石垣りんさんのこと
おおたジャーナル 2022年11月号
https://ojhirobablog.wixsite.com/otajournal/post/%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%81%9F%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB2022%E5%B9%B411%E6%9C%88%E5%8F%B7
に掲載してもらったコラムの原稿掲載。
それにしても、20世紀の終わりころから月刊で出し続けているというのがすごいと思います、おおたジャーナル。
今回の原稿はけっこう使いまわしているものとかなぁと思わないわけでもないのですが、そこは目をつぶってください。好きな人のことは何度でも書きたくなります。 エコフェミというタグを勝手につけたのですが、ぼくは、ここにエコフェミニズムの匂いを感じるのです。たぶん、石垣りんさん自身がそんな言葉は意識していないっていうか、この詩が書かれたころは、そんな言葉や概念は、まだなかったと思います。
日本では、著名なフェミニスト学者によるイヴァン・イリッチの批判とともに、いっしょに押し流されてしまった感があるエコフェミニズムですが、もっと見直されていいのではないかと思っています。
参照
いつ出るのか『エコ・フェミニズム』
https://tu-ta.seesaa.net/article/200606article_18.html
「エコフェミ」新曜社からの返信+ぼくのコメント
https://tu-ta.seesaa.net/article/200607article_8.html
前の月に、とある事情でぼくが関わった原稿を飛ばしてしまったことが原因でコラムを書くことになったのでした。
石垣りんさんのこと
2004年の12月に亡くなった有名な詩人の石垣りんさんは、たぶん25歳くらいから亡くなるまで大田区在住でした。【追記:どこかで見た資料でこれを書いたのですが50歳(1970年)からというのが正確らしいです。】高等小学校を卒業してすぐに銀行に就職し、働きながら詩を書き続けた人。生きている間に、一度話を聞いてみたかったなぁと、つくづく思います。直接あうことはなかったけれども、近所で20年近くも同じ時代を生きていたという、ただそれだけのことが誇らしく思えるような素敵な人です。にもかかわらず、大田区には彼女を記念するようなものが何もないのが残念です。 彼女の詩文集『ユーモアの鎖国』(ちくま文庫)にはこんなことが書かれています。
お金とはこわいものです。お金が与えてくれる自由が、どんなに自由というものの部分にすぎないか思い知るのは、私にとって容易なことではありませんでした。
(中略)
・・・政治には、この部分的自由を極端に一ヶ所に蓄積してしまい、少数の人がその鍵を握ることで人の心を貧しく、飢えさせ、ただもう自由には金の力を借りるしかないように世間をかりたてることで繁栄する方法もあるのだと知りました。
少数への富の集中はますますひどくなり、貧しいものとの格差は広がり、貧しいものも「自己責任」とかいう幻想を信じ込まされます。政治がそうしているに過ぎないのに。石垣りんさんはこのエッセイ集に掲載されている「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」を紹介するエッセイの中でこんな風にも書いています。
今迄の不当な差別は是非撤回してもらわなければならないけれど、男たちの得たものは、ほんとうに、すべてうらやむに足りるものなのか。女のしてきたことは、そんなにつまらないことだったのか。という疑いを持ち続けていたので、・・・
経済的な豊かさとか地位とか名誉とか、男たちの得てきたもの、求めたものに「うらやむに足る」ものなんてそんなに多くはありません(確かにもう少しお金があればいいなぁと思うことは少なくないですが)。
同時に、日々台所に立ったり、洗濯をしたりとかの、いのちを育む仕事から遠ざけられてきた結果、失っているものは多いのです。どうしようもなく男として育ってきてしまったぼくは石垣りんさんの言葉からそんなメッセージを受け取ります。そう、ぼくは「鍋やお釜」をもっともっとたぐりよせながら政治や経済や文学や世界の不平等を語る必要があるのだと思います。。
これを読んでいて思い出したのが、上野千鶴子さんの「もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれる、という思想のことだとしたら、そんなものに興味はない」という話。
ひとつ間違えたら、性別役割分業の強化にも使われかねないこの「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」。これを引用するときは、「今迄の不当な差別は是非撤回してもらわなければならないけれど」という部分を強調したほうがいいかもしれません。彼女がここで書いたのは、生きていることの基本的な部分を支えることの大切さと人が生きることの全体性。男が得てきたもの・求めてきたものは、その全体の中の、ほんの一部でしかなかったということ。問題なのは、ぼくを含めて多くの男に鍋や釜や包丁をちゃんと使うことができていないこと。
あらら、紹介したかったこの詩を引用する前に紙幅が尽きてしまいました。この詩もWebで読むことができますし、これが掲載されている『ユーモアの鎖国』(ちくま文庫)、とても素敵な詩文集です。まだの人、ぜひ、読んでみてください。
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原稿ここまで
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私の前にある鍋とお釜と燃える火と
それはながい間
私たち女のまえに
いつも置かれてあったもの、
自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぶつぶつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には
母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。
その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう。
あるときそれは赤いにんじんだったり
くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚であったり
台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意のまえには幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた。
ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など
繰り返せただろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿。
炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と
それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう。
それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象であって励むように。
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