『障害者ってだれのこと?』メモ
『障害者ってだれのこと?
「わからない」からはじめよう』
荒井 裕樹 著
シリーズ 中学生の質問箱
出版年月 2022/07
出版社のサイト
https://www.heibonsha.co.jp/book/b606980.html
まず読書メーターに書いたものから
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図書館の陳列棚にあったのを見て、思わず借りた。借りた後で「中学生の質問箱」というシリーズだということを知った。しかし、この本、中学生用だとなめてはいけない。「障害」に関して、こんなにしっかりと考える材料を提供していて、同時にそれを中学生にもわかる語彙で書かれた本をぼくは知らない。 このタイトルの「だれのこと?」という疑問に関して【「わかる」より「考える」ことの方が大事だと思うのです】(10頁)という話に納得。中学生にも読んで欲しいが、大人に読んで欲しい本。この本で読書会をやりたくなった。
135~140頁にかけて、「自分で決める」ことの価値について、力説されている。大切なことではあるが、一見「自分で決める」ことに困難がありそうな人のことにも言及して欲しかった。その記述がないのはちょっと残念。
荒井さんが「アライ」について、書いていて、ちょっと笑えた。187頁
最初のほうでこんな風に書かれている。
ふつう本というのは、「読んだらなにかがわかるようになる」ものです。でも、この本は「読んだらますますわからなくなる」ことを目指しています。
—— え、そうなの?
ちょっと意地悪かもしれませんね。でも、「障害者ってだれのこと?」という疑問は、「わかる」よりも「考える」ことのほうが大事だと思うのです。
というわけで、ぜひぜひ私と「ますますわからなくなる旅」におつきあいください。10頁
障害とは何かとか、障害者とはだれのことかについて、はっきりくっきりわかるような説明はしません。というより、できません。むしろ、こうした問題ははっきりくっきり分けられないということをお話ししようと思います。12頁
28頁には以下のようなことが書かれている。
70年代にはいると、施設から出たいという声が上がり、施設以外の選択肢を求める人が現われたという記述の後で、
じっさい、当時の障害者施設には、管理がとてもきびしいところが多かったのです。まったくプライバシーのない大部屋に大勢が押しこまれたり、食事やトイレの時間まで決められたり、外出も面会もほとんど認められなかったり、といったこともありました
それでは、いまの施設はどうなのだろうと思った。いまでも10万人以上が生活する入所施設、ここで書かれている状況と50歩100歩なんじゃないかと思うのだが、どうなのだろう?
41頁の厚労省が開設しているウェブサイトからの引用に、発達障害の中には吃音も含まれているとあり、それは知らなかった。
駅に階段しかないことだけじゃなくて、階段しかないことで困っている人がいるのにそれをたいしたことないと考える価値観が差別48頁
この記述は『「社会」を扱う新たなモード』で書かれている話と重なる。本文中にはそこからアイデアをもらったとは書かれていないが、このように更新されていく知見を取り入れることはかなり大事なことだと思う。
『「社会」を扱う新たなモード』における社会モデル理解は以下のような感じ。
「社会モデル」と3つの「社会」
① 障害者が直⾯する困難の原因は、社会の作られ⽅にある
• 障害の発⽣メカニズムにおける「社会」② 障害者が直⾯する困難は、社会的に解消できる
• 障害の解消⼿段における「社会」③ 障害者が直⾯する困難を解消するのは社会の責務だ
• 障害の解消責任における「社会」 (序章、p. 17参照)~~
• 「近年流布している『社会モデル』理解においては、②や③の位相の『社会性』のみが着⽬され、①の視点がほぼ無視される傾向」(序章、p. 19)
• ①の不徹底、②③の強調
• 「社会モデル」においては、①こそが重要。①を⽋いた「社会モデ ル」は不⼗分で危険
(『「社会」を扱う新たなモード』著者・飯野由里子さんのパワポから)
この『障害者ってだれのこと』という本でも、このあたりを意識した記述になっていると感じた。 具体的に、どういうことかと言えば、例えば、駅にエレベータがないという話が社会モデルの話として使われるし、ぼくも使ってきたが、(例えば https://tu-ta.at.webry.info/200811/article_16.html ) ②社会がエレベータを設置すれば障害が解消され ③そのエレベータを設置するのは社会の責任 という話だ。 しかし、①それまでエレベータを設置してこなかった社会の問題は、そこではなかなか問われない。 そこが問われなければならない、という点が強調されるべき、という話なのだろう。
最初のほうにも引用したが、著者はこの本では、一貫してほぼ常に以下のスタンス。
・・こうしたややこしい差別という問題にたいして、こういう考え方をすれば解決しますとか、こういう考え方をすべきですとか、なにかを線引きしたり、わかりやすい答えを示したりということはしません。
というのは、差別というのは「考えつづける」ことが大事だからです。わかりやすい解決策や答えというのは、これ以上悩んだり考えたりしなくてすむように欲しくなるものですよね。でも、差別は考えつづけることが大事なんです。
ーーやっぱり、はっきりすっきりしないんだね。
そのとおりです。97頁
「なにが差別かは基本的に社会の合意によって決まる」103頁
何が障害かっていうのも、そう言えるかも。
184頁には、障害者運動によって、社会のあり方がいろんなひとにとっても助かるように変えられてきたという話の後で、著者は以下のようにいう。
【障害者運動の歴史を調べている研究者として言わせてもらえば、障害者運動というのは「社会を耕す」営みです】
横田さんたちを例に書かれる。彼らは、身体を張って街に出て、自分たちの存在を見せ、一緒に同じ街で生きたいと伝えた、それが「社会を耕す」営みだという話だ。
そして著者は「障害者を見慣れなくてもすむ仕組み」に言及する。(186頁)
横田さんたちの時代は現在よりも障害者に対して冷たく厳しかったが、「現在もまだまだ充分に解消されたわけではありません」と書かれている。そして、特別支援校の増加など、それが強化されている面さえあるのではないか。
最後の章のタイトルは 「差別のない社会は可能か?」
「差別のない社会を目指す」ということに著者は反対しないし、それが実現すれば、そんなにすばらしいことはない、と書く。しかし、その前にこの章の冒頭の小見出しとして太字で書かれているフレーズがある。それが
「差別のない社会」より「差別があったら怒れる社会」188p
というもの。
差別はあるものだという前提のほうが、差別されたときとか差別に気づいたときに「これは差別だ」と言いやすいんだね。190-191頁
そして、紹介されるのが、「CP女の会」というグループがつくった『おんなとして、CPとして』という本。「神奈川県の青い芝の会に所属した女性たちが、自分たちの活動について女性・妻・母という立場から語ったもの」であり、「横田弘さんのパートナーの話も収められている」とか。
ここで著者が「とても驚いた部分」として引用している部分を孫引き
かろやかに流れるジングルベルのメロディに子供たちの笑い声がはずむ、ケーキやオモチャを抱えて家路を急ぐ親子連れ、女たちは、家に置き去りにしてきた子供に思いを馳せた。マイクからほとばしる男たちの叫び、女たちは黙って人並(ママ)みのなかに黙々と「ビラ」をまき続けた。女たちは、子育ての中から生まれる新たな地域との摩擦の中で、男たちとはちがう差別や偏見を味わいはじめていた。男たちは、障害者運動に夢とロマンをかけ、女たちは、日々の生活をかけた。192-193頁
著者のように驚きはしないけれども、印象的な部分ではある。傍線の部分の説明として書かれているのは、子育ての中で必然的に出てくる近所との関係。その関係の中で障害者の子育てが圧倒的に少なかった時代に好奇の目で見られたり、心ない言葉を投げかけられたりすること。
204頁から「怒り」と「憎悪」の違いの話が展開される。
「怒り」は共生を前提にしていて、「憎悪」は共生を拒絶し、相手が存在すること自体を嫌う感情だと。
そして、「怒り」には葛藤があり、さらに言えば、葛藤を含んだ「怒り」が大事だという。そして、
これからの社会で必要なのは、「憎悪」と「怒り」をきちんと切り分けていくこと、一方で、社会の不公平さに警鐘を鳴らす「怒り」についてはきちんと受け止めて考えていくこと、そのための仕組みをつくりあげていくこと、だと思います。(205頁)
と書かれている。
しかし、ほんとうに「きちんと切り分ける」ことなど出来るだろうか、とも思う。そこはもっとどろどろとして、混然一体な感じがしてならない。できるとすれば、その混然一体とした気持ちを、意識的に分解して、そこから怒りだけを抜き出すという努力が求められるのかもしれない。そこでは「憎悪」の部分を意識的に消していくということも求められるだろう。
206頁~紹介されているのは、著者が出会ったある障害者運動家の話。誰だろうと思わず想像する。
彼がこんな風に言ったとのこと。
「差別のない社会なんてオレたちは目指してないよ。大事なのは、自分が差別されたときにどう闘うかだよ」
著者はこの言葉にショックを受けたと書いているが、ぼくにも刺さる。
【荒井はなんで差別の問題を解説席から語ろうとしてるんだ? と諭されたような気がしました】とある。
ぼくもひんぱんに解説席に登りたがっているなぁと思った。
このときの話が【差別にかんする当事者性について考えるきっかけになりました。そのときの私の話には、言葉の当事者性というものがなかったんだと思います】(209頁)と荒井さん。
続けて【言葉の当事者性って?】という小見出しが入り【その言葉って本当にあなた自身の中から出てきたものですか? という視点です】(210頁)と書かれている。
仕事ななくて厳しい状況に置かれていたり、あっても非正規で不安定な状況にある人が、企業の知恵規律を上げるために人件費を抑えなければならないので不安定な雇用が必要だとか、財源が少ないのだから、福祉の切り捨てや縮小は当然だと主張することがある。「弱い者たちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く♪』という構図だ。そんな風に差別を内側に抱えた人たちがいる。
そして、著者の荒井さんは以下のように書く。
人はもっと自分自身の悩みとか、苦しみとか、痛みとか、そうしたものを言葉にしていいんじゃないか。あるいは、すべきなんじゃないか。そういうことを語ることによって、自分が苦しいのはなぜなんだとか、自分を苦しめているのはなんなんだとか、そういった問題に考えを深めていけると思うんです。
「差別のない社会」を語っていた私の言葉には、こうした当事者性が欠けていたと思います。自分が「差別する側」にならないようにと気をつける意識はあったけれど、自分が「差別される側」になりかねない危機感や恐怖心というのはありませんでした。
211頁
確かに自分の苦しさを声に出し、その原因を「自己責任」と片づけるのではなく、その苦しさの理由を社会と結び付けて考えていくことは大切だと思う。しかし、他方で「『差別される側』になりかねない危機感や恐怖心」は本当に必要なのか、と思う。必要なのは危機感や恐怖心ではなく、差別される状況へのリアルな想像力・共感力ではないだろうか。ここで著者が前に展開していた「憎悪」ではない「怒り」の必要性が生じるのかもしれない。
この後、「荒井さんは差別されているの?」という設問がでてきて、「はい、ちょっと整理します」と答え、障害者運動が闘ってきた「差別」を大きく3つにまとめる。
・自分の言葉を聞いてもらえないこと
・自分のことを勝手に決められること
・自分の生命が軽んじられること
そして、この3つが、例えば、新型コロナの初期の国や社会の責任者のいいかげんな対応は、自分に対する「差別」だったのではないか、自分の声は聞いてもらえず、勝手に決められ、生命が軽んじられてのではないか、という。そして、そこで立ち止まって考えたら、自分に障害者差別のことを教えてくれた人たちは日常的にその感覚を味わっていたのだと気づくと著者は書く。そのように何かをきっかけに「同じ方向を見ること」「想像力を働かせること」それが「アライ」のあり方の一つだし、障害者差別と闘うことの一つのあり方だ、と。
障害者差別と闘うのはさまざまな方法があり、自分で何ができるか考えてもらえたらうれしいし、この問題で自分だけは傷つかない外野席に立つことなんてできない、そのことを知っておいてもらえるだけでもうれしい、というのが本文の結語となる。
あとがきで、この本のサブタイトルの「『わからない』からはじめよう」ダブルミーニングが明かされる。
そして、わかったことにしたり、簡単にわかろうとすることにしたり、させないことが自分の仕事だと荒井さんは書く。
すごくいい本だと思った。
朝日新聞による本の紹介のサイト「じんぶん堂」https://book.asahi.com/jinbun/article/14697074 には、この本のエッセンスににつながる長い引用が掲載されていて、わかりやすいかも。
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