『脱「いい子」のソーシャルワーク』メモ(その7/最終)【座談会】部分
その1 https://tu-ta.seesaa.net/article/202207article_1.html
その2 https://tu-ta.seesaa.net/article/202208article_2.html
その3 https://tu-ta.seesaa.net/article/202208article_3.html
その4 https://tu-ta.seesaa.net/article/202208article_4.html
その5 https://tu-ta.seesaa.net/article/202209article_1.html
その6 https://tu-ta.seesaa.net/article/202209article_3.html
の続き
この本のメモ、ここで終わり(のはず)
終章 明日から始める反抑圧的ソーシャルワークのタネ
【座談会】(5名の著者)
対談の中で、この本の主著者の坂本さんがAOPを知ったのが1997年、茨木さんが1998年とある。茨木さんは、当時、イギリスでソーシャルワーカーの資格制度が大きく変わり、AOPが教育の柱として盛り込まれていたという。そして、カナダでは2003年の段階では全体の教育プログラムとしてAOPに取り組んでいるという印象はなかったが、2018年には実践のなかで当たり前のようにAOPという言葉がでてくるようになって、15年近くかけて、それが根づいたと感じたとのこと。(175p)
また、茨木さんの誘いで2018年にAOPの話をカナダで聞いた竹端さんは「そういうやり方なら日本の現実を変えていくことが可能なんだと、何か新たな光を見た思いがしました」という。そして、すでに面白いことをやっている人たちは日本にもいて、そこに反抑圧的ソーシャルワーク実践というラベルの貼り方をしたら、いろんなものがつながるのではないか。日本では身体障害者による自立生活運動と知的障害者の支援と精神障害者の運動が全然つながっていなかったが、AOPというかたちでつなげられるかもしれない、それをさらに高齢福祉や児童福祉に。。。というようなことを考えて、坂本さんと茨木さんに一緒に勉強してくださいと申し出て始まったのがこのプロジェクト、とのこと。
そして、日本の社会福祉における「サービス偏重主義」が指摘される。ここがとても大事なところだと思う。福祉と言えば、サービス提供だと多くの人が考えている。そして、それは自分も例外ではない。この座談会で、竹端さんと茨木さんは放課後デイを例にこんな風に話している。
竹端 ・・・。
例えば、放課後等デイサービスができると、障害のある子どものお母さんは助かったりするわけですよ。でも、それは個人と家族が助かるだけであって、社会の問題として障害のある子をどのようにサポートしていこうかとか、障害のある子がどのうに学校空間のなかで抑圧されているのか、という社会構造のなかでの差別や抑圧の話は置き去りにされ、「制度やサービスができたからこれでおしまい」と言って分断されてしまうんですよね。
茨木 シャルワーク教育でもそれは感じますよ。福祉サービスが報酬単価に切り替わってからまだ20年ぐらいしか経っていないにもかかわらず、社会福祉サービス給付が医療制度と同様に報酬単価で決まっていくと、その制度をベースに利用者さんをアセスメントして、重度の人と軽度の人に分け て、報酬単価に沿って事業者がどう収入を得ていくかが大事な点になってきてしまう。
先ほどの竹端さんの放課後等デイの例でいくと、どんなサービスが使える か、の前に、障害者の家族としてこれからどう生きていくかとか、障害のあ る子がこれから自立していくために今何が必要か、という議論が抜け落ちて しまうんですよね。もしかしたら、制度を使わないことのほうが意味がある 支援になるかもしれないじゃないですか。お母さんが働きに行けるのはいい けれども、それを使わないことで、その子の力になることがあるかもしれな い。でも、サービスを使わなければ、事業所にお金が全く入らないのでやっぱりみんな制度を使って、事業所にお金を入れる。良心的なワーカーは、制険による支援だけではできないプラス αの無償の支援をしている。そんな状況がずっと続いているんです。
本当は、「放課後支援ってそもそもなんで障害のある子と障害のない子とを切り分けてるの?」「それがない時代って、一緒にやってたよね?」「じゃあ一緒にやるためにはどうしたらいいんだろう?」って、構造批判に目を向けてもらえないのは、私はすごく危険だなと思っています。
竹端 社会構造と制度、そして社会運動の3者は緊張関係にあるはずのもの。でも制度ができてしまうと、社会構造の問題が矮小化されて、制度のなかで話を どう解決していくのかという話になり、社会運動も矮小化されてしまう。
そうすると、自分たちが抑圧されている構造というものがどんどん見えにくくなる。逆に制度が豊かになればなるほど、その社会構造の抑圧については問われなくなり、既存のサービスのなかでどう解決できるのかに焦点化されてしまう。
それはじつは、ソーシャルワークの課題そのものなんです。相談支援というものが、それなりに制度化されることによって、サービスの範囲内でなんとかするのがソーシャルワークだという話になっていってしまった。
つまり、抑圧を見えなくする力に、ソーシャルワークも加担しているかもしれないんですよ。そこを問い直すことに意味があるんじゃないでしょうか。177-178p(強調・引用者)
長い座談会の中で、ぼくにとっては、ここがいちばん大切なところだと思った。この座談会の結語部分で語られている「自分の立ち位置を使い倒す」っていうのは、自らの特権性にすごく自覚的にならなければ、とても危険な話だ。外に向けて控えめな日本のソーシャルワーカーに伝えたかったのかもしれないが、利用者に向けては権力的なソーシャルワーカーは少なくないから。この結語部分の議論はおまけみたいなもので、この本の核心は上に引用した部分だと思う。
制度を使うことだけに目を向けがちな社会福祉。もちろん、制度を使えていない例は山ほどあって、制度を使い倒すことも、とても大切だと思う。使い倒せていない相談支援も多い。とりわけサービス提供と同じ法人の相談機関など。
ともかく制度利用に終始しないで、その人が置かれている抑圧された状況、そしてその状況を変えることに目を向けるソーシャルワークが求められている。それをAOPと呼ぶのだろう。
また、「制度化された相談支援」の課題は根深い。主要なサービスの提供事業者と同じ法人が行う相談支援がその法人のサービスの問題を指摘するのはとても困難である。にもかかわらず、おそらく大田区でも大半の相談支援は同じ法人によって行われているのではないか。そのような相談支援事業者の方が多数であるにもかかわらず、計画相談を作る相談支援が不足しているという課題もある。
制度として、民間の事業者に相談支援を行ってもらう仕組みにしたにもかかわらず、相談支援だけで生計を立てていくのはかなり困難な状況がある。かなり無理をして(手抜きもあるだろう)上限いっぱいの計画相談を受けても、それで単独の事務所を維持するのは困難だ。複数の相談支援従事者を正規職員としてフルタイムで雇用するのも困難だろう。そして、相談支援のなかでも圧倒的に多い、定期的に受けることが出来る計画相談は、制度とつながらなければ使うことは出来ない。しかし、サービスを使ってないが定期的な相談支援を必要としている人はいる。そんな制度的な問題があると思う。同時に、誰が定期的な相談支援を必要としているかという判断の困難さもある。
さらに、制度がなければ事業者は生計を立てられないが、さまざまなサービスの必要量をどうすれば確保できるかという問題は大きい。また、その必要な総量や支援の質がどうあるべきなのかを検討する困難もあるが、そのために自立支援協議会が働く余地があるのではないか。
長々と書いてきた読書メモ、とりあえず、本の最後まで来た。長くメモを書きたくなるいい本だったと思う。よくわからない色合いの装丁はなんだかなぁと思いつつ。
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