『なぜふつうに食べられないのか』メモ
なぜふつうに食べられないのか
拒食と過食の文化人類学
磯野 真穂 著
2015/01/20
https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393333365.html
鈴木悠平さん主催読書会の指定図書。それがなけれ一瞥もしないはずの本だが、面白かった。そこで思ったのだが、医療モデルへの還元でとらえられないのは摂食障害だけではないのではないか。統合失調やうつも同様なのではないか。以下は 読書会の時に書いたメモ
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・病気や障害と名づけられた途端に医療や専門家の対称にされてしまうこと。これって、統合とかうつとかでもそうなんじゃないかと。
・オープンダイアローグ的に摂食障害にアプローチできないか?
・医療や専門家の対称にされると、それは経済行為の対称になるということでもある。
・所属し、自分を解放できるコミュニティがあることが回復につながる。
・コミュニティに受け入れられているときに摂食障害と距離を置くことができているのではないか?
・文化人類学なのにコミュニティが描かれていない問題
・では、医療でも心理でもないアプローチをどう形成するか
摂食障害は自然科学の産物。 食事の本質、人間の本質。 示唆的な科学傾倒批判。 食のハビトゥス、変わらない本質はどこ?
( https://bookmeter.com/reviews/108924430 )に書いたコメント。
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初めまして。「変わらない本質はどこ?」という問いに触発されました。そして、「変わらない本質」を想定しないほうがいいのではないかと思ったのです。人の生をホリスティックに捉えることが大切なのではないでしょうか? 自然科学的な分析や医療や心理的な説明は人の生のほんの一部。 生の多くを占める、他者との関わり、コミュニティでの承認。食のよろこび。他者の怖さ。そういう生の全体性を見ていくことが重要なのではないかと、この本を読んで感じたのでした。はじめましてなのに、失礼しました。
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著者、磯野真穂氏インタビュー
https://synodos.jp/opinion/info/19184/
これを読むと、この本で著者が書きたかったことがよくわかる。
この本の冒頭の文章にやられた(ような気がする)。
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はじめに
私たちはいま「心の病」の時代を生きている。境界性人格障害、高機能自閉症、PTSDなど、十数年前は目にしたことのなかったさまざまな心の病は私たちにとってなじみ深いものとなった。
心の病は私たちを安心させる。近くにいる「少しおかしなあの人」が心の病だとわかった瞬間に、私たちは、その人について少しわかった気になるからだ。
あの人は病気なんだ、私たちがいろいろ口を出しちゃいけないんだ、専門家に任せるべきなんだ。
このようにして病名は、少しおかしなあの人と私たちの間の境界となり、私たちは、少しおかしなあの人を別種の人間として理解する。 しかし、このようなわかり方は、少しおかしなあの人について、ほんとうにわかったことになるのだろうか。・・・
そして著者は、「心の病の話になると、・・本人ではなく、代理人の声を聞くことに熱心になりがちで」、この「わかったつもり」は、「わかるという名の無関心ではないだろうか」「同じ人間としてとらえる姿勢の放棄ではないだろうか」、摂食障害のことはそれを語れる専門家にまかせるべきだ、というような見方が「どれだけ私たちのものの見方を貧困にさせているだろう」と書く。
確かに専門家は時に役に立つことはあるかもしれない。しかし、私たちはいろんなものを専門家に奪われすぎているのかもしれない。専門家から取り戻さなければいけない広大な領域があるようにも思う。小沢牧子さんのように「心の専門家はいらない」とまで言いきる勇気はないが、日常の延長の言葉で「少しおかしなあの人」とつきあったりすることが大切なんじゃないか?
こんな指摘も
「現代社会において、やせて引き締まった身体が賞賛されるのは、健康は日々のたゆまぬ努力によって達成されるべきであるという価値観を、やせた身体が体現するから」。それは20世紀後半に現われたリスク医学とも分かち難く結びついている。そして、自己管理による健康維持という概念がビジネスに取り入れられ、健康・美容産業に・・。(84~85頁)
「還元主義」とは?
