『脱「いい子」のソーシャルワーク』メモ(その6)支援者エンパワメントとAOP (竹端 寛)

その1 https://tu-ta.seesaa.net/article/202207article_1.html

その2 https://tu-ta.seesaa.net/article/202208article_2.html

その3 https://tu-ta.seesaa.net/article/202208article_3.html

その4 https://tu-ta.seesaa.net/article/202208article_4.html

その5 https://tu-ta.seesaa.net/article/202209article_1.html

 の続き


8 支援者エンパワメントとAOP (竹端 寛)


この章で著者の竹端さんは「地域移行後の障害者地域自立生活を支えるスタッフ教育のあり方に関する基盤的研究」https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/japan/takebata/index.html

を紹介している。これが興味深かった。DINFのサイトで読むことができる。

この研究の「はじめに」には以下のように書かれている。(DINFのサイトから引用)

・・・地域移行後の地域生活支援を「スタッフ教育」の面から論じた研究が管見の限りほとんどないことも明らかになってきた。また、日本の入所施設における実態調査からは、当事者の地域移行支援に従事する職員には、施設ケアと地域ケアの違いや新しい「接し方」に関して職員を教育するプログラムは存在せず、実際に地域支援を行う元施設職員の多くが、自身のこれまでのやり方と全く違う支援の仕方に「とまどい」を感じ、支援の方向性が見えずに「不安」を感じながら働いていることも明らかになってきた。

前提として、地域移行後の地域生活支援を支えるスタッフがいる施設が何%くらいあるだろうと、そして、そんなスタッフが必要だと考えている施設が何%あるのかと思ったものの、このような研究が20年近く前にすでにあったことに驚いたのだった。

本の話に戻る。誰にとっての、なんの問題?という節の以下も大切な話だと思った。

 地域における困難な問題、というメゾレベルの課題も、これまではミクロ な個人の問題と矮小化されてきた。「あの人は統合失調症(認知症、アルコール依存、ホームレス、発達障害、触法障害者、自傷他害の恐れがある……)だから 問題だ」と。しかし、そういったラベルが貼られた人でも、地域のなかで自分らしく幸せに暮らし、地域とのコンフリクトを起こしていない人がたくさんいる。すると、それを性格や個性の問題とするよりは、その人と環境との 相互作用の悪循環の問題であると考えた方がよい、ということが見えてきた。 さらに言えば、「あの人は○○を抱えているから仕方ない」と本人の問題に するか、「○○を抱えているあの人の思いや願いを実現するために、私はど う変われるのか」と支援者の間題と捉え直すのか、の課題でもある。163p上の方

本人の問題ではない、というのはその通りだと思う。

そして竹端さんはこの少し後で、以下のように書く。

・・そのような「困難事例」を対象者個人の(=つまりは他人の)困難に落とし込むことで、支援者自身の変容課題として取り組まない、という構造は、組織内・組織間連携の問題を上司や部下、施設長の(=つまりは他人の)困難に落とし込んで自分が変わろうとしないがゆえに、組織や構造的問題の悪循環がどんどん深まっていく、という先述の「組織的な不全をもたらす7点」と構造が類似してい ることも見えてきた。

 すると、他者や組織構造を批判しそれを変えようとする前に、まず支援者自身がどう変わることができるか、が具体的に問われる。5つのステップで 明らかになったのも、当事者の思いや願いという本音をしっかり聴くことで支援者が自らの思い込みや仕事の枠の限界に気づき、それを突破するため 自分のアプローチを変える、というところが変化のスタートだった。(163p下の方、強調引用者)

自分が変わらなければならないというのは、その通りかもしれない。【当事者の思いや願いという本音をしっかり聴くことで支援者が自らの思い込みや仕事の枠の限界に気づき、それを突破するため 自分のアプローチを変える、というところが変化のスタートだ】というのも理解できる。竹端さんが指摘するように、支援者は自らが変容する意識的な取組みを必要としているのだろう。しかし、それが最初にあって、次に「組織や構造的問題」を考えなければならない、という話ではないと思う。竹端さんはここで【他者や組織構造を批判しそれを変えようとする前に、まず支援者自身がどう変わることができるか】と書く。「組織や構造的問題」は明確にあり、そこを明確にし、論理だてて、オープンに議論していく中で、自らの変容も可能になるのではないかと、それがダイアローグなのではないかと思う。自分を変えることと仕組みを変えることの両方が同時に求められているように思う。仕組みを変えるためにどのように行動するか、というのは大事なポイントであるはず。

その後にも、竹端さんはまず「内省的なプロセス」が必要で、それがなければ、いくら他者の変え方や技術の磨き方を学んでも「わかったつもり」「やったつもり」になるだけではないかと書く(164頁)。果たして、「内省的なプロセス」は自己完結的に可能なのか。他者とのダイアローグの中でこそ「内省的なプロセス」が生き生きとしたものとして存在し得るのではないかと思う。

そして、研修に不全感を覚えるのであれば、他者を変える前に、己の認識を変え、研修アプローチそのものを変える必要があることに気づいた。その自らの認識前提を変えるプロセスは、竹端さんの最初の単著である『枠組み外しの旅』で整理できた、と書かれている。この本は読んでいないのでわからない。いつか読んでみたいと前から思っている本ではある。


