日本の福祉における「サービス偏重主義」をAOPへ (ほんの紹介55回目)

たこの木通信、2022年9月に掲載してもらった原稿。
https://tu-ta.seesaa.net/article/493017321.html の続き

日本の福祉における
「サービス偏重主義」をAOPへ
(ほんの紹介55回目)

 今回も『脱「いい子」のソーシャルワーク』から(3回目、これで終わる予定)。この本の最後の座談会で、主著者の坂本さんがAOPを知ったのが1997年、茨木さんが1998年とある。当時、イギリスでソーシャルワーカーの資格制度が大きく変わり、AOPが教育の柱として盛り込まれていたと茨木さんいう。カナダでは2003年の段階では全体の教育プログラムとしてAOPに取り組んでいるという印象はなかったが、2018年には実践のなかで当たり前のようにAOPという言葉がでてくるようになって、15年近くかけて、それが根づいたと感じたとのこと。

 また、茨木さんの誘いで2018年にAOPの話をカナダで聞いた竹端さんは「そういうやり方なら日本の現実を変えていくことが可能なんだと、何か新たな光を見た思いがしました」という。そして、すでに面白いことをやっている人たちは日本にもいて、そこに反抑圧的ソーシャルワーク実践というラベルの貼り方をしたら、いろんなものがつながるのではないか。日本では身体障害者による自立生活運動と知的障害者の支援と精神障害者の運動が全然つながっていなかったが、AOPというかたちでつなげられるかもしれない、それをさらに高齢福祉や児童福祉に、というようなことを考えて、坂本さんと茨木さんに一緒に勉強してくださいと申し出て始まったのがこの本のプロジェクトらしい。

 そして、日本の社会福祉における「サービス偏重主義」が指摘される。ここがとても大事なところだと思う。福祉と言えば、サービス提供だと多くの人が考えている。そして、それは自分も例外ではない。この座談会で、竹端さんと茨木さんは放課後デイを例にこんな風に話している。

竹端 ・・・。 例えば、放課後等デイサービスができると、障害のある子どものお母さんは助かったりするわけですよ。でも、それは個人と家族が助かるだけであって、社会の問題として障害のある子をどのようにサポートしていこうかとか、障害のある子がどのように学校空間のなかで抑圧されているのか、という社会構造のなかでの差別や抑圧の話は置き去りにされ、「制度やサービスができたからこれでおしまい」と言って分断されてしまうんですよね。

茨木 (略) 先ほどの竹端さんの放課後等デイの例でいくと、どんなサービスが使えるかの前に、障害者の家族としてこれからどう生きていくかとか、障害のある子がこれから自立していくために今何が必要か、という議論が抜け落ちてしまうんですよね。もしかしたら、制度を使わないことのほうが意味がある 支援になるかもしれないじゃないですか。お母さんが働きに行けるのはいい けれども、それを使わないことで、その子の力になることがあるかもしれない。でも、サービスを使わなければ、事業所にお金が全く入らないのでやっぱりみんな制度を使って、事業所にお金を入れる。良心的なワーカーは、制険による支援だけではできないプラス αの無償の支援をしている。そんな状況がずっと続いているんです。

本当は、「放課後支援ってそもそもなんで障害のある子と障害のない子とを切り分けてるの?」「それがない時代って、一緒にやってたよね?」「じゃあ一緒にやるためにはどうしたらいいんだろう?」って、構造批判に目を向けてもらえないのは、私はすごく危険だなと思っています。

竹端 (略)そうすると、自分たちが抑圧されている構造というものがどんどん見えにくくなる。逆に制度が豊かになればなるほど、その社会構造の抑圧については問われなくなり、既存のサービスのなかでどう解決できるのかに焦点化されてしまう。

(中略) つまり、抑圧を見えなくする力に、ソーシャルワークも加担しているかもしれないんですよ。そこを問い直すことに意味があるんじゃないでしょうか。(座談会)

 制度を使うことだけに目を向けがちな「福祉」。もちろん、制度を使えていない例は山ほどあって、制度を使い倒すことは大切。使い倒せていない相談支援は多い。同じ法人の相談機関とか。

