『津久井やまゆり園「優生テロ」事件、その深層とその後』メモ1(第Ⅰ部第三章まで)

考え続ける会で2023年2月11日に出版記念の会を企画。

その日の朝までに、第一部までのメモを書いた。

この本には長いタイトルとサブタイトルがある。

津久井やまゆり園「優生テロ」事件、その深層とその後

戦争と福祉と優生思想

まず、この本のタイトルが相模原障害者殺傷(優生テロ)事件ではないというところに注目したい。「優生テロ」かどうかはとりあえず、脇に置く。津久井やまゆり園という歴史のある入所施設で元職員が起こしてしまった事件であるということ、つまり、事件が起きる前から、そこでどのような支援が行われ、具体的に(そこだけではないが)入所施設がどのような場所になっているかを考え続ける必要があると思うから。

現代書館のHP
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-3596-0.htm
には以下の内容紹介がある。

【内容】

「植松聖」と現在の日本社会。

なぜ事件が起きたのかを歴史・犯罪論的に問う。

「津久井やまゆり園事件」を歴史・犯罪論的にみたとき、「戦争と福祉と優生思想」という主題が現れる。事件の起きた「重度知的障害者入所施設」が戦後福祉の宿痾であることを歴史的に論じ、裁判がなぜ「植松独演会」と化したのかを、供述調書や傍聴記録の秀逸な分析を通して描き出す。新自由主義や合理化に伴い、犯罪の質がいかに変容してきたかを詳述

「宿痾」という耳慣れない日本語
辞書によると、「長い間治らない病気」とある。

「重度知的障害者入所施設」はほんとうに「長い間治らない病気」なのか?

入所施設が時代遅れなのは、何十年も前から明らかなのだが、それを「長く治らない病気」というのが妥当なのかどうか、もう一度、本を読みなおそうと思った。

この問いは佐藤さんにも投げかけていて、佐藤さんからは「当日の議論のテーマになりそうですね」というお返事。

また、本書で佐藤さんは第二章のタイトルを【「施設」はなぜ福祉の「宿痾」なのか】として、ぼくの疑問に正面から応えるタイトルがついているので、その内容については以下のメモで触れる。

【主要目次】

プロローグ 植松被告人の短い手紙から読み解く三つのこと

第Ⅰ部 戦後福祉の「宿痾」

  • 被害者と遺族を「記録」する
  • 「施設」はなぜ福祉の「宿痾」なのか

第Ⅱ部 裁判がなぜ「植松独演会」になったのか

  • 2016年7月26日未明、この惨劇をどう「記録」すればよいのか
  • 刑事裁判はなぜ形骸化するのか

第Ⅲ部 「植松聖」という深層へ――彼はなぜ「孤独」だったのか

  • 「戦争と経済」から読む戦後犯罪私史
  • 永山則夫と植松聖、それぞれの「母よ!殺すな」問題

第Ⅳ部 その後――戦争とテロルと「植松聖」たち

  • 植松死刑囚の手紙への遠くからの返信――戦争と福祉と優生思想
  • 二〇二二年八月、緊急の追記――二人のテロリストと安倍元総理

ながいあとがき――植松死刑囚に送った父親の「手記」


2月11日のイベントの呼びかけ文の冒頭部分は以下

「津久井やまゆり園事件」を歴史・犯罪論的にみたとき、「戦争と福祉と優生思想」という主題が現れる。

戦後福祉の宿痾としての「重度知的障害者入所施設」

津久井やまゆり園事件が私たちの生きているこの社会からどうして現れてきたのか?新自由主義や合理化の流れのなかでいかに変容してきたか

ここに書かれているように、「津久井やまゆり園事件」が非常に多角的に記述されている。さまざまな角度から、この事件を見ることが可能であり、考える材料になるだろう。

同時にあまりにも多様な視点が詰め込まれすぎていていて、結局、佐藤さんが何を言いたかったのか分かりにくいものになっていないだろうか?