「世界の複雑で多様な事象を単一レベルの基本的な要素に還元して説明しようとする立場」(広辞苑らしい)
摂食障害の還元主義と本質論と生体物質論の微妙な関係
・摂食障害の還元主義は個人を心と身体の二つに分け、それぞれのどこに問題があるかを精査。
・つまり、それぞれ構成するパーツのどこかに問題が起こっているから発現していると捉える。
・著者は摂食障害を(食ではなく)心の問題とする見方が、問題の本質は心理的な箇所にあるとみなすことに着目し、「本質論」と名付けた。
・一方、摂食障害を身体の問題ととらえる見方は、身体を物理・化学的な手法で分析できる物質とみなしているため「生体物質論」と名付けた。
・本書における本質論とは「摂食障害の症状の本質は、思春期の葛藤や、家族の軋轢から生じる精神的圧迫といった、いわゆる症状と呼ばれる現象の外側にある。すなわち、拒食や過食は、このような問題の現われに過ぎない」
・本質論は問題の本質を症状そのものの中ではなく、それを表出させる心理的要素に求める。
・だから、心理的な問題が解決すれば症状は理論的には消失することになる。100ー108p
しかし、それで説明できない話がこの後、紹介される。
反論は考えられるが、なんとでも反論できるのが還元主義の最大の問題といえるのではないか。122p
そして、実践や理論から還元主義の問題が指摘される。
206頁の以下の記述にうなった。
(人はある程度の見通し(海図)があって、つつがなく生きていける)。
~~~しかし、慢性あるいは原因不明の病気にかかると、その海図の信憑性は揺らいでしまう。
このような状況に陥ると私たちは、過去と現在と未来を結び直すための新たな海図を模索する。「なぜこのような病気になったのか」、「この病気にかかった自分の未来はどうなのか」という問いは、病気によって不確かとなったこれまでの海図を新たなものに書き換えようとする人間のあがきであり、このあがきから抜け出る契機を与えるのが病気に意味を与え、未来に希望を見出す力をもった物語である。
物語の議論において科学的妥当性を持ち出すことは滑稽である。(童話『青い鳥』の科学的妥当性を誰が議論するであろうか。) よい物語とは、人の琴線に働きかけ、そこから自分の人生を問い なおせるようなストーリーのことを指し、そこに科学的な正しさは必要ない。
家族モデルをとりまく批判に欠けていたのは、まさにこの視点であったといえる。家族モデルに関する議論は、このモデルが科学的に妥当ではないという議論を中心に展開されてきた。しかし自らを患者と自認した人々にとって家族モデルがなんらかの物語として機能していた可能性を捉え、そこから議論を進めるのであれば、科学的正しさに着目するこれまでの議論は意味をなさない。なぜならそこで問われるべきは家族モデルの科学的妥当性ではなく、それが当事者にどう物語として読み取られ、それが人生の物語の再構築にいかに寄与したかであるからだ。 (206頁)
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ふたつの国家の摂食障害の議論を比較すると、そこには医療現場をとりまく社会文化的背景の影響が色濃く映し出されていることがわかる。つまり日本で八〇年代から九〇年代に広く受け入れられた家族モデルは科学の落とし子ではなく、戦後日本のジェンダー観の影響を受けた時代の申し子なのである。母が原因であるという認識が、ある一定層の人々に受け入れられる土壌が日本にあったからこそ家族モデルは当事者を救済するモデルとして機能し続けた。家族モデルから私たちが学ぶべきことは、家族モデルの科学的妥当性の希薄さではなく、家族モデルが社会や文化とは一見無 関係の科学の衣をまといながら、社会・文化的背景の影響を強く受けた民俗モデルであったという歴史ではないだろうか。215p
著者はこの部分の注で、これはイアン・ハッキングのループ効果ではないかと指摘する。ある人びとに関して新たに作られた理論や認識が、その対称の人びとの自己認識や行動を変容させているから。
これらの家族モデルの説明はとてもわかりやすく納得できるものだった。
終章のタイトルは『食の本質 私たちがたべるわけ』
まず、このタイトルへの違和感が抜けない。『本質』は求められるべきなのか?
ここに記載されている以下の記述がとても難解だ。
ふつうに食べられない状態とは、食のハビトゥスが身体から流出し、食の準拠点が日常の時空間の外側に移動した結果、食を通じて他者とかかわりを生み出し維持する力、言い換えると人と人との間に意味を生み出し、維持する力が失われた状態である。261頁
この文章に関する説明が続けて記載されているのだが、またまどろっこしい。読んでいてイライラしそうっていうか、読解力が不足しているだけとも言えるかも。
まず、ジョン・サールの「背景」(The background)の説明があり(264頁~)、次にプルデューを引用して「ハビトゥス」が説明される。それは慣習行動を成立させている「背景」が身体化された状態、とのこと。268頁
そのハビトゥスの共有(あるいは違いの認識)の過程で他者との靭帯が生まれ、維持される、とのこと。269頁
そのうえで、食は栄養摂取と同義ではなく、「栄養摂取は一人でもできるが、食べることによる靭帯を一人で作り出すことは出来ない」とある。
ここで問いが生まれる。靭帯を作り出すことはできなくても、食を一人で成立させることは可能なのではないか?