 ともあれ制度利用に終始しないで、その人が置かれている抑圧された状況、そしてその状況を変えることに目を向けるソーシャルワークが求められている。それをAOPと呼ぶのだろう。

~~~原稿ココまで~~~

 最後に少し触れたが、計画相談支援の質と量、これでいいのだろうかと感じることは多い。

まず、質についてだが
 通所事業所で同じ事業所内に居を構える同一法人のもとにある相談支援事業所は、相談支援としてちゃんと機能しているのか疑問。すべての実態を知っているわけではないので、断定は出来ないが・・・。
 単純に思うのだが、同一法人の職員が、現状の支援の方向と異なる方法が必要だと感じ、それが法人の利益と反するとき、指摘し、変更を実施出来るだろうか? また、通所施設の元スタッフである場合が多い相談従事者が、生活支援の制度について、どれだけ熟知しているだろう。そして、学ぶ機会が保障されているだろうか。とりわけ兼任の場合、どうしても日常の業務にひっぱられたりしないだろうか?
 また、これは同一法人の相談支援ではないが、知的障害者の計画相談の何回か分のモニタリングシートをまとめて作成し、「どうせ変わらないので、まとめて署名してください」と言った計画相談支援機関があったという話を伝聞で聞いたことがある。あくまで伝聞なので、多少、盛られているかもしれないが、もとになる話がなければ生まれない話だと思う。
 これら、計画相談支援の質に関しては、受け付ける福祉事務所に、上がってくるシートを見極めるスタッフがいれば、相当に改善されるのではないか? また、そのためには福祉事務所は当事者のことをちゃんと知る必要がある。

そして量
 これが圧倒的に足りていない地域が多いのではないか? 少なくとも地元・大田区では足りないという話を聞くことが多い。福祉事務所でただリストを渡されて、上から電話していって、断られ続けて、心が折れたとかの話を聞く。そして、その福祉事務所の意向でセルフプランを忌避し、いつまでもサービスの利用が出来ないこともあるらしい。このあたりは福祉事務所担当ワーカーによって、事情を勘案し便宜を図るワーカーもいれば、硬直的な対応しかできないこともあるらしい。話がそれたが、この量の問題に関しては、簡単に調査が出来そうだが、実際、やられているだろうか?

解決のために
 この質の問題も量の問題も解決するためには、それなりのお金と時間が必要になる。事業所に支給する給付を増やせば、参入しやすくなり、量の問題は解決するかもしれないが、いまのままお金だけ増やせば、計画相談が、より劣化する危険もあるだろう。計画相談の質を担保する仕組みを組み込んで、給付を増やすことを検討する必要があるのだと思う。
 そして、セルフプランを作成するのをサポートする仕組みがあってもいいと思う。以前、すごく制度に詳しい親が作成したセルフプランを見たことがある。それは事業者が作成するよりも質の高いものだった。福祉事務所側にそれを見極める力さえあれば、セルフプランはもっと活用されてもいいかもしれないが、福祉事務所の現状の人員でそれを求める困難もあると思う。
 福祉事務所が認めるセルフプラン作成サポーターに費用を出して、セルフプランを増やし、モニタリングのみ相談支援事業者が行うという仕組みも考えられるかもしれないと思った。

 ともあれ、現状は課題が多すぎるにもかかわらず、あまり制度をなんとかしようという声が聴こえてこないのだが、ぼくに聞こえていないだけだろうか?

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気がついたら、ここに書いた話と離れていた。
そう、求められているのは日本の社会福祉における「サービス偏重主義」からの脱却。福祉(ウェルビーング)のためにサービス以外に何が必要なのか、という話なのだが、これはこれで、たくさん考えなければならない話がありそうで、ここで書けそうにないが、地域とかコミュニティとかがキーワードになることは容易に想像できる。地縁以外のコミュニティも含まれるだろう。そして、「対話を開く」(オープン・ダイアローグ)の知見も使えることが多そうな気がしている。


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