以下、最初から付箋に沿って


プロローグで佐藤さんは植松死刑囚から佐藤さん宛に届いた短い手紙を分析し、その手紙は短いものだが、3点の重要なことが書かれているという。11頁

・疲れ切った「母親」へのこだわり

・障害児の家族とは話し合いが出来ないという認識

・植松死刑囚に心理的ダメージがまったく感じられないということ


プロローグでは、それに「戦争」という視点を加える。

「戦争と福祉と優生思想」、これがこの事件の主題のようだと私は受け取ったのですが、どこからどう切り込んでいけばいいのか、しばらく身動きの取れない状態が続き・・第1部のようなかたちでまとめられるまでには】2年かかったと佐藤さんは書く。このプロローグの最後の節のタイトルは【この事件の深層に流れる「戦争」という主題】18-20頁

この節で佐藤さんは以下のように書く。

 政治が戦争の「顔」を強く現し始めたときに、戦争の「顔」を剝き出しにした男が、自分は優秀なコマンドだ、いつでも戦争をする用意があるという手紙をもって、政治の中枢に乗り込んでいった。18頁

すごくおおざっぱにまとめると、戦争の影が色濃くなってきた時代に、植松死刑囚は衆議院議長への手紙の形で政府に対して、自らを兵士として売り込んだ、という分析だ。それが受け入れられるという前提。彼にそう思わせる社会が存在していたということであり、現にネット上では彼に理解を寄せる声は少なからず存在していた。

安倍政権下での近隣諸国との緊張の高まりや、政権と違う意見を認めない非寛容、抵抗できない閉塞感、そんな時代の空気が、津久井やまゆり事件の時代の空気としてあったと言われると、確かにそんな気がする。そういう見方も出来ると思う。その時代の空気を佐藤さんは戦争の影の色の濃さと結びつけたのだろう。

確かにこの事件の背景に、そんな時代の空気はあった。佐藤さんはその後にロシアによるウクライナ侵略でのロシア兵の蛮行をつなげて記述する。そして【戦争の渦中にあることを見計らったかのような再審請求】。この符合が偶然なのか、思惑があるのかわからないとしつつも、先に書いたように、佐藤さんは、この節のタイトルを【この事件の深層に流れる「戦争」という主題】としている。

ここで浮かんでくる疑問は、戦争を事件の主題としてしまっていいのかどうか?また、この事件に関して「戦争」という切り口が有効なのかどうか、有効だとしたら、どのように有効なのか?

正直、戦争、という視角の有効性についてはよくわからない。

佐藤さんは福祉労働173号で自著を紹介する際に、そのサブタイトルにつけた「戦争と福祉と優生思想」に触れ、【戦争と優生思想はまだしも、なぜ「福祉」までもが、とあるいは感じられるかもしれません】と書くのだが、ぼくには戦争が主題だと言ってしまっていいのかどうかが気になるのだった。それを論理的に否定することは出来ないが。

確かに日本社会に戦争に向かうかのような時代の空気はある。気になっているのは、その殺伐とした空気と戦争との間に、分断線を入れる必要がある、という以上に、その空気をどう変えることが出来るのか、ということが社会運動の重要なテーマだと思う。だから、戦争に向かうかのような空気の中で行われたこの犯罪の深層に「戦争」という主題が流れていると言ってしまっていいのかどうかが気になるのだった。

前述した福祉労働の記事で佐藤さんは「戦争と福祉と優生思想」という三者が支えあう三角形だと記載し、戦争と福祉の結びつきは、戦中に厚生省が誕生し、その背景に戦争があったという藤野豊さんの『強制された健康』を援用している。

ぼくはこの事件に関して、福祉施設の元職員が福祉施設で起こした事件であるという点において、福祉は明確に事件の主題であり、福祉がテーマに挙げられることに、まったく違和感を感じなかったのだが、福祉をアジア太平洋戦争の時代まで遡って、戦争と結びつける必要はあまり感じない。

そして、ここで問われるのは「福祉」はどのような役割を果たしているのか?


そして、佐藤さんは第二章のタイトルをぼくの疑問である【「施設」はなぜ福祉の「宿痾」なのか】とする。

この章を読んでも、ぼくには、そのことが明確に書かれているとは思えなかった。

しかし、読み返して、落ち着いて考えると、「重度知的障害者入所施設」はという以上に、入所施設、さらに言えば多くの通所施設でさえ「長い間治らない病気」と言えるかもしれない、と思えるようになってきた。障害者権利条約は生活の場として施設を選ばざるを得ないような状況を明確に否定しており、もう何十年も前に、理念だけでなく、実際にも脱施設に向かった欧米の国々があるのだ。にもかかわらず、日本における「脱施設」が本気で取り組まれているようには見えない現実がある。

