【居住と生存 : ポランニー・イリイチ・玉野井芳郎 の思想と「水」のテーマ】(中山 智香子さん)について【メモとしても未完のまま】
【居住と生存 : ポランニー・イリイチ・玉野井芳郎 の思想と「水」のテーマ】(中山 智香子さん)について
興味深い論文に出くわしたので、忘れないようにメモ
書き始めて、かなり時間が経って、途中で力尽きました。その記録です。
この論文、以下
http://doi.org/10.32286/00026123
からダウンロードすることが出来る。
とても興味深い。だが、以下の要約は素人にはわかりにくい。
要約から部分引用しようと思ったが、そのまま全文掲載。
本稿は、人間の持続的な営みとしての経済を考える指針として、居住つまり住むことが生存の 大切な条件であり、そこに水という要素が深く関わることを、経済思想の観点から考えるもので ある。このために、カール・ポランニーが著書『大転換』で提示した「居住か進歩か」という二者択一の意味を確認し、これを引き継いだ玉野井芳郎とイヴァン・イリイチが1970年代後半から80年代前半にかけて協働し、エコノミー=エコロジーという観点から人間と社会にとって重要な「水」の循環と代謝を論じるに至った経緯を考察する。資本主義発展の源泉となったとされる囲い込みのプロセスが「自由な自己決定」による賃金労働を成立させた過程における人間の身体にあらためて着目し、その生存の基礎条件を見つめ直す試みである。こうした原理的考察は、水と深く関わっている人間社会の生存が切迫した課題となりつつある現代世界に重要であると考える。(強調、引用者)
目次はないので、切り貼りしてみる
1.序論
2.生存(サブシステンス)経済の系譜
3.居住か進歩かという二者択一
3.1.生存権の空間的基盤
3.2.生存(サブシステンス)に仕掛けられた戦争 -「居住」と「家」というテーマ
4.社会科学における「水」という要素
4.1.循環する水の原理論:エコロジーとエコノミー
4.2.水利と治水:置き去りになった水の原理論
5.結論
以下、内容も中途半端で、かつ物理的にも最後までいけなかった読書メモ
冒頭に書かれているのは以下
1.序論
本稿の目的は、不透明さを増す現代世界における人間の営み、生業(なりわい)としての 経済活動のあり方の指針を探ることである。このために、今からおよそ半世紀ほど前に提示された内発的発展という考え方について、思想史を踏まえたアップデートを試みる。・・・
書かれているように、けっこうでかい話ではある。そして、「現代世界における人間の営み、生業(なりわい)としての 経済活動の指針」が必要だという問題意識も共有できる。しかし、ここで提示されたものを内発的発展という風にまとめてしまうことには少し違和感も残る。この続きで以下のような記載もある。
本稿では特に、この間次第に重要性を増す水というテーマについて、これが内発的発展論と関わる状況から次第に浮上してきた局面を整理し、その意味を考察する。
また、こんな風にも
本稿では、1980年前後に出会ってから数年間、深く共感し合ったイヴァン・イリイチと玉野井芳郎の協働を軸として考察を行う。玉野井の思想は当時の内発的発展論の論者たち、たとえば鶴見和子のそれと呼応しており2)、鶴見による内発的発展の定義は「(地球上すべての人びとおよび集団が、衣食住の基本的要求を充足し人間としての可能性を十全に発揮できる条件を作り出すことという)目標において人類共通であり、目標達成への経路と創出すべき社会のモデルについては、多様性に富む社会変化の過程である」(鶴見1980/1997,522ページ)とするものであった。1981年に行われた玉野井と鶴見の対談は、水と社会科学に関する重要な論点を含んでいる。
玉野井の思想が広い意味で鶴見和子の内発的発展論と呼応しているだろうということは想像できる(ちゃんと読んでいないが)。そして、ここで引用されている鶴見の定義の部分も当然、同意できるものだ。しかし、それを「発展」とかいう名前で呼んでしまうことには違和感が残る。
それについては2008年の段階で知り合いに宛てた手紙の形で書いたものを残している。
2008年12月31日
「開発」という言葉をそのまま肯定的に使いたくない
https://tu-ta.seesaa.net/article/200812article_21.html
そこでは以下のようなラミスさんの主張を援用している。
そういう社会を求める過程を、私は暫定的に「対抗発展(カウンター・デヴェロープメント)」と呼んでみたいと思います。
なぜ、暫定的かといいますと、これまで「発展」という言葉には悪い歴史があるからです。・・・(中略)・・・。今までは嘘の発展だった。これからは本物の発展です、真の発展です、人中心の発展です、などなど、いろいろな形容詞がつけられた。一番新しいのが「持続可能な発展」という言葉です。もうすでに明らかになっているとおり、それが何を持続可能にしようとしているかというと、もちろん、今までどおりの「発展」なのです。・・・(略)・・・つまり経済成長を続けるための「発展」でしかない。そういう形容詞がついた数々の発展と「対抗発展」を一緒にしてほしくないのです。
