障害者運動に関わっていきたいと安易に使っていた自分の社会的位置に改めて気づかされることにもなった、とのこと。150p
確かに80年代の障害者運動には、そんな空気が色濃く残っていたが、いま、その空気はとても薄まっているように感じる。その歴史的な変化の肯定的な面はもちろんあると思うのだが、他方で当事者運動としての強さが失われてきたという側面もないわけではないと思う。この話は次の頁のAlly(アライ)の話にもつながる。
次にそれと異なる経験が描かれている。それを著者は「相反する経験」と表現する。トロント大学の大学院で障害学コースを聴講しているときの話だ。そのコースには多くの障害当事者が参加していて、トロントの移民の障害者運動のリーダーである一人のパレスチナからの移民の弱視の女性に活動への参加を呼びかけられたという。自分は障害当事者ではないのにいいのかと聞くと、「この障害学を受講している障害当事者は、全員白人ばかりなのに気づいている?」と聞かれる。それを著者は、差別の交差性、すなわち「複合差別」について考えるエピソードだったという。150-151p
まず、この二つは本当に相反する経験なのか、と感じた。確かに非障害者としての扱いという意味では相反する経験であり、そのことを著者は書きたかったと思うのだが、最後に書かれているように、差別の交差性などという視点から考えると、この二つは相反しているわけではなく、交差しているはず。
そして、複合差別とインターセクショナリティ(交差性)について。先日まで、ぼくも「複合差別」という言葉があるのに、なぜ、「インターセクショナリティ」というような横文字を使うのかと感じていた。すごくざっくりした個人的なイメージで申し訳ないのだが、複合差別というとき、感じるのはAとBというそれぞれの差別の要因が並列に並んでいて、Aが7割、Bが3割というような感じ。交差性(インターセクショナリティ)はAとBという差別が立体交差のように上や下に重なっているイメージ。その道路の幅はいろいろ異なるだろうが。そんな風なのではないか。
ただ、複合差別もぼくも含む多くの人の認識としては、重層的に重なり合った差別だという認識はあったはずで、インターセクショナリティ(交差性)という言い方は、その「重なり」について、強調した言い方だと言えるのかもしれない。
そして、Ally(アライ)の説明がなされる。これがなかなか日本語にしにくい概念であり、従来、日本ではLGBTQの活動で、ほぼ独占的に使われてきたのだが、そうではなく、多様な価値を認めることを前提に、「違った立場にあるものを支援する人、またはその活動を指すものであり、より広い抑圧を覆す実践に共通する存在」という説明がなされている。そして、障害者運動にかかわる非障害者について、Allyが運動に参加することで社会変革につながるという話の後で以下のように書かれている。
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そうだとすると、障害者運動にかかわる非障害者は自らの抑圧構造により自覚的になり、そこから障害のない者を前提につくられてきた社会構造の捉え直しをすることで、社会の変革を促す活動に積極的に参画していくことが可能になるのではないか。
かつて障害当事者運動では、「健常者手足論」という言葉をよく耳にした。それはこれまで保護的かつ支配的であった非障害者に対する強烈な批判であり、「健常者」であるものは、主体となる障害者の手足という自覚をもって介助などの支援をするべきであるというものであった。それは抑圧を覆す強い主張として否定はできない。しかし非当事者が思考することをせず、障害者の手足として徹底することだけでは、障害当事者のAllyとなることはできないのではないか。むしろ、より深く障害当事者が自らの抑圧構造に自覚的になること、またそのことを相互に当事者とも交流し議論すること、それなくして協働することは不可能なのではないだろうかと私自身は考えている。お互いがものを言い合える、聴き合うというかかわりなくして、本当の対等性は生まれないとも思う。違う立場の者同士がわかり合えるかかわり方は、一方的なコミュニケーションでは成り立たない。このこと は、重度の障害があり、言語コミュニケーションでは意思疎通が難しい人たちとの関係性においても、相手の意思を理解する、こちらの意思を伝えるなどを多様な方法でもっと追求していくべきだと思う。152p
これは、非障害者として(実際に自分が非障害者かどうかはともかく)、障害者運動にかかわった多くのものに共通する感覚なのではないかと思った。また、著者はこの中で手足論が「それは抑圧を覆す強い主張として否定はできない」と書いていることも忘れるべきではないだろう。
