『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!』雑感、その2(ほんの紹介58回目)
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『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!』雑感、その2
1,精神病院における施設のメカニズムを破壊する二つのアプローチとして、以下の二つが紹介されている。
- 公共支出の削減と精神病者の放置をもたらす米国流のもの
- 市民の権利の尊重と治療の代替案の考案をめざすもの
バザーリアらは後者が真の意味で「施設のメカニズムを破壊し、マニコミオを克服する」唯一の手段だという。
精神病院での長期収容・社会的入院をなくさなければならないという声はある。ただ放り出せばいいとバザーリアたちは考えなかったという話だ。米国で起きたことをぼくは知らないし、本当にこんな風にまとめてしまっていいのかどうかも不明。そして、米国流でも社会的入院や隔離収容だらけの日本の状況と比べて、それがそんなに劣っているというわけでもないような気もする。
2,「実践の楽観主義」へ
出来ることなど何もない、出来るのは本を書くことだけという知識人たちの「理性の悲観主義」にバザーリアが対置させたのが、新たな可能性を思いえがき、 それを構築して、証言するという「実践の楽観主義」(「楽観主義の政治意志」という表現もある)。実現できると思って、やってしまえばいいってことだと思う。それが、いますぐに結果を生まなくても、どこかで結果につながるはず。「革命的楽観主義」という言葉があったのを思い出した。そことつながっている。バザーリアは「『理性の悲観主義』から『実践の楽観主義』へ私たちが世界を変革できるとしたら、これしかありません」と言いきる。理性的に考えたら、悲観的にならざるを得ないような現実はある。しかし、それを乗り越える実践の楽観主義が求められている。
3,「患者と医療者の緊張関係がなければ、やはり両者の関係に命は宿らないでしょう」 とバザーリアは言う。つまり、患者が治療者の話をただ聞いて、従うだけでは、真の意味での回復は遅い、というような意味なのかと思う。そこに緊張関係を持ち込むこと、真剣勝負のような緊張関係を形成することが重要だということだろう。しかし、患者と精神科医の関係には、さまざまな意味での緊張関係がある。悪徳精神病院団体の代表(しかし、そんな団体や代表が厚生労働省にも影響力を持っている)が冗談めかして、半ば本気で、「精神科医に銃を持たせろ」とか言っていたのを思い出した。バザーリアが言っているのと逆の緊張関係だ。精神科医としての力量がないと、銃が欲しいと思ってしまうらしい。そこで患者との信頼関係を形成できていない人だということも明らかになる。信頼関係をベースにした緊張関係と信頼関係が形成できないところからくる緊張関係があると思う。
支援者と被支援者の話にもスライドできる部分があるだろう。
4,「社会の一員になる能力のない人を受け容れる、という温情主義に賛成できません」という意見に対してバザーリアは以下のように応える。
温情主義的な申し出に終始してしまうことはないと思います。この社会がマニコミオから退院してきた人をしぶしぶ受け入れるということは、 これまでにも多々ありました。しかし、人が生存のために闘うことを、特に社会は受け容れるべきです。そしてそうした人には、闘うための武器を与えなければなりません。自分の病の問題を解決しなければならないということのほかに、本人は愛情やお金や仕事を必要としているからです。これは必須の要素であり、それらがあれば他者と競う合うことができるのです。こうした必要不可欠な資源があってはじめて競争が可能になり、自分を表現できるようになるのです。もし私が貧困のなかにいるとしたら、それはいつでも他者に従属しているということです。(強調、引用者)
他者と競い合うことが必要かどうかはともかく、社会の受け入れは、いまも求められている。
~~原稿、ここまで~~
その3まで書いて、この本についての記述は終了してます。その3は2月末か3月初旬に掲載予定。
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