玉野井さんは亡くなってしまったので、確認することは残された著作や発言などから類推するしかないのだが、「内発的発展論と呼応している」と言ってしまっていいかどうか、ぼくは玉野井さんの著作をちゃんと読んでないので知らない。鶴見さんの「内発的発展」もラミスさんの「対抗発展」も同様のベクトルを持ちながらも、開発主義に対抗するという意味では鶴見さんはちょっと弱いというか、「開発主義」に飲まれているところがあるのではないか、と感じる。しかし、いま、上記の文章を読み返すと、ラミスさんもまた、対抗発展と言いながら、「発展・開発」という言葉に引っ張られ、抗し切れていない感も残る。話を戻そう。次にラトゥーシュの紹介などもあるのだが、脱開発と内発的発展の関連を中山さんに聞いてみたいと思った。
2.生存(サブシステンス)経済の系譜にはこんなことも書かれている。
まず、この冒頭に置かれているのが以下
本稿が着目するのは、ポランニーが『大転換』(1944)で提示した「居住か進歩か」という、やや奇妙な二者択一である。
これも気がついていなかった。で、ポランニーの『大転換』も読んだ気になっていたのだが、たぶん読んでおらず、ポランニーの思想をまとめた『経済の文明史 ポランニー経済学のエッセンス』しか読んでいないということにいま、気がついた。この本の読書メモなら、https://tu-ta.seesaa.net/article/200608article_11.html に残っているが、これも2006年以前のものだ。そこには「居住か進歩か」という部分に注目した記述はない。しかし、この「居住か進歩か」という視点は興味深い。この論文では、以下のように説明されている。
いうまでもなく、近代のヨーロッパ中心の世界史、資本主義発展の歴史を語る際に「進歩」の概念に対置されてきたのは「停滞」であり、圧倒的に前者に肯定的、優先的な価値がおかれた11)。これに対してポランニーは「居住」という概念を置くことで、それが単に進むか滞るかという同じ軸で測れないことを示したのであった。玉野井とイリイチはいずれもこの「居住か進歩か」という問いに示唆を受けて思索し、それぞれの仕方で人間の生存をめぐる論点を抽出したのである。
結論を先取りして述べるなら、玉野井はポランニーの論理のなかから生存権という概念を 抽出する一方で、ドイツの近代地理学やこれと近接したドイツ歴史学派経済学の知見を活かし、生存権を保障する広義の経済の基盤を、空間や「場」の地域性(ローカルであること)に求めた。他方、イリイチは文字通り居住、住むことが生存の基盤である、すなわち人間の生存(サブシステンス)を支える衣食住の「住」が「食」や「衣」をも支えるという側面を凝視し、ここから「家」や居住そのもの、そしてそこでの生業のあり方を考察した。このような両者が邂逅し協働した成果として、生物としての人間の居住を支える体系としての生命系のエコノミー、そのシステムの中を循環する水への視点が、1980年代なかばに提起されたのであった。
ここに書かれている玉野井とイリッチの邂逅というのを、ぼくは詳しく知らないのだが、たぶんそういうことがあったのだろう。その邂逅の成果が「生物としての人間の居住を支える体系としての生命系のエコノミー」だというのだが、生存を支えるのではなく、「居住を支える」というのがなぜなのか、もうひとつわからない。「居住か進歩か」というより「生存か進歩か」と問題を立てたほうがわかりやすそうな気もするのだが、どうなのだろう? 確かに「生存」と問題を立てるより「居住」としたほうが、より具体的ではある。しかし、生存を支えるサブシステンスを考えると、それを支えるのは居住だけではない。食べ物も大きな要素としてある。それをあえて、居住としたのはなぜなのか、そのあたりは知りたいところ。
ちなみに、ここでの居住、もとの言語が何か知らないけれども、129頁では 居住 habitation、住まうこと living, dwelling が紹介されている。
この二者択一の不思議については「3.居住か進歩かという二者択一 」で、もう少し論じられているので、続きはそっちで。
さらにその邂逅の成果が「水」につながっているという発想を、いままで読んだことがなかった。だから、そこに目新しいものを感じたが、同時に、その「つながり」の部分がもう一つ展開しきれていないのではないか、とも感じたのだった。まあ、ちゃんと読めていないと書いた方が正確かもしれない。
以下の部分も興味深い
また玉野井とイリイチの両者が協働の時期にジェンダーの重要性に着目したことも見逃せ ない。『シャドウ・ワーク』は、刊行時から幅広い読者層を獲得したものの、もっぱら女性のシャドウ・ワークつまり家事労働を分析したものと、限定的にとらえられることが多かった21)。そして玉野井とイリイチのこの関心は、先行研究でおよそ置き去りにされてきた。それはフェミニズムという学問領域が十分に社会科学の諸分野と融合されてこなかった歴史を示すが、他方でまた、経済学の理論的研究が家計(household)概念を十分に考察してこなかったことにも関わっている。