この少し後に書かれている社会モデルと差別解消に関する以下の指摘も重要だと感じた。
最近は、障害の社会モデルという用語が、一般的に認知されてきたが、それをどこまで突き詰めて考えていくのかについても同様な省察が必要である。障害者差別はいけないとみんなが理解はしているが、一方で障害者差別解消法などでの具体的な合理的配慮の議論になると、その主張のトーンが変わっ ていくことが多い。「障害のある人への配慮(配慮という日本語も問題であるが) は、できる限り、やれる範囲でやるということ」といった勝手な解釈が障害 のよい側から発せられたりもする。やれる範囲で障害者に配慮することという解釈では、なぜ障害者への差別が起こるのか、それが生まれる社会構造への批判的な視点が欠如している。なぜ差別が起きているのか、その社会構造を理解し、それを変えること、自分自身を含めて変わることへの挑戦がなければ障害者差別は解消されない。153p
これは『「社会」を扱う新たなモード』の社会モデルに関する認識にもつながる話だと思った。上記とは微妙に異なるが、以下のように主張されている。
「社会モデル」というとき、以下の3つの「社会」が想定されている。
① 障害者が直⾯する困難の原因は、社会の作られ⽅にある
- 障害の発⽣メカニズムにおける「社会」
② 障害者が直⾯する困難は、社会的に解消できる
- 障害の解消⼿段における「社会」
③ 障害者が直⾯する困難を解消するのは社会の責務
- 障害の解消責任における「社会」
- 近年流布している『社会モデル』理解においては、②や③の
の『社会性』のみで、①の視点がほぼ無視される・・・
①を⽋いた「社会モデ ル」は不⼗分で危険
まあ、ここで著者が書いている合理的配慮の例は、この②や③もクリアしていないような低レベルの話ではあるが。
上記の社会モデルの話だが、例えば、駅にエレベータがないという話が社会モデルの例として使われるし、ぼくも使ってきた。例えば https://tu-ta.seesaa.net/article/200811article_16.html
この例が①②③についてわかりやすいかもしれない。
②社会が階段を準備すれば障害が解消され
③その階段を準備するのは社会の責任
という話ではあるが、しかし、①それまでエレベータを作ってこなかった社会は、そこではなかなか問われない。
なぜ、エレベータは作られてこなかったのか、なくてもいいとされてきたのか、そこが問われなければならない。
非障害者が障害者運動にどうかかわるか、というこの節の最後に著者は、自身が社会から受けてきた抑圧は何か、自らは社会構造の中でどのような位置に立っているのか、それらへの問いが必要だという。障害・非障害という抑圧構造だけでなく、多様な抑圧構造を意識し、自分の立ち位置を確認する作業が、ソーシャルワーカーによる支援においても極めて重要だというのがこの節の結語になる。
そして、最後の節は
事業することと運動すること——これからのAOPの可能性と課題
ここでは自立生活センターにおける事業の継続と運動の関係が描かれ、ソーシャルワーカーも自らの仕事の継続と運動との関係が問われると。書かれている。
現状の社会福祉制度を絶えず現状肯定でない視点で批判的に観るところからAOPは始まる、と書かれているので、その始まりに置いて、ぼくは合格していると思うが、いかにもそれだけではバランスが悪いような気もしていたたが、それでいいのかという気分になった。そして、ソーシャルワーカーがAllyとして、障害者当事者運動にどうかかわるかが日本のソーシャルワーカーにAOPが根付くことが可能かどうかの一つの重要な試金石だと書かれている。
しかし、現状で障害者当事者運動自体が見えにくくなっている。運動というよりも、さまざまな当事者のグループ、当事者会などにAllyとして参加していくことがダイジなのかもしれないと思った。そのことと、この章の結語として書かれている障害福祉の課題、「障害者当事者運動とソーシャルワーカーがAllyshipを築き、あるべき方向に具体的に制度改変していくこと」の間には、相当距離があると思うが、Allyとして、当事者会に参加し、仲間の生の声をちゃんと聞くことがまず大切なのだとぼくは思う。そして、その声を聞いて、制度がダメだから、難しいと終わりにしない方向性を持てるかどうかが問われているのだと感じた。
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