10万人以上の人が(そのほとんどは、入所施設に入ることを望んだというよりも、他に選択肢がなかったのだと思う)入所施設で生活することを余儀なくされていて、その縮小の方向は示され、徐々に減ってい入るものの、今でも住む場所として入所施設を選ぶことを余儀なくされる人は多い。住み慣れた自分が望む地域で生活し続けるための地域資源があまりにも不足しているからだ。脱施設を謳う行政に、その不足した状況を本格的になんとかしようという意志を見出すことは出来ない。国防費は倍にしても、そこに本格的にお金を入れて、地域資源を整えるという話はないが、そうすることが求められている。

通所施設もあいかわらず、障害者だけを相手にした閉じられた場所になっている。一部の難病患者にだけ開かれているが。例えば、障害者就労支援事業所だが、障害者に限定せずに、支援が必要なすべての人に開かれるべきだろうし、障害児を放課後デイとかに入れてよしとするのではなく、学校にある放課後教室や児童館でちゃんと必要な支援を受けられるように変えていく方向が求められている。これも日本政府が批准した障害者権利条約に書かれている話だとぼくは思う。そういう意味では障害者だけを相手にするのではない、社会的事業所とかソーシャルファームは、そこから一歩出ていると言えるかもしれない。

先日の総括所見にもそれは書かれていたはず。いま、確認はしていないが。

第三章に、佐藤さんも共感して引用している、集会での岡部さんの(施設に入れざるを得なかった親の思いに寄り添った)発言はやはり、何度でも記録に残しておくべきだと思った。

大月家族会会長の、「津久井やまゆり園は私たちがやっとたどり着いたところです。行くところがなかったのも事実です」という発言を受けて

 大月さんは、やっとたどり着いた場所、単なる施設ではなかった、とくり返しています。かけがえのない暮らしの場であった、と。多くの家族は葛藤と苦しみの中で施設を選択せざるを得なかったのだと思います。その苦渋の選択の とき、地域はなにをしてくれたのでしょうか。 福祉関係者や行政は何をしてくれたでしょうか。福祉関係者はうちで責任を持って面倒見るから地域で一緒に暮らそう、と言ってくれたのにそれを振り切って入所させたのでしょうか。そうではないですよね。そういうことはないまま、入れざるを得なかったという人がほとんどだと思います。

施設の再建をめぐる事態の紛糾については以下

 誰も助けてくれなくて、色々な気持ちをもちながらなんとかここまでやってきた。すると今度は、施設から出せ、 親が施設を守るな、と言われる。色々な思いはあるし、問題はあるかもしれないけれども、とにかく慣れたし、関係のある職員がいる。今度は、そこから出て行けという。福祉関係者の人たちは、今度は地域でやるべきだ、なんでやらないんだという。 言っていることはわかるけど、入所に至った経緯、家族の気持ちを考えると、いかがなものかなと思ってしまうのです。


 そして、本を読み返すと、第三章に、107~108頁にかけての「告発された被害者遺族と家族」という節に、なぜ「宿痾」なのかという話は明確に書かれている。そこで、佐藤さんは被害者遺族は、犯罪被害者遺族としてケアやサポートを受けるべき対象であると同時に、貧困な福祉の状況下で身を寄せ合うように生きていくしかなかった重度障害者家族という「二重のスティグマ」を刻印され、さらに建て替え問題で批判されるというスティグマを抱えたとしたうえで以下のように書く。

 何がこのような事態を招くことになったかといえば、戦後福祉がいまだ解決できずにいる施設問題です。いや、福祉の問題である以上に、私たちや私たちの社会が、「障害」という問題に対していまだ貧しいイメージしか持てずにいる、共生も社会的包摂の血肉の通った言葉にできずにいる、そのことでしょう。108頁

ちなみに109頁にある、打ち上げで「青い芝の会の地元だからなぁ」と言ったのは、もしかしたらぼくだったかもしれない。佐藤さんは「独特の気風が残っているようでした」と書くのだが、本当にそのスピリットが継承されているかどうか、見えにくい。

第一部、第三章までのメモ、ここまで


津久井やまゆり園事件では、さまざまな切り口を設定しえるし、著者の佐藤さんは設定しているのだが、それがこの本を読みにくいものにしているとも言えるかもしれない。しかし、逆に、さまざまな人の心にフックするものを創り出していると言えるかもしれない。

っていうか、ぼくが本のポイントをつかみ損ねているだけかも。

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