筆者の前提をどうしたら変えることが出来るのか、そこで竹端さんはその模索のなかでたどり付いたのが『「無理しない」地域づくりの学校』と『開かれた対話性』だと書く。それぞれ大事な話だと思うが、前者の説明は略。

後者について、以下のように書かれている。

・・・、落としどころを決めず に相手の話をじっくり聞く、という「開かれた対話」の場面が職場のなかに ないから、組織的な心配ごとが生まれてくる。

 そこで、最近では研修の場面で、「現場支援で感じたモヤモヤ」を事例発表してもらい、それに基づいて「似たようなモヤモヤを感じるのはどのようなときか」を、異なる年齢・ポジション・役割の人々で語り合ってもらう場面をつくることが多い。すると、お互いが困難に感じる内容の違いや、相手の意外な本音などに出会い、自分のあり方を振り返ることになった、という フィードバックをしばしば受け取る。チームで一緒に考え、他者の視点(= 他者性)を尊重することの大切さを、こちらは強調したわけではないのに、 ダイアローグのなかから気づき始めた、というリプライも返ってきた。つまり、安心安全に話せる場をつくり、開かれた対話性を重視すると、そこから 学び合いの場が生まれてくると感じた。169p

少し前に書いた「内省的なプロセス」もこのような関係性の中で生まれるのではないか、と思うのだった。

次の批判的意識化という節で、なぜ、『「無理しない」地域づくりの学校』と『開かれた対話性』のことを長々と書いたのかとして、以下のように書く。

~~

 それは、抑圧の蓋を外し、自分自身にも他者にも対話を開く、というプロセスは、支援者にとって簡単ではないからである。(中略)about-nessアプローチでは達成しえない。むしろ、ともに悩む人が、関係性のなかで心配ごとを一緒に考えあうというwith-nessアプローチに転換しないと、抑圧の問題に携わることはできない。169頁

と、ここはかなり断定的に書かれている。【抑圧への気づき、解消するために「学校」や「未来語りのダイアローグ」というアプローチを通じて、with-ness的なあり方を模索している、と言えるかもしれない】と、こっちは少し遠慮がちに書かれている。

そして、そのすぐ後に、フレイレの

「抑圧されている者は・・・状況を変革することができる。本質的に重要なのは、抑圧的な現実が課す制約を認識することであり、その認識を通じて、自由への行動に向かう原動力を得ることができるということである」

という文章が引用される。


そして、抑圧されているのは支援対象者だけでなく、支援者もまた抑圧されていることに無自覚であり、抑圧を内面化していることが少なくない。自らの抑圧に無自覚であれば、他人の抑圧にも自覚的になるのは簡単ではなく、下手をしたら、抑圧者の加担者に転換する可能性だってある、と竹端さんは、ここも遠慮がちに書くのだが、抑圧者の加担者になっている支援者なんて、掃いて捨てるほどいるっていうか、抑圧者の加担者にならずに踏みとどまっているソーシャルワーカーを探す方が困難じゃないかと思えるほどなんだけど、どうだろう。

で、この節の結語で竹端さんは【まずは支援者自身が自らの「抑圧的な現実が課す制約」について、批判的意識化を行うプロセスが必要】であり【自らの無力さに気づき、それを乗り越え、 lead the people の前に lead the self を取り戻すプロセスが必要】で【そのためには「開かれた対話性」が必要不可欠になってくる】と【必要】が3連発で提起される。

この lead the people や lead the self の説明は少し前にある。他者を導き、社会を変えていくプロセスは自分自身を導くことなしには、決して実現しえない、という話なのだが、対話のなかでの相互変容をめざすという風に考えたときに、他者と自分を変えるプロセスをこのように対立的に捉えることには、ちょっと違和感が残った。

また、批判的意識化はやはり、他者というか社会に対する批判的な理解と不可分に結びついていて、内省的なプロセスとは距離があるように感じるのだが、どうなのだろう?

そして、「おわりに」では以下のように書かれている

 筆者がAOPの実践に出会って可能性や希望を感じているのは、上記のプロセスを可視してくれるのがAOP実践ではないか、と感じているからである。個人的な課題に潜む社会的抑圧に自覚的になること。それは、対象者個人の問題ではない。対象者とともに暮らす社会の問題は、自分自身の問題でもある。そして、己にも共通する抑圧的構造に対して「それは嫌だ」と言うことは、他人ごとの問題を自分ごととして考え直す、認識の転換である。そして、支援者自身が自らの「抑圧的な現実が課す制約を認識することであ り、その認識を通して、自由への行動に向かう原動力も得ることができる」のである。その「自由への行動に向かう原動力」こそが、反抑圧的実践へとつながっているのである。

 それが、無力化に陥った支援者がパワーを取り戻し、他者の無力化にもともに闘う主体へと変化するうえでの、支援者エンパワメントの道筋の第一歩なのではないか、と思い始めている。171p

ここは、ほぼその通りだと思うのだが、163頁の下の方の引用部分のメモで書いたように、ここで書かれていることと、【他者や組織構造を批判しそれを変えようとする前に、まず支援者自身がどう変わることができるか】というスタンスは微妙にずれがあるのではないか。さきほども書いたが、【他者や組織構造を批判しそれを変えようとする】ことと【支援者自身がどう変わることができるか】ということは同時に追求していく必要があるのだと思う。



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