1990年代にはフェミニズムのみならず、人類学の領域で示されたさまざまなフィールド ワークの成果が、経済理論における家計概念の再考を促したが、市場分析の通説的な家計概念のモデルは、こうした成果を包摂することをむしろ拒絶する傾向にあった22)。人類学の成果は、しばしば途上国、新興国をフィールドワークの対象としたものであり、そこでは女性を中心した労働と同時に、社会における稀少な水や灌漑の役割も論じられていたが、これらはたとえばエコフェミニズムなど、特定のサブカテゴリーの学問領域に位置づけられ、経済理論の中心部で論じられることはほとんどなかったといってよい。
最初の疑問。「フェミニズムという学問領域が十分に社会科学の諸分野と融合されてこなかった歴史」とあるが、「社会科学の諸分野と融合されてこなかった」のはフェミニズムだけではないのではないか。多くの学問領域が蛸壺のように自分たちの研究領域に閉じこもっているように思える。フェミニズムだけでなく、玉野井やイリッチの言説など、近現代の価値観を相対化するさまざまな思想もまた、「十分に社会科学の諸分野と融合されてこなかった歴史」があり、受容されていないのではないか。
また、日本のフェミニズムのイリッチへの拒否はすさまじいものがあったので、受け容れられなかったように思えるかもしれないが、マイナスの形であれ、フェミニズムくらいイリッチに注目した分野はなかったとも言えるのではないか?
さらに、エコフェミニズムに関する言及があるが、日本のフェミニズムシーンでイリッチ批判が、エコフェミへの忌避につながり、いまだにエコフェミニズムが正当に評価されていないように感じているのだが、その空気は少しは変わりつつあるのだろうか? ぼくはそれらのシーンをちゃんと観察しているわけではないので、知らないのだけど。
エコフェミニズムが捨てられているように見える話については
https://tu-ta.seesaa.net/article/201204article_5.html とかにも書いている。
ここに関連して、注21では以下のように書かれている。
21)イリイチのジェンダー的視点は、フェミニズム研究の中では、かれとともに研究を進めたクラウディ ア・ヴェールホフやバーバラ・ドゥーデンらの仕事とともに、女性性を母性などにひきつけて実体化 し、結果的に女性の位置づけを限定してしまうという批判の対象となった。たしかに『シャドウ・ワー ク』の記述には、そうした偏りが認められる。とはいえそれが、同書の価値をまったく無にするわけではない。
バーバラ・ドゥーデンとイリッチを並べることには、違和感はないが、クラウディ ア・ヴェールホフは、マリア・ミースやトムゼンに連なる別の系譜の人だと思う。ぼくの理解が浅いのかもしれない。ミース、ヴェールホフ、トムゼンの系譜とドゥーデン、イリッチの系譜のあいだに線を入れたいと思うのだがどうなのだろう?
3.居住か進歩かという二者択一
序章で書いたこの二者択一の問題。
中山さんは、イリッチが選択肢を「生存か進歩か」ではなく「居住か進歩か」としたということを以下のように説明する。
一方、イリイチが『大転換』に着目したのは、生存権という権利の側面ではなく、むしろ 生存そのものについてであった。そもそもポランニー自身が、このスピーナムランド法の分析に先立つ第三章「居住か進歩か」、すなわち件の特異な二者択一を主題とする章において、人は生存のために何らかの場所に「居る」必要があるという論点を明示していたのである。ここには市場経済や資本主義の発展という「進歩」によって蔑ろにされ、否定されたものが、「居住」という概念に集約されていた。
ひとは誰しも生存する限り、どんなに僅かな空間であっても、あるいは移動しながらであっても、どこかに居なければ生きられない。生存権という抽象的な、つまり非空間的な権利として拾い上げることも大切ではあるが、その権利に見合う一定の貨幣額で保障するだけでは、いわば生存の肝心の部分を欠落させたままだと、イリイチは考えたのである。
進歩という概念に対置するのは「生存」という具体的だが幅広い概念ではなく、「居住」という限定的で具体的なことだという。中山さんは【「進歩」によって蔑ろにされ、否定されたものが、「居住」という概念に集約されていた】と説明する。ありきたりな「生存か進歩か」ではなく「居住か進歩か」としたところにとても興味深く、面白そうな感じがするのだが、だからこそ、なぜ、それは食べ物とかではなく、居住だったのか、このあたりがもう一つ理解できない部分ではある。
この具体性を追求するありようがこの論文の後半の「水」につながっていくような気がするのだが、感想を続けて書く体力がなくなってきたし、この論文が水に流れていくあたりが、とても理解しにくいので感想はここまで。
続きがいつか書ければいいけど、書けそうにない。
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