SDGs(持続可能な開発ゴール)は何を持続可能にしたいのか?
SDGsを多くの人が無条件に肯定的に語っています。
他方で、それを一面的に否定する人もいないわけではありません。
両方の態度が間違いだと、ぼくはは思います。
以下は心にとどめておくべきだと思うのです。
他方で、それを一面的に否定する人もいないわけではありません。
両方の態度が間違いだと、ぼくはは思います。
以下は心にとどめておくべきだと思うのです。
持続可能にしなればならないのは、地球や生命や市井の人々の暮らしであって、開発ではない。
にもかかわらず、SDGsというときに、今まで通りの開発を持続可能にしたい、そのために必要なことを求めているかのような取り組みが多すぎるように感じています。
以下、15年も前に書いたものだけど、いまこそ大切なんじゃないかと思うのです。
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2008年12月31日
「開発」という言葉をそのまま肯定的に使いたくない
ここでダグラス・ ラミスさんの主張を援用しています。。
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そういう社会を求める過程を、私は暫定的に「対抗発展(カウンター・デヴェロープメント)」と呼んでみたいと思います。
なぜ、暫定的かといいますと、これまで「発展」という言葉には悪い歴史があるからです。・・・(中略)・・・。今までは嘘の発展だった。これからは本物の発展です、真の発展です、人中心の発展です、などなど、いろいろな形容詞がつけられた。一番新しいのが「持続可能な発展」という言葉です。もうすでに明らかになっているとおり、それが何を持続可能にしようとしているかというと、もちろん、今までどおりの「発展」なのです。・・・(略)・・・つまり経済成長を続けるための「発展」でしかない。そういう形容詞がついた数々の発展と「対抗発展」を一緒にしてほしくないのです。
~~引用、ここまで~~
ここでラミスさんも、「いっしょにして欲しくない」と言いながら、カウンターという形容をつけた開発を肯定しているようにも見えます。まあ、書かなくてもいいような話ですが、このカウンターというのは、「脱」とか「反」という風に読むべき話だということは明記しておきたいと思うのです。
~~引用、ここまで~~
ここでラミスさんも、「いっしょにして欲しくない」と言いながら、カウンターという形容をつけた開発を肯定しているようにも見えます。まあ、書かなくてもいいような話ですが、このカウンターというのは、「脱」とか「反」という風に読むべき話だということは明記しておきたいと思うのです。
また、『ラダック 懐かしい未来』のヘレナさんも「カウンター・ディベロップメント」を主張します。
ラミスさんに聞いた話だと、ラミスさんはヘレナさんの主張を知らなかったとか、偶然の一致かも。
ヘレナさんの「カウンター・ディベロップメント」については2005年にメモしたものがあります。
https://tu-ta.seesaa.net/article/200508article_12.html
Development(開発・発展)が必要だという思想が近現代を引っ張ってきました。そのDevelopmentは社会開発とかいいながらも、GDP成長と離れがたく、さまざまな場所でそれが追い求められてきました。「開発途上国」という呼び方(その反対語は「先進国」ですが、それは「開発先進国」?)は、それを表しているように感じます。それはそれとして、必然性のあった話なのだと思います。
気候危機は、その近現代からの転換を求めているように見えます。
SDGsが求める「トランスフォーム」はそのような根源的な変革であって欲しいと思います。
しかし、同時にSDGsをすすめる人の中には、そのような根源的な変革を求めるのではなく、従来通りの経済成長を手放せない一群の人々がいて、SDGsが両者の「綱引きの場」になっていると思います。(それについては https://tu-ta.seesaa.net/article/202103article_3.html で書きました)
しかし、その綱引きは運動会の綱引きとは異なり、綱の両極のあいだに(グラデーションのように)位置づくことを求める人がいます。そこでの主張の強弱は、あっちかこっちか、という単純なものではなさそうです。その綱をひっぱる方向も、力の入り具合も多様です。
そんな社会で、どのように、偽物ではないトランスフォームを実現するかということが求められており、それがなければ、市井の人々が暮らす社会の持続可能性が奪われてしまうということなのではないかと思うのでした。
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