ハビトゥスになっている食に関わる膨大な知識が「人間が生きていくうえで欠くことのできないつながりを作り出している。このように考えると、ふつうに食べられなくなることの結末とは、「他者とのつながりを生み出し維持する力の喪失、すなわち孤立である」269頁と書かれている。
果たして、これは妥当なのか。どうもすっきりしない。この本に記述された人たちは、他者とつながり続けていたのではないか? 孤立していた場面はそんなに多くはなかったのではないか? 多くの場合、食に関してはコミュニケーションが難しくなっていた面はあるかもしれないが、それは孤立と呼びうるものだろうか?
また、277頁に記載されている【「純粋な個人」(とその家族)に目を向け、そこを修正しようとするモデルは、人の食の内実を見損なう】とある。それはその通りだと思う。社会的文化的背景を見てかなければならないという文脈でこの文章は書かれているが、社会的文化的背景のみならず、その人にかかわるコミュニティのことはもっと考えられてもいいのではないか、とも思う。他の精神的病と同様に、その人に関わるコミュニティとの関わりがリカバリーに大きく関わってくるのではないか? ここに書かれたそれぞれの個人の話を、そのような観点から読むことも出来るのではないかと思った。
と考えて、読書メモを書いてきたら、似たようなことが、このあとに書かれていた。そして、以下の部分が「おわりに」を前にした、この本の結語部分となるのだろう。
以下、引用。
生きることと、適切な食・正常な心身の間には乖離がある。生きることの本質は、数値化可能な一個体の性質ではなく、人と人のつながりの中にしか現れえないからだ。適切な食と正常な心身があって初めて人と人とのかかわりが現れるのではない。まずあるのは人と人とのかかわりであり、適切な食、正常な心身といった概念はそのかかわりを作り、維持する際に参照されうる一つの知識でしかない。しかし強大化する自然科学と専門的言説の時空間はその順序をしばしば転倒させ、どんなかかわりがあるかよりも、正常であるか否かに私たちの目を向けさせてしまうことがあるようだ。
ふつうに食べられない人たちの世界観は、還元主義だけではなく現代で推奨されている心身および食べ方の評価法とも相似形である。ふつうに食べられない人たちは、自然科学あるいは専門的言説の時空間に食の準拠点を移動させ、その結果それまでの食を失い、さらには人と人とのかかわりまでも失っていった。現代社会で推奨される食べ方と相似形の世界観を持つ彼女たちの半生は、人にとって生きること、食べることはいかなることかという深遠なる問いの答えを、写し鏡の形で提示しているのではないだろうか。
一人はかかわりの中でしか生きていけない。だからこそ私たちはかかわりを作り、かかわりの中で生きるために食べる。食べることの本質は科学的な数値の中にも、専門家の著書の中にも存在しない。食べることの本質は人と人との具体的なつながりの中に存在するのである。279p
言いたいことはだいたいその通りだと思うのだが、ここで「本質」とかいう言葉を使う必然性があるのだろうか?
それがとても大切な部分でコアにあるとは思うのだが、「本質」というのとは少し違うのではないか?
そして、そのかかわりを形成するさまざまな位相のコミュニティこそが、もっと考察される必要があるのではないかと思う。
「おわりに」の冒頭【食べ物と他者はよく似ている。なぜならそれはふたつとも、人間にとって怖いからである】という文章で始まる。それは内部にゆらぎを生じさせて心地よいこともあるが、一方でそれは凶器となり、自らをひどく傷つける。どちらに転ぶかわからないから本質的に怖い、と書かれている。しかし、だからこそ楽しいし、だからこそワクワクするという話である。にもかかわらず、ここで著者は「怖い」と書く。人の感じ方は本当に違うのだと思う。
そして、この本の最初の文章につながって、摂食障害の人をそうでない人と地続きの地平で見て欲しいと当事者が主張し、しかし、同時に特別に扱われることも要求している、「二枚舌外交」と書かれている。そしてその「地続き」という地平で見なすのであれば、として著者は以下のように書く。
本書が採用した、うまく食べられない人たちの生き方から、人間全般にとっての食の本質を探求するという視座は、摂食障害の当事者を「偏見に満ちた目で見ないでほしい」という支援者の主張とも、遠く通じると信じている。 282p
うまく食べられない人たちの生き方から「食べる」とはどういうことか、という話がすごく興味深く、新たな視座で書かれていたと思うし、そういう意味でとても好きな本だし、面白かったのだが、それが「人間全般にとっての食の本質を探求するという視座」と書かれてしまうと、何か違和感が残るのだった。
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