「『破壊せよ!』とバザーリアは言った」かな? (ほんの紹介57回目)
たこの木通信2022年11月号に掲載した原稿。若干訂正して収録。
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「『破壊せよ!』とバザーリアは言った」かな?(ほんの紹介57回目)
紹介するのは『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!』(岩波書店2017年)。イタリアで収容型の精神病院をほぼなくした彼の熱いメッセージがここにつまっていた。それも半世紀も前に。
そんな年月を経たにもかかわらず、日本の現状を見ると、精神病院に「収容させられている」人の数は微妙にしか減少しておらず、収容型の精神病院がなくなるとは、とても思えない。
どのように、それが可能になったのか、というのは興味深いところだが、この本は【「変革のための技術」よりも「変革のための論理」にこだわった】(13頁)とのこと。
どのようにという話も少しはあるし、解説で大熊一夫さんも書いている。バザーリアは精神病院の院長の時代に、自らの病院に写真家を入れて、自ら文章を書いた写真集を出したり、『否定された施設』という本を書いて5万冊も売り、社会に訴えたという。そして、12人の医師が不足していたトリエステの病院で、その人件費を奨学金に変えることを県知事に認めさせて、バザーリアに続く精神科医を養成したとのこと。1968年という時代背景の中で社会変革を求める学生たちがトリエステに大結集した、とも書かれている。
現在の日本に通じるメッセージもたくさんあった。例えばこんな風。
精神病院で10年過ごした人に必要なのは、「この人は解消できないエディプス・コンプレックスを抱いている」というような類の立派な心理学の議論を展開することではなく、重要なのは、「食べ物があり、お金があり、寝る場所があるということ」50-51頁要約
「予防策の大切な一つは貧困との闘いだと考えています」(54頁)
その「貧困との闘いだ」という話を受けて、だとしたら、必要なのは政治家になってしまい、医師としての専門職の専門性が二次的なものになってしまうのではないか、それはよくないのではないか、専門職としてのアイデンティティをどう考えるか、という質問があり、それへの答えが興味深い。バザーリアはその問いに対して、障害児の親を例に出す。その障害児が社会に受け入れられず、施設に入れざるを得なくなり、両親が自分を責めてノイローゼや鬱になったときに、必要なのはノイローゼや鬱の治療なのか、と問う。そして、精神科医の役割は両親に薬を出すことではなく、事態を理解できるような新しいものの見方を創り出すこと(57頁)だという。つまり「社会の側に問題がある」という理解を求める、さらに言えば、そうなのだから、社会を変えることによって、子どもを施設に入れざるを得ないという事態を変えていくという話だと思う。「障害の社会モデル」という言葉が発見される前に、すでにそれを実践している。
さらに貧困について、以下のように書かれている。
・・・マニコミオを訪れて、私たちに面会に来る哀れな人々に会う時に・・・私にできることといえば、そうした人々を貧困から脱出させるための自由を与え、その人を支援することだけです。そして、その後であれば、もちろん臨床的な診断を下すことができます。しかし、それ以前には不可能です。私の考えでは、貧困と狂気は非常に近いところにあります。まさにこうした理由で、貧困状態にあるときには、狂気を見つけ出すことは不可能です。62頁
その「狂気」の原因は貧困にあるのか、精神病によるものなのか、見分けることは困難なので、まず、その貧困から抜けだせるようにすることが、重要、そういう意味でも「自由こそ治療だ」という話だと思う。同様のことは収容型の精神病院に収容されている人にも言えるのではないか。一般的に精神科病院への入院の状況は「貧困」に近い。入院が回復を妨げている。入院状態から脱出させなければ、本当の意味で診断は出来ない、ということも出来そうな気がする。
この本では、マニコミオという言葉が多用されている。精神病院のイタリア語の俗語とのこと。入院設備のある精神病院のことだと思う。この本について書きたいことがまだあるので続くかも。
(原稿ココまで)
(実際、12月に続いている。)
この原稿のもとになった読書メモは以下
https://tu-ta.seesaa.net/article/493378563.html
ここにこの本にある誤訳のことも追記。
語学が出来なくても、誤訳は指摘できるという話でもある。
追記:書くのを忘れてて、古い人は気づいていると思うのですが、このタイトル、中上健次のエッセー集のタイトルのパクリです。
『破壊せよ、とアイラーは言った 』(集英社文庫)
https://bookmeter.com/books/188287
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