”重度知的障害者”と呼ばれる人たちの『自立生活』について
フェイスブックのノート、いまも見る方法がないかと検索したら出てきた。
https://takoratta.hatenablog.com/entry/2022/04/11/194949
で、思わずいろいろ見てしまった。
そこから出てきたのが以下。
読み返すと、不十分なこと、この上ない。
とりあえず、以下に転載。最後に少し付け足す予定。
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南米を主要なフィールドにしているカメラマンの若い友人からの質問
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「自立生活」ってそもそもなんだろうというところから調べておりました。
「自立生活センター」に関わる運動の起点はアメリカが発祥なのだと思うのですが、今、大田区で進められている「自立生活声明文プロジェクト」がいう「自立生活」は、やはりこのアメリカが起点となる運動の流れの中にあるものなのでしょうか?
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ぼくの答えというか応え
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簡単には説明できないんですが、大きな流れとしては自立生活運動の流れを汲んでいると言えるかもしれません。しかし、その流れを直接組んでいるJIL(全国自立生活センター協議会) に加入しているわけではなく、便宜的にその言葉を使っているだけです。
そしてこの言葉使いに関しても、 知的障害者がパーソナルアシスタントをつけた一人暮らしのハードルを上げてしまっているのではないかという批判もあります。
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早速ありがとうございます。「ハードルをあげてしまっている」ということは「自立生活」という言葉自体が定義する形がはっきりあるのでしょうか?
障害者権利条約にも「自立生活」という言葉があると思うのですが、それも「自立生活センター」の運動の流れを念頭に置いたものなのでしょうか?
立て続けにすいません。
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【「自立生活」という言葉自体が定義する生活の形がはっきりある】わけではないと思いますが、『自立』という言葉には知的障害の重い人を寄せ付けないイメージを持っている側面があるような気がします。
また権利条約の中の「自立生活」はその運動の流れを念頭に置いているはずです。
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中米で自立生活センターを見学してきたという若い友人とのやりとり、以上
補足:国連障害者権利条約の9条と19条で「自立した生活」に言及しています。政府の訳を検索すると計6個の「自立」という言葉が使われていました。
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いま、読み返して、いちばん言い足りていないと感じたのは、自己決定と自立生活の関係。
70年代に「自立生活」(当時は別の言い方をしていたはず)を始めた多くの”重度身体障害者”のキーワードは「自己決定」。いろんなことを自分で決めるということだったと思うのです。その運動が始まるまで、ほとんどの”重度身体障害者”は自宅で生活できなくなると、施設で生活することを強いられてきました。しかし、自分の暮らしは自分で決めて自分でコントロールしたいという強い声が介助付きの一人暮らしを形成する運動につながってきたのだと思います。
そして、その運動は世界の大きな潮流となり、広がっていきました。そこから、かなり取り残されたのが”重度知的障害者”と呼ばれる人たちだったのではないかと思います。『自己選択・自己決定』という言葉が壁になってきた部分もあるでしょう。言葉で物事を伝えることの苦手な人たちの『自己選択・自己決定』とは何か、という話です。そこでは言葉以外のコミュニケーションで彼らが望むのは何かを考える必要があります。また、ときには、当事者が望んでいなくても、いのちに係わる危険の回避などを支援者は行うこともあるでしょう。金銭的な面や身体的な面などで、出来ること、出来ないことを、支援者が伝える必要もあります。しかし、そういう人にも「したいこと」や「希望」があります。それを可能な限り追い求める権利があるはず。そこには身体障害者が始めた自立生活運動の『自己選択・自己決定』とは異なる側面もあることを考慮に入れる必要が生じています。
さらに、自分の意志で決めるという言葉に隠れた部分のことも考える必要が見えてきました。それを『中動態』という言葉で説明することも可能かもしれません。自らを振り返っても、生活していく上で必要なことを、意思によって決めていないことは多いはず。気がついたら、トイレに行っているし、目の前にある飲み物を手にしています。明確な意思のもとに行う行為って、そんなに多くはないのではないかと思います。
そんな中で、一人暮らしの”重度知的障害者”の暮らしを支える行為があると思います。
順当に生きて行けば、いつか親が死に、別々に暮らすことを余儀なくされます。その時に、住み慣れた地域から引き剥がされる”重度知的障害者”は後を絶ちません。グループホームは増えてはいますが、そこになじめない人も多いですし、そこでの他者との暮らしには、一人暮らしにはない様々な制約があります。
しかし、”重度知的障害者”と呼ばれる人たちが、介助者(パーソナルアシスタント)をつけて暮らすための地域資源がとても限られている現状もあります。地域での生活を実現し、そのための地域資源を豊かにするためにも、そういう暮らし方があると、声を上げていくことが必要だということで始めたのが「自立生活声明文」の運動でした。いまは『知的障害のある人の自立生活について考える会』という名前に代わっており、声明文運動のターゲットが主要に支援者や関係者だったのですが、当事者や親にも広げたいという話になっています。
大田区にある風雷社中の中村和利さんの突破力がエンジンとなり、目黒区の「はちくりうす」の櫻原さんとぼくの3人の相談から始まった声明文プロジェクトと、そこからつながる『知的障害のある人の自立生活について考える会』も、ありがたいことに徐々に広がりを見せつつあります。
『自立生活』とは何か、という問いから、いろいろ話は広がりますが、その問い自体が、そのような深度を含んでいる問いだと思うのです。
グループホームには制約があるという話を書きましたが、重度知的障害者”の暮らしを支えることを考えたとき、それを支える人によって、それが仮に一人暮らしであっても、暮らしに他者による制約が生じやすい側面があることは認識する必要があるでしょう。
障害者に関する事業所で「虐待防止」を学ぶことが義務付けられつつありますが、その前提として、『障害者の権利』について学ぶことが必要なのではないかと感じています。国連障害者権利条約は日本政府も批准したものであり、日本国内でも法的拘束力を持った国際条約となっています。そこに書かれた障害者の権利をまず、抑える必要があるのではないかと感じています。
”重度知的障害者”と呼ばれる人たちの一人暮らしを支える営みを促進するというのは、国連障害者権利条約が求める「他の者との平等」をどう実現するかという話でもある、と